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    <title>イムマヌエル香川キリスト教会メッセージブログ</title>
    <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/</link>
    <description>みことばを学びましょう。</description>
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    <itunes:author>luckyfachan</itunes:author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/502351859.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　１４</title>
      <pubDate>Thu, 21 Mar 2024 20:59:41 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書２章２３節～３章１２節　先週は、レビの祝宴を※傍観していた人たちからの１８節の質問に対応された主のおことば１９～２２節に注目した。　｢断食｣について、詩篇３５篇１３節に深い内省をもってとりなしをする、真剣で自主的な祈りが食を断たせ、又、国家的罪に悲しんで捧げる祈りが食を断たせるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて出ざるを得なくされた結果&amp;thinsp;食を断たせたと。ところがいつしか、形だけの、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為と化した。イザヤ５８章..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書２章２３節～３章１２節

　先週は、レビの祝宴を※傍観していた人たちからの１８節の質問に対応された主のおことば１９～２２節に注目した。
　｢断食｣について、詩篇３５篇１３節に深い内省をもってとりなしをする、真剣で自主的な祈りが食を断たせ、又、国家的罪に悲しんで捧げる祈りが食を断たせるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて出ざるを得なくされた結果&thinsp;食を断たせたと。ところがいつしか、形だけの、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為と化した。イザヤ５８章３～５節、ヨエル２章１２、１３節&thinsp;｢１３a （引き裂くのは）衣ではなく、あなたがたの心を｣に見る糾弾に同様、主は彼らを扱われた。

ⅰ 《 形式的で命のない、死んだ信仰 》の指摘。１８節から２０節まで。
　１８節、【私たちは】しているのに、｢なぜあなたの弟子たちは･･･｣と《 していることを吹聴して隣りびとを裁く心 》。主は弟子たちを信任し、１９、２０節で、今の喜びの祝宴ではしないが、やがて痛恨の悲しみに浸る断食の時を迎えると。

ⅱ 《 救い主、イエスご自身を受け入れるべき必然性 》の指摘。２１、２２節。
　真新しい布切れと新しい葡萄のお酒とは、新しい《 キリスト信仰 》のこと、古い衣と古い皮袋とは《 ユダヤ教の律法主義信仰 》のことで、今や､〈新しい葡萄のお酒【新しい布切れ】は、新しい皮袋に【新しい衣に】入れる【継ぎを当てる】 べきと〉。
　主のもとにやって来た人々は、｢信仰の律法｣によって神の前に義とすべく、｢人の子｣となられた主を見て、画期的な瞬間を経験している･･･。

※ 行いによる救いから、信仰による救いをと指導されつつ、ユダヤ人に仕える主の忍耐を見るが、今後にも学びをと。


　この朝は、安息の日を巡って抗議して来たパリサイ派の人たちに、主の２７節〈安息は人のために設けられたのです。人が安息の日のために造られたのではありません〉に学びたい。
　彼らの抗議とは､〈なぜ、彼らは安息の日にしてはならないことをするのですか〉である。２３、２４節で、ある安息の日に弟子たちは道を進みながら、穂をつみ始めたのであるが･･･
　その抗議から見えてくるものは、※早くも３章６節で、イエスを殺す相談をし始めたことに明白､《 頃合いを見て、主を殺害すべき理由を取り付ける材料にしようとの悪意 》。
　実際彼らが、主の弟子たちを〈安息の日にしてはならないことをした〉と裁いたのは、※弟子たちが２３節で道を進みながら穂をつみ始めたことにあるが､《 その行為を労働、収穫したと見なすこと 》出エジプト記２０章１０節&thinsp;｢七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない｣を犯して神にそむいたとする訴えである。
　これは明らかに、とんでもない拡大解釈であるが、ここで少し考えて見たい。
　パリサイ派の人たちに､〈弟子たちが穂をつむ行為を労働だとする〉解釈の愚かさを説明することもお出来になったが【弟子たちは（２３節 欄外参照）貧者に許されている行為だとして】、なんと その誤りには直接触れず【真理を話しても理屈をこねるのみが常】、むしろ違反行為だとした※彼らの断罪をそのままにして、唯、２５節&thinsp;｢食べ物がなくて空腹になったとき｣違反行為でも許可されたケースに同様とされた。

　主が引用された出来事は２５、２６節、主の宮で神に伺う者として｢エブヤタル｣が立てられていた頃とある。第一サムエル２１章１～６節を見ると、実際 彼の父｢アヒメレク｣が聖別の備えのパンをダビデに与えたことになっている。
　それは、ダビデを嫉妬するサウルの耳に入るや彼が激怒した時、神に伺う者たち一族を殺すよう命じたが、その惨事から唯一人、ダビデのもとに命からがら逃れて以降、ダビデに仕えたのがアヒメレクの子｢エブヤタル｣だったからでは?
　アヒメレクの善意は、ダビデの空腹を満たした。規定では、神に伺う者たち以外の人が食べてはならない｢臨在のパン｣を融通したのだ。主は、この二例をもって、※彼らの２４節〈安息の日にしてはならないことをするのですか〉に対して、｢してはならない｣ことをしたのだから外見上 規定を破る形を取ることになるが、実は、律法を犯してはいないのだと。２７節を解説したい･･･

① 常に目くじらを立てて仕掛けて来る彼らは､〈人が安息の日のために造られた〉とする者でしかないこと。

　パリサイ派の人たちの出方を見れば分かるが、そもそも律法を定められた神の心を知ろうともせずに、唯、律法の文字にのみこだわる為、外見上の完璧さを求め、それをもって守っているとし、神のご嘉納にあずかっている、神の前に正しいと自負する者のこと。その在り方はいつでも、１８節、【私たちは】しているのに、｢なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか｣と言いたくなって裁く人になる。
　ここでは、２３節〈安息の日に穂をつみ始めた〉その弟子たちが気になって仕方なく、又しても｢なぜ彼らは｣と、律法違反者だと裁かなければ落ち着かず、心の騒がしい安息なのだ。主の安息の名称《 やめる、休む 》に由来しているが。只管、規定を守ることに終始、律法に縛られるのみ。
　もし自分がしていることでも、隣りびとはしていないといって、穏やかでいられなくなり、イライラ、不愉快ならば、自らは律法を守っていると自負できても、それは律法を守っているとは言えない。

② 実際のところ、道を進みながら穂をつみ始めた弟子たちと主とは､〈安息は人のために設けられた〉と知る者であること。

　神の定めた律法の心を知り、真実に律法を実行する者だと証しされた。ローマ１３章９、１０節〈どんな戒めであっても、それらは、あなたの隣りびとを自分自身のように愛しなさい ということばに、要約されるからです〉。｢愛は律法の要求を満たすもの｣とあるように。
　３章でも律法主義に生きている人々は、安息の日に癒すのは仕事だと見なして主を試した。彼らの意図を見抜かれた主は、癒すことは仕事とは見なさずに、病める人々への神の愛ゆえに、４、５節&thinsp;｢手は元どおりに｣と実を結ばれた。
　主の安息は人の《 霊、魂、からだの祝福の為に休むようにと 》制定されたのであって、縛る為ではない。

※ ２８節、主の《 み思いに従うことをもって 》安息の日 遵守を!!
<a></a>

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<!-- 校閲が終わりました。2024/03/21  21:01  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書２章２３節～３章１２節<br /><br />　先週は、レビの祝宴を※傍観していた人たちからの１８節の質問に対応された主のおことば１９～２２節に注目した。<br />　｢断食｣について、詩篇３５篇１３節に深い内省をもってとりなしをする、真剣で自主的な祈りが食を断たせ、又、国家的罪に悲しんで捧げる祈りが食を断たせるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて出ざるを得なくされた結果&thinsp;食を断たせたと。ところがいつしか、形だけの、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為と化した。イザヤ５８章３～５節、ヨエル２章１２、１３節&thinsp;｢１３a （引き裂くのは）衣ではなく、あなたがたの心を｣に見る糾弾に同様、主は彼らを扱われた。<br /><br />ⅰ 《 形式的で命のない、死んだ信仰 》の指摘。１８節から２０節まで。<br />　１８節、【私たちは】しているのに、｢なぜあなたの弟子たちは･･･｣と《 していることを吹聴して隣りびとを裁く心 》。主は弟子たちを信任し、１９、２０節で、今の喜びの祝宴ではしないが、やがて痛恨の悲しみに浸る断食の時を迎えると。<br /><br />ⅱ 《 救い主、イエスご自身を受け入れるべき必然性 》の指摘。２１、２２節。<br />　真新しい布切れと新しい葡萄のお酒とは、新しい《 キリスト信仰 》のこと、古い衣と古い皮袋とは《 ユダヤ教の律法主義信仰 》のことで、今や､〈新しい葡萄のお酒【新しい布切れ】は、新しい皮袋に【新しい衣に】入れる【継ぎを当てる】 べきと〉。<br />　主のもとにやって来た人々は、｢信仰の律法｣によって神の前に義とすべく、｢人の子｣となられた主を見て、画期的な瞬間を経験している･･･。<br /><br />※ 行いによる救いから、信仰による救いをと指導されつつ、ユダヤ人に仕える主の忍耐を見るが、今後にも学びをと。<br /><br /><br />　この朝は、安息の日を巡って抗議して来たパリサイ派の人たちに、主の２７節〈安息は人のために設けられたのです。人が安息の日のために造られたのではありません〉に学びたい。<br />　彼らの抗議とは､〈なぜ、彼らは安息の日にしてはならないことをするのですか〉である。２３、２４節で、ある安息の日に弟子たちは道を進みながら、穂をつみ始めたのであるが･･･<br />　その抗議から見えてくるものは、※早くも３章６節で、イエスを殺す相談をし始めたことに明白､《 頃合いを見て、主を殺害すべき理由を取り付ける材料にしようとの悪意 》。<br />　実際彼らが、主の弟子たちを〈安息の日にしてはならないことをした〉と裁いたのは、※弟子たちが２３節で道を進みながら穂をつみ始めたことにあるが､《 その行為を労働、収穫したと見なすこと 》出エジプト記２０章１０節&thinsp;｢七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない｣を犯して神にそむいたとする訴えである。<br />　これは明らかに、とんでもない拡大解釈であるが、ここで少し考えて見たい。<br />　パリサイ派の人たちに､〈弟子たちが穂をつむ行為を労働だとする〉解釈の愚かさを説明することもお出来になったが【弟子たちは（２３節 欄外参照）貧者に許されている行為だとして】、なんと その誤りには直接触れず【真理を話しても理屈をこねるのみが常】、むしろ違反行為だとした※彼らの断罪をそのままにして、唯、２５節&thinsp;｢食べ物がなくて空腹になったとき｣違反行為でも許可されたケースに同様とされた。<br /><br />　主が引用された出来事は２５、２６節、主の宮で神に伺う者として｢エブヤタル｣が立てられていた頃とある。第一サムエル２１章１～６節を見ると、実際 彼の父｢アヒメレク｣が聖別の備えのパンをダビデに与えたことになっている。<br />　それは、ダビデを嫉妬するサウルの耳に入るや彼が激怒した時、神に伺う者たち一族を殺すよう命じたが、その惨事から唯一人、ダビデのもとに命からがら逃れて以降、ダビデに仕えたのがアヒメレクの子｢エブヤタル｣だったからでは?<br />　アヒメレクの善意は、ダビデの空腹を満たした。規定では、神に伺う者たち以外の人が食べてはならない｢臨在のパン｣を融通したのだ。主は、この二例をもって、※彼らの２４節〈安息の日にしてはならないことをするのですか〉に対して、｢してはならない｣ことをしたのだから外見上 規定を破る形を取ることになるが、実は、律法を犯してはいないのだと。２７節を解説したい･･･<br /><br />① 常に目くじらを立てて仕掛けて来る彼らは､〈人が安息の日のために造られた〉とする者でしかないこと。<br /><br />　パリサイ派の人たちの出方を見れば分かるが、そもそも律法を定められた神の心を知ろうともせずに、唯、律法の文字にのみこだわる為、外見上の完璧さを求め、それをもって守っているとし、神のご嘉納にあずかっている、神の前に正しいと自負する者のこと。その在り方はいつでも、１８節、【私たちは】しているのに、｢なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか｣と言いたくなって裁く人になる。<br />　ここでは、２３節〈安息の日に穂をつみ始めた〉その弟子たちが気になって仕方なく、又しても｢なぜ彼らは｣と、律法違反者だと裁かなければ落ち着かず、心の騒がしい安息なのだ。主の安息の名称《 やめる、休む 》に由来しているが。只管、規定を守ることに終始、律法に縛られるのみ。<br />　もし自分がしていることでも、隣りびとはしていないといって、穏やかでいられなくなり、イライラ、不愉快ならば、自らは律法を守っていると自負できても、それは律法を守っているとは言えない。<br /><br />② 実際のところ、道を進みながら穂をつみ始めた弟子たちと主とは､〈安息は人のために設けられた〉と知る者であること。<br /><br />　神の定めた律法の心を知り、真実に律法を実行する者だと証しされた。ローマ１３章９、１０節〈どんな戒めであっても、それらは、あなたの隣りびとを自分自身のように愛しなさい ということばに、要約されるからです〉。｢愛は律法の要求を満たすもの｣とあるように。<br />　３章でも律法主義に生きている人々は、安息の日に癒すのは仕事だと見なして主を試した。彼らの意図を見抜かれた主は、癒すことは仕事とは見なさずに、病める人々への神の愛ゆえに、４、５節&thinsp;｢手は元どおりに｣と実を結ばれた。<br />　主の安息は人の《 霊、魂、からだの祝福の為に休むようにと 》制定されたのであって、縛る為ではない。<br /><br />※ ２８節、主の《 み思いに従うことをもって 》安息の日 遵守を!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　１３</title>
      <pubDate>Mon, 12 Feb 2024 22:31:30 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書２章１８～２２節　先週は、ペテロたちに次いで弟子にとの召しを受けた１４、１５節、※税を徴収する役人であったレビが感謝の祝宴を設けた時のこと、１６、１７節、※この光景を疎ましく思ったパリサイ派の律法学者たちを正された記事に注目。　税を取り扱う人たちは、ローマ政府が税収を確実に得る為、隷属民から採用された徴税請負人のこと。その彼らが、ローマから課せられた税に上乗せして集金する為、同胞から強奪者だとして憎まれ、異邦人と関わることで、けがれた者ともされた。１７節から･･..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書２章１８～２２節

　先週は、ペテロたちに次いで弟子にとの召しを受けた１４、１５節、※税を徴収する役人であったレビが感謝の祝宴を設けた時のこと、１６、１７節、※この光景を疎ましく思ったパリサイ派の律法学者たちを正された記事に注目。
　税を取り扱う人たちは、ローマ政府が税収を確実に得る為、隷属民から採用された徴税請負人のこと。その彼らが、ローマから課せられた税に上乗せして集金する為、同胞から強奪者だとして憎まれ、異邦人と関わることで、けがれた者ともされた。１７節から･･･

ⅰ 自らを｢強い〈健康な〉、正しい人｣だと自称する｢パリサイ派の律法学者たち｣の本質的内面を暴かれた。
　先ず、｢なぜ｣と言う心の奥にある本質的問題は、主イエスに受け入れられている〈税を取り扱う人や罪びとたち〉を見下す傲慢さ。隣りびとに無関心であるどころか、彼らに手を差し伸べる者が現れたならば、それを不愉快に思い、阻止しようと過剰に干渉する無情の者。ローマ１章３１、３２節&thinsp;｢死に値する｣病人、罪びとの実態である。

ⅱ その上で、主は〈わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため〉と、ご自身の使命を明確にされた。
　もしその自らを罪びとに過ぎないとして譲り、告白するならば、あなたがたも招かれていると言われた。財的に富んでいた徴税役人のレビは、※主イエスからの１４節〈召し〉に即刻従った。それは日頃から罪の責めを感じていたからでは? 噂の救い主、イエスからの願ってもない声掛けに感動して、※ルカ５章２９節&thinsp;｢盛大なもてなしをした｣ことで明白ではないか。
　彼はこれまでの生涯を清算して主の弟子となり、マタイの福音書記者として選ばれている。

※ 罪びとを招かれる主イエスへの感動を新たに、お従いをと!!


　この朝は、レビが主の召しに感謝して設けていた祝宴でのこと。祝宴を※傍観していた１８節〈ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たち〉が、質問を持ち込んで来た時、※その質問に対応された主のおことば１９～２２節に注目したい。
　彼らの質問は〈ヨハネの弟子たちやパリサイ派の人たちが断食をしているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか〉だが、彼らの〈これぞ信仰と言わんばかりの〉質問である。
　この｢断食｣について、これと言った起源はないが、詩篇３５篇１３節&thinsp;｢私は　彼らが病のとき･･･断食してたましいを苦しめ【※自らを戒め】　私の祈りは胸の中を行き来して【私自身の胸に戻って】いました｣と、祈りが捧げられた人々の益にはならなかったものの、祈った本人へ、ある程度の祝福をもたらしたのを見ると、断食というものが いかに〈深い内省をもって とりなしをする時の真剣さ深刻さの現れであり、極めて自主的な行為であり、強制的なものなど一切見受けられない〉尊い祈りであるかが分かる。
　又、国家的な罪に悲しんで捧げる祈りの時が断食となるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて祈らざるを得なくされての聖別された時である。
　ところがいつしか、そのような断食の心は失われ、形だけのものとなり、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為にすらなってしまった。イザヤ５８章３～５節&thinsp;｢５e これを、あなたがたは断食と呼び｣、ヨエル２章１２、１３節&thinsp;｢１３a （引き裂くのは）衣ではなく、あなたがたの心を｣。
　主のもとに｢なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか｣と尋ねて来た〈ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たち〉は、預言者たちが《 主の民の、形式化した断食をもって断食だとする、死んだ信仰 》を糾弾したのに同様、主イエスから扱われることになった。

① 《 形式的で命のない、死んだ信仰 》の指摘が、１８節から２０節まで。

　それは、１８節、【私たちは】しているのに、｢なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか｣と《 隣りびとを裁く心 》。
　私が｢している｣としても、他の人が｢しない｣からといって、彼らが神に罪と裁かれるべきものでもないのが断食。あくまでも、神との個人的必要を感じて自発的で自由な行為だからだ。マタイ６章１６～１８節。
　主はここで、弟子たちを信任して弁護された。祝宴でレビの喜びを共にしつつ、もてなしを受けている弟子たちに弁解の機会が与えられていないからだ。主は弟子たちに代わって、１９、２０節&thinsp;｢花婿に付き添う友人たちは･･･断食できるでしょうか。･･･できないのです。･･･その日には断食をします｣と、唯《 喜びの時にはしないが、悲しみの日を迎えたならばする 》と言われた。
　主はご自身を｢花婿｣に例え、｢花婿に付き添う友人たち｣を弟子たちと例え、ご自身が取り去られる時を迎える時には、弟子たちは未だかつて経験したことのない痛恨の悲しみに浸る断食の時を迎えることになるだろうと言われた。確かに、十字架刑で息を引き取られてから復活を見るまでにはお扱いに三日を、復活後の主イエスの昇天後、ペンテコステを迎えるまでは十日を、経験することになる、と。

② 《 救い主、イエスご自身を受け入れるべき 》との指摘を。２１、２２節。

　その理由は、２１節〈真新しい布切れ【縮んでいない布】で、古くなった衣【既に、何度も洗うごとに縮んで来ている布】に継ぎを当てたりはしません〉。そんなことをすれば古いものを引き裂いて、破れはもっとひどくなるのだから。２２節〈新しい葡萄のお酒【醗酵して膨張する】を古い皮袋【伸び切ってもろくなっている】に入れたりはしません〉。そんなことをすれば、どちらもだめになるのだから。真新しい布切れと新しい葡萄のお酒とは、新しい《 キリスト信仰 》のこと、それぞれの古い衣と古い皮袋とは《 ユダヤ教の律法主義信仰 》のことで、今や､〈新しい葡萄のお酒【新しい布切れ】は、新しい皮袋に【新しい衣に】入れる【継ぎを当てる】 もの〉と。ローマ３章２３、２４節〈すべての人は神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト･イエスによるあがないを通して、価なしに義と認められるからです〉、２７、２８節〈行いの律法によってでしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる〉。
　主のもとにやって来た人々は、｢信仰の律法によって｣神の前に義とすべく｢人の子｣となられた主を目の前にして画期的な瞬間を経験している･･･。この転向がいかに困難極まりなかったかの実証は、使徒たちによる宣教活動に見た奮闘で明白であるが、今この時を迎えるまでの聖霊の働きに感謝し、最終コースに更なる期待を!!

※ ご自身によって迎える《 行為から信仰への移行の転換期 》の理解をと、ユダヤ人に仕える主の忍耐に学んで行きたい。
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2024/02/12  22:33  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書２章１８～２２節<br /><br />　先週は、ペテロたちに次いで弟子にとの召しを受けた１４、１５節、※税を徴収する役人であったレビが感謝の祝宴を設けた時のこと、１６、１７節、※この光景を疎ましく思ったパリサイ派の律法学者たちを正された記事に注目。<br />　税を取り扱う人たちは、ローマ政府が税収を確実に得る為、隷属民から採用された徴税請負人のこと。その彼らが、ローマから課せられた税に上乗せして集金する為、同胞から強奪者だとして憎まれ、異邦人と関わることで、けがれた者ともされた。１７節から･･･<br /><br />ⅰ 自らを｢強い〈健康な〉、正しい人｣だと自称する｢パリサイ派の律法学者たち｣の本質的内面を暴かれた。<br />　先ず、｢なぜ｣と言う心の奥にある本質的問題は、主イエスに受け入れられている〈税を取り扱う人や罪びとたち〉を見下す傲慢さ。隣りびとに無関心であるどころか、彼らに手を差し伸べる者が現れたならば、それを不愉快に思い、阻止しようと過剰に干渉する無情の者。ローマ１章３１、３２節&thinsp;｢死に値する｣病人、罪びとの実態である。<br /><br />ⅱ その上で、主は〈わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため〉と、ご自身の使命を明確にされた。<br />　もしその自らを罪びとに過ぎないとして譲り、告白するならば、あなたがたも招かれていると言われた。財的に富んでいた徴税役人のレビは、※主イエスからの１４節〈召し〉に即刻従った。それは日頃から罪の責めを感じていたからでは? 噂の救い主、イエスからの願ってもない声掛けに感動して、※ルカ５章２９節&thinsp;｢盛大なもてなしをした｣ことで明白ではないか。<br />　彼はこれまでの生涯を清算して主の弟子となり、マタイの福音書記者として選ばれている。<br /><br />※ 罪びとを招かれる主イエスへの感動を新たに、お従いをと!!<br /><br /><br />　この朝は、レビが主の召しに感謝して設けていた祝宴でのこと。祝宴を※傍観していた１８節〈ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たち〉が、質問を持ち込んで来た時、※その質問に対応された主のおことば１９～２２節に注目したい。<br />　彼らの質問は〈ヨハネの弟子たちやパリサイ派の人たちが断食をしているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか〉だが、彼らの〈これぞ信仰と言わんばかりの〉質問である。<br />　この｢断食｣について、これと言った起源はないが、詩篇３５篇１３節&thinsp;｢私は　彼らが病のとき･･･断食して<span style="color:#96378A;">たましいを苦しめ【※自らを戒め】</span>　私の祈りは<span style="color:#96378A;">胸の中を行き来して【私自身の胸に戻って】いました｣と、祈りが捧げられた人々の益にはならなかったものの、祈った本人へ、ある程度の祝福をもたらした</span>のを見ると、断食というものが いかに〈深い内省をもって とりなしをする時の真剣さ深刻さの現れであり、極めて自主的な行為であり、強制的なものなど一切見受けられない〉尊い祈りであるかが分かる。<br />　又、国家的な罪に悲しんで捧げる祈りの時が断食となるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて祈らざるを得なくされての聖別された時である。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">ところがいつしか、そのような<strong style="letter-spacing:0.025em;">断食の心は失われ、形だけ</strong>のものとなり、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為にすらなってしまった。イザヤ５８章３～５節&thinsp;｢<strong style="font-size:11px;letter-spacing:0.025em;">５e </strong>これを、あなたがたは断食と呼び｣、ヨエル２章１２、１３節&thinsp;｢<strong style="font-size:11px;letter-spacing:0.025em;">１３a </strong>（引き裂くのは）衣ではなく、あなたがたの心を｣。</span><br />　主のもとに｢なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか｣と尋ねて来た〈ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たち〉は、預言者たちが<span style="color:#9B3C8F;">《 主の民の、<strong style="letter-spacing:0.025em;">形式化した断食をもって断食だとする、死んだ信仰</strong> 》を糾弾したのに同様、</span>主イエスから扱われることになった。<br /><br />① 《 形式的で命のない、死んだ信仰 》の指摘が、１８節から２０節まで。<br /><br />　それは、１８節、<span style="color:#9B3C8F;">【私たちは】しているのに、</span>｢なぜあなたの弟子たちは断食を<span style="color:#96378A;">しないのですか</span>｣と《 <strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">隣りびとを裁く心</strong> 》。<br />　私が｢している｣としても、他の人が｢しない｣からといって、彼らが神に罪と裁かれるべきものでもないのが断食。あくまでも、神との個人的必要を感じて自発的で自由な行為だからだ。マタイ６章１６～１８節。<br />　主はここで、弟子たちを信任して弁護された。祝宴でレビの喜びを共にしつつ、もてなしを受けている弟子たちに弁解の機会が与えられていないからだ。主は弟子たちに代わって、１９、２０節&thinsp;｢花婿に付き添う友人たちは･･･断食できるでしょうか。･･･できないのです。･･･その日には断食をします｣と、唯《 喜びの時にはしないが、悲しみの日を迎えたならばする 》と言われた。<br />　主はご自身を｢花婿｣に例え、｢花婿に付き添う友人たち｣を弟子たちと例え、ご自身が取り去られる時を迎える時には、弟子たちは未だかつて経験したことのない痛恨の悲しみに浸る断食の時を迎えることになるだろうと言われた。確かに、十字架刑で息を引き取られてから復活を見るまでにはお扱いに三日を、復活後の主イエスの昇天後、ペンテコステを迎えるまでは十日を、経験することになる、と。<br /><br />② 《 救い主、イエスご自身を受け入れるべき 》との指摘を。２１、２２節。<br /><br />　その理由は、２１節〈真新しい布切れ【縮んでいない布】で、古くなった衣【既に、何度も洗うごとに縮んで来ている布】に継ぎを当てたりはしません〉。そんなことをすれば古いものを引き裂いて、破れはもっとひどくなるのだから。２２節〈新しい葡萄のお酒【醗酵して膨張する】を古い皮袋【伸び切ってもろくなっている】に入れたりはしません〉。そんなことをすれば、どちらもだめになるのだから。真新しい布切れと新しい葡萄のお酒とは、新しい《 キリスト信仰 》のこと、それぞれの古い衣と古い皮袋とは《 ユダヤ教の律法主義信仰 》のことで、今や､〈新しい葡萄のお酒【新しい布切れ】は、新しい皮袋に【新しい衣に】入れる【継ぎを当てる】 もの〉と。<span style="color:#9B3C8F;">ローマ３章２３、２４節〈すべての人は神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト･イエスによるあがないを通して、価なしに義と認められるからです〉、２７、２８節〈<strong style="letter-spacing:0.025em;">行いの律法によってでしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。</strong>人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる〉。</span><br />　主のもとにやって来た人々は、｢信仰の律法によって｣神の前に義とすべく｢人の子｣となられた主を目の前にして画期的な瞬間を経験している･･･。この転向がいかに困難極まりなかったかの実証は、使徒たちによる宣教活動に見た奮闘で明白であるが、今この時を迎えるまでの聖霊の働きに感謝し、最終コースに更なる期待を!!<br /><br />※ ご自身によって迎える《 行為から信仰への移行の転換期 》の理解をと、ユダヤ人に仕える主の忍耐に学んで行きたい。</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,igm-kagawa/501655530</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/500765196.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　１２</title>
      <pubDate>Thu, 30 Nov 2023 22:20:10 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書２章１３～１７節　先週は、主の復活を記念して、主が１０節｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っている｣と宣言された聖句に学んだ。　この宣言は、現世での祝福のみを求めて来る傾向にある多くの群衆の中に、主が※５節｢信仰｣をもって求めて来た人々を見い出し、（ちゅうぶの）からだの不自由な人に病気の治癒ではなく、罪の赦しを伝えた時のこと。６、７節で律法の教師たちが主を非難したので彼らを正す為、からだの自由を奪われたその人を起き上がらせることで、権威を証言された!!　しかしこの..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書２章１３～１７節

