2018年09月26日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 83


ルカの福音書18章35節〜43節

先週は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」ご受難の予告をされ( これで三度目となる )、驚くべきことには、34節 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実に注目した。
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らには分からなくさせていたのだろうか ? この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことである !! と。
彼らが主の弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 といった肉性が優位を占めていたから。
彼らが主から初めてご自身の受難について聞かされた時に取った態度、マタイ 16章22、23節で明瞭。主は、彼に、『 人間の本性に属することを考えている 』 と叱責された。
世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何で ? 主の関心事が何で ? 重荷も分からないという現実。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。
彼は、5節 「ああ、私は・・・」と内的汚れを知って叫んだ時、血潮による清めの霊的経験に導かれ、8節の「だれを・・・」との主の声に触れ、「ここに私がおります・・・」と応えたのだ。

※ 肉性の清めに比例して、主の今日的声を聞き、重荷を共にする者とされるとの事実を覚えて、ここに与りたいと。


今朝は、35節 「イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた」その彼が、遂には、42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救い【詳訳 : 癒され】ました。」という記事に学びたい。主から「あなたの信仰があなたを救いました」と言われた 《 彼の信仰 》 とは ?

@ 主を、38、39節 「ダビデの子」と呼ぶ信仰。

彼はこれまでの主の働きを耳にし、主を「ダビデの子」、即ち、救い主と認めて信仰に立っていた。この「ダビデの子」とはメシアの称号で、旧約・新約共に、この事実を明確にしている。
イザヤ書 9章6、7節 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は 『 不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君 』 と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」/ローマ人への手紙 1章2〜4節 「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と。
この称号は、多くの人々にこの世の王としてのメシアを期待させることにもなっていたが、真に霊的に王なるお方として待望する人々が居た。ヨハネの福音書 7章40〜42節 「・・・キリストはダビデの子孫から・・・出ると、聖書は言っている」と。
彼は、多くの人々が主の働きを見聞きしても主を「ダビデの子孫」であるとは認めず、唯、自分たちのユダヤ国の王としてしか認めない中、このメシア信仰を持って出て来たのだ。主の弟子たちですらこの世的な望みを持って主に従っていたことを考える時、彼の信仰は素晴らしい !!
彼は、「ダビデの子のイエス様」とお呼びすると、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめた」という厳しい状況に置かれたが、何と主はその人々の排斥行為を退け、40節 「立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」。何故ならば、彼のその信仰を喜ばれたからである !!

A 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく 『 ダビデの子よ、私をあわれんでください 』 と叫んだ」とあるように、心無い人々からの非難にもめげず、あきらめず、むしろ「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。

40節 「イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた」ここに、彼の信仰を喜ばれた主のお心を見たが、そうであるのと同時に、41、42節とは、その時 《 連れて来られた彼と主との会話 》 であるが、彼の主を期待する信仰を喜ばれたのを見る。41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」に、「主よ。目が見えるようにしてください。」だった。
彼の生活振りは、35節 「道端に座り、物乞いをしていた」とあるが、このままの生活で良いとは思わなかったのだ。
自らの現状に甘んずることなく、もし主に求めるところを良しとして下さるならばと、積極的に改善を求める意欲である。主が彼の求めに直ちに応じて下さった事実を見る時、彼の〈 求める動機 〉が純潔だったのを見る。ヤコブの手紙 4章2、3節 「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。・・・自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」。
その動機の純潔も、主を「ダビデの子」と信じるまでは、自らの境遇について受け身でしかなく、「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかったのでは ?
しかし主を「ダビデの子」として知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりの最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」のだ。ツァラアトから癒やされた10人の内、癒やされたこと自体を喜んだ9人のユダヤ人ではなく、癒やされたことを感謝する為に戻って来たサマリア人のように( ルカ 17・11〜 )、主の御心に従う生涯に導かれた !!