　先週は、主の復活を記念して、主が１０節｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っている｣と宣言された聖句に学んだ。
　この宣言は、現世での祝福のみを求めて来る傾向にある多くの群衆の中に、主が※５節｢信仰｣をもって求めて来た人々を見い出し、（ちゅうぶの）からだの不自由な人に病気の治癒ではなく、罪の赦しを伝えた時のこと。６、７節で律法の教師たちが主を非難したので彼らを正す為、からだの自由を奪われたその人を起き上がらせることで、権威を証言された!!
　しかしこの事実に勝る《 主の復活こそが、主イエスの罪を赦す権威が全世界への証言であった 》と再認識して感謝を捧げた!!
　マタイ２８章１６～２０節は、復活のイエスがガリラヤで弟子たちに会って命じられた《 大宣教命令 》であるが、復活の事実によって、１８節｢わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています｣、１９節｢ですから【宣教を引き受ける弟子たちの絶対的拠り所である主イエスに権威があるから】、あなたがたは･･･人々を弟子としなさい｣と、実現可能だと激励。
　実に、復活こそ《 主の罪を赦す権威の証明 》であること。

ⅰ ひとりの人の子として地上生活を送られた主は、私たちと同じ罪ある者ではなく、神であられたことが明らかにされたから。
　使徒２章２２～２４節、ローマ６章２３節。

ⅱ ｢罪を赦す権威を持っている｣者であるとは?
　ローマ６章４節｢それは、ちょうどキリストが･･･死者の中からよみがえられたように｣と､《 信じる者を新たな人に造り変える福音がもたらされ 》た。

※ 十字架の死から復活されたイエスは今も《 互いのあがない、隣りびとへの宣教の権威者として･･･ 》現存される主として、信頼を新たに!!


　この朝は、主が１章１６～２０節､《 ペテロを初め四人の漁師の召しに続いて 》声を掛けられた、１４節｢アルパヨの子レビ（マタイ）｣が、１５節、喜びのあまり食事の席を設けた時のこと、この光景をいぶかしく思ったパリサイ派の律法学者たちに｢医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく｣罪びとを招くためと正された、主のおことばに学びたい。弟子にとの召しにあずかったレビは、１４節〈徴収された税を収める場所に座っていたこと〉、レビの祝宴に招かれた人々が、１５節〈税を取り扱う人たちや罪びとたちも･･･〉とあり、税金を徴収する役人であったことが分かる。
　ローマ帝国の税を徴収していたのは、主として徴税請負人や、集金に当る下級税吏である。当時、地方の税金はローマ帝国によって直接徴収されず、被征服民族の中から徴税請負人が採用されていた。それは、ローマ政府が危険や損失なしに、収入を確実に受け取る為にである。
　このような徴税システムの中で、税を取っていた者たちが私腹を肥やし、ローマ政府から求められる以上に税に上乗せして集金する為、同胞に憎まれ、強奪者と見なされ、嫌悪の的となった。異邦人との接触を忌むべきものと嫌悪していた厳格なユダヤ人に至っては、ローマ政府と直接に税をやり取りする人たちを〈けがれた者、罪びと〉呼ばわりしていたので、律法学者たちは、１６節、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、弟子たちに〈なぜ一緒に食事をするのですか〉と、イエスに直接尋ねるには勇気がなかった? 兎に角、許せない気持ちを露わに!!
　この｢なぜ｣は、弟子たちに持ち掛けたものではあったが、主が聞き捨てならないとされて語られた※１７節から･･･

① ここで主は｢パリサイ派の律法学者｣を、｢強い･健康な人、正しい人《 自己満足･過信しているに過ぎない人 》｣だと諭しつつ、自らの本性を知るようにと内面を暴かれた。

　彼らの本性に見られるもの。それは、彼ら自身が１６節c〈税を取り扱う人や罪びとたちと一緒に〉食事をしないとしても【言うまでもなく、このこと自体咎められるべき心の姿勢ではあるが】、１６節a〈イエスがけがれた者や罪びとたちと一緒に食事するのを見て〉、心に抱いたものである。
　それが誰であれ、先ず｢なぜ｣と不思議だとするその心の奥にあるもの。それは単純に健気な、純粋な動機では勿論なく、悪意と嫌味を込めての｢なぜ｣とする心にあるもの。
　その本質的問題は、なんとけがらわしい行為だと蔑視する心｡〈税を取り扱う者や罪びとなど〉誰からの善意も許される訳がないと軽蔑して人を見下す傲慢さ。隣りびとに対して無関心であるどころか、隣りびとに手を差し伸べる誰かが現れようものなら、それを不愉快に思い、なしうる限りを尽くして阻止しようとする略奪者であることであり、これらを主は忌まわしいものであると嫌悪された。
　彼らのこの心は、異邦人を忌まわしい、嫌悪すべきものとするユダヤ人の通念でもあった。レビ同様、エリコの町中でイエスに出会ったザアカイの記事にも見られた。ルカ１９章５～７節｢人々はみな、これを見て･･･文句を言った｣と｡〈あの人は罪びとのところに行って客となられたのだ〉と。隣りびとへの無慈悲な過剰な干渉こそ、死に値する罪である。
　ローマ１章３１、３２節を詳しく、｢理解を欠き、良心がなく〈信義を欠き〉、情〈愛〉がなく、無慈悲｣。彼らは、そのような行いをする者は死に値するという神の正しいみ定めをよく知っていながら、自分自身がそれを行うだけでなく、それを行う他の人を｢是認〈かっさい〉さえしています｣。

② そうした上で、主は〈わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため〉と、ご自身の使命を明確にされた。

　実に〈罪びと〉とは、税を取り扱う者や罪びとたち【ただ単に、パリサイ派の規定に従わない人々】に他ならないとして来た〈律法の学者であるパリサイ派の人たち〉でも、もしその自らを罪びとに過ぎないと気づいて譲り、告白するならば、あなたがたも招かれていると言われた。
　レビはザアカイ同様、税を扱う殆んどの人がそうであったように、財的に富んでいた。しかし、※主の１４節｢わたしについて来なさい｣に即刻従ったのには、日頃から良心の痛みを知っていたからだろう。それを、救い主であるとの噂に聞く主イエスからの願ってもない声掛けと感動して、１５節の並行記事、ルカ５章２９節｢それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした｣であったことで明らかではないか。彼はこれ以降、これまでの生涯を清算して、主の弟子となり、福音書の記者となった（マタイ５章３～１２節）。

※ 自らの病める事実をより確かに知っては、罪びとを招かれる主イエスのあがないに感動を新たにしつつ、お従いしたい!!
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/11/30  22:22  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書２章１３～１７節<br /><br />　先週は、主の復活を記念して、主が１０節｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っている｣と宣言された聖句に学んだ。<br />　この宣言は、現世での祝福のみを求めて来る傾向にある多くの群衆の中に、主が※５節｢信仰｣をもって求めて来た人々を見い出し、（ちゅうぶの）からだの不自由な人に病気の治癒ではなく、罪の赦しを伝えた時のこと。６、７節で律法の教師たちが主を非難したので彼らを正す為、からだの自由を奪われたその人を起き上がらせることで、権威を証言された!!<br />　しかしこの事実に勝る《 主の復活こそが、主イエスの罪を赦す権威が全世界への証言であった 》と再認識して感謝を捧げた!!<br />　マタイ２８章１６～２０節は、復活のイエスがガリラヤで弟子たちに会って命じられた《 大宣教命令 》であるが、復活の事実によって、１８節｢わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています｣、１９節｢ですから【宣教を引き受ける弟子たちの絶対的拠り所である主イエスに権威があるから】、あなたがたは･･･人々を弟子としなさい｣と、実現可能だと激励。<br />　実に、復活こそ《 主の罪を赦す権威の証明 》であること。<br /><br />ⅰ ひとりの人の子として地上生活を送られた主は、私たちと同じ罪ある者ではなく、神であられたことが明らかにされたから。<br />　使徒２章２２～２４節、ローマ６章２３節。<br /><br />ⅱ ｢罪を赦す権威を持っている｣者であるとは?<br />　ローマ６章４節｢それは、ちょうどキリストが･･･死者の中からよみがえられたように｣と､《 信じる者を新たな人に造り変える福音がもたらされ 》た。<br /><br />※ 十字架の死から復活されたイエスは今も《 互いのあがない、隣りびとへの宣教の権威者として･･･ 》現存される主として、信頼を新たに!!<br /><br /><br />　この朝は、主が１章１６～２０節､《 ペテロを初め四人の漁師の召しに続いて 》声を掛けられた、１４節｢アルパヨの子レビ（マタイ）｣が、１５節、喜びのあまり食事の席を設けた時のこと、この光景をいぶかしく思ったパリサイ派の律法学者たちに｢医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく｣罪びとを招くためと正された、主のおことば</strong></span>に学びたい。弟子にとの召しにあずかったレビは、１４節〈徴収された税を収める場所に座っていたこと〉、レビの祝宴に招かれた人々が、１５節〈税を取り扱う人たちや罪びとたちも･･･〉とあり、税金を徴収する役人であったことが分かる。<br />　ローマ帝国の税を徴収していたのは、主として徴税請負人や、集金に当る下級税吏である。当時、地方の税金はローマ帝国によって直接徴収されず、被征服民族の中から徴税請負人が採用されていた。それは、ローマ政府が危険や損失なしに、収入を確実に受け取る為にである。<br />　このような徴税システムの中で、税を取っていた者たちが私腹を肥やし、ローマ政府から求められる以上に税に上乗せして集金する為、同胞に憎まれ、強奪者と見なされ、嫌悪の的となった。異邦人との接触を忌むべきものと嫌悪していた厳格なユダヤ人に至っては、ローマ政府と直接に税をやり取りする人たちを〈けがれた者、罪びと〉呼ばわりしていたので、律法学者たちは、１６節、<span style="color:#98378A;">イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、</span>弟子たちに〈なぜ一緒に食事をするのですか〉と、イエスに直接尋ねるには勇気がなかった? 兎に角、許せない気持ちを露わに!!<br />　この｢なぜ｣は、弟子たちに持ち掛けたものではあったが、主が聞き捨てならないとされて語られた※１７節から･･･<br /><br />① ここで主は｢パリサイ派の律法学者｣を、｢強い･健康な人、正しい人《 自己満足･過信しているに過ぎない人 》｣だと諭しつつ、自らの本性を知るようにと内面を暴かれた。<br /><br />　彼らの本性に見られるもの。それは、彼ら自身が１６節c〈税を取り扱う人や罪びとたちと一緒に〉食事をしないとしても【言うまでもなく、このこと自体咎められるべき心の姿勢ではあるが】、<span style="color:#98378A;">１６節a〈イエスがけがれた者や罪びとたちと一緒に食事するのを見て〉、心に抱いたものである。</span><br />　それが誰であれ、先ず｢なぜ｣と不思議だとするその心の奥にあるもの。それは単純に健気な、純粋な動機では勿論なく、悪意と嫌味を込めての｢なぜ｣とする心にあるもの。<br />　その本質的問題は、なんとけがらわしい行為だと蔑視する心｡〈税を取り扱う者や罪びとなど〉誰からの善意も許される訳がないと軽蔑して人を見下す傲慢さ。隣りびとに対して無関心であるどころか、隣りびとに手を差し伸べる誰かが現れようものなら、それを不愉快に思い、なしうる限りを尽くして阻止しようとする略奪者であることであり、これらを主は忌まわしいものであると嫌悪された。<br />　彼らのこの心は、異邦人を忌まわしい、嫌悪すべきものとするユダヤ人の通念でもあった。レビ同様、エリコの町中でイエスに出会ったザアカイの記事にも見られた。ルカ１９章５～７節｢人々はみな、これを見て･･･文句を言った｣と｡〈あの人は罪びとのところに行って客となられたのだ〉と。隣りびとへの無慈悲な過剰な干渉こそ、死に値する罪である。<br />　ローマ１章３１、３２節を詳しく、｢理解を欠き、良心がなく〈信義を欠き〉、情〈愛〉がなく、無慈悲｣。彼らは、そのような行いをする者は<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">死に値するという神の正しいみ定めをよく知っていながら、</strong>自分自身がそれを行うだけでなく、それを行う他の人を｢是認〈かっさい〉さえしています｣。<br /><br />② そうした上で、主は〈<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">わたしが来たのは、</strong></span>正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため〉と、ご自身の使命を明確にされた。<br /><br />　実に〈罪びと〉とは、税を取り扱う者や罪びとたち<span style="color:#96378A;">【ただ単に、パリサイ派の規定に従わない人々】</span>に他ならないとして来た〈律法の学者であるパリサイ派の人たち〉でも、もしその自らを罪びとに過ぎないと気づいて譲り、告白するならば、あなたがたも招かれていると言われた。<br />　レビはザアカイ同様、税を扱う殆んどの人がそうであったように、財的に富んでいた。しかし、※主の１４節｢わたしについて来なさい｣に即刻従ったのには、日頃から良心の痛みを知っていたからだろう。それを、救い主であるとの噂に聞く主イエスからの願ってもない声掛けと感動して、１５節の並行記事、ルカ５章２９節<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">｢それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした｣であったことで明らか</strong></span>ではないか。彼はこれ以降、これまでの生涯を清算して、主の弟子となり、福音書の記者となった（マタイ５章３～１２節）。<br /><br />※ 自らの病める事実をより確かに知っては、罪びとを招かれる主イエスのあがないに感動を新たにしつつ、お従いしたい!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/500625595.html</link>
      <title>イースター記念『マルコの福音書』より　１１</title>
      <pubDate>Tue, 12 Sep 2023 23:39:13 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書２章１～１２節　先週は、激しいご奉仕に※日々実践された、３５節&amp;thinsp;｢朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた｣主イエスに《 父なる神との、関係がいかに 》を学んだ。ⅰ 先ず、目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、父からの指示を絶えず確認しつつ労される《 父なる神への忠実さ 》を。　３６～３８節で、後を追って来た弟子たちと、主を引き留めようと付いて来た群衆たちに、｢さあ･･･｣と、どのように対応する..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書２章１～１２節

　先週は、激しいご奉仕に※日々実践された、３５節&thinsp;｢朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた｣主イエスに《 父なる神との、関係がいかに 》を学んだ。

ⅰ 先ず、目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、父からの指示を絶えず確認しつつ労される《 父なる神への忠実さ 》を。
　３６～３８節で、後を追って来た弟子たちと、主を引き留めようと付いて来た群衆たちに、｢さあ･･･｣と、どのように対応するべきか、答えは父との交わりによって備えられていた。もし、目の前の必要に翻弄される日々を送るならば、父なる神の時を待たずに消耗し切られたのでは。続く３９節、４０節から４４節と、奇跡は周囲を《 熱狂的な興奮状態 》とし、当時の宗教･司法の権威を握るエルサレム最高法院の光る眼のとまる所となり、危険に身を晒すこと間違いなし。４４節&thinsp;｢だれにも何も･･･｣には、父との交わりからの冷静さを見る。
　尚かつ、宣教に伴う奇跡は《 群衆たちの関心が罪からの救いよりも、この世の祝福に 》向かうというご奉仕の至難さを見るにつけ、｢寂しいところ｣に退いては、父との密着した交わりから《 父なる神の必要 》を知って、そこに応じられる為。

ⅱ ヘブル５章７節&thinsp;｢キリストは肉体をもって生き･･･大きな叫び声と涙をもって祈り･･･｣に（自分を死から救い出すことが出来る）父なる神への、よりたのみを。
　主は、聖であられる父からの日毎の力の賦与なしには生きられないとされ、受ける誘惑には勝利するという成長過程を経ながら、完全な者となるため闘われ、十字架の死に臨まれた。

※ 互いこそ､《 寂しい所を隠れ家とされた主 》にならいたいと。


　この朝はイースターを記念して、１０節&thinsp;｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っている｣と《 この世に人の子として来られた主が、｢救い主｣と証言する機会を捉えて宣言 》された聖句に注目を。
　その場面は、先に主が、１章後半、カぺナウムでの奇跡を見た人々から、３７節&thinsp;｢あなたを捜しています｣と、しばらくの滞在を求められたが、３８、３９節で〈その要請を退けてガリラヤの全域を巡られて〉、再度、２章１節を詳しく、｢カぺナウムに戻られて数日後｣のこと、｢おそらく、ペテロの家｣におられるという噂がたって、３節&thinsp;｢人々が･･･みもとに｣連れて来た《 （ちゅうぶの）からだの不自由な人を扱った時のこと 》である。主の日々の重荷は、ご自身が｢ご自分の民を罪から救う｣救い主･神から遣わされた神の子である証拠としての奇跡を行うも、大多数の人々は現世での祝福のみを求めて来る、そこにあったと学んでいるが、何と!! ここで主はご自身を、｢救い主｣と証言すべき時と見て取れる機会を捉えられたのだ。
　それは、５節&thinsp;｢イエスは彼らの信仰｣、からだの自由を奪われた（ちゅうぶの）人を担いでくる四人が《 その友の内的苦悩からの 》救いを懸命に願って出て来た行動と見たからだ。
　主は心に喜びを隠せなかったのでは? 直ちにその人に｢子よ、あなたの罪は赦された｣と言われた。何らかの後遺症･疾患によるものなのか、からだの自由を奪われた（ちゅうぶの）人と、その彼を思いやってイエスのもとに必死に担いで来た四人の信仰に《 病気そのものの治癒ではなく、罪の赦しの宣言 》を与えられた。主はこの宣言が、目の前で見聞きしている※６、７節&thinsp;｢律法学者たち｣にとっては心を苛立たせ、非難を浴びせ掛ける機会となるであろうと知りつつ、堂々と立ち向かわれた宣言なのだ。

　先の※１章２２節では、誰もが｢その教え｣に驚き、｢権威ある者｣として認めざるを得なくされて、２章１２節でも、｢驚き、『こんなことは、いまだかつて見たことがない』と言って神をあがめた｣とされているが、こうした周囲の状況がある中、律法学者たちの存在を見逃さなかった。
　そこで主は、６、７節&thinsp;｢律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか』｣と、反感を抱いた人々への責任を果たすべく《 ９節の質問を投げ掛けて、堂々、１０節&thinsp;｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために｣と 》チャンスを最大限生かされた。
　実は、この朝記念する《 主の復活 》こそが、この宣言の確かさを全人類に証言された日だと再認識して感謝を!! マタイ２８章は、主の埋葬されたお墓を訪ねた女性たちに、天の使いから※６節&thinsp;｢ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられた｣と《 主の復活 》が伝えられ、９、１０節では直接、復活のイエスにお会いし、弟子たちへの伝言がゆだねられている。何という喜び!! 主は伝言通り、ガリラヤで弟子たちに会って、《 宣教の大命令 》を下されたのである。この宣教命令には、１８節&thinsp;｢わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています｣、１９節&thinsp;｢ですから【宣教命令を引き受ける弟子たちの絶対的拠り所があるのだから】、あなたがたは･･･人々を弟子としなさい｣と、実現可能だと激励。
　実に、ここで律法学者に〈持っていると言われた権威〉は､《 十字架の死からの復活によって 》紛れもない現実となった!! 従って復活を見るまでは、主は※その事実を１０節&thinsp;｢あなたがたが知るために｣と、９節で（ちゅうぶの）からだの不自由な人に、｢あなたの罪は赦された｣と言うのと、｢起きて、寝床をたたんで歩け｣と言うのと、どちらが易しいかと質問されてから、難しい方を取られて、１１節&thinsp;｢起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい｣、１２節&thinsp;｢すると･･･｣という結果で証しされた。しかし、究極の証明は復活によって!! 復活は･･･

① ひとりの人の子として地上生活を送られたイエスは、私たちと同じ罪ある者ではなく、神ご自身であられたことを証明した。

　使徒２章２２～２４節&thinsp;｢死につながれていることなど、あり得なかった｣、それは、ローマ６章２３節&thinsp;｢罪の報酬は死｣だから。律法学者が言った※マルコ２章７節&thinsp;｢この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろう｣は、まさに然り、主イエスの復活は、主が神であると証明したからだ。

② ｢罪を赦す権威｣を持つ者であると証明した。

　ローマ６章４節&thinsp;｢それは、ちょうどキリストが･･･死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩む｣者《 信じる者を新たな人に造り変える 》福音がもたらされた。

※ 十字架の死から復活されたイエスは今も《 互いのあがない、隣人への宣教の権威者として 》現存される主として信頼を新たに!!
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/09/12  23:41  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書２章１～１２節<br /><br />　先週は、激しいご奉仕に※日々実践された、３５節&thinsp;｢朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた｣主イエスに《 父なる神との、関係がいかに 》を学んだ。<br /><br />ⅰ 先ず、目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、父からの指示を絶えず確認しつつ労される《 父なる神への忠実さ 》を。<br />　３６～３８節で、後を追って来た弟子たちと、主を引き留めようと付いて来た群衆たちに、｢さあ･･･｣と、どのように対応するべきか、答えは父との交わりによって備えられていた。もし、目の前の必要に翻弄される日々を送るならば、父なる神の時を待たずに消耗し切られたのでは。続く３９節、４０節から４４節と、奇跡は周囲を《 熱狂的な興奮状態 》とし、当時の宗教･司法の権威を握るエルサレム最高法院の光る眼のとまる所となり、危険に身を晒すこと間違いなし。４４節&thinsp;｢だれにも何も･･･｣には、父との交わりからの冷静さを見る。<br />　尚かつ、宣教に伴う奇跡は《 群衆たちの関心が罪からの救いよりも、この世の祝福に 》向かうというご奉仕の至難さを見るにつけ、｢寂しいところ｣に退いては、父との密着した交わりから《 父なる神の必要 》を知って、そこに応じられる為。<br /><br />ⅱ ヘブル５章７節&thinsp;｢キリストは肉体をもって生き･･･大きな叫び声と涙をもって祈り･･･｣に（自分を死から救い出すことが出来る）父なる神への、よりたのみを。<br />　主は、聖であられる父からの日毎の力の賦与なしには生きられないとされ、受ける誘惑には勝利するという成長過程を経ながら、完全な者となるため闘われ、十字架の死に臨まれた。<br /><br />※ 互いこそ､《 寂しい所を隠れ家とされた主 》にならいたいと。<br /><br /><br />　この朝はイースターを記念して、１０節&thinsp;｢人の子が地上で罪を赦す権威を持っている｣と《 この世に人の子として来られた主が、｢救い主｣と証言する機会を捉えて宣言 》された聖句に注目を。<br />　その場面は、先に主が、１章後半、カぺナウムでの奇跡を見た人々から、３７節&thinsp;｢あなたを捜しています｣と、しばらくの滞在を求められたが、３８、３９節で〈その要請を退けてガリラヤの全域を巡られて〉、<span style="color:#9D3C8D;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">再度、２章１節を詳しく、｢カぺナウムに戻られて数日後｣のこと、</strong></span>｢おそらく、ペテロの家｣におられるという噂がたって、３節&thinsp;｢人々が･･･みもとに｣連れて来た《 （ちゅうぶの）からだの不自由な人を扱った時のこと 》である。主の日々の重荷は、ご自身が｢ご自分の民を罪から救う｣救い主･神から遣わされた神の子である証拠としての奇跡を行うも、大多数の人々は現世での祝福のみを求めて来る、そこにあったと学んでいるが、何と!! ここで主はご自身を、｢救い主｣と証言すべき時と見て取れる機会を捉えられたのだ。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">それは、<strong style="letter-spacing:0.025em;">５節&thinsp;｢イエスは彼らの信仰｣、</strong>からだの自由を奪われた（ちゅうぶの）人を担いでくる四人が《 その友の内的苦悩からの 》救いを懸命に願って出て来た行動<strong style="letter-spacing:0.025em;">と見たからだ。</strong></span><br />　主は心に喜びを隠せなかったのでは? 直ちにその人に｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">子よ、あなたの罪は赦された</strong></span>｣と言われた。<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">何らかの後遺症･疾患によるものなのか、からだの自由を奪われた（ちゅうぶの）人と、その彼を思いやってイエスのもとに必死に担いで来た四人の信仰に《 病気そのものの治癒ではなく、罪の赦しの宣言 》を与えられた。</strong></span>主はこの宣言が、目の前で見聞きしている※６、７節&thinsp;｢律法学者たち｣にとっては心を苛立たせ、非難を浴びせ掛ける機会となるであろうと知りつつ、堂々と立ち向かわれた宣言なのだ。<br /><br />　先の※１章２２節では、誰もが｢その教え｣に驚き、｢権威ある者｣として認めざるを得なくされて、２章１２節でも、｢驚き、『こんなことは、いまだかつて見たことがない』と言って神をあがめた｣とされているが、こうした周囲の状況がある中、律法学者たちの存在を見逃さなかった。<br />　そこで主は、６、７節&thinsp;｢律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか』｣と、反感を抱いた人々への責任を果たすべく《 ９節の<span style="color:#9B3C8F;">質問を投げ掛けて、堂々、１０節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;">人の子が地上で罪を赦す権威を持っている</strong>ことを、あなたがたが知るために｣と</span> 》チャンスを最大限生かされた。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">実は、この朝記念する《 主の復活 》こそが、この宣言の確かさを全人類に証言された日だと再認識して感謝を!! </span>マタイ２８章は、主の埋葬されたお墓を訪ねた女性たちに、天の使いから※６節&thinsp;｢ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられた｣と《 主の復活 》が伝えられ、９、１０節では直接、復活のイエスにお会いし、弟子たちへの伝言がゆだねられている。何という喜び!! 主は伝言通り、ガリラヤで弟子たちに会って、《 宣教の大命令 》を下されたのである。<span style="color:#9B3C8F;">この宣教命令には、１８節&thinsp;｢わたしには天においても地においても、すべての<strong style="letter-spacing:0.025em;">権威が与えられています｣、１９節&thinsp;｢ですから</strong></span>【宣教命令を引き受ける弟子たちの絶対的拠り所があるのだから】、<span style="color:#9B3C8F;">あなたがたは･･･人々を弟子としなさい｣と、実現可能だと激励。</span><br />　実に、ここで律法学者に〈持っていると言われた権威〉は､《 十字架の死からの復活によって 》紛れもない現実となった!! 従って復活を見るまでは、主は※その事実を１０節&thinsp;｢あなたがたが知るために｣と、９節で（ちゅうぶの）からだの不自由な人に、｢あなたの罪は赦された｣と言うのと、｢起きて、寝床をたたんで歩け｣と言うのと、どちらが易しいかと質問されてから、難しい方を取られて、１１節&thinsp;｢起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい｣、１２節&thinsp;｢すると･･･｣という結果で証しされた。<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">しかし、究極の証明は復活によって!! 復活は･･･</strong></span><br /><br />① ひとりの人の子として地上生活を送られたイエスは、私たちと同じ罪ある者ではなく、神ご自身であられたことを証明した。<br /><br />　使徒２章２２～２４節&thinsp;｢死につながれていることなど、あり得なかった｣、それは、ローマ６章２３節&thinsp;｢罪の報酬は死｣だから。律法学者が言った※マルコ２章７節&thinsp;｢この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろう｣は、まさに然り、主イエスの復活は、主が神であると証明したからだ。<br /><br />② ｢罪を赦す権威｣を持つ者であると証明した。<br /><br />　ローマ６章４節&thinsp;｢それは、ちょうどキリストが･･･死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩む｣者《 信じる者を新たな人に造り変える 》福音がもたらされた。<br /><br />※ 十字架の死から復活されたイエスは今も《 互いのあがない、隣人への宣教の権威者として 》現存される主として信頼を新たに!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　１０</title>
      <pubDate>Fri, 28 Jul 2023 18:02:51 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章３５～４５節　先週は、カぺナウム入りして安息の日を迎えたその日のご奉仕で､《 ２２節、人々が主を｢権威ある者｣と認めた 》のは? に注目。ⅰ イエスが、２２節｢律法学者たちのよう｣ではなかったからだ。　２２節で｢教えに驚いた｣人々は、マタイ２３章２節｢モーセの【権威の】座に着いて｣いる｢律法学者たち｣から、一度たりとも、主イエスに感じた感動を感じたことがなかった。　講壇が｢権威の座｣であるのは、聖書が神のことばだからであり、神のことばに権威があるからだ。にも..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１章３５～４５節

　先週は、カぺナウム入りして安息の日を迎えたその日のご奉仕で､《 ２２節、人々が主を｢権威ある者｣と認めた 》のは? に注目。

ⅰ イエスが、２２節｢律法学者たちのよう｣ではなかったからだ。
　２２節で｢教えに驚いた｣人々は、マタイ２３章２節｢モーセの【権威の】座に着いて｣いる｢律法学者たち｣から、一度たりとも、主イエスに感じた感動を感じたことがなかった。
　講壇が｢権威の座｣であるのは、聖書が神のことばだからであり、神のことばに権威があるからだ。にも拘らず、彼らの説教には感動を覚えなかったのは、みことばが彼らの生活に受肉されていなかったからだ。ローマ２章１７～２４節は、実に律法学者への警告である。
　従って、人々が主を｢権威ある者｣と認めざるを得なくさせたのは､《 聖書を神のことばとして自らの生活に実践され、自らの栄誉を求めず、人々の益のみを図る動機の純潔 》に生きておられたからだ。

ⅱ ひとたび、主が、２５節｢出て行け｣と命じられると、２６節｢その人から出て行った｣と、けがれた霊を従わせたからだ。

ⅲ 事実、影響があったからだ。２８節｢こうして･･･広まった｣、３２、３３節｢こうして･･･集まって来た｣と。
　同じ日に起こった〈奇跡のニュース〉があっという間にガリラヤ周辺の全域に広がり、みもとに連れて来られた多種多様な病める人々に、神の干渉が及ぶところとなった。

※ 人々をして｢権威ある者として教えられた｣と驚かせた､《 みことばに生きられた主 》を凝視しながら、宣教のためにきよめを頂いて、神的権威に期待をと!!


　この朝は、３５節｢さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた｣とある聖句に注目したい。
　ここでの｢朝早く、まだ暗いうちに｣とは、並行記事のルカ４章４２節によると、安息の日ではあったが、カぺナウムでの多忙なご奉仕を終えられての翌日、｢朝【夜明け】になって｣であったこと。更には引き続き、｢群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした｣とある。マルコでは、３６、３７節｢シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、『･･あなたを捜しています』と言った｣とある。恐らく、宿泊しておられたペテロの家に押しかけた群衆が、ペテロの後をつけて来たことが見て取れるのでは?
　途切れることのないご奉仕の日々に実践された｢朝早く･･･寂しいところに出かけて行き｣、祈っておられたそのお姿に《 父なる神との、関係がいかに 》を!!

① 先ず、目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、絶えず父からの召しを全うするために、ご自身の一挙手一投足の是非を確認しつつ労される、父なる神への忠実さを。

　主は、弟子たちが※３６、３７節でイエスの後を追って来て、｢あなたを捜しています｣と、現に群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来て･･･｢自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうと｣されている。しかし、彼らを祈りの場に迎えることになった主は、何ら躊躇されることなく、３８節｢さあ｣と、｢近くにある･･･村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから｣と立ち上がられた。
　このことは彼らを迎える前までの｢暗いうちに起きて寂しいところ｣での父なる神との交わりによって与えられた答えである。
　もし、目の前の必要に翻弄される日々であったならば、救い主のしるしとしての奇跡が尋常ではないだけに、父からの時を待たずに消耗し切るご生涯になり兼ねなかったであろう。主は、３９節｢ガリラヤ全域にわたって｣彼らの会堂で福音を伝え、悪い霊を追い出しておられたのであり､《 ツァラアトに冒された人へのきよめは４０節から４４節まで続く 》。しかも未だかつて見たことも聞いたこともないしるしが伴ったことで、周囲は《 熱狂的な興奮状態となり 》、主は当然、当時の宗教･司法の権威を握っていたエルサレム最高法院の光る眼のとまる所となり、あえて、危険に身を晒すことは避けられなくなる。
　従って、４３、４４節で主が彼を厳しく戒めて、すぐに去らせ、そのとき彼に、｢だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を･･･見せなさい。そして･･･｣と言われる機転は、やはり、父なる神との交わりから導かれてのこと。それでも、４５節｢ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスは･･･寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところから･･･やって来た｣という動きの覚悟が必要であった。
　なおかつ《 宣教活動に伴う、救い主のしるしとしての奇跡 》にはいつも、奇跡のみ求める群衆をいかにその本質的な罪からの救いに繋げられるのかのご奉仕。
　これら至難なご奉仕の為に日々、｢寂しい所｣を求められては退き、父との密着した交わりによって実際的ご指示を頂いて《 父なる神の必要 》に応じられた。
　主は十字架の上で、ヨハネ１９章３０節｢（酸いぶどうはあがないの成就の意味、それを受けて）『完了した』と言われた。そして･･･霊をお渡しになった｣その日までのご生涯は、父とのお独りになられる《 寂しい所とその時 》程、慕うべき空間はこの世において何処にもあり得なかった。実に、マタイ８章２０節｢狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません｣と言われた通り。

② ヘブル５章７節｢キリストは肉体をもって生き･･･大きな叫び声と涙をもって祈り･･･｣に､（自分を死から救い出すことが出来る）父なる神へのよりたのみを。

　実に｢人の子｣として生きられた主は、聖であられる父への愛の故の志の日々ではあるが、父からの日毎の力の賦与なしには生きられないとされる祈りの生活があった。人の子として受ける誘惑に勝利することで成長するという過程を経ながら完全な者となり、十字架の死に臨まれた。

※ 主イエスがそうであられたように、互いこそ《 父なる神への忠実さとよりたのみの為 》に、｢朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところ｣を隠れ家としたい。
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/07/28  18:04  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章３５～４５節<br /><br />　先週は、カぺナウム入りして安息の日を迎えたその日のご奉仕で､《 ２２節、人々が主を｢権威ある者｣と認めた 》のは? に注目。<br /><br />ⅰ イエスが、２２節｢律法学者たちのよう｣ではなかったからだ。<br />　２２節で｢教えに驚いた｣人々は、マタイ２３章２節｢モーセの【権威の】座に着いて｣いる｢律法学者たち｣から、一度たりとも、主イエスに感じた感動を感じたことがなかった。<br />　講壇が｢権威の座｣であるのは、聖書が神のことばだからであり、神のことばに権威があるからだ。にも拘らず、彼らの説教には感動を覚えなかったのは、みことばが彼らの生活に受肉されていなかったからだ。ローマ２章１７～２４節は、実に律法学者への警告である。<br />　従って、人々が主を｢権威ある者｣と認めざるを得なくさせたのは､《 聖書を神のことばとして自らの生活に実践され、自らの栄誉を求めず、人々の益のみを図る動機の純潔 》に生きておられたからだ。<br /><br />ⅱ ひとたび、主が、２５節｢出て行け｣と命じられると、２６節｢その人から出て行った｣と、けがれた霊を従わせたからだ。<br /><br />ⅲ 事実、影響があったからだ。２８節｢こうして･･･広まった｣、３２、３３節｢こうして･･･集まって来た｣と。<br />　同じ日に起こった〈奇跡のニュース〉があっという間にガリラヤ周辺の全域に広がり、みもとに連れて来られた多種多様な病める人々に、神の干渉が及ぶところとなった。<br /><br />※ 人々をして｢権威ある者として教えられた｣と驚かせた､《 みことばに生きられた主 》を凝視しながら、宣教のためにきよめを頂いて、神的権威に期待をと!!<br /><br /><br />　この朝は、３５節｢さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた｣とある聖句に注目したい。<br />　ここでの｢朝早く、まだ暗いうちに｣とは、並行記事のルカ４章４２節によると、安息の日ではあったが、カぺナウムでの多忙なご奉仕を終えられての翌日、｢朝【夜明け】になって｣であったこと。更には引き続き、｢群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした｣とある。マルコでは、３６、３７節｢シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、『･･あなたを捜しています』と言った｣とある。恐らく、宿泊しておられたペテロの家に押しかけた群衆が、ペテロの後をつけて来たことが見て取れるのでは?<br />　途切れることのないご奉仕の日々に実践された｢朝早く･･･寂しいところに出かけて行き｣、祈っておられたそのお姿に《 父なる神との、関係がいかに 》を!!<br /><br />① 先ず、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、絶えず父からの召しを全うするために、ご自身の一挙手一投足の是非を確認しつつ労される、父なる神への忠実さを。</strong></span><br /><br />　主は、弟子たちが※３６、３７節でイエスの後を追って来て、｢あなたを捜しています｣と、現に群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来て･･･｢自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうと｣されている。しかし、彼らを祈りの場に迎えることになった主は、何ら躊躇されることなく、３８節｢さあ｣と、｢近くにある･･･村へ行こう。わたしはそこでも<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから</strong></span>｣と立ち上がられた。<br />　このことは彼らを迎える前までの｢暗いうちに起きて寂しいところ｣での父なる神との交わりによって与えられた答えである。<br />　もし、目の前の必要に翻弄される日々であったならば、救い主のしるしとしての奇跡が尋常ではないだけに、父からの時を待たずに消耗し切るご生涯になり兼ねなかったであろう。主は、３９節｢ガリラヤ全域にわたって｣彼らの会堂で福音を伝え、悪い霊を追い出しておられたのであり､《 ツァラアトに冒された人へのきよめは４０節から４４節まで続く 》。しかも未だかつて見たことも聞いたこともないしるしが伴ったことで、周囲は《 熱狂的な興奮状態となり 》、主は当然、当時の宗教･司法の権威を握っていたエルサレム最高法院の光る眼のとまる所となり、あえて、危険に身を晒すことは避けられなくなる。<br />　従って、４３、４４節で主が彼を厳しく戒めて、すぐに去らせ、そのとき彼に、｢だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を･･･見せなさい。そして･･･｣と言われる機転は、やはり、父なる神との交わりから導かれてのこと。それでも、４５節｢ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスは･･･寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところから･･･やって来た｣という動きの覚悟が必要であった。<br />　なおかつ《 宣教活動に伴う、救い主のしるしとしての奇跡 》にはいつも、奇跡のみ求める群衆をいかにその本質的な罪からの救いに繋げられるのかのご奉仕。<br />　これら至難なご奉仕の為に日々、｢寂しい所｣を求められては退き、父との密着した交わりによって実際的ご指示を頂いて《 父なる神の必要 》に応じられた。<br />　主は十字架の上で、ヨハネ１９章３０節｢（酸いぶどうはあがないの成就の意味、それを受けて）『完了した』と言われた。そして･･･霊をお渡しになった｣その日までのご生涯は、父とのお独りになられる《 寂しい所とその時 》程、慕うべき空間はこの世において何処にもあり得なかった。実に、マタイ８章２０節｢狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">人の子には枕するところもありません</strong></span>｣と言われた通り。<br /><br />② ヘブル５章７節<span style="color:#9A3A8C;">｢<strong style="letter-spacing:0.025em;">キリストは肉体をもって生き･･･</strong>大きな叫び声と涙をもって祈り･･･｣に､（自分を死から救い出すことが出来る）<strong style="letter-spacing:0.025em;">父なる神へのよりたのみを。</strong></span><br /><br />　実に｢人の子｣として生きられた主は、聖であられる父への愛の故の志の日々ではあるが、父からの日毎の力の賦与なしには生きられないとされる祈りの生活があった。人の子として受ける誘惑に勝利することで成長するという過程を経ながら完全な者となり、十字架の死に臨まれた。<br /><br />※ 主イエスがそうであられたように、互いこそ《 父なる神への忠実さとよりたのみの為 》に、｢朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところ｣を隠れ家としたい。</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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        <item>
      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/499916762.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　９</title>
      <pubDate>Tue, 04 Jul 2023 19:32:00 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章２１～３４節　先週は、本格的ご奉仕の開始が、先ず１７節&amp;thinsp;｢わたしについて来なさい｣と､《 弟子を募る働き 》にあったと学んだ。【１６、１９節】でこの招きにあずかった四人は、既に一年余り前、主イエスに引き寄せられて働きの同行者だったこと、更に３章１３節以降で、正式に《 十二人の任命をもって直々の訓練を授けられたこと 》から、その宣教に臨まれる姿勢に注目した。ⅰ ひとりの人の子としての地上生涯における関心事が、ただ､《 人々の魂を救うこと 》にのみ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１章２１～３４節

　先週は、本格的ご奉仕の開始が、先ず１７節&thinsp;｢わたしについて来なさい｣と､《 弟子を募る働き 》にあったと学んだ。【１６、１９節】でこの招きにあずかった四人は、既に一年余り前、主イエスに引き寄せられて働きの同行者だったこと、更に３章１３節以降で、正式に《 十二人の任命をもって直々の訓練を授けられたこと 》から、その宣教に臨まれる姿勢に注目した。

ⅰ ひとりの人の子としての地上生涯における関心事が、ただ､《 人々の魂を救うこと 》にのみ置いておられたこと。
　主はお独りで多くの奇跡を行われるや否や、ヨハネ３章２、３節【主を訪ねたニコデモから、メシア到来によるローマからの解放を匂わせた《 主の｢※しるし｣への称賛 》を受けられたが･･･】。主は世の価値に染まる彼の期待を退け、ローマ帝国からの解放による救いを期待する心を正し、彼を救いに導く為、｢神の国｣への待望と入国に関心を向けさせられた。

ⅱ 貧しく、ガリラヤ周辺の地方で育った四人、漁師たちへの招きであったこと。
　彼らは、使徒４章１３節&thinsp;｢無学な普通の人｣であったが、主イエスからの、直截に指摘して頂ける人々であり、既にバプテスマのヨハネの弟子として、宗教の形骸化しているユダヤ社会に問題意識を抱く、霊的資質にあずかっている人々だった。
　【ルカ５章１～１１節】自らの罪深さに気づいて恐れた時、ペテロは主イエスからその自覚こそ適任者だと言われて、他の三人も同様、直ちに｢網を捨てて｣全面的に従った人々。

※ 第二コリント４章７節は、詳しくは｢〔弱い、人間の〕･･･｣であり、器としてその人を選び、ご自身の力を最大限に示される、主の知恵と覚えたいと。


　この朝は、主の安息の出来事が記されている記事から、２２節&thinsp;｢人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである｣に注目を!!
　主は四人の弟子を従えて、カぺナウム入りされた。主の安息のその日、２１節&thinsp;｢会堂に入って教えられた｣、２９節&thinsp;｢会堂を出るとすぐに｣、３２節&thinsp;｢夕方になり･･･｣とある。主の安息は、金曜日の日没に始まり、土曜日の日没で終わるので、安息の規定から解かれた時、人々がこぞって病気の人や悪い霊につかれた人をみな、｢イエスのもとに連れて来た｣と。
　安息のその日、いかに目まぐるしいご様子だったかを見るが、淡々と父なる神の時を意識されて開始されたご奉仕は､《 人々をして、主を｢権威ある者｣と認めさせた 》として学びたい。

① イエスが、２２節&thinsp;｢律法学者たちのよう｣ではなかったからだ。

　｢その教えに驚いた｣人々は、マタイ２３章２節、律法学者たちやパリサイ派の人たちが｢モーセの【権威の】座に着いて｣いたことから、これまで会堂で彼らの教えを聞いてはいたが、一度たりとも、主イエスに感じた感動を、彼らからは感じたことがなかったようだ。
　その理由は、同３～７節&thinsp;｢彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。彼らがしている行いはすべて人に見せるため･･･人々から先生と呼ばれることが好きです｣とあるからだ。
　講壇が｢権威の座｣と言われているのは、聖書が神のことばだからであり、その神のことばに権威がある、神の権威を帯びていることからである。
　にも拘らず、律法学者はその権威を蔑ろにしている為、同１３節&thinsp;｢（神のみもと、そこへ至る門を）閉ざしている。おまえたち自身も･･･人々も･･･｣入ることが出来ないと。聞く人々を神に導けず、神への礼拝、讃美が生まれない。
　彼らの説教は、彼らの生活、生き方に受肉されてはいないからだ。ローマ２章１７～２４節&thinsp;｢あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。･･･｣とは、実にユダヤ人を代表する律法学者への警告である。
　従って、人々が《 マルコ１章２２節、教えている主を｢権威ある者｣ 》と認めざるを得なくされたのは、又、主の教えを聞いた人々がみな驚いて、互いに論じ合い､《 同２７節&thinsp;｢これは何だ。権威ある新しい教えだ･･･｣と言ったのも 》、主イエスご自身が《 聖書を神のことばとして自らの生活に実践され、自らの栄誉を求めず、人々の益の為との動機の純潔 》に生きておられたからだ。
　ご自身を空しくして、完全に父なる神に委ねられたからこそ、神の権威を帯びていたのだ。

② ｢これは何だ。権威ある新しい教えだ｣と言われて、※ひとたび主が、けがれた霊にお命じになると、｢彼らは従う｣という結果を引き起こしたからだ。

　その出来事は、※主が会堂でお話をされた、２３～２６節でのこと。けがれた霊につかれた人が、｢ナザレの人イエスよ･･･私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です｣と叫んだ時、イエスは彼を叱って、｢黙れ。この人から出て行け｣と言われた。すると、けがれた霊はその人を引きつけさせ、｢大声をあげて、その人から出て行った｣と。２７節で《 けがれた霊を従わせた 》ことに見る、神的権威である。

③ 事実、影響があったからだ。２８節&thinsp;｢こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった｣、３２節&thinsp;｢夕方になり｣、人々は病気の人や悪い霊につかれた人を、｢イエスのもとに連れて来た｣、３３節&thinsp;｢こうして･･･｣と。