※  “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい。


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2018年09月21日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 82


ルカの福音書18章31節〜34節

先週は、主が言われた「子どものように」とは相容れない 《 一人の ※ 18節 「指導者」を扱われた扱い 》 に注目した。
主は、18節 「永遠のいのちを受け継ぐ」為に、「何をしたら・・・」と尋ねて来た彼に、「戒めを守りなさい」と言われ、20節では、対人関係における戒めを示された。主の言われた「守りなさい」とは、 《 守れれば良い 》 の意味でではない。 《 戒めによって自らの正体を知り、何が出来る者かではなく、何者か ? 》 を知って謙ることが出来るように、であると。
何と !! 彼はためらいもなく「守ってきました」と言った。主は【マルコ 10章21節 「彼を見つめ、いつくしんで」と】、22節 《 根本的・本質的な欠け 》 を知らせる為、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われた。それは彼が、実は「戒めを守」れてはいない自らを知る必要があったから。
23節 「大変な金持ちだった」彼は、「これを聞いて、非常に悲しんだ」。彼は富に執着し、貧しい者への配慮( 申命記 15章7〜11節 )を好まなかったからだ !!
彼は自らの正体、神の聖前に罪深い者との自覚に立ち、正直に告白するよう促されたが、彼は求めながらも主の許を離れた。もし彼が自らの実情を告白し、謙れば、27節 「人にはできないことが、神にはできる」のだ。

※ これを聞いた弟子たちは、28節 「ご覧ください」と、意気揚々と言って来たが、マタイ 19章30節 「しかし、・・・後にいる多くの者が先になります」の余韻を残されたお心には留意して従いたい、と。


今朝は、エルサレム入りを目前にされた主が、31節 「十二人をそばに呼んで」、ご受難を予告された記事に注目する。
主の予告は、31b〜33節 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲( あざけ )られ、辱( はずかし )められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」だったが、弟子たちの受け止めは、どうだったのだろうか。
受難の予告について聞かされたのは、ここで三度目のこと。
先ずは五つのパンと二匹の魚による奇跡後、弟子たちが主を「神のキリストです」との告白直後、9章21、22節 「するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた」と。
二度目は、変貌山から下りるや、てんかんの少年を癒やした奇跡後、9章44節 「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」と。そしてここで、三度目となる。19章は、エリコに入られた時の出来事になるので、エルサレムまで直線距離で20キロ、残すところ僅かな地点まで、旅が続けられた時のこととなる。
主は、予告の内容は極めて非人道的・理不尽な扱いではあるが 《 預言通りに実現する 》 と明言された。

その預言の代表的記事は 《 イザヤ書 53章、詩篇 22篇 》 であるが、( 今はお開きせずに )ここで考えたいことは、34節a 「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった」という事実である。
驚くべきことではあるが、その理由が、34節b 「彼らにはこのことばが隠されていて話されたことが理解できなかった」からである、とある !!
何故、主の語られていることが、彼らには「隠されて」いたのだろうか ? 何が、主の語られていることを彼らに分からなくさせていたのだろうか ?
この問題の原因を突き止めることは、聖書を手にさせて頂き、主の御心を知りたいと願っている私たちにとっても、賢明なことではないか !!
考えられることは、彼らが主を信じ、弟子として従う生活に入ってはいるものの、心の深い部分において、未だ肉性が優位を占めていることにあるのでは ? 彼らにとって 《 主が、見苦しい死を遂げるなんて、以ての外 》 だったからである。
彼らは、主から初めてご自身の受難について聞かされた時、どのような態度を取ったかを見れば分かる。
マタイの福音書 16章21〜23節に言及されている。
22節 詳訳 「【すると】、ペテロはイエスとひそかに話す為にイエスをわきへ引き寄せて、『 主よ、断じて駄目です。そんなことがあなたに決して起こってはなりません 』 と言って、厳しくイエスを責め〈 非難し 〉始めた」とある。ペテロのこの態度が、どのような動機によるものだったかは、その彼を扱われた主のおことばで明白である。
23節 詳訳 「しかしイエスは【ペテロから】顔を背けて、彼に言われた。『 サタンよ。わたしの後ろに退け。お前はわたしの妨げだ〈 わたしにとって躓( つまず )き、妨害、罠だ 〉。お前は神のご本性【ご性質】に属することではなくて、人間の本性に属することを考えている 』 」とある。
ペテロを初め、弟子たち皆の期待していたことは、使徒の働き 1章6節 「イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」に顕著であり、主が王として君臨される時、栄誉ある立場に着くことだった。