　同じ日に起こった〈奇跡のニュース〉があっという間にガリラヤ周辺の全域に広がり、多種多様な病める人々への、神の干渉が及ぶところとなった。

※ 今も、人々に主を｢権威ある者として教えられた｣と驚かせた、律法学者たちのようではない《 みことばに生きられた主 》を凝視し、宣教のために清めを頂いて、神的権威に期待を!!
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/07/04  19:34  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章２１～３４節<br /><br />　先週は、本格的ご奉仕の開始が、先ず１７節&thinsp;｢わたしについて来なさい｣と､《 弟子を募る働き 》にあったと学んだ。【１６、１９節】でこの招きにあずかった四人は、既に一年余り前、主イエスに引き寄せられて働きの同行者だったこと、更に３章１３節以降で、正式に《 十二人の任命をもって直々の訓練を授けられたこと 》から、その宣教に臨まれる姿勢に注目した。<br /><br />ⅰ ひとりの人の子としての地上生涯における関心事が、ただ､《 人々の魂を救うこと 》にのみ置いておられたこと。<br />　主はお独りで多くの奇跡を行われるや否や、ヨハネ３章２、３節【主を訪ねたニコデモから、メシア到来によるローマからの解放を匂わせた《 主の｢※しるし｣への称賛 》を受けられたが･･･】。主は世の価値に染まる彼の期待を退け、ローマ帝国からの解放による救いを期待する心を正し、彼を救いに導く為、｢神の国｣への待望と入国に関心を向けさせられた。<br /><br />ⅱ 貧しく、ガリラヤ周辺の地方で育った四人、漁師たちへの招きであったこと。<br />　彼らは、使徒４章１３節&thinsp;｢無学な普通の人｣であったが、主イエスからの、直截に指摘して頂ける人々であり、既にバプテスマのヨハネの弟子として、宗教の形骸化しているユダヤ社会に問題意識を抱く、霊的資質にあずかっている人々だった。<br />　【ルカ５章１～１１節】自らの罪深さに気づいて恐れた時、ペテロは主イエスからその自覚こそ適任者だと言われて、他の三人も同様、直ちに｢網を捨てて｣全面的に従った人々。<br /><br />※ 第二コリント４章７節は、詳しくは｢〔弱い、人間の〕･･･｣であり、器としてその人を選び、ご自身の力を最大限に示される、主の知恵と覚えたいと。<br /><br /><br />　この朝は、主の安息の出来事が記されている記事から、<span style="color:#9B3C8F;">２２節&thinsp;｢人々はその教えに驚いた。イエスが、<strong style="letter-spacing:0.025em;">律法学者たちのようにではなく、権威ある者として</strong>教えられたからである｣</span>に注目を!!<br />　主は四人の弟子を従えて、カぺナウム入りされた。主の安息のその日、２１節&thinsp;｢会堂に入って教えられた｣、２９節&thinsp;｢会堂を出るとすぐに｣、３２節&thinsp;｢夕方になり･･･｣とある。主の安息は、金曜日の日没に始まり、土曜日の日没で終わるので、安息の規定から解かれた時、人々がこぞって病気の人や悪い霊につかれた人をみな、｢イエスのもとに連れて来た｣と。<br />　安息のその日、いかに目まぐるしいご様子だったかを見るが、淡々と父なる神の時を意識されて開始されたご奉仕は､<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">《 人々をして、主を｢権威ある者｣と認めさせた 》</strong></span>として学びたい。<br /><br />① イエスが、２２節&thinsp;｢律法学者たちのよう｣ではなかったからだ。<br /><br />　｢その教えに驚いた｣人々は、マタイ２３章２節、律法学者たちやパリサイ派の人たちが｢モーセの【権威の】座に着いて｣いたことから、これまで会堂で彼らの教えを聞いてはいたが、一度たりとも、主イエスに感じた感動を、彼らからは感じたことがなかったようだ。<br />　その理由は、同３～７節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">彼らは言うだけで実行しないからです。</strong></span>また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">自分は指一本貸そうともしません。</strong></span>彼らがしている行いは<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">すべて人に見せるため･･･人々から先生と呼ばれることが好き</strong></span>です｣とあるからだ。<br />　講壇が｢権威の座｣と言われているのは、聖書が神のことばだからであり、その神のことばに権威がある、神の権威を帯びていることからである。<br />　にも拘らず、律法学者はその権威を蔑ろにしている為、同１３節&thinsp;｢（神のみもと、そこへ至る門を）閉ざしている。おまえたち自身も･･･人々も･･･｣入ることが出来ないと。聞く人々を神に導けず、神への礼拝、讃美が生まれない。<br />　彼らの説教は、彼らの生活、生き方に受肉されてはいないからだ。<span style="color:#9B3C8F;">ローマ２章１７～２４節&thinsp;｢あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、<strong style="letter-spacing:0.025em;">どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。</strong>･･･｣とは、実にユダヤ人を代表する律法学者への警告である。</span><br />　<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">従って、人々が《 マルコ１章２２節、教えている主を｢権威ある者｣ 》と認めざるを得なくされたのは、</strong>又、主の教えを聞いた人々がみな驚いて、互いに論じ合い､《 同２７節&thinsp;｢これは何だ。権威ある新しい教えだ･･･｣と言ったのも 》、主イエスご自身が《 聖書を神のことばとして自らの生活に実践され、自らの栄誉を求めず、人々の益の為との動機の純潔 》に生きておられたからだ。<br />　ご自身を空しくして、完全に父なる神に委ねられたからこそ、神の権威を帯びていたのだ。<br /><br />② ｢これは何だ。権威ある新しい教えだ｣と言われて、※ひとたび主が、けがれた霊にお命じになると、｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">彼らは従う</strong>｣という結果を引き起こしたからだ。<br /><br />　その出来事は、※主が会堂でお話をされた、２３～２６節でのこと。けがれた霊につかれた人が、｢ナザレの人イエスよ･･･私たちを滅ぼしに来たのですか。<span style="color:#9B3C8F;">私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です｣と叫んだ時、<strong style="letter-spacing:0.025em;">イエスは彼を叱って、｢黙れ。この人から出て行け｣と言われた。すると、</strong>けがれた霊はその人を引きつけさせ、｢大声をあげて、その人から出て行った｣</span>と。２７節で《 けがれた霊を従わせた 》ことに見る、神的権威である。<br /><br />③ <strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">事実、影響があった</strong>からだ。２８節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">こうして、</strong></span>イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった｣、３２節&thinsp;｢夕方になり｣、人々は病気の人や悪い霊につかれた人を、｢イエスのもとに連れて来た｣、３３節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">こうして･･･</strong></span>｣と。<br /><br />　同じ日に起こった〈奇跡のニュース〉があっという間にガリラヤ周辺の全域に広がり、多種多様な病める人々への、神の干渉が及ぶところとなった。<br /><br />※ 今も、人々に主を｢権威ある者として教えられた｣と驚かせた、律法学者たちのようではない《 みことばに生きられた主 》を凝視し、宣教のために清めを頂いて、神的権威に期待を!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　８</title>
      <pubDate>Sat, 27 May 2023 06:18:39 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章１６～２０節　先週は、バプテスマのヨハネの捕縛を契機に､主イエスが本格的な公的働きを開始されての｢神の福音｣宣教について､《 １５節 》を基礎に、エペソ１章３～１４節の聖句によって理解を確かにした。ⅰ ｢時が満ち｣と、定められた期間が終わり、周到な準備がなされた上での《 輝かしい瞬間 》を迎えた福音であること。　その計画はエペソ１章４、５節、｢神は、世界の･･据えられる前から｣と、極めて壮大な〈創世記３章１５節の予告以前から秘められていた〉ご計画。初めの人ア..</description>
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マルコの福音書１章１６～２０節

　先週は、バプテスマのヨハネの捕縛を契機に､主イエスが本格的な公的働きを開始されての｢神の福音｣宣教について､《 １５節 》を基礎に、エペソ１章３～１４節の聖句によって理解を確かにした。

ⅰ ｢時が満ち｣と、定められた期間が終わり、周到な準備がなされた上での《 輝かしい瞬間 》を迎えた福音であること。
　その計画はエペソ１章４、５節、｢神は、世界の･･据えられる前から｣と、極めて壮大な〈創世記３章１５節の予告以前から秘められていた〉ご計画。初めの人アダムの神への違反によってさえも、無効にはされなかった。主の宣教が、先ず｢ガリラヤ｣で始められたのは、イザヤ９章１、２節の預言。

ⅱ ｢神の国｣の事実と、｢神の国｣が近づいたと宣言する福音。
　｢神の国｣と同義のことばが、エペソ１章１１、１４節にも出て来るが、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、今現在、３節、２章６節の霊的経験･祝福にあずかること。と同時に、｢受け継ぐ｣ものであり、死によってか? 主イエスの再臨による携挙によってか? 迎えられるやがての場所。
　｢神の国が近づいた｣というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく､《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になった時を意識され、覚悟されての 》預言成就の宣言である。

ⅲ ｢悔い改め、信じ｣ることで経験的事実となること。
　この｢悔い改め｣とは、全人格的方向転換を意味し、自らの罪深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ること。

※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも、と!!


　この朝は、本格的ご奉仕の開始が、先ず《 弟子を募る働き 》、１７節&thinsp;｢わたしについて来なさい｣、その詳細は〈私の弟子になりなさい〉からであった点に注目したい。
　主のご降誕のご目的は、ヨハネ３章１６節&thinsp;｢神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである｣と、あくまでも全人類の救いにある。が、神のこのご目的を果たされるのに用いられた方法が《 弟子を募り、訓練することをもってであった 》と。
　主イエスの招きは、１６節&thinsp;｢シモンとシモンの兄弟アンデレ｣、１９節&thinsp;｢ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ｣の四人で、実は、既にガリラヤ伝道開始前から、厳密に調べるならば一年余り、主の働きに同行する機会にあずかっていた人々であった（ヨハネ１章３５～４２節）。そしてこの時からヨハネ５章まで、主の働きに同行していたことが分かる。その様子を見るならば、２章２節&thinsp;｢イエスも弟子たちも｣、１２節&thinsp;｢イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカぺナウムに下って行き｣、１７節&thinsp;｢弟子たち｣、２２節&thinsp;｢弟子たちは･･･聖書とイエスが言われたことばを信じた｣、３章２６節b&thinsp;｢先生。ヨルダンの川向こうで･･･なんと、バプテスマを授けておられます。そして･･･｣、４章１節&thinsp;｢イエスがヨハネよりも多くの弟子を作って･･･｣と、主の周囲にはかなりの人々が付きまとうようになっているのが分かるが、一年余りの様子をご覧になられながら、このマルコの記事で、初めてこの四人に先ず、直接的招きをしていることになる。
　それでも本格的弟子訓練は、マルコ３章１３～１９節&thinsp;｢ １４節 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた｣その時からとなるが、主のたった三年余りのご奉仕期間の後半に入ってのことであるとは、人間的には極めて驚くべきことでは!!
　一年余り時間を必要とされて、主が｢わたしについて来なさい、弟子となりなさい｣と招かれたことに何を読むべき?

① 人の子としての地上生涯における関心事が､《 唯一つのこと､人の魂を救うことにのみある 》ということ。

　主はお独りで多くの奇跡を行い、人々を魅了し、名声を得ることもお出来になられた。事実、ユダヤ初期の働きを開始するや否や、直ちにそのような気運が高まり、主イエスに対して人々からの絶えざる（この世の価値観ではあるが）期待感による誘いがあった。ヨハネ３章１～３節に見る､《 ニコデモの期待していることへの、主の返答 》にもその事実を見ることが出来る。ニコデモはメシア到来によるローマからの解放を切望していた為、主イエスに｢しるし｣への称賛を述べた。しかし、主はご自身への世の価値観による期待を退け､《 ローマ帝国からの解放による救いを期待する 》彼の心を正し、｢神の国｣への待望と入国に関心を向けさせ、救いへと導かれた。
　このことは、５章４１節&thinsp;｢わたしは人からの栄誉は受けません｣、４４節&thinsp;｢互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか｣と戒めつつ、父なる神から与えられた召し《 人類のあがないに仕える 》をもって喜びとしていることを意味している。

② 弟子への招きは、１６節&thinsp;｢シモンとシモンの兄弟アンデレ･･･彼らは漁師であった｣、１９節&thinsp;｢ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ｣に対してであったこと。

　彼らはガリラヤ周辺の貧しい地方で育った人々で、あかぬけたユダヤ地方の出身者はイスカリオテのユダ一人。ユダヤ社会では、人間的標準で評価されたならば軽視され兼ねない人々? しかし、ここでの評価は人が求めるものとは違う。彼らの言動には、とても協力者となれるような能力を備えもった人々とは認められない現れがある。にも拘らず、主イエスから直截に指摘して頂ける人々、決して反抗的にならずに “&thinsp;問題はどこに在るのか、教えて下さい&thinsp;” と正直に率直に聞ける柔らかい心を持ち合わせた人々だった。
　何故なら召しを受けた彼らは、既に、バプテスマのヨハネの弟子としての生活があり、宗教の形骸化しているユダヤ社会に問題意識を抱く霊的資質にあずかっている人々だったから。
　主が彼らをそれと認められた証しが１７節b&thinsp;｢人間をとる漁師｣、すなわち､《 主のご奉仕に適う者にしよう 》との願ってもない招きと知った時、直ちに従う人々であったことに見、又、ルカ５章１～１１節では、主が大漁の奇跡を行われた時のこと、ペテロは、自らの罪深さに気づき恐れをなしたが、その自覚こそ適任者だとされて招かれたことから、内的･霊的渇きを知る人々であったことに見る。

※ 第二コリント４章７節は、より詳しくは｢〔弱い、人間の〕･･･｣であるが、その人をあえて選び、ご自身の力を最大限に示される、主の知恵と覚えたい。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/05/27  6:20  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章１６～２０節<br /><br />　先週は、バプテスマのヨハネの捕縛を契機に､主イエスが本格的な公的働きを開始されての｢神の福音｣宣教について､《 １５節 》を基礎に、エペソ１章３～１４節の聖句によって理解を確かにした。<br /><br />ⅰ ｢時が満ち｣と、定められた期間が終わり、周到な準備がなされた上での《 輝かしい瞬間 》を迎えた福音であること。<br />　その計画はエペソ１章４、５節、｢神は、世界の･･据えられる前から｣と、極めて壮大な〈創世記３章１５節の予告以前から秘められていた〉ご計画。初めの人アダムの神への違反によってさえも、無効にはされなかった。主の宣教が、先ず｢ガリラヤ｣で始められたのは、イザヤ９章１、２節の預言。<br /><br />ⅱ ｢神の国｣の事実と、｢神の国｣が近づいたと宣言する福音。<br />　｢神の国｣と同義のことばが、エペソ１章１１、１４節にも出て来るが、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、今現在、３節、２章６節の霊的経験･祝福にあずかること。と同時に、｢受け継ぐ｣ものであり、死によってか? 主イエスの再臨による携挙によってか? 迎えられるやがての場所。<br />　｢神の国が近づいた｣というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく､《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になった時を意識され、覚悟されての 》預言成就の宣言である。<br /><br />ⅲ ｢悔い改め、信じ｣ることで経験的事実となること。<br />　この｢悔い改め｣とは、全人格的方向転換を意味し、自らの罪深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ること。<br /><br />※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも、と!!<br /><br /><br />　この朝は、本格的ご奉仕の開始が、先ず《 弟子を募る働き 》、１７節&thinsp;｢わたしについて来なさい｣、その詳細は〈私の弟子になりなさい〉からであった点に注目したい。<br />　主のご降誕のご目的は、ヨハネ３章１６節&thinsp;｢神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである｣と、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">あくまでも全人類の救い</strong>にある。が、神のこのご目的を果たされるのに用いられた方法が《 弟子を募り、訓練することをもってであった 》と。</span><br />　主イエスの招きは、１６節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">シモン</strong>とシモンの兄弟<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">アンデレ</strong>｣、１９節&thinsp;｢ゼベダイの子<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">ヤコブ</strong>と、その兄弟<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">ヨハネ</strong>｣の四人で、実は、既にガリラヤ伝道開始前から、厳密に調べるならば一年余り、主の働きに同行する機会にあずかっていた人々であった（ヨハネ１章３５～４２節）。そしてこの時からヨハネ５章まで、主の働きに同行していたことが分かる。その様子を見るならば、２章２節&thinsp;｢イエスも弟子たちも｣、１２節&thinsp;｢イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカぺナウムに下って行き｣、１７節&thinsp;｢弟子たち｣、２２節&thinsp;｢弟子たちは･･･聖書とイエスが言われたことばを信じた｣、３章２６節b&thinsp;｢先生。ヨルダンの川向こうで･･･なんと、バプテスマを授けておられます。そして･･･｣、４章１節&thinsp;｢イエスがヨハネよりも多くの弟子を作って･･･｣と、主の周囲にはかなりの人々が付きまとうようになっているのが分かるが、一年余りの様子をご覧になられながら、このマルコの記事で、初めてこの四人に先ず、直接的招きをしていることになる。<br />　それでも本格的弟子訓練は、マルコ３章１３～１９節&thinsp;｢<strong style="font-size:12px;letter-spacing:0.025em;color:#676767;"> １４節 </strong>イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた｣その時からとなるが、主のたった三年余りのご奉仕期間の後半に入ってのことであるとは、人間的には極めて驚くべきことでは!!<br />　<span style="color:#9B3C8F;">一年余り時間を必要とされて、主が｢わたしについて来なさい、弟子となりなさい｣と招かれたことに何を読むべき?</span><br /><br />① 人の子としての地上生涯における関心事が､《 唯一つのこと､人の魂を救うことにのみある 》ということ。<br /><br />　主はお独りで多くの奇跡を行い、人々を魅了し、名声を得ることもお出来になられた。事実、ユダヤ初期の働きを開始するや否や、直ちにそのような気運が高まり、主イエスに対して人々からの絶えざる（この世の価値観ではあるが）期待感による誘いがあった。ヨハネ３章１～３節に見る､《 ニコデモの期待していることへの、主の返答 》にもその事実を見ることが出来る。ニコデモはメシア到来によるローマからの解放を切望していた為、主イエスに｢しるし｣への称賛を述べた。しかし、主はご自身への世の価値観による期待を退け､《 ローマ帝国からの解放による救いを期待する 》彼の心を正し、｢神の国｣への待望と入国に関心を向けさせ、救いへと導かれた。<br />　このことは、５章４１節&thinsp;｢わたしは人からの栄誉は受けません｣、４４節&thinsp;｢互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか｣と戒めつつ、父なる神から与えられた召し《 人類のあがないに仕える 》をもって喜びとしていることを意味している。<br /><br />② 弟子への招きは、１６節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">シモン</strong>とシモンの兄弟<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">アンデレ</strong>･･･彼らは漁師であった｣、１９節&thinsp;｢ゼベダイの子<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">ヤコブ</strong>と、その兄弟<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">ヨハネ</strong>｣に対してであったこと。<br /><br />　彼らはガリラヤ周辺の貧しい地方で育った人々で、あかぬけたユダヤ地方の出身者はイスカリオテのユダ一人。ユダヤ社会では、人間的標準で評価されたならば軽視され兼ねない人々? しかし、ここでの評価は人が求めるものとは違う。彼らの言動には、とても協力者となれるような能力を備えもった人々とは認められない現れがある。<span style="color:#9B3C8F;">にも拘らず、<strong style="letter-spacing:0.025em;">主イエスから直截に指摘して頂ける人々、決して反抗的にならずに “&thinsp;問題はどこに在るのか、教えて下さい&thinsp;” と正直に率直に聞ける柔らかい心を持ち合わせた人々</strong>だった。</span><br />　何故なら召しを受けた彼らは、既に、バプテスマのヨハネの弟子としての生活があり、宗教の形骸化しているユダヤ社会に問題意識を抱く霊的資質にあずかっている人々だったから。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">主が彼らをそれと認められた証しが</span>１７節b&thinsp;｢人間をとる漁師｣、すなわち､《 主のご奉仕に適う者にしよう 》との願ってもない招きと知った時、直ちに従う人々であったことに見、又、ルカ５章１～１１節では、主が大漁の奇跡を行われた時のこと、ペテロは、自らの罪深さに気づき恐れをなしたが、その自覚こそ適任者だとされて招かれたことから、内的･霊的渇きを知る人々であったことに見る。<br /><br />※ 第二コリント４章７節は、より詳しくは｢〔弱い、人間の〕･･･｣であるが、その人をあえて選び、ご自身の力を最大限に示される、主の知恵と覚えたい。</span></div><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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                </item>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/499134502.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　７</title>
      <pubDate>Thu, 27 Apr 2023 06:17:02 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章１４、１５節　先週は、バプテスマのヨハネによって予告されていた主が、９節&amp;thinsp;｢ナザレからやって来て｣、遂に１４節で※そのヨハネが捕らえられた後、本格的な宣教の働きを開始される記事に学んだ。ⅰ 宣教に先立って先ず、９～１１節に見る､《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義について。　ローマ６章４節がその解説。罪なき子羊としての主イエスが人類に代わって呪われて、十字架刑の死にまで従われるが、主は、同２３節&amp;thinsp;｢罪の報酬は死｣が適用されない為..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１章１４、１５節

　先週は、バプテスマのヨハネによって予告されていた主が、９節&thinsp;｢ナザレからやって来て｣、遂に１４節で※そのヨハネが捕らえられた後、本格的な宣教の働きを開始される記事に学んだ。

ⅰ 宣教に先立って先ず、９～１１節に見る､《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義について。
　ローマ６章４節がその解説。罪なき子羊としての主イエスが人類に代わって呪われて、十字架刑の死にまで従われるが、主は、同２３節&thinsp;｢罪の報酬は死｣が適用されない為、その死の中からよみがえられ、罪の中にある人を新しいいのちに歩む者とされるとの象徴的な証。ヨハネから洗礼を受けられた主は、｢御霊｣の全的な占領により、｢あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ｣との天の声と共に、父、御子、御霊の完全なる一致の証しをされた。

ⅱ その直後、１２、１３節に見る､《 荒れ野で主が試みを受けられたこと 》の意義について。
　１３節は他の福音書の記述と違い、ダニエルの《 潔白と神への信頼 》の証しとして獅子の口が塞がれたのに同様、父なる神への真実を証しされた。

ⅲ 公に神の子としての生涯を始められるのに、これらの二つは必須の霊的経験であるが、それだからと言うので直ちにではなかったこと。
　実は荒れ野での試みの後、ヨハネの福音書に一年余りのユダヤ伝道があったのを見た。ヨハネ２章１～１１節のカナの婚礼でも､《 父なる神の時を待ち望まれる姿勢 》の裡に、最初の奇跡を行われたように、公生涯への決め手を１４節の《 ヨハネの投獄に見、先駆者の使命の完成と同時に、ご自身の時が来たとの内的合点 》に至ったとは!!

※ 人間的躊躇感は皆無!! 主はご奉仕の開始においても、神の時を待ち望みつつ御心を確かなものとなさりながらだったのを見て、そこにならうべきと。


　この朝は、主が、１４節&thinsp;｢ヨハネが捕らえられた｣ことを契機に､《 本格的な公的働きを開始されての｢神の福音｣宣教 》に注目したい。｢神の福音｣の内容は《 １５節 》に凝縮されているが、エペソ１章３～１４ 節の聖句によって理解を確かにしたい。

① ｢時が満ち｣て明らかにされたこと。

　この｢時が満ち｣とは、より詳細には、｢定められた期間は終わった｣となるが、エペソ１章１０節&thinsp;｢時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる【※キリストをかしらとして一つにされる】ことです｣と言及されている。
　即ち、かねてより計画されていた福音は長きに及んで準備されて来たが、遂に主イエスの到来によって実行に移されるという､《 輝かしい瞬間 》を迎えた。その計画はどこまで遡るのか?
　それは、エペソ１章４、５節&thinsp;｢すなわち神は、世界の･･据えられる前から、･･･私たちを選び･･･聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス･キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました｣とある。
　なんという壮大なみ思いが計画されていたことか!!
　創世記３章１５節&thinsp;｢わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ｣との予告以前から秘められていた計画。初めの人アダムの神への違反によって、人類に罪が入ったが、それだからといって神は人を創造されたご目的（ご自身との交わりの為に造られた）を無効にはなさらなかった。あくまでも、エペソ１章５～１４節&thinsp;｢私たちをイエス･キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは･･･｣と。
　マルコ１章１５節で、｢定められた期間は終わった｣と主が言われた時、神のこのご計画が先ずユダヤ人に、更には人類に明らかにされていくことになる。
　主イエスによる宣教が大々的に、同１４節&thinsp;｢ガリラヤ｣で発せられたのは、※イザヤ９章１、２節&thinsp;｢先にはゼブルンの地とナフタリの地（ガリラヤの北部と南部）は辱めを受けたが、･･･異邦の民のガリラヤ（異邦人に侵略されていた為）は栄誉を受ける｣と、預言者イザヤによって引き継がれて来ていたこと。

② ｢神の国｣との事実、｢神の国｣が近づいたこと。

　｢神の国｣と同義のことばが、エペソ１章１１、１４節にも出て来る。｢神の国｣とは、先ず、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、今現在、３節&thinsp;｢天上にあるすべての霊的祝福をもって･･･祝福してくださいました｣という霊的経験にあずかること。私たちの肉体は今、地上生活において様々な制約を受けているが、魂は既に、復活によって、神の右の座におられる主イエスに在って、天の所に生きる者とされている。２章６節&thinsp;｢神はまた、キリスト･イエスにあって｣と。と同時に、１章１１、１４節&thinsp;｢受け継ぐ｣という、将来的な場所をも意味する。死によってか? キリストの再臨による携挙によってか? 何れかによって、迎えられる場所である。
　｢神の国が近づいた･･･｣というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく､《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になったその時を意識されつつ 》、預言の通りに出現されたからである。１５節&thinsp;｢時が満ち、神の国が近づいた･･･｣と上げられた声は、十字架の道への新たな決意でもある。

③ ｢悔い改め、信じ｣ることで経験的事実となること。

　この｢悔い改め｣とは、全人格的方向転換を意味し、自らの罪の深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、もう既に成し遂げられた十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ることである。自らの罪に嘆く悲しみをもって。
　懺悔（つまり、罪の結果受けるであろう裁きを恐れ、裁きから逃れることにだけ関心がある）とは違う。悔い改めは、罪の結果からの救いよりも、自らの罪そのものを悲しんで告白し、その罪から離別した生き方を求めて、神に立ち返ること。
　エペソ１章１３節&thinsp;｢このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって｣、神の所有とされたと。

※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも!!
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/04/27  6:19  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章１４、１５節<br /><br />　先週は、バプテスマのヨハネによって予告されていた主が、９節&thinsp;｢ナザレからやって来て｣、遂に１４節で※そのヨハネが捕らえられた後、本格的な宣教の働きを開始される記事に学んだ。<br /><br />ⅰ 宣教に先立って先ず、９～１１節に見る､《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義について。<br />　ローマ６章４節がその解説。罪なき子羊としての主イエスが人類に代わって呪われて、十字架刑の死にまで従われるが、主は、同２３節&thinsp;｢罪の報酬は死｣が適用されない為、その死の中からよみがえられ、罪の中にある人を新しいいのちに歩む者とされるとの象徴的な証。ヨハネから洗礼を受けられた主は、｢御霊｣の全的な占領により、｢あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ｣との天の声と共に、父、御子、御霊の完全なる一致の証しをされた。<br /><br />ⅱ その直後、１２、１３節に見る､《 荒れ野で主が試みを受けられたこと 》の意義について。<br />　１３節は他の福音書の記述と違い、ダニエルの《 潔白と神への信頼 》の証しとして獅子の口が塞がれたのに同様、父なる神への真実を証しされた。<br /><br />ⅲ 公に神の子としての生涯を始められるのに、これらの二つは必須の霊的経験であるが、それだからと言うので直ちにではなかったこと。<br />　実は荒れ野での試みの後、ヨハネの福音書に一年余りのユダヤ伝道があったのを見た。ヨハネ２章１～１１節のカナの婚礼でも､《 父なる神の時を待ち望まれる姿勢 》の裡に、最初の奇跡を行われたように、公生涯への決め手を１４節の《 ヨハネの投獄に見、先駆者の使命の完成と同時に、ご自身の時が来たとの内的合点 》に至ったとは!!<br /><br />※ 人間的躊躇感は皆無!! 主はご奉仕の開始においても、神の時を待ち望みつつ御心を確かなものとなさりながらだったのを見て、そこにならうべきと。<br /><br /><br />　この朝は、主が、１４節&thinsp;｢ヨハネが捕らえられた｣ことを契機に､《 本格的な公的働きを開始されての｢神の福音｣宣教 》に注目したい。｢神の福音｣の内容は《 １５節 》に凝縮されているが、エペソ１章３～１４ 節の聖句によって理解を確かにしたい。<br /><br />① ｢時が満ち｣て明らかにされたこと。<br /><br />　この｢時が満ち｣とは、より詳細には、｢定められた期間は終わった｣となるが、エペソ１章１０節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">時が満ちて計画が実行に移され、</strong>天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる【※キリストをかしらとして一つにされる】ことです｣と言及されている。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">即ち、かねてより計画されていた福音は長きに及んで準備されて来たが、遂に主イエスの到来によって実行に移されるという､《 輝かしい瞬間 》を迎えた。その計画はどこまで遡るのか?</span><br />　それは、エペソ１章４、５節&thinsp;｢すなわち神は、<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">世界の･･据えられる前から、</strong>･･･私たちを選び･･･聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス･キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました｣とある。<br />　なんという壮大なみ思いが計画されていたことか!!<br />　創世記３章１５節&thinsp;｢わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ｣との予告以前から秘められていた計画。初めの人アダムの神への違反によって、人類に罪が入ったが、それだからといって神は人を創造されたご目的（ご自身との交わりの為に造られた）を無効にはなさらなかった。あくまでも、エペソ１章５～１４節&thinsp;｢私たちをイエス･キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは･･･｣と。<br />　マルコ１章１５節で、｢定められた期間は終わった｣と主が言われた時、神のこのご計画が先ずユダヤ人に、更には人類に明らかにされていくことになる。<br />　主イエスによる宣教が大々的に、同１４節&thinsp;｢ガリラヤ｣で発せられたのは、※イザヤ９章１、２節&thinsp;｢先にはゼブルンの地とナフタリの地（ガリラヤの北部と南部）は辱めを受けたが、･･･異邦の民のガリラヤ（異邦人に侵略されていた為）は栄誉を受ける｣と、預言者イザヤによって引き継がれて来ていたこと。<br /><br />② ｢神の国｣との事実、｢神の国｣が近づいたこと。<br /><br />　｢神の国｣と同義のことばが、エペソ１章１１、１４節にも出て来る。｢神の国｣とは、先ず、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、<span style="color:#9B3C8F;">今現在、３節&thinsp;｢天上にあるすべての霊的祝福をもって･･･祝福してくださいました｣という霊的経験にあずかること。</span>私たちの肉体は今、地上生活において様々な制約を受けているが、魂は既に、復活によって、神の右の座におられる主イエスに在って、天の所に生きる者とされている。２章６節&thinsp;｢神はまた、キリスト･イエスにあって｣と。<span style="color:#9B3C8F;">と同時に、１章１１、１４節&thinsp;｢受け継ぐ｣という、将来的な場所をも意味する。</span>死によってか? キリストの再臨による携挙によってか? 何れかによって、迎えられる場所である。<br />　｢神の国が近づいた･･･｣というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく､《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になったその時を意識されつつ 》、預言の通りに出現されたからである。１５節&thinsp;｢時が満ち、神の国が近づいた･･･｣と上げられた声は、十字架の道への新たな決意でもある。<br /><br />③ ｢悔い改め、信じ｣ることで経験的事実となること。<br /><br />　この<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">｢悔い改め｣とは、全人格的方向転換</strong></span>を意味し、自らの罪の深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、もう既に成し遂げられた十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ることである。自らの罪に嘆く悲しみをもって。<br />　<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">懺悔</strong>（つまり、罪の結果受けるであろう裁きを恐れ、裁きから逃れることにだけ関心がある）<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">とは違う。</strong>悔い改めは、罪の結果からの救いよりも、自らの罪そのものを悲しんで告白し、その罪から離別した生き方を求めて、神に立ち返ること。<br />　エペソ１章１３節&thinsp;｢このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって｣、神の所有とされたと。<br /><br />※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも!!<span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/499131197.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　６</title>
      <pubDate>Wed, 26 Apr 2023 06:16:45 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章９～１５節　先週は、バプテスマのヨハネが、８節&amp;thinsp;｢私は･･･水で･･･、（イエスは）聖霊によってバプテスマをお授けになります｣と明言して《 主を紹介した聖句 》に注目して、三つのことを!ⅰ ｢聖霊によってバプテスマをお授け｣になるとは?　マラキ３章１～３節がその解説｡《 ｢精錬する者の火｣として、不純物の多い金属から純度の高い金属を取り出す 》過程を経て、純化する。その過程で､《 聖霊は神のことばをもって、私たちに吹き付けられる 》。ヘブル４章..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１章９～１５節

　先週は、バプテスマのヨハネが、８節&thinsp;｢私は･･･水で･･･、（イエスは）聖霊によってバプテスマをお授けになります｣と明言して《 主を紹介した聖句 》に注目して、三つのことを!

ⅰ ｢聖霊によってバプテスマをお授け｣になるとは?
　マラキ３章１～３節がその解説｡《 ｢精錬する者の火｣として、不純物の多い金属から純度の高い金属を取り出す 》過程を経て、純化する。その過程で､《 聖霊は神のことばをもって、私たちに吹き付けられる 》。ヘブル４章１２節を詳しく訳すると、｢力に満ちており･･･鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで･･･、心の思いと意図までも･･･〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉｣と。同時に、｢火｣はエネルギーとして、使徒たちの心を愛で燃やした。
　このことは、２章１～４節､《 ペンテコステの日 》に成就。

ⅱ なぜ主は、｢聖霊によってバプテスマ｣を授けられるのか?
　主イエスの働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣の必須条件だから。

ⅲ ｢聖霊によってバプテスマ｣が授けられるためには?
　バプテスマのヨハネが下準備としての働きを。即ち、人が自ら、神から離れて身勝手に生きて来たことを罪と認め、悔い改めて神に立ち返る新生経験の第一の転機に始まる。後に、聖霊が光をより深く心の深奥部にまで届けられては気づかせる《 内的腐敗性の事実を知って痛み、そこからの清めを渇いて求めるとき》、第一ヨハネ１章７節の約束を信仰によって受け、受け続けてあずかる恵みである。

※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって、救いを完成された主の代価に感謝しつつ、信仰に立ち続けたいと。


　この朝は、バプテスマのヨハネから、７節&thinsp;｢私の後に来られます｣と予告されていた主が、遂に、９節&thinsp;｢そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた｣という､《 人々がこの事実をそれと認めようが認めまいが、人類に待たれていた日を迎えることになった 》という記事に学びたい。
　実に主が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた出来事であるが、その後、１４節&thinsp;｢イエスはガリラヤに行き、神の福音を｣伝えて、ガリラヤ伝道を開始された記事になっている。
　しかし四つの福音書を合わせ読む中で、『ヨハネの福音書』にだけ、初期のユダヤで行われた働きが記録されている点に留意したい。
　これらの働きは、９～１１節《 ヨハネからのバプテスマ、洗礼 》を受けられ、１２、１３節《 荒れ野の試み 》があってからのことではあったが、本格的な開始は、１４節&thinsp;｢ヨハネが捕らえられた｣後からであったことが分かる。なんと!! 主でさえも、本格的なご奉仕にと臨まれるのに、どれ程、慎重を期されてのことだったかは、驚きである。

① 宣教に先立って９～１１節に見る､《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義

　そもそも洗礼は、ローマ６章４節&thinsp;｢キリストの死にあずかるバプテスマによって･･･ちょうどキリストが･･･死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです｣が象徴されている。
　罪なき主イエスは人類に代わって呪われるべく、十字架刑による《 死 》を受けられたが、主はそれを自らの為だと受け入れて、しかし人の子として罪を犯されなかったので｢罪の報酬は死｣が適用されず、その死の中からよみがえられたので、その者もキリスﾄに在って新しいいのちに歩む者とされた、の意。
　洗礼を受けられたことで、主は｢御霊｣の全的な占領により、｢あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ｣との天の声と共に、父、御子、御霊の完全なる一致の承認にあずかられた。

② その直後、１２、１３節に見る､《 荒れ野での試み 》の意義。

　１２節&thinsp;｢それから直ぐに｣、御霊によってイエスは荒れ野に追いやられたが、そこに、御霊の強制的力を読み取ることが出来る。父、御子、御霊の交わりに見られる相当の気迫であり、父なる神への従順の、先ずの試験。１３節は『マルコ』にだけ出て来るが、野獣にかみ裂かれることなく共におられたのは、さながら、血と肉に飢えた獅子の穴に投じられたダニエルが無傷だったのが、｢彼が神に信頼していたから･･･ ダニエル６章２３節｣に同様、父なる神への真実の証!!

③ 公に神の子としての生涯を始められるのに、これらの二つは必須の霊的経験であるが、それだからと言うので直ちにではなかった意義。

　実際主のお心は、幼い頃から《 父なる神の御心を行うこと 》に向けられており、十二歳の出来事が証言している。ルカ２章４１～５１節&thinsp;｢イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか』｣と。
　その後、父なる神の御心を内に秘め置き、同５１節&thinsp;｢それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられ｣ること《 成人三十歳 》までの生活。
　マルコ１章９節は、十八年間の沈黙を破られての出現で洗礼を受けられたことになるが、主は実に奥床しい。
　マルコ１章１４節&thinsp;｢ガリラヤ｣での、福音宣教に先立って行われた奇跡を見ておきたい。ヨハネ２章１～１１節､《 カナでの婚礼 》で行われた｢最初のしるし｣の出来事でのこと。ここでは何一つ気負いはなく、母の機転によってなされた奇跡だった。４節&thinsp;｢すると、イエスは母に言われた。『･･･わたしの時はまだ来ていません』｣と。しかし無下に退けずに受け止めて父なる神に尋ねられた。その結果は、父の御心との確信によって出された指示に奇跡を見ることとなる。
　こうした経緯を通過しての初期のユダヤ伝道に携わりながら、遂に公生涯への決定的な一手が、このマルコ１章１４節&thinsp;｢ヨハネが捕らえられた｣ことをもって《 先駆者の使命の完成と同時に、ご自身の時が来たとの内的合点 》だった。これまで、バプテスマのヨハネ自身が荒れ野に退いて自らの召しに対する十分な確信を待ち望んだに同様、それ以上の慎重さを抱かれての公生涯に臨まれた姿勢、使徒１章４節に通じる。

※ 人間的躊躇感にある恐れは皆無!! 神の御心とうなずける内的確信に大胆な始まりを見て、そこにあやかりたい。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/04/26  6:18  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章９～１５節<br /><br />　先週は、バプテスマのヨハネが、８節&thinsp;｢私は･･･水で･･･、（イエスは）聖霊によってバプテスマをお授けになります｣と明言して《 主を紹介した聖句 》に注目して、三つのことを!<br /><br />ⅰ ｢聖霊によってバプテスマをお授け｣になるとは?<br />　マラキ３章１～３節がその解説｡《 ｢精錬する者の火｣として、不純物の多い金属から純度の高い金属を取り出す 》過程を経て、純化する。その過程で､《 聖霊は神のことばをもって、私たちに吹き付けられる 》。ヘブル４章１２節を詳しく訳すると、｢力に満ちており･･･鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで･･･、心の思いと意図までも･･･〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉｣と。同時に、｢火｣はエネルギーとして、使徒たちの心を愛で燃やした。<br />　このことは、２章１～４節､《 ペンテコステの日 》に成就。<br /><br />ⅱ なぜ主は、｢聖霊によってバプテスマ｣を授けられるのか?<br />　主イエスの働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣の必須条件だから。<br /><br />ⅲ ｢聖霊によってバプテスマ｣が授けられるためには?<br />　バプテスマのヨハネが下準備としての働きを。即ち、人が自ら、神から離れて身勝手に生きて来たことを罪と認め、悔い改めて神に立ち返る新生経験の第一の転機に始まる。後に、聖霊が光をより深く心の深奥部にまで届けられては気づかせる《 内的腐敗性の事実を知って痛み、そこからの清めを渇いて求めるとき》、第一ヨハネ１章７節の約束を信仰によって受け、受け続けてあずかる恵みである。<br /><br />※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって、救いを完成された主の代価に感謝しつつ、信仰に立ち続けたいと。<br /><br /><br />　この朝は、バプテスマのヨハネから、７節&thinsp;｢私の後に来られます｣と予告されていた主が、<span style="color:#9B3C8F;">遂に、９節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;">そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、</strong>ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた｣という､《 人々がこの事実をそれと認めようが認めまいが、人類に待たれていた日を迎えることになった 》という記事</span>に学びたい。<br />　実に主が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた出来事であるが、その後、１４節&thinsp;｢イエスはガリラヤに行き、神の福音を｣伝えて、ガリラヤ伝道を開始された記事になっている。<br />　しかし四つの福音書を合わせ読む中で、『ヨハネの福音書』にだけ、初期のユダヤで行われた働きが記録されている点に留意したい。<br />　これらの働きは、９～１１節《 ヨハネからのバプテスマ、洗礼 》を受けられ、１２、１３節《 荒れ野の試み 》があってからのことではあったが、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">本格的な開始は、１４節&thinsp;｢ヨハネが捕らえられた｣後からであったことが分かる。</strong></span>なんと!! 主でさえも、本格的なご奉仕にと臨まれるのに、どれ程、慎重を期されてのことだったかは、驚きである。<br /><br />① 宣教に先立って９～１１節に見る､《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義<br /><br />　そもそも洗礼は、ローマ６章４節&thinsp;｢キリストの死にあずかるバプテスマによって･･･ちょうどキリストが･･･<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むため</strong>です｣が象徴されている。<br />　罪なき主イエスは人類に代わって呪われるべく、十字架刑による《 死 》を受けられたが、主はそれを自らの為だと受け入れて、しかし人の子として罪を犯されなかったので｢罪の報酬は死｣が適用されず、その死の中からよみがえられたので、その者もキリスﾄに在って新しいいのちに歩む者とされた、の意。<br />　洗礼を受けられたことで、主は｢御霊｣の全的な占領により、｢あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ｣との天の声と共に、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">父、御子、御霊の完全なる一致の承認にあずかられた。</strong></span><br /><br />② その直後、１２、１３節に見る､《 荒れ野での試み 》の意義。<br /><br />　１２節&thinsp;｢それから直ぐに｣、御霊によってイエスは<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">荒れ野に追いやられたが、</strong>そこに、御霊の強制的力を読み取ることが出来る。父、御子、御霊の交わりに見られる相当の気迫であり、父なる神への従順の、先ずの試験。１３節は『マルコ』にだけ出て来るが、野獣にかみ裂かれることなく共におられたのは、さながら、血と肉に飢えた獅子の穴に投じられたダニエルが無傷だったのが、｢彼が神に信頼していたから･･･ ダニエル６章２３節｣に同様、父なる神への真実の証!!<br /><br />③ 公に神の子としての生涯を始められるのに、これらの二つは必須の霊的経験であるが、それだからと言うので直ちにではなかった意義。<br /><br />　実際主のお心は、幼い頃から《 父なる神の御心を行うこと 》に向けられており、十二歳の出来事が証言している。ルカ２章４１～５１節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;">イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。<strong style="letter-spacing:0.025em;">わたしが自分の父の家にいる</strong>のは当然であることを、ご存じなかったのですか』</span>｣と。<br />　その後、父なる神の御心を内に秘め置き、同５１節&thinsp;｢それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられ｣ること《 成人三十歳 》までの生活。<br />　マルコ１章９節は、十八年間の沈黙を破られての出現で洗礼を受けられたことになるが、主は実に奥床しい。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">マルコ１章１４節&thinsp;｢ガリラヤ｣での、福音宣教に先立って行われた奇跡を見ておきたい。</span>ヨハネ２章１～１１節､《 カナでの婚礼 》で行われた｢最初のしるし｣の出来事でのこと。<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">ここでは何一つ気負いはなく、</strong>母の機転によってなされた奇跡だった。４節&thinsp;｢すると、イエスは母に言われた。『･･･わたしの時はまだ来ていません』｣と。しかし無下に退けずに受け止めて父なる神に尋ねられた。その結果は、父の御心との確信によって出された指示に奇跡を見ることとなる。<br />　こうした経緯を通過しての初期のユダヤ伝道に携わりながら、遂に公生涯への決定的な一手が、このマルコ１章１４節&thinsp;｢ヨハネが捕らえられた｣ことをもって《 先駆者の使命の完成と同時に、ご自身の時が来たとの内的合点 》だった。これまで、バプテスマのヨハネ自身が荒れ野に退いて自らの召しに対する十分な確信を待ち望んだに同様、それ以上の慎重さを抱かれての公生涯に臨まれた姿勢、使徒１章４節に通じる。<br /><br />※ 人間的躊躇感にある恐れは皆無!! 神の御心とうなずける内的確信に大胆な始まりを見て、そこにあやかりたい。</span></div><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　５</title>
      <pubDate>Tue, 14 Mar 2023 11:43:58 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章３～８節　先週は、４節の、｢バプテスマのヨハネ｣が荒れ野に現れた記事に学んだ。　｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣、との召しは、バプテスマのヨハネに託された事業だったが、復活の主イエスが昇天直前に語られた、※使徒１章８節の宣言に生きる者ならば、この召しに生きたヨハネの姿勢に学ばなければならないと。ⅰ ｢バプテスマのヨハネ｣が現れたことに見る、神への畏怖とその信仰を。　バプテスマのヨハネは※ルカ１章８節から１７節まで、天の使いからの告知通り、主の宮に仕える父･..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１章３～８節

　先週は、４節の、｢バプテスマのヨハネ｣が荒れ野に現れた記事に学んだ。
　｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣、との召しは、バプテスマのヨハネに託された事業だったが、復活の主イエスが昇天直前に語られた、※使徒１章８節の宣言に生きる者ならば、この召しに生きたヨハネの姿勢に学ばなければならないと。

ⅰ ｢バプテスマのヨハネ｣が現れたことに見る、神への畏怖とその信仰を。
　バプテスマのヨハネは※ルカ１章８節から１７節まで、天の使いからの告知通り、主の宮に仕える父･ザカリヤの子として生を受けたが、彼はユダヤ社会での特権的な立場を辞して７６、７７節の、｢幼子よ、あなたこそ･･･預言者と呼ばれる｣を受け留め、遂に８０節&thinsp;｢イスラエルの民｣に現されるまで荒れ野に居て、３章２節&thinsp;｢神のことば｣が直接臨むのを待ち望んだ。何故なら、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。世俗から自らを隔離させ、神の語られるところに耳を傾けようとの荒れ野とは、※６節の極めてシンプルで健康的な生活に通じる。
　その現れが極端であればある程、それは《 神からの召しというものへの責任を感じる真面目さ 》と見るべきであり、第二列王５章２６節&thinsp;｢今は（国難を意識して）金を受け、衣服を受け、･･･羊や牛、男女の奴隷を｣受けるその時だろうかと、貪欲なゲハジを咎めた神の人･エリシャにも共通の信仰。

ⅱ ｢私には、かがんで･･･（履物の）ひもを解く資格もありません｣との、７、８節に見る《 自らの分をわきまえる謙遜な霊的資質 》。
　自らを奴隷以下とする、荒れ野で｢叫ぶ者｣バプテスマのヨハネこそ、｢仕えられるためではなく仕えるため･･･｣、に相応しいではないか!!

※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたいと。


　この朝は、バプテスマのヨハネが、８節&thinsp;｢私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、･･･聖霊によってバプテスマをお授けになります｣と明言した聖句に注目したい。
　実に、バプテスマのヨハネが荒れ野で、３節&thinsp;｢叫ぶ者｣として《 生涯を掛け 》イスラエルの民に、｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣と叫び続けたその声の目指すところは、１節《 神の子が人の子となられたイエス 》が、８節b、聖霊によってバプテスマをお授けになりますと伝えることにあった。

①	 ｢聖霊によってバプテスマをお授け｣になるとは?

　『マタイ』と『ルカ』には、｢聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます｣とあるが、マラキ３章１～３節にその解説を見ることが出来る。即ち、２、３節&thinsp;｢精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。･･･銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、･･･彼らを純粋にする｣と､《 聖霊の働きを、火が持っている物理的作用 》に譬ている。火は、私たちの日常生活に欠くことの出来ない、身近なものであるが故に分かり易い。
　先ず、取り上げられている性質として、｢精錬する者の火｣とある。｢精錬｣とは不純物の多い金属から、純度の高い金属を取り出す過程のことだが、精錬する者はそれを｢火｣を通してする。その過程を経た金属が、純粋だということ（※ヨブの２３章１０節の信仰告白がこれだ）。
　その過程で､《 聖霊は神のことばをもってなされる 》。ヘブル４章１２節を詳しく訳すると、｢神の語られるみことばは生きていて、･･･力に満ちており･･･鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで･･･、心の思いと意図までも･･･〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉からです｣と。
　火は、罪という不純物が混合している私たちに吹き付けて精錬するとは、驚くべき福音!! 同時に、火はエネルギーでもあるので、使徒たちの心を愛で燃やした。
　このような一連の働きを表現して､《 聖霊によってバプテスマ（浸す、沈めること）を授ける 》と言っている。復活の主イエスが昇天される前に、使徒１章５節&thinsp;｢ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです｣と言われ、この成就を見たのが、使徒２章１～４節の《 ペンテコステの日 》である。昇天された主が、父なる神の右の座に着かれて、１０日目のことであった。

② 何故、主は｢聖霊によってバプテスマ｣を授けられるのか?

　主が人の子としてご降誕くださった究極の目的が、ガラテヤ３章１３、１４節&thinsp;｢１４ それは、アブラハムへの祝福がキリスト･イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるため｣、即ち人類を救おうとする、父なる神のみこころを成し遂げられるべき主イエスの地上生涯は、その働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣をもって完成する訳であるが、その彼らの働きの必須条件だからだ。
　使徒１章４、５節&thinsp;｢使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです』｣とあり、主の選びとして、立場的に弟子であったとしても、その霊的経験を持ち合わせない限り（その肉のままでは）主の用に叶わないからだ。

③ ｢聖霊によってバプテスマ｣が授けられるためには?

　バプテスマのヨハネが、｢聖霊によってバプテスマをお授けにな｣る主イエスの先駆けとして、※下準備としての、８節a&thinsp;｢水でバプテスマを授け｣、４節&thinsp;｢罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ｣を伝え、それを聞いた人々が、５節b&thinsp;｢自分の罪を告白し｣、彼らにバプテスマを受けさせていたことがあった。
　私たちが先ず、自らが神から離れて身勝手に生きて来たこと、即それが罪であり、その生き方から様々な外的悪しき生活があったことを認め、悔い改めて神に立ち返ること。
　聖霊のバプテスマには新生経験後、聖霊の光がより深く心の深奥部にまで届けられては、気づかされる《 内的腐敗性の事実》を知って痛み､そこからの清めを求める時、唯、第一ヨハネ１章７節の約束をもって備えられている恵みがあること。

※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって救いを完成された、主のその代価の功績に感謝しつつ、信仰に立ち続けたい。
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/03/14  11:45  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章３～８節<br /><br />　先週は、４節の、｢バプテスマのヨハネ｣が荒れ野に現れた記事に学んだ。<br />　｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣、との召しは、バプテスマのヨハネに託された事業だったが、復活の主イエスが昇天直前に語られた、※使徒１章８節の宣言に生きる者ならば、この召しに生きたヨハネの姿勢に学ばなければならないと。<br /><br />ⅰ ｢バプテスマのヨハネ｣が現れたことに見る、神への畏怖とその信仰を。<br />　バプテスマのヨハネは※ルカ１章８節から１７節まで、天の使いからの告知通り、主の宮に仕える父･ザカリヤの子として生を受けたが、彼はユダヤ社会での特権的な立場を辞して７６、７７節の、｢幼子よ、あなたこそ･･･預言者と呼ばれる｣を受け留め、遂に８０節&thinsp;｢イスラエルの民｣に現されるまで荒れ野に居て、３章２節&thinsp;｢神のことば｣が直接臨むのを待ち望んだ。何故なら、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。世俗から自らを隔離させ、神の語られるところに耳を傾けようとの荒れ野とは、※６節の極めてシンプルで健康的な生活に通じる。<br />　その現れが極端であればある程、それは《 神からの召しというものへの責任を感じる真面目さ 》と見るべきであり、第二列王５章２６節&thinsp;｢今は（国難を意識して）金を受け、衣服を受け、･･･羊や牛、男女の奴隷を｣受けるその時だろうかと、貪欲なゲハジを咎めた神の人･エリシャにも共通の信仰。<br /><br />ⅱ ｢私には、かがんで･･･（履物の）ひもを解く資格もありません｣との、７、８節に見る《 自らの分をわきまえる謙遜な霊的資質 》。<br />　自らを奴隷以下とする、荒れ野で｢叫ぶ者｣バプテスマのヨハネこそ、｢仕えられるためではなく仕えるため･･･｣、に相応しいではないか!!<br /><br />※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたいと。<br /><br /><br />　この朝は、バプテスマのヨハネが、８節&thinsp;｢私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">･･･聖霊によってバプテスマをお授けになります</strong>｣と明言した聖句に注目したい。<br />　実に、バプテスマのヨハネが荒れ野で、３節&thinsp;｢叫ぶ者｣として《 生涯を掛け 》イスラエルの民に、｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣と叫び続けたその声の目指すところは、１節《 神の子が人の子となられたイエス 》が、８節b、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">聖霊によってバプテスマをお授けになります</strong></span>と伝えることにあった。<br /><br />①	 ｢聖霊によってバプテスマをお授け｣になるとは?<br /><br />　『マタイ』と『ルカ』には、｢聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます｣とあるが、<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">マラキ３章１～３節</strong>にその解説を見ることが出来る。即ち、<span style="color:#9B3C8F;">２、３節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;">精錬する者の火、布をさらす者の灰汁</strong>のようだ。<strong style="letter-spacing:0.025em;">･･･銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、</strong>レビの子らを<strong style="letter-spacing:0.025em;">きよめて、</strong>･･･彼らを<strong style="letter-spacing:0.025em;">純粋にする</strong>｣</span>と､《 聖霊の働きを、火が持っている物理的作用 》に譬ている。火は、私たちの日常生活に欠くことの出来ない、身近なものであるが故に分かり易い。<br />　先ず、取り上げられている性質として、｢精錬する者の火｣とある。｢精錬｣とは不純物の多い金属から、純度の高い金属を取り出す過程のことだが、精錬する者はそれを｢火｣を通してする。その過程を経た金属が、純粋だということ（※ヨブの２３章１０節の信仰告白がこれだ）。<br />　その過程で､《 聖霊は神のことばをもってなされる 》。ヘブル４章１２節を詳しく訳すると、｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神</strong>の語られるみことばは生きていて、･･･力に満ちており･･･鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と<span style="color:#9B3C8F;">骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで･･･、心の思いと意図までも･･･〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉からです</span>｣と。<br />　火は、罪という不純物が混合している私たちに吹き付けて精錬するとは、驚くべき福音!! 同時に、火はエネルギーでもあるので、使徒たちの心を愛で燃やした。<br />　このような一連の働きを表現して､《 聖霊によってバプテスマ（浸す、沈めること）を授ける 》と言っている。復活の主イエスが昇天される前に、使徒１章５節&thinsp;｢ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです｣と言われ、この成就を見たのが、使徒２章１～４節の《 ペンテコステの日 》である。昇天された主が、父なる神の右の座に着かれて、１０日目のことであった。<br /><br />② 何故、主は｢聖霊によってバプテスマ｣を授けられるのか?<br /><br />　<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">主が人の子としてご降誕くださった究極の目的が、</strong></span>ガラテヤ３章１３、１４節&thinsp;｢<strong style="font-size:11px;letter-spacing:0.025em;color:#676767;">１４ </strong>それは、アブラハムへの祝福がキリスト･イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">約束の御霊を受けるようになるため</strong>｣、即ち人類を救おうとする、父なる神のみこころを成し遂げられるべき主イエスの地上生涯は、その働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣をもって完成する訳であるが、その彼らの働きの必須条件だからだ。<br />　使徒１章４、５節&thinsp;｢使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです』｣とあり、<span style="color:#9B3C8F;">主の選びとして、立場的に弟子であったとしても、その霊的経験を持ち合わせない限り（その肉のままでは）<strong style="letter-spacing:0.025em;">主の用に叶わないからだ。</strong></span><br /><br />③ ｢聖霊によってバプテスマ｣が授けられるためには?<br /><br />　バプテスマのヨハネが、｢聖霊によってバプテスマをお授けにな｣る主イエスの先駆けとして、<span style="color:#96378A;">※下準備としての、８節a&thinsp;｢水でバプテスマを授け｣、</span>４節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">罪の赦しに導く悔い改め</strong>のバプテスマ｣を伝え、それを聞いた人々が、５節b&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">自分の罪を告白し</strong>｣、彼らにバプテスマを受けさせていたことがあった。<br />　私たちが先ず、自らが神から離れて身勝手に生きて来たこと、即それが罪であり、その生き方から様々な外的悪しき生活があったことを認め、悔い改めて神に立ち返ること。<br />　聖霊のバプテスマには新生経験後、聖霊の光がより深く心の深奥部にまで届けられては、気づかされる《 内的腐敗性の事実》を知って痛み､そこからの清めを求める時、唯、第一ヨハネ１章７節の約束をもって備えられている恵みがあること。<br /><br />※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって救いを完成された、主のその代価の功績に感謝しつつ、信仰に立ち続けたい。</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/498259954.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　４</title>
      <pubDate>Tue, 21 Feb 2023 10:50:49 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章２～８節　先週は、主の先駆けとして使者を遣わすとの預言を語るのに、２節&amp;thinsp;｢預言者イザヤの書に･･･｣と書き出しながらも、『マラキ』を引用した後の『イザヤ』の引用だった点に注目した。　それは、救い主にまつわる預言がちりばめられている預言と言えば、先ずイザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだからでは? イエス･キリストの誕生から始まるご生涯の全貌の預言があり、特に４２～５３章､《 主のしもべの歌の中でも、５３章の受難の歌は顕著である 》。　しか..</description>
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マルコの福音書１章２～８節

　先週は、主の先駆けとして使者を遣わすとの預言を語るのに、２節&thinsp;｢預言者イザヤの書に･･･｣と書き出しながらも、『マラキ』を引用した後の『イザヤ』の引用だった点に注目した。
　それは、救い主にまつわる預言がちりばめられている預言と言えば、先ずイザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだからでは? イエス･キリストの誕生から始まるご生涯の全貌の預言があり、特に４２～５３章､《 主のしもべの歌の中でも、５３章の受難の歌は顕著である 》。
　しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、『マラキ』の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 実際、先駆けとしての使者を遣わすとの見逃せない記事が二つあり、その一つが引用されている。
　マラキの Message は紀元前４４０年頃のことで、新約時代を迎えるまでの約４00年間、聖書の空白時代にこのまま入ることに。
　これらの引用聖句は、｢神の子、イエス･キリストの福音｣がどのような性質のものであるかを伝えている。福音は･･･

ⅰ ｢見よ｣と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。

ⅱ ｢あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ｣と、人々が福音を受けるよう備えられる必要があること。

ⅲ ｢その通りに｣と、その初めは創世記３章１５節に遡るが、初めの人の違反以来、４０００年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た、神の計画の成就であること。

※ いよいよ語られる福音の啓示に謙虚に耳を傾けたいと!!


　この朝は、３d、４節&thinsp;｢そのとおりに、バプテスマのヨハネが･･･現れ｣たという記事に学びたい。
　前回、３節c&thinsp;｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣の聖句をもって、お互いは人々の魂が､《 主を受け入れやすい霊的状態に備えられるように、心を耕す手助けをすべき 》と学んだが、その実際を、荒れ野で｢叫ぶ者｣として派遣され、｢主の通られる｣その道に生きたバプテスマのヨハネに学びたい。
　言うまでもなくこの召しは､《 バプテスマのヨハネに託された事業 》だったからだ。※但し、復活の主イエスが昇天直前、弟子たちに、使徒１章８節&thinsp;｢聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土･･･地の果てまで、わたしの証人（殉教、マータ･その血をもって証言する）となります｣と宣言されたように、主の弟子であるならば、この召しに生きたバプテスマのヨハネの姿勢に学ばなければならない。 

① ｢ヨハネが･･･現れ｣た４節aに見る､神への畏怖とその信仰を。

　バプテスマのヨハネは、ルカ１章８節から１７節まで、｢１７節 ※彼はエリヤの霊と力で･･･歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに･･･、主のために、整えられた民を用意します｣と、主の宮に仕える父･ザカリヤへの告知通り、生を受けた。しかし、ユダヤ社会における特権あるその立場を辞して、父から聞いた使命、７６、７７節&thinsp;｢幼子よ、あなたこそ･･･預言者と呼ばれる･･･｣を受け留め、遂に、８０節&thinsp;｢幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に｣現れるその日まで、荒れ野で過ごしていた。それは、ルカ３章２節&thinsp;｢神のことばが･･･ザカリヤの子ヨハネに臨んだ｣と、神からの召しが、直接臨むのを待ち望む為に、である。
　何故ならバプテスマのヨハネは､神が立て続けて来られた預言者たちが《 代々受け継いで語り続けて来たメシア待望 》の実現の為に､《 自らが組み込まれているという事実 》に畏怖の念を抱き、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。実に、マタイ１１章１０、１１節&thinsp;｢この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした･･･｣との、主イエスからのおことばは最大の賛辞であり、彼がその使命の重大性を自覚せざるを得なくされた所以を見る。
　従ってバプテスマのヨハネは、※父であるザカリヤからの、ルカ１章７６節&thinsp;｢あなたこそ･･･預言者と呼ばれる｣は、神からの直接的ことばなくして成し得ないとし､《 世俗的なものから自らを隔離させ、神の語られるところに耳をそばだてよう 》と、荒れ野に退くようにされた。荒れ野の意味するメッセージは、彼が、６節&thinsp;｢らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた｣という、極めてシンプルな、健康的な生活に通じる。
　もし誰かが、バプテスマのヨハネは単なる狂信ではないか? 人間的な禁欲主義者ではないか? といった見方をするなら、その人は決して測り知れない重責を持った人の心境が理解出来ないからではないか? 神からの招きを前に、身震いする程の厳粛な受け止めが理解出来ないからではないか?
　その現れが極端であればある程､《 それは神からの召しというものへの、責任を感じる真面目さ 》と見るべきではないか?
　第二列王５章２６節&thinsp;｢今は（国難を意識して）金を受け、衣服を受け、･･･羊や牛、男女の奴隷を｣受けるその時だろうかと、貪欲なゲハジを咎めたのは神の人エリシャだ。

② 罪の赦しに導く、｢悔い改めのバプテスマ｣を伝えて（４節）、｢（力ある主イエスが）私の後に来られます。私には、かがんで･･･（履物の）ひもを解く資格もありません。私は･･･水でバプテスマを授けましたが、･･･聖霊によってバプテスマをお授けになります｣と証言しているところに見る（７、８節）《 自らの分をわきまえる、謙遜な霊的資質 》。

　この姿勢こそ、３節で※神が言われた、荒れ野で｢叫ぶ者｣の意。
　主イエスは、｢仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の･･･代価として、自分のいのちを与えるために来た｣、と言われた。しもべとしてキリストに仕える者も又、履物の｢ひもを解く資格も｣ない、奴隷以下だとする《 この自覚こそ、仕える者として相応しい 》ではないか!!

※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたい。
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<!-- 校閲が終わりました。2023/02/21  10:52  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章２～８節<br /><br />　先週は、主の先駆けとして使者を遣わすとの預言を語るのに、２節&thinsp;｢預言者イザヤの書に･･･｣と書き出しながらも、『マラキ』を引用した後の『イザヤ』の引用だった点に注目した。<br />　それは、救い主にまつわる預言がちりばめられている預言と言えば、先ずイザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだからでは? イエス･キリストの誕生から始まるご生涯の全貌の預言があり、特に４２～５３章､《 主のしもべの歌の中でも、５３章の受難の歌は顕著である 》。<br />　しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、『マラキ』の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 実際、先駆けとしての使者を遣わすとの見逃せない記事が二つあり、その一つが引用されている。<br />　マラキの Message は紀元前４４０年頃のことで、新約時代を迎えるまでの約４00年間、聖書の空白時代にこのまま入ることに。<br />　これらの引用聖句は、｢神の子、イエス･キリストの福音｣がどのような性質のものであるかを伝えている。福音は･･･<br /><br />ⅰ ｢見よ｣と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。<br /><br />ⅱ ｢あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ｣と、人々が福音を受けるよう備えられる必要があること。<br /><br />ⅲ ｢その通りに｣と、その初めは創世記３章１５節に遡るが、初めの人の違反以来、４０００年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た、神の計画の成就であること。<br /><br />※ いよいよ語られる福音の啓示に謙虚に耳を傾けたいと!!<br /><br /><br />　この朝は、３d、４節&thinsp;｢そのとおりに、バプテスマのヨハネが･･･現れ｣たという記事に学びたい。<br />　前回、３節c&thinsp;｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣の聖句をもって、お互いは人々の魂が､《 主を受け入れやすい霊的状態に備えられるように、心を耕す手助けをすべき 》と学んだが、その実際を、荒れ野で｢叫ぶ者｣として派遣され、｢主の通られる｣その道に生きたバプテスマのヨハネに学びたい。<br />　言うまでもなくこの召しは､《 バプテスマのヨハネに託された事業 》だったからだ。※但し、復活の主イエスが昇天直前、弟子たちに、使徒１章８節&thinsp;｢聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土･･･地の果てまで、<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">わたしの証人（殉教、マータ･その血をもって証言する）</strong>となります｣と宣言されたように、主の弟子であるならば、この召しに生きたバプテスマのヨハネの姿勢に学ばなければならない。 <br /><br />① ｢ヨハネが<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">･･･現れ｣た４節aに見る､神への畏怖とその信仰を。</strong><br /><br />　バプテスマのヨハネは、ルカ１章８節から１７節まで、｢<strong style="font-size:12px;letter-spacing:0.025em;color:#676767;">１７節 </strong>※彼はエリヤの霊と力で･･･歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに･･･、主のために、整えられた民を用意します｣と、主の宮に仕える父･ザカリヤへの告知通り、生を受けた。しかし、ユダヤ社会における特権あるその立場を辞して、父から聞いた使命、７６、７７節&thinsp;｢幼子よ、あなたこそ･･･預言者と呼ばれる･･･｣を受け留め、遂に、８０節&thinsp;｢幼子は成長し、その霊は強くなり、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">イスラエルの民の前に｣現れるその日まで、荒れ野で過ごしていた。</strong></span>それは、ルカ３章２節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;">神のことばが･･･ザカリヤの子ヨハネに臨んだ</span>｣と、神からの召しが、直接臨むのを待ち望む為に、である。<br />　何故ならバプテスマのヨハネは､神が立て続けて来られた預言者たちが《 代々受け継いで語り続けて来たメシア待望 》の実現の為に､《 自らが組み込まれているという事実 》に畏怖の念を抱き、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。実に、マタイ１１章１０、１１節&thinsp;｢この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした･･･｣との、主イエスからのおことばは<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">最大の賛辞</strong></span>であり、彼がその使命の重大性を自覚せざるを得なくされた所以を見る。<br />　従ってバプテスマのヨハネは、※父であるザカリヤからの、ルカ１章７６節&thinsp;｢あなたこそ･･･預言者と呼ばれる｣は、神からの直接的ことばなくして成し得ないとし､《 世俗的なものから自らを隔離させ、神の語られるところに耳をそばだてよう 》と、荒れ野に退くようにされた。<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">荒れ野の意味するメッセージは、</strong>彼が、６節&thinsp;｢らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた｣という、極めてシンプルな、健康的な生活に通じる。</span><br />　もし誰かが、バプテスマのヨハネは単なる狂信ではないか? 人間的な禁欲主義者ではないか? といった見方をするなら、その人は決して測り知れない重責を持った人の心境が理解出来ないからではないか? 神からの招きを前に、身震いする程の厳粛な受け止めが理解出来ないからではないか?<br />　その現れが極端であればある程､《 それは神からの召しというものへの、責任を感じる真面目さ 》と見るべきではないか?<br />　第二列王５章２６節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">今は（国難を意識して）</strong></span>金を受け、衣服を受け、･･･羊や牛、男女の奴隷を｣<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">受けるその時だろうか</strong></span>と、貪欲なゲハジを咎めたのは神の人エリシャだ。<br /><br />② 罪の赦しに導く、｢悔い改めのバプテスマ｣を伝えて（４節）、｢（力ある主イエスが）私の後に来られます。私には、かがんで･･･（履物の）ひもを解く資格もありません。私は･･･水でバプテスマを授けましたが、･･･聖霊によってバプテスマをお授けになります｣と証言しているところに見る（７、８節）<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">《 自らの分をわきまえる、謙遜な霊的資質 》</strong>。<br /><br />　この姿勢こそ、３節で※神が言われた、荒れ野で｢叫ぶ者｣の意。<br />　主イエスは、｢仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の･･･代価として、自分のいのちを与えるために来た｣、と言われた。しもべとしてキリストに仕える者も又、履物の｢ひもを解く資格も｣ない、奴隷以下だとする《 この自覚こそ、仕える者として相応しい 》ではないか!!<br /><br />※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたい。</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　３</title>
      <pubDate>Tue, 07 Feb 2023 18:32:05 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章１～３節　先週は、晩年のペテロに仕えたマルコが、ペテロの殉教後ローマに残り､《 ローマ人に向けて 》書いた福音書の冒頭、１章１節で《 要約を伝えている内容 》に学んだ。ユダヤ人が対象の『マタイ』では冒頭に系図というものが必要であったが、ローマ人の関心はそこにはなく、【その人が何をした人なのか】、にあることから、主の行われた力ある奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的･闘争的な勝利を得る者ではなく、謙虚なし..</description>
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マルコの福音書１章１～３節

　先週は、晩年のペテロに仕えたマルコが、ペテロの殉教後ローマに残り､《 ローマ人に向けて 》書いた福音書の冒頭、１章１節で《 要約を伝えている内容 》に学んだ。ユダヤ人が対象の『マタイ』では冒頭に系図というものが必要であったが、ローマ人の関心はそこにはなく、【その人が何をした人なのか】、にあることから、主の行われた力ある奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的･闘争的な勝利を得る者ではなく、謙虚なしもべとしての勝利された主イエスにあったことから、※『マルコの福音書』鍵となる聖句は１０章４５節。当時の栄華を極めたローマ帝国にとって、何ら魅力でもなく、蔑みの対象に過ぎない形でこの書は世に出た。

ⅰ イエスは｢神の子｣であると。

　ルカ１章３５節【処女降誕による誕生】に始まり、マルコ１章１１節【洗礼を受けられた時の祝福】があり、３章１１節【悪い霊でさえも祝福を告げ】、１４章３６節【アバ、父よ、･･･】との祈り。同じく１４章６１～６４節が【捕縛後の裁判での死刑判決の決め手】となり、１５章３４節&thinsp;｢わが神、わが神、･･･｣との祈りは、３７節で息を引き取られる時、ルカ２３章４６節【わたしの霊を･･･ゆだねます】と。１５章３８、３９節&thinsp;｢本当に神の子であった｣と百人隊長が告白!!

ⅱ ｢神の子｣であるイエスが、キリストであると。
　《 しもべとしてのご生涯 》、ピリピ２章６～８節はその解説。従って、マルコの鍵句が《 １０章４２～４５節〈この世の権力者たち〉のようではなく、｢しもべになりなさい。人の子も･･･自分のいのちを与えるため｣ 》であると!!

※ イエス･キリストご自身の《 しもべとしてのご生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたいと。


　この朝は、人の子となられた｢神の子、イエス･キリスト｣をこの世が迎えられるようにと、先駆けて、｢わたしの使いをあなたの前に遣わす･･･｣と預言されていた記事に学びたい。
　マルコは２節で、｢預言者イザヤの書にこのように書かれている｣と書き出しながら、｢わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える｣と、『マラキ』３章１節の聖句を引用し、その後イザヤの聖句をと、３節&thinsp;｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣と、挿入している。１節で『福音書』の要約を端的に伝えながら本文に入って行こうとした時、主イエスに関する預言と言えば、先ず、イザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだったと?
　何故ならイザヤ書には、主イエスにまつわる預言がちりばめられているからだ。イザヤ９章１節から、｢苦しみのあったところに闇がなくなる。･･･６節 ※ひとりのみどりごが私たちのために生まれる･･･｣、１１章１節&thinsp;｢エッサイの根株から新芽が生え･･･｣と、《 イエス･キリストの誕生とそのご生涯の全貌についての預言 》があり、４２章１節から、｢わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者･･･｣、５３章&thinsp;｢３節 ※彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、･･･７節 ※痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。･･･｣《 主のしもべの歌の中でも、特に親しまれているのがこの５３章の受難の歌 》と。

　イザヤは､《 希望の預言者 》と呼ばれていた。
　アッシリアが北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも数々の脅かしをもって迫るも、遂にはバビロンによって滅ぼされるのであるが、そのバビロンがいよいよ南ユダの侵略を講じて来る情勢でのこと。王の悪政によって社会的にも宗教的にも腐敗の一途を辿る中、イザヤは《 メシアの待望に国民を導くべく、命を懸ける 》。しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、マラキ書の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 確かに、主の先駆けとして預言されていた記事として、見逃せない《 重要な記事 》が『マラキ』には二度出ている。
　一つは、マルコ１章２節bであるが、マラキ３章１節&thinsp;｢見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に（わたしが行く前に）道を備える。あなたがたが尋ね求めている（待望している）主が、突然、その神殿に来る。･･･主は言われる｣。今一つは、４章５、６節&thinsp;｢わたしは、主の･･･日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼす（破滅をもって打つ）ことのないようにするためである｣。
　マラキは、【エズラとネヘミヤと同時代の預言者で、七十年間に及ぶバビロン捕囚を経験し、三度にわたるエルサレムへの帰還の旅を経て、又してもの霊的･道徳的な堕落】という時代的背景に在って、絶望的な南ユダに《 神の愛（マラキ１章２節）を伝えては悔い改めを迫り、神に立ち返るようにと、やがて来たるメシアを待望するよう導くべく 》神と民とに仕えた人物。
　マラキ３章１節の約束は、２章１７節&thinsp;｢あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちが疲れさせたのか。』･･･あなたがたが『悪を行う者もみな･･･主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか』と言うことによってだ｣、とのやり取りを受けている。預言者に対する反抗的態度は、即、神への横柄さになるが、彼らにやがての主の計画を伝え、警告している。このマラキの Message は紀元前４４０年頃のことで、新約時代を迎えるまで、聖書の空白時代にこのまま入ることになる。マラキの預言を伝えたマルコが※次に引用した３節は、イザヤ４０章３節&thinsp;｢荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ｣である。
　これらの引用聖句は、｢神の子、イエス･キリストの福音｣がどのような性質のものであるかを伝えている。福音は･･･

① ｢見よ･･･｣と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落し、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。

② ｢あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ｣と、人々が自ら受けるのに備える必要があること。

③ ｢そのとおりに｣と締め括り、その初めは、創世記３章１５節まで遡るが、初めの人の違反以来、４０００年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た神の計画の成就であること。

※ 人を愛する神の忍耐を覚えつつ、謙虚に耳を傾けたい!!
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      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/02/07  18:34  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章１～３節<br /><br />　先週は、晩年のペテロに仕えたマルコが、ペテロの殉教後ローマに残り､《 ローマ人に向けて 》書いた福音書の冒頭、１章１節で《 要約を伝えている内容 》に学んだ。ユダヤ人が対象の『マタイ』では冒頭に系図というものが必要であったが、ローマ人の関心はそこにはなく、【その人が何をした人なのか】、にあることから、主の行われた力ある奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的･闘争的な勝利を得る者ではなく、謙虚なしもべとしての勝利された主イエスにあったことから、※『マルコの福音書』鍵となる聖句は１０章４５節。当時の栄華を極めたローマ帝国にとって、何ら魅力でもなく、蔑みの対象に過ぎない形でこの書は世に出た。<br /><br />ⅰ イエスは｢神の子｣であると。<br /><br />　ルカ１章３５節【処女降誕による誕生】に始まり、マルコ１章１１節【洗礼を受けられた時の祝福】があり、３章１１節【悪い霊でさえも祝福を告げ】、１４章３６節【アバ、父よ、･･･】との祈り。同じく１４章６１～６４節が【捕縛後の裁判での死刑判決の決め手】となり、１５章３４節&thinsp;｢わが神、わが神、･･･｣との祈りは、３７節で息を引き取られる時、ルカ２３章４６節【わたしの霊を･･･ゆだねます】と。１５章３８、３９節&thinsp;｢本当に神の子であった｣と百人隊長が告白!!<br /><br />ⅱ ｢神の子｣であるイエスが、キリストであると。<br />　《 しもべとしてのご生涯 》、ピリピ２章６～８節はその解説。従って、マルコの鍵句が《 １０章４２～４５節〈この世の権力者たち〉のようではなく、｢しもべになりなさい。人の子も･･･自分のいのちを与えるため｣ 》であると!!<br /><br />※ イエス･キリストご自身の《 しもべとしてのご生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたいと。<br /><br /><br />　この朝は、人の子となられた｢神の子、イエス･キリスト｣をこの世が迎えられるようにと、先駆けて、｢わたしの使いをあなたの前に遣わす･･･｣と預言されていた記事に学びたい。<br />　マルコは２節で、｢預言者イザヤの書にこのように書かれている｣と書き出しながら、｢わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える｣と、『マラキ』３章１節の聖句を引用し、その後イザヤの聖句をと、３節&thinsp;｢主の通られる道をまっすぐにせよ｣と、挿入している。１節で『福音書』の要約を端的に伝えながら本文に入って行こうとした時、<span style="color:#9B3C8F;">主イエスに関する預言と言えば、先ず、イザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだったと?<br />　<strong style="letter-spacing:0.025em;">何故ならイザヤ書には、主イエスにまつわる預言がちりばめられているからだ。</strong></span>イザヤ９章１節から、｢苦しみのあったところに闇がなくなる。･･･<strong style="font-size:12px;letter-spacing:0.025em;color:#676767;">６節 </strong>※ひとりのみどりごが私たちのために生まれる･･･｣、１１章１節&thinsp;｢エッサイの根株から新芽が生え･･･｣と、《 イエス･キリストの誕生とそのご生涯の全貌についての預言 》があり、４２章１節から、｢わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者･･･｣、５３章&thinsp;｢<strong style="font-size:12px;letter-spacing:0.025em;color:#676767;">３節 </strong>※彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、･･･<strong style="font-size:12px;letter-spacing:0.025em;color:#676767;">７節 </strong>※痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。･･･｣《 主のしもべの歌の中でも、特に親しまれているのがこの５３章の受難の歌 》と。<br /><br />　イザヤは､《 希望の預言者 》と呼ばれていた。<br />　アッシリアが北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも数々の脅かしをもって迫るも、遂にはバビロンによって滅ぼされるのであるが、そのバビロンがいよいよ南ユダの侵略を講じて来る情勢でのこと。王の悪政によって社会的にも宗教的にも腐敗の一途を辿る中、イザヤは《 メシアの待望に国民を導くべく、命を懸ける 》。<span style="color:#9B3C8F;">しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、マラキ書の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 確かに、主の先駆けとして預言されていた記事として、見逃せない《 重要な記事 》が『マラキ』には二度出ている。</span><br />　<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">一つは、</strong>マルコ１章２節bであるが、マラキ３章１節&thinsp;｢見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に（わたしが行く前に）道を備える。あなたがたが尋ね求めている（待望している）主が、突然、その神殿に来る。･･･主は言われる｣。<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">今一つは、</strong>４章５、６節&thinsp;｢わたしは、主の･･･日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼす（破滅をもって打つ）ことのないようにするためである｣。<br />　マラキは、【エズラとネヘミヤと同時代の預言者で、七十年間に及ぶバビロン捕囚を経験し、三度にわたるエルサレムへの帰還の旅を経て、又してもの霊的･道徳的な堕落】という時代的背景に在って、絶望的な南ユダに《 神の愛（マラキ１章２節）を伝えては悔い改めを迫り、神に立ち返るようにと、やがて来たるメシアを待望するよう導くべく 》神と民とに仕えた人物。<br />　マラキ３章１節の約束は、２章１７節&thinsp;｢あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちが疲れさせたのか。』･･･あなたがたが『悪を行う者もみな･･･主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか』と言うことによってだ｣、とのやり取りを受けている。預言者に対する反抗的態度は、即、神への横柄さになるが、彼らにやがての主の計画を伝え、警告している。このマラキの Message は紀元前４４０年頃のことで、新約時代を迎えるまで、聖書の空白時代にこのまま入ることになる。マラキの預言を伝えたマルコが※次に引用した３節は、イザヤ４０章３節&thinsp;｢荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ｣である。<br />　これらの引用聖句は、<span style="color:#9B3C8F;">｢神の子、イエス･キリストの福音｣がどのような性質のものであるかを伝えている。</span><strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">福音は･･･</strong><br /><br />① ｢見よ･･･｣と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落し、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。<br /><br />② ｢あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ｣と、人々が自ら受けるのに備える必要があること。<br /><br />③ ｢そのとおりに｣と締め括り、その初めは、創世記３章１５節まで遡るが、初めの人の違反以来、４０００年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た神の計画の成就であること。<br /><br />※ 人を愛する神の忍耐を覚えつつ、謙虚に耳を傾けたい!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/497521416.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　２</title>
      <pubDate>Fri, 27 Jan 2023 10:02:01 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１章１節　先週は、『マルコの福音書』の連講を始めるに当たって、先ず《 記者マルコ 》に学んで Message とした。周知の通り、主の十二弟子ではないが、その一人ではと思わせる生彩に富んだ内容である。彼が、晩年の使徒ペテロと行動を共にする日々、しっかりと聞かされていたからであり､《 マルコの福音書は本質的にペテロの回想録 》とも言われている。　このマルコという人物を、『使徒の働き』に見た。１２章･使徒ヤコブの殉教後、捕縛されたペテロの救出をと、マルコの実家はその..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１章１節

　先週は、『マルコの福音書』の連講を始めるに当たって、先ず《 記者マルコ 》に学んで Message とした。周知の通り、主の十二弟子ではないが、その一人ではと思わせる生彩に富んだ内容である。彼が、晩年の使徒ペテロと行動を共にする日々、しっかりと聞かされていたからであり､《 マルコの福音書は本質的にペテロの回想録 》とも言われている。
　このマルコという人物を、『使徒の働き』に見た。１２章･使徒ヤコブの殉教後、捕縛されたペテロの救出をと、マルコの実家はその祈りの場だった。１３章･パウロの第一次伝道旅行に助手として加わるも、途中から離脱。１５章･二年後、第二次伝道旅行の際、パウロの同行者とは認められず、バルナバとキプロス島へ。１０年後、２８章･パウロとの｢二年間｣の獄中生活を経て、釈放後はペテロと行動を共にし､《 小アジアに通訳も兼ねながら 》伝道に携わった（第一ペテロ１章）。
　これらによって《 マルコの、伝道の表舞台に引き抜かれた経緯 》を見たが、１４章５１、５２節、彼を知る上で見逃せない聖句として､《 そっと自らを忍ばせているところ 》に注目した。
　この様子は、ゲツセマネからさほど遠くはない、自らの寝床で異様なざわめきを感じた時の咄嗟の行動と考えられるが、若かったマルコにも、主との接点があったと知り感動する。　
　マルコは、ペテロから聞かされる中で､《 ペテロも含めた十二弟子たちの裏切りの事実 》を記録しながら、人ごとではなくなったと思われる。自らの内側から湧き出る､《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは?

※ 第二ペテロ１章２１節&thinsp;｢聖霊に動かされた人たち｣が語った福音書の学びから、更に深く、主をと!!


　『マルコの福音書』連講第１回では、これまで親しんで来た『使徒の働き』に登場していたマルコの記憶が新しいこともあり、先ず、記者としてのマルコの人となりに学んだが、この朝は、｢神の子、イエス･キリストの福音のはじめ｣、１章１節に『マルコの福音書』の特色を見て、本文に入って行きたい。
　四つの福音書の中でも『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』は比較的並行記事が多く、同じ出来事でも三者三様、それぞれの個性を用いられる聖霊によって、歴史的事実が豊かに伝えられている。
　因みに、『ヨハネ』だけは趣が異なっており、三つの福音書には記載のない記事が多いことから、補足的であり、出来事を神学上の、霊の目をもって解説しているという特徴がある。
　晩年のペテロに伴うようにして教会に仕えたマルコは、ペテロの殉教後、ローマに残り､《 ローマ人に向けて 》福音書を書いたとされている。このことはマルコの福音書の冒頭で、《 主題を単刀直入 》に伝えている内容で分かる。
　因みに、『マタイ』の１章１節で、｢アブラハムの子、ダビデの子、イエス･キリストの系図｣から始まっているのは、系図を好み、系図を信頼するユダヤ人が対象だから、という風に。救い主を待ち望むユダヤ人には必要不可欠な導入であり、旧約聖書で語られている、預言成就の救い主であるとの宣言が目的だったから。
　しかし、ローマ人の関心は系図、即ち【その人が何処から来たのか】ということより【その人が何をしたのか】、にあることから、主が行われた力あるみわざ、奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的･闘争的な勝利を得る者ではなく、目を見張るほどの謙虚さを持っての力、従順なしもべとしての勝利された主イエスにある。
　従って、『マルコの福音書』の鍵句は、１０章４５節&thinsp;｢人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のため･･･自分のいのちを与えるために来たのです｣、である。ある意味で、当時の栄華を極める世界帝国ローマにとっては、何ら魅力的とは到底見なし得ない、蔑みの対象に過ぎない形をもって、この福音書は世に出ることに。
　この事実を、１章１節の聖句に学んで Message としたい。
　１章１節は、『マルコの福音書』の内容の要約である。

① イエスは｢神の子｣であると。

　天の使いがイエスの誕生を伝えた言葉に明確。ルカ１章３５節&thinsp;｢聖霊があなたの上に臨み、･･･力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます｣と〈処女降誕という〉特別な誕生に見る。
　マルコ１章１１節&thinsp;｢すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』｣／悪い霊でさえも恐れひれ伏して、３章１１節&thinsp;｢あなたは神の子です｣と。
　主がゲツセマネで祈られた、１４章３６節&thinsp;｢アバ、父よ、･･･あなたがお望みになることが行われますように。｣／捕縛後の裁判では、６１、６２節&thinsp;｢『おまえは、･･･キリストなのか。』そこでイエスは･･･『わたしが、それです。』｣と宣言され、遂に６３、６４節で、｢『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』･･･彼らは･･･イエスは死に値すると決めた｣のだ。
　又、十字架の上で、１５章３４節&thinsp;｢わが神、わが神、･･･｣と祈られ、３７節で息を引き取られる時も、神の子としての確信を貫かれた。ルカ２３章４６節&thinsp;｢父よ、わたしの霊を･･･ゆだねます｣と。主のそのお姿を目撃した百人隊長は、１５章３８、３９節&thinsp;｢本当に神の子であった｣と告白するに至ったとは!! マルコが福音書の要約を先ず､《 イエスは神の子 》と掲げた姿勢に､《 彼が弱い者から強い者とされた、その信仰の証し 》を見る。

② ｢神の子｣であるイエスが、キリストであると。

　神の子であるイエスは､《 マタイ１章２１節&thinsp;｢ご自分の民をその罪からお救いになる｣ 》キリスト、すなわち《 メシア･油注がれた者 》で､《 人間として、この神の子がお生まれになられた 》のだとの宣言。
　ピリピ２章６～８節&thinsp;｢〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈神のかたち〉であられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ･･･〈人間としてお生まれになりました〉｣とは!! 驚くべき《 しもべとしての謙遜のご生涯 》を送られた。従って、マルコの鍵句は《 １０章４２～４５節〈この世の権力者たち〉のようではなく、｢しもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるため･･･自分のいのちを与えるため･･･｣ 》であると!!

※ イエス･キリストご自身の､《 しもべとして送られた生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたい。
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/01/27  10:04  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１章１節<br /><br />　先週は、『マルコの福音書』の連講を始めるに当たって、先ず《 記者マルコ 》に学んで Message とした。周知の通り、主の十二弟子ではないが、その一人ではと思わせる生彩に富んだ内容である。彼が、晩年の使徒ペテロと行動を共にする日々、しっかりと聞かされていたからであり､《 マルコの福音書は本質的にペテロの回想録 》とも言われている。<br />　このマルコという人物を、『使徒の働き』に見た。１２章･使徒ヤコブの殉教後、捕縛されたペテロの救出をと、マルコの実家はその祈りの場だった。１３章･パウロの第一次伝道旅行に助手として加わるも、途中から離脱。１５章･二年後、第二次伝道旅行の際、パウロの同行者とは認められず、バルナバとキプロス島へ。１０年後、２８章･パウロとの｢二年間｣の獄中生活を経て、釈放後はペテロと行動を共にし､《 小アジアに通訳も兼ねながら 》伝道に携わった（第一ペテロ１章）。<br />　これらによって《 マルコの、伝道の表舞台に引き抜かれた経緯 》を見たが、１４章５１、５２節、彼を知る上で見逃せない聖句として､《 そっと自らを忍ばせているところ 》に注目した。<br />　この様子は、ゲツセマネからさほど遠くはない、自らの寝床で異様なざわめきを感じた時の咄嗟の行動と考えられるが、若かったマルコにも、主との接点があったと知り感動する。　<br />　マルコは、ペテロから聞かされる中で､《 ペテロも含めた十二弟子たちの裏切りの事実 》を記録しながら、人ごとではなくなったと思われる。自らの内側から湧き出る､《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは?<br /><br />※ 第二ペテロ１章２１節&thinsp;｢聖霊に動かされた人たち｣が語った福音書の学びから、更に深く、主をと!!<br /><br /><br />　『マルコの福音書』連講第１回では、これまで親しんで来た『使徒の働き』に登場していたマルコの記憶が新しいこともあり、先ず、記者としてのマルコの人となりに学んだが、この朝は、｢神の子、イエス･キリストの福音のはじめ｣、１章１節に『マルコの福音書』の特色を見て、本文に入って行きたい。<br />　四つの福音書の中でも『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』は比較的並行記事が多く、同じ出来事でも三者三様、それぞれの個性を用いられる聖霊によって、歴史的事実が豊かに伝えられている。<br />　因みに、『ヨハネ』だけは趣が異なっており、三つの福音書には記載のない記事が多いことから、補足的であり、出来事を神学上の、霊の目をもって解説しているという特徴がある。<br />　晩年のペテロに伴うようにして教会に仕えたマルコは、ペテロの殉教後、ローマに残り､《 ローマ人に向けて 》福音書を書いたとされている。このことはマルコの福音書の冒頭で、《 主題を単刀直入 》に伝えている内容で分かる。<br />　因みに、『マタイ』の１章１節で、｢アブラハムの子、ダビデの子、イエス･キリストの系図｣から始まっているのは、系図を好み、系図を信頼するユダヤ人が対象だから、という風に。救い主を待ち望むユダヤ人には必要不可欠な導入であり、旧約聖書で語られている、預言成就の救い主であるとの宣言が目的だったから。<br />　しかし、ローマ人の関心は系図、即ち【その人が何処から来たのか】ということより【その人が何をしたのか】、にあることから、主が行われた力あるみわざ、奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的･闘争的な勝利を得る者ではなく、<span style="color:#9B3C8F;">目を見張るほどの謙虚さを持っての力、従順な<strong style="letter-spacing:0.025em;"></strong>しもべとしての勝利された主イエス</strong></span>にある。<br />　従って、『マルコの福音書』の鍵句は、１０章４５節&thinsp;｢人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のため･･･自分のいのちを与えるために来たのです｣、である。ある意味で、当時の栄華を極める世界帝国ローマにとっては、何ら魅力的とは到底見なし得ない、蔑みの対象に過ぎない形をもって、この福音書は世に出ることに。<br />　この事実を、１章１節の聖句に学んで Message としたい。<br />　１章１節は、『マルコの福音書』の内容の要約である。<br /><br />① イエスは｢神の子｣であると。<br /><br />　天の使いがイエスの誕生を伝えた言葉に明確。ルカ１章３５節&thinsp;｢聖霊があなたの上に臨み、･･･力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます｣と〈処女降誕という〉特別な誕生に見る。<br />　マルコ１章１１節&thinsp;｢すると天から声がした。『<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">あなたはわたしの愛する子。</strong>わたしはあなたを喜ぶ。』｣／悪い霊でさえも恐れひれ伏して、３章１１節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">あなたは神の子です</strong>｣と。<br />　主がゲツセマネで祈られた、１４章３６節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">アバ、父よ、</strong>･･･あなたがお望みになることが行われますように。｣／捕縛後の裁判では、６１、６２節&thinsp;｢『おまえは、･･･キリストなのか。』そこでイエスは･･･『<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">わたしが、それです。</strong>』｣と宣言され、遂に６３、６４節で、｢『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』･･･彼らは･･･イエスは死に値すると決めた｣のだ。<br />　又、十字架の上で、１５章３４節&thinsp;｢わが神、わが神、･･･｣と祈られ、３７節で息を引き取られる時も、神の子としての確信を貫かれた。ルカ２３章４６節&thinsp;｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">父よ、</strong>わたしの霊を･･･ゆだねます｣と。主のそのお姿を目撃した百人隊長は、１５章３８、３９節&thinsp;｢本当に<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神の子</strong>であった｣と告白するに至ったとは!! マルコが福音書の要約を先ず､《 イエスは神の子 》と掲げた姿勢に､《 彼が弱い者から強い者とされた、その信仰の証し 》を見る。<br /><br />② ｢神の子｣であるイエスが、キリストであると。<br /><br />　神の子であるイエスは､《 マタイ１章２１節&thinsp;｢ご自分の民をその罪からお救いになる｣ 》キリスト、すなわち《 メシア･油注がれた者 》で､《 人間として、この神の子がお生まれになられた 》のだとの宣言。<br />　ピリピ２章６～８節&thinsp;｢〔<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">キリスト</strong>は〕、<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神</strong>と本質的に一つ〔<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神</strong>が<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神</strong>であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神</strong>のかたち〉であられますが、<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">神</strong>と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、かえって<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">ご自分</strong>をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ･･･〈人間としてお生まれになりました〉｣とは!! 驚くべき《 しもべとしての謙遜のご生涯 》を送られた。従って、マルコの鍵句は《 １０章４２～４５節〈この世の権力者たち〉のようではなく、｢しもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるため･･･自分のいのちを与えるため･･･｣ 》であると!!<br /><br />※ イエス･キリストご自身の､《 しもべとして送られた生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたい。<span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/496864866.html</link>
      <title>聖日礼拝『マルコの福音書』より　１</title>
      <pubDate>Sun, 15 Jan 2023 20:15:06 +0900</pubDate>
            <description>マルコの福音書１４章５１、５２節　先週をもって、７９回に及んだ『使徒の働き』の連講を終えて、今朝から『マルコの福音書』の連講に入る。　今朝は、学びの初めに先ず､《 聖霊の記者として用いられたマルコという人物について 》学んで Message としたい。　久しく『使徒の働き』に親しんで来たお互いの耳に、マルコという人物は記憶に新しい。周知の通り、主の十二弟子ではないが、冒頭から｢神の子、イエス･キリストの福音のはじめ｣と、直ちに《 主の公生涯の始まりを告げる働きの内容 》は、実..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

マルコの福音書１４章５１、５２節

　先週をもって、７９回に及んだ『使徒の働き』の連講を終えて、今朝から『マルコの福音書』の連講に入る。
　今朝は、学びの初めに先ず､《 聖霊の記者として用いられたマルコという人物について 》学んで Message としたい。
　久しく『使徒の働き』に親しんで来たお互いの耳に、マルコという人物は記憶に新しい。周知の通り、主の十二弟子ではないが、冒頭から｢神の子、イエス･キリストの福音のはじめ｣と、直ちに《 主の公生涯の始まりを告げる働きの内容 》は、実際その場に居合わせた者でなければ知ることのない、目撃者の一人として伝えるという、生彩に富んだ記事となっている。
　その理由は、マルコが晩年の使徒ペテロと行動を共にしていたことで、ペテロから細部に至るまで情報を得ていたからである。この事実から、｢マルコの福音書は、本質的にペテロの回想録だ｣とも言われて来ている。
　マルコがどうして使徒ペテロに仕えることになったのかの詳細は分からないが、『使徒の働き』に出て来るマルコの記事から、マルコの生涯をざっと見てみたい。

　使徒ヤコブの殉教後、捕らえられたペテロの救出の為、１２章５節&thinsp;｢教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげ｣、天の使いによって助け出されることになった。１２節&thinsp;｢それが分かったので、ペテロは、マルコ（ギリシア語の名前）と呼ばれているヨハネ（ヘブル語の名前、主は恵み深い、の意）の母マリアの家に行っ｣て、釈放されたことを伝えようと真っ先に駆けつけ向かったのが、教会の為に開放されていた、マルコの実家だった。
　母マリアは、家族を挙げて教会に仕えていたからだ。
　折しも、アンティオキア教会からエルサレム教会への支援献金を届けるために派遣された、２５節&thinsp;｢バルナバ【マルコの叔父】とサウロ｣であったが、｢マルコと呼ばれるヨハネを連れて｣、と、アンティオキア教会に戻る時、マルコも同行することになる。このマルコは、エルサレム教会で｢慰めの子｣と呼ばれるバルナバをおじに持ち、幼い頃から信仰に導かれ、献身を志していたからだと思われる。
　このようなことから、アンティオキア教会から、バルナバとパウロが伝道に派遣されることになった時、１３章５節で彼らは｢マルコと呼ばれるヨハネ｣も助手として連れて行ったと。ところが、キプロス島での凄まじい働きを見てか、１３節&thinsp;｢（キプロス島の）パポスから船出してパンフィリアのペルゲに｣渡った時点で、そこから離れてエルサレムに帰ってしまったとある。
　あくまでも推測でしかないが、マルコのこの離脱は、恐らく宣教に伴う熾烈さに怯えたからではないだろうか?

　二年後、パウロとバルナバが再び伝道旅行に出る際、１５章３６～３９節を見ると、両者はそれぞれの見解を重んじ、マルコは、パウロの宣教に寄せる厳格な姿勢を尊重したバルナバによって（甥の育成にとの重荷から）、キプロス島へ行くことに。しかしその【パウロに退けられた】マルコは、自分の事で激論が交わされた忘れもしない扱いによって信仰に切り込みを入れられ、使徒たちの真剣な伝道姿勢に捕らえられていく。
　それから１０年、どのような経緯によってか、２８章３０、３１節、ローマでの｢二年間｣の第一次幽囚生活に、その名を連ねている。
　ピレモン２４節&thinsp;｢私の同労者･･･マルコ｣、コロサイ４章１０節&thinsp;｢私とともに囚人となっている･･･バルナバのいとこであるマルコ･･･｣とあるのは嬉しいことであり、パウロとは献身を共にしている。

　釈放後のマルコは、ペテロが、第一ペテロ１章１節で｢ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア｣にいる選ばれた人たち宛に書いた手紙に、５章１３節&thinsp;｢あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会（執筆場所から、メソポタミア? エジプト? のバビロンではなく、象徴的バビロン、即ちローマの教会）と、私の子（霊的な意味での）マルコが･･･｣と言っていることから、ペテロの同伴者として、弟子として､《 この小アジアで通訳も兼ねながら 》伝道に携わったと考えられる。
　この密着した期間、マルコはペテロからしっかりと､《 主と共に過ごした歳月の様子 》を聞いたことだろう。こうして導かれた『マルコの福音書』であるから、ペテロの回想録と呼ばれるのではないか!!
　マルコがこの福音書を執筆した時期については、ペテロの殉教後、【パウロと共に、６４年のローマの大火の前後? 又は６７、６８年から、７０年エルサレムの陥落までの間】ではなかったかと。
　《 マルコが、伝道の表舞台に引き抜かれて弟子の一人となったのも 》、エルサレム教会をパウロと共に訪ねた叔父のバルナバからの誘いで、アンティオキア教会に連れて行かれたことに始まったのではあるが、この『マルコの福音書』を学ぶに当たって、マルコを知る上で見逃せない記事を見て、連講第１回目の Message としたい。それは今朝の聖句、※マルコだけが記録している１４章５１、５２節で、｢ある青年｣が、亜麻の衣を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした為、衣を脱ぎ捨てて、裸で逃げることになったと、自らをそっと忍ばせている。ゲツセマネからさほど遠くない自らの寝床で、異様なざわめきと思った時の咄嗟の行動と考えられる。主の十二弟子ではなかった若きマルコにも、主との接点があったことには感動する。
　亜麻の衣を、｢一枚まとっただけ･･･｣には、起き上がった時の慌てた様子が見て取れる。着替える間もなく、寝具を体に巻き付けた状態で飛び出し、｢イエスについて行った｣その心は?
　マルコはペテロから､《 ペテロも含めた十二弟子たちの、裏切りの事実 》を聞いて記録している。５０節&thinsp;｢（ペテロを除く弟子たちは）イエスを見捨てて逃げてしまった｣、そして※ペテロの号泣した場面（ペテロはどのような面持ちでマルコにこの経験を伝えただろう? ）、５４、６６～７２節&thinsp;｢ペテロは、遠くからイエスの後について･･･庭の中にまで入って行った。･･･そして彼は泣き崩れた｣と。
　こうしてマルコは記録しながら、人ごとではなくなり、自らの内側から湧き出てくる《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは? 第一次伝道旅行で、途中から離脱した時にも見せた自らの内的課題を、今は聖霊によって変えられているとの感動をもって。

※ 第二ペテロ１章２１節&thinsp;｢聖霊に動かされた人たちが神から受けて語った｣福音書の学びによって、更に深く、主を!!
<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/01/15  20:17  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">マルコの福音書１４章５１、５２節<br /><br />　先週をもって、７９回に及んだ『使徒の働き』の連講を終えて、今朝から『マルコの福音書』の連講に入る。<br />　今朝は、学びの初めに先ず､《 聖霊の記者として用いられたマルコという人物について 》学んで Message としたい。<br />　久しく『使徒の働き』に親しんで来たお互いの耳に、マルコという人物は記憶に新しい。周知の通り、主の十二弟子ではないが、冒頭から｢神の子、イエス･キリストの福音のはじめ｣と、直ちに《 主の公生涯の始まりを告げる働きの内容 》は、実際その場に居合わせた者でなければ知ることのない、目撃者の一人として伝えるという、生彩に富んだ記事となっている。<br />　<span style="color:#9B3C8F;">その理由は、マルコが晩年の使徒ペテロと行動を共にしていたことで、ペテロから細部に至るまで情報を得ていたからである。この事実から、<strong style="letter-spacing:0.025em;">｢マルコの福音書は、本質的にペテロの回想録だ｣</strong>とも言われて来ている。</span><br />　マルコがどうして使徒ペテロに仕えることになったのかの詳細は分からないが、『使徒の働き』に出て来るマルコの記事から、マルコの生涯をざっと見てみたい。<br /><br />　使徒ヤコブの殉教後、捕らえられたペテロの救出の為、１２章５節&thinsp;｢教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげ｣、天の使いによって助け出されることになった。１２節&thinsp;｢それが分かったので、ペテロは、<span style="color:#9B3C8F;">マルコ（ギリシア語の名前）と呼ばれているヨハネ（ヘブル語の名前、主は恵み深い、の意）の母マリアの家</span>に行っ｣て、釈放されたことを伝えようと真っ先に駆けつけ向かったのが、教会の為に開放されていた、マルコの実家だった。<br />　母マリアは、家族を挙げて教会に仕えていたからだ。<br />　折しも、アンティオキア教会からエルサレム教会への支援献金を届けるために<span style="color:#9B3C8F;">派遣された、２５節&thinsp;｢バルナバ【マルコの叔父】とサウロ｣であったが、｢マルコと呼ばれるヨハネを連れて｣、</span>と、アンティオキア教会に戻る時、マルコも同行することになる。このマルコは、エルサレム教会で｢慰めの子｣と呼ばれるバルナバをおじに持ち、幼い頃から信仰に導かれ、献身を志していたからだと思われる。<br />　このようなことから、アンティオキア教会から、バルナバとパウロが伝道に派遣されることになった時、１３章５節で彼らは｢マルコと呼ばれるヨハネ｣も助手として連れて行ったと。ところが、キプロス島での凄まじい働きを見てか、１３節&thinsp;｢（キプロス島の）パポスから船出してパンフィリアのペルゲに｣渡った時点で、そこから離れてエルサレムに帰ってしまったとある。<br />　あくまでも推測でしかないが、マルコのこの離脱は、恐らく宣教に伴う熾烈さに怯えたからではないだろうか?<br /><br />　二年後、パウロとバルナバが再び伝道旅行に出る際、１５章３６～３９節を見ると、両者はそれぞれの見解を重んじ、マルコは、パウロの宣教に寄せる厳格な姿勢を尊重したバルナバによって（甥の育成にとの重荷から）、キプロス島へ行くことに。しかしその【パウロに退けられた】マルコは、自分の事で激論が交わされた忘れもしない扱いによって信仰に切り込みを入れられ、使徒たちの真剣な伝道姿勢に捕らえられていく。<br />　それから１０年、どのような経緯によってか、２８章３０、３１節、ローマでの｢二年間｣の第一次幽囚生活に、その名を連ねている。<br />　ピレモン２４節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">私の同労者･･･マルコ</strong></span>｣、コロサイ４章１０節&thinsp;｢私とともに囚人となっている･･･<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">バルナバのいとこであるマルコ</strong></span>･･･｣とあるのは嬉しいことであり、パウロとは献身を共にしている。<br /><br />　釈放後のマルコは、ペテロが、第一ペテロ１章１節で｢ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア｣にいる選ばれた人たち宛に書いた手紙に、５章１３節&thinsp;｢あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会（執筆場所から、メソポタミア? エジプト? のバビロンではなく、象徴的バビロン、即ちローマの教会）と、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">私の子（霊的な意味での）マルコ</strong></span>が･･･｣と言っていることから、ペテロの同伴者として、弟子として､《 この小アジアで通訳も兼ねながら 》伝道に携わったと考えられる。<br />　この密着した期間、マルコはペテロからしっかりと､《 主と共に過ごした歳月の様子 》を聞いたことだろう。<span style="color:#9B3C8F;">こうして導かれた『マルコの福音書』であるから、ペテロの回想録と呼ばれるのではないか!!</span><br />　マルコがこの福音書を執筆した時期については、ペテロの殉教後、【パウロと共に、６４年のローマの大火の前後? 又は６７、６８年から、７０年エルサレムの陥落までの間】ではなかったかと。<br />　《 マルコが、伝道の表舞台に引き抜かれて弟子の一人となったのも 》、エルサレム教会をパウロと共に訪ねた叔父のバルナバからの誘いで、アンティオキア教会に連れて行かれたことに始まったのではあるが、この『マルコの福音書』を学ぶに当たって、マルコを知る上で見逃せない記事を見て、連講第１回目の Message としたい。それは今朝の聖句、※マルコだけが記録している<span style="color:#9B3C8F;">１４章５１、５２節で、｢ある青年｣が、亜麻の衣を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした為、衣を脱ぎ捨てて、裸で逃げることになったと、<strong style="letter-spacing:0.025em;">自らをそっと忍ばせている。</strong></span>ゲツセマネからさほど遠くない自らの寝床で、異様なざわめきと思った時の咄嗟の行動と考えられる。主の十二弟子ではなかった若きマルコにも、主との接点があったことには感動する。<br />　亜麻の衣を、｢一枚まとっただけ･･･｣には、起き上がった時の慌てた様子が見て取れる。着替える間もなく、寝具を体に巻き付けた状態で飛び出し、｢イエスについて行った｣その心は?<br />　マルコはペテロから､《 ペテロも含めた十二弟子たちの、裏切りの事実 》を聞いて記録している。５０節&thinsp;｢（ペテロを除く弟子たちは）イエスを見捨てて逃げてしまった｣、そして※ペテロの号泣した場面（ペテロはどのような面持ちでマルコにこの経験を伝えただろう? ）、５４、６６～７２節&thinsp;｢ペテロは、遠くからイエスの後について･･･庭の中にまで入って行った。･･･そして彼は泣き崩れた｣と。<br />　こうしてマルコは記録しながら、人ごとではなくなり、自らの内側から湧き出てくる《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは? 第一次伝道旅行で、途中から離脱した時にも見せた自らの内的課題を、今は聖霊によって変えられているとの感動をもって。<br /><br />※ 第二ペテロ１章２１節&thinsp;｢聖霊に動かされた人たちが神から受けて語った｣福音書の学びによって、更に深く、主を!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>マルコの福音書</category>
      <author>luckyfachan</author>
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      <link>https://igm-kagawa.seesaa.net/article/496026658.html</link>
      <title>聖日礼拝『使徒の働き』より　７９完</title>
      <pubDate>Thu, 05 Jan 2023 12:25:09 +0900</pubDate>
            <description>使徒の働き２８章３０、３１節　先週は、航海に適さなかった三か月をマルタ島で過ごした後、遂に約六か月の旅の終着点であるローマ入りした記事に注目。　ローマを訪ねることについては、ローマ１章８～１５節、１５章２２～２９節に《 未だ見ぬローマのキリスト者を慕う思いと救いへの情熱 》を見て、ローマ入りの感動がどれ程のものであったのかを垣間見た。そこには、会いたいと切望しながらも幾度となく妨げられて来た悲しみの吐露と、切望の理由として彼らとの交わりを、また宣教拡大への思いに言及しているこ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

使徒の働き２８章３０、３１節

　先週は、航海に適さなかった三か月をマルタ島で過ごした後、遂に約六か月の旅の終着点であるローマ入りした記事に注目。
　ローマを訪ねることについては、ローマ１章８～１５節、１５章２２～２９節に《 未だ見ぬローマのキリスト者を慕う思いと救いへの情熱 》を見て、ローマ入りの感動がどれ程のものであったのかを垣間見た。そこには、会いたいと切望しながらも幾度となく妨げられて来た悲しみの吐露と、切望の理由として彼らとの交わりを、また宣教拡大への思いに言及していることに。パウロの念願は叶った。

ⅰ 《 許された一週間、キリスト者同士の互いの間の交わり 》を１４、１５節に。
　３０節、※パウロの｢二年間｣の幽囚生活には、ある程度の自由が許されていたとは言え、囚人の身。従って、こうして信仰の友がいてくれたことで、特別な元気づけを与えられたことは間違いのないこと。パウロの経験した《 互いの間の愛によって生きることは、極めて重要な意味合いを持つ 》と見て実践を!!　

ⅱ 《 機会を与えられての宣教の結果 》を、２３～２８節に。
　拘束の身のパウロは、ユダヤ人の会堂を訪ねられないので、１７～２０節、ユダヤの指導者たちを呼び集め、何故囚人としてローマ入りしたかを説明した。２１、２２節、反応は友好的。
　その後、２３節で精力的に福音を語った※その結果は、２４節。信じようとしなかった人々には、渾身の力を振り絞って、２６～２８節、叱責し、魂への責任を果たす。

※ ２８節&thinsp;｢この救いは、異邦人に･･･｣と、７０年ローマ軍によるエルサレム崩壊によってユダヤ人は捨てられ、再臨まで、福音は異邦人の全世界に運ばれて今に至っている。


　今朝は、２０２０年７月から７８回学んで来た『使徒の働き』連講も、３０、３１節&thinsp;｢パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国･･･主イエス･キリストのことを教えた｣、このおことばをもって最終回となる。
　※実に『使徒の働き』の鍵句、１章８節のお約束の通り、ローマ（その当時の地の果て、地中海沿岸）にまで福音が運ばれて今に至っている、世界宣教の礎を築く《 力である、聖霊ご自身を明らかに示したパウロ 》に注目したい!!
　その為、３０、３１節を学ぶに際してもこれまで同様、その折々の状況を知るのに、パウロの三回に及ぶ各地での伝道の傍ら、誕生した教会教会を励まそうと送られた書簡から情報を得て来たようにしたい。それはこの二年間、｢訪ねて来る人たちをみな迎えて･･･神の国･･･主イエス･キリストのことを教えた｣と同時に書かれたもので､《 エペソ、コロサイ、ピリピ、ピレモン 》からの情報を得てである。
　これらの手紙が獄中書簡と呼ばれるもので、これらから私たちも幽囚生活を送っているパウロを知ることで､《 パウロと教会との有機的繋がりを見つつ、使徒的教会の在り方  》に学び、教会総会に臨みたい。
　先ずは、二年間の幽囚生活を支えた要因の鍵が、書簡冒頭自らを、｢キリスト･イエスの【ための】囚人パウロ｣と伝えた信仰にある。エペソ３章１節、４章１節。ピレモン１節、９節、２３節。
　この自覚は、神と彼との間に、【ネロ、ユダヤ人の陰謀、境遇】による被害者意識の入る余地を皆無としている。
　パウロのこの自覚によって、苦境の中、淡々と過ごすことが出来た。３０、３１節を詳しく訳すると、｢会いに来る人をみな喜び迎え入れ、大胆に〈全く公然と〉、またじゃまされる〈妨害される〉ことなく･･･｣と。

①	 精力的･情熱的に恵みの裡に宣教に励んだこと。

　エペソ６章２１、２２節&thinsp;｢私の様子や私が何をしているかを、あなたがたにも分かってもらうために･･･知らせます。･･･あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです｣と。ピリピ１章１８節&thinsp;｢これからも喜ぶでしょう｣、２章１７、１８節&thinsp;｢あなたがたも喜んでください｣、４章１０節、１１～１４節&thinsp;｢私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました｣。コロサイ４章７～９節&thinsp;｢私の様子は･･･ティキコが、あなたがたに知らせます。･･･様子を知って、心に励ましを受けるためです･･･｣とは､《 聖霊の喜びが漲っている奉仕 》を見る。

② 豊かな極めて貴重な結実があったこと。

　ピリピ１章１２節&thinsp;｢私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです｣と、その実際について、１３～１８節に見る。
a. １３節&thinsp;｢親衛隊【※総督官邸、皇帝の警護に当たる兵士たち】の全員｣に及ぼした福音の影響が、４章２２節&thinsp;｢すべての･･･特にカエサルの･･･人たち【皇帝の家族の一員ではなく、皇帝の多くの宮殿で働く皇室の奴隷を意味する】が、よろしくと言っています｣と、彼らの中に信仰を明白にした人々が起こされたこと。
b. １４節&thinsp;｢兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、･･･確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました｣と、ローマのキリスト者たちに霊的覚醒を与えたこと。
c. １５～１８節と、異なる群れの人々の宣教に刺激を与え、主を知らしめる役割を果たしていること。
　又ピレモン１０節&thinsp;｢獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたい｣、１１、１２節&thinsp;｢彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は･･･｣と、主人ピレモンに不正を働いてローマに逃亡した奴隷のオネシモが、獄中のパウロに会って回心。コロサイ４章９節&thinsp;｢彼は･･･オネシモと一緒に行きます｣とあるのは、パウロの嘆願はピレモンに受け入れられた証。パウロの愛は実った。

③ 《 教会とパウロとの愛による有機的関係による結実 》として見るべきこと。

　パウロが｢少しもはばかることなく、また妨げられることもなく｣貴重な二年間の奉仕をなし終えられたのには、教会の祈りと極めて実際的支援があったことを覚えたい。エペソ６章１８、１９、２０節&thinsp;｢また、私のためにも･･･大胆に知らせることができるように、祈ってください｣、ピリピ４章１５～１８節&thinsp;｢私はすべての物を受けて、満ちあふれています｣と。

※ 教会総会の朝への Message として受け止め従いたい!!
<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<!-- 校閲が終わりました。2023/01/05  12:27  --><br /><div style="text-align:justify;text-justify:inter-ideograph;"><span style="font-size:16.6px;line-height:1.6em;letter-spacing:0em;">使徒の働き２８章３０、３１節<br /><br />　先週は、航海に適さなかった三か月をマルタ島で過ごした後、遂に約六か月の旅の終着点であるローマ入りした記事に注目。<br />　ローマを訪ねることについては、ローマ１章８～１５節、１５章２２～２９節に《 未だ見ぬローマのキリスト者を慕う思いと救いへの情熱 》を見て、ローマ入りの感動がどれ程のものであったのかを垣間見た。そこには、会いたいと切望しながらも幾度となく妨げられて来た悲しみの吐露と、切望の理由として彼らとの交わりを、また宣教拡大への思いに言及していることに。パウロの念願は叶った。<br /><br />ⅰ 《 許された一週間、キリスト者同士の互いの間の交わり 》を１４、１５節に。<br />　３０節、※パウロの｢二年間｣の幽囚生活には、ある程度の自由が許されていたとは言え、囚人の身。従って、こうして信仰の友がいてくれたことで、特別な元気づけを与えられたことは間違いのないこと。パウロの経験した《 互いの間の愛によって生きることは、極めて重要な意味合いを持つ 》と見て実践を!!　<br /><br />ⅱ 《 機会を与えられての宣教の結果 》を、２３～２８節に。<br />　拘束の身のパウロは、ユダヤ人の会堂を訪ねられないので、１７～２０節、ユダヤの指導者たちを呼び集め、何故囚人としてローマ入りしたかを説明した。２１、２２節、反応は友好的。<br />　その後、２３節で精力的に福音を語った※その結果は、２４節。信じようとしなかった人々には、渾身の力を振り絞って、２６～２８節、叱責し、魂への責任を果たす。<br /><br />※ ２８節&thinsp;｢この救いは、異邦人に･･･｣と、７０年ローマ軍によるエルサレム崩壊によってユダヤ人は捨てられ、再臨まで、福音は異邦人の全世界に運ばれて今に至っている。<br /><br /><br />　今朝は、２０２０年７月から７８回学んで来た『使徒の働き』連講も、３０、３１節&thinsp;｢パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国･･･主イエス･キリストのことを教えた｣、このおことばをもって最終回となる。<br />　※実に『使徒の働き』の鍵句、１章８節のお約束の通り、ローマ（その当時の地の果て、地中海沿岸）にまで福音が運ばれて今に至っている、世界宣教の礎を築く《 力である、聖霊ご自身を明らかに示したパウロ 》に注目したい!!<br />　その為、３０、３１節を学ぶに際してもこれまで同様、その折々の状況を知るのに、パウロの三回に及ぶ各地での伝道の傍ら、誕生した教会教会を励まそうと送られた書簡から情報を得て来たようにしたい。それはこの二年間、｢訪ねて来る人たちをみな迎えて･･･神の国･･･主イエス･キリストのことを教えた｣と同時に書かれたもので､《 エペソ、コロサイ、ピリピ、ピレモン 》からの情報を得てである。<br />　これらの手紙が獄中書簡と呼ばれるもので、これらから私たちも幽囚生活を送っているパウロを知ることで､《 パウロと教会との有機的繋がりを見つつ、使徒的教会の在り方  》に学び、教会総会に臨みたい。<br />　<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">先ずは、二年間の幽囚生活を支えた要因の鍵が、</strong>書簡冒頭自らを、｢キリスト･イエスの【ための】囚人パウロ｣と伝えた信仰にある。エペソ３章１節、４章１節。ピレモン１節、９節、２３節。<br />　この自覚は、神と彼との間に、【ネロ、ユダヤ人の陰謀、境遇】による被害者意識の入る余地を皆無としている。</span><br />　パウロのこの自覚によって、苦境の中、淡々と過ごすことが出来た。３０、３１節を詳しく訳すると、｢<strong style="letter-spacing:0.025em;color:#676767;">会いに来る人をみな喜び迎え入れ、</strong>大胆に〈全く公然と〉、またじゃまされる〈妨害される〉ことなく･･･｣と。<br /><br />①	 精力的･情熱的に恵みの裡に宣教に励んだこと。<br /><br />　エペソ６章２１、２２節&thinsp;｢私の様子や私が何をしているかを、あなたがたにも分かってもらうために･･･知らせます。･･･<span style="color:#9B3C8F;">あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです</span>｣と。ピリピ１章１８節&thinsp;｢これからも喜ぶでしょう｣、２章１７、１８節&thinsp;｢あなたがたも喜んでください｣、４章１０節、１１～１４節&thinsp;｢私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました｣。コロサイ４章７～９節&thinsp;｢私の様子は･･･ティキコが、あなたがたに知らせます。･･･様子を知って、<span style="color:#9B3C8F;">心に励ましを受けるためです･･･</span>｣とは､《 聖霊の喜びが漲っている奉仕 》を見る。<br /><br />② 豊かな極めて貴重な結実があったこと。<br /><br />　<span style="color:#9B3C8F;">ピリピ１章１２節&thinsp;｢私の身に起こったことが、かえって<strong style="letter-spacing:0.025em;">福音の前進に役立った</strong>ことを知ってほしいのです｣と、その実際について、１３～１８節に見る。</span><br />a. １３節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">親衛隊</strong></span>【※総督官邸、皇帝の警護に当たる兵士たち】の全員｣に及ぼした福音の影響が、４章２２節&thinsp;｢すべての･･･特に<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">カエサルの･･･人たち</strong></span>【皇帝の家族の一員ではなく、皇帝の多くの宮殿で働く皇室の奴隷を意味する】が、よろしくと言っています｣と、彼らの中に信仰を明白にした人々が起こされたこと。<br />b. １４節&thinsp;｢<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">兄弟たち</strong></span>の大多数は、私が投獄されたことで、･･･確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました｣と、ローマのキリスト者たちに霊的覚醒を与えたこと。<br />c. １５～１８節と、<span style="color:#9B3C8F;"><strong style="letter-spacing:0.025em;">異なる群れの人々</strong></span>の宣教に刺激を与え、主を知らしめる役割を果たしていること。<br />　又ピレモン１０節&thinsp;｢獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたい｣、１１、１２節&thinsp;｢彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は･･･｣と、主人ピレモンに不正を働いてローマに逃亡した奴隷のオネシモが、獄中のパウロに会って回心。コロサイ４章９節&thinsp;｢彼は･･･オネシモと一緒に行きます｣とあるのは、パウロの嘆願はピレモンに受け入れられた証。パウロの愛は実った。<br /><br />③ 《 教会とパウロとの愛による有機的関係による結実 》として見るべきこと。<br /><br />　パウロが｢少しもはばかることなく、また妨げられることもなく｣貴重な二年間の奉仕をなし終えられたのには、教会の祈りと極めて実際的支援があったことを覚えたい。エペソ６章１８、１９、２０節&thinsp;｢また、私のためにも･･･大胆に知らせることができるように、祈ってください｣、ピリピ４章１５～１８節&thinsp;｢私はすべての物を受けて、満ちあふれています｣と。<br /><br />※ 教会総会の朝への Message として受け止め従いたい!!</span></div><br /><a name="more"></a>

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            <category>使徒の働き</category>
      <author>luckyfachan</author>
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