世的にもてはやされることへの執着心が強くなれば、霊的関心は希薄になる。主の今日的み思いが何であるのか ? 主が求めておられることへの関心も、重荷としておられることが何であるのかについても分からないという事なのだ。従って、その肉性の処理に比例して主の御心が分かるようにされる !!
イザヤ書 6章に見られる預言者イザヤの霊的経験で顕著。この記事は、彼の今までの預言者としての献身は何だったのか ? 8節の「だれを・・・」との主の声は新しく、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と応えたのだ。それは彼が、5節 「ああ、私は・・・」と神の聖なる臨在によって自らの汚れを知らされ、告白後、6、7節 「・・・あなたの咎( とが )は取り除かれ、あなたの罪も赦された」との霊的経験に与ったからだ。
一にも二にも、肉性がきよめられ続けることによって、主の語られるところが分かるようにされるというのだ。

※ 主の今日的声に聞ける、重荷を共にする者でありたい。

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2018年09月19日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 81


ルカの福音書18章18節〜30節

先週は、これまで登場して来た人々が、何か特別な癒やしを求めて来たのとは違って、15節 「イエスに触れていただこうと」幼子たちを連れて来た人々を、主が喜び迎え、子どもたちを祝福された場面でのことに注目した。

@ 「それを見て叱った」弟子たちを扱われたこと【16、17節】。
弟子たちが「叱った」のは、主への思い遣りから ? 否 !! マタイ 18章10節で弟子たちは 《 子どもたちへの軽蔑心 》 について警告を受けているが、子どもたちが祝福されることへの関心も重荷もなく、子どもたちの存在に重きを置かないという深刻な愛の欠如による。それ故、主は黙認されなかった。

A 主が 《 神の国への入国規範を 》 17節 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決して・・・」と、子どもたちに置かれたこと。
手本である「子どものように」とは、「神の国を受け入れる」態度のこと。マタイ 18章3〜5節 「向きを変えて【詳訳 : 悔い改め、即ち、方向転換して】子どものように」と、「子どものように自分を低くする【詳訳 : 信頼の心を持ち、謙遜で、愛の心を持ち、赦す心を持つ】」と説明されている。
9章47、48節には、「子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」 ⇒ 子どもたちを受け入れることが神の愛だと知って尊重するなら、即、わたしを尊重することと同様となり、子どもたちに対する態度は、そのまま主への態度となる、と言われた。

※ 16節 「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません」との主の警告を受け止めたい、と !!


今朝は、先週主が、16節 「神の国はこのような者たちのものなのです」、17節 「子どものように 神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と評価された「子どものように」とは相容れない 《 一人の ※ 18節 「指導者」を扱われた扱い 》 に注目したい。
この人物については、マタイによると「青年」とあり、若くして指導的立場に立っていることが分かる。
主の扱いは、彼が ※ 18節 「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねて来た質問に始まった。
先ず彼が、主を神だとは思ってもおらず、主を人として見て言っていることなので、19節 「なぜ、わたしを 『 良い 』 と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません」と言われた。即ち、あなたがわたしを神だとは思っていないのだから、あなたがこのわたしを「良い先生」と言うべきではない。わたしを神と認めた上で「良い先生」と呼ぶのであれば、間違いにはならないが、認めてはいないのだから、神に対してしか言えない「良い」と、わたしに言うべきではないと。
この見逃せない点を明確にした上で、彼の「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことが・・・」の問題に臨まれた。
主は先ず、彼が「何をしたら」 ? と聞いて来たことに対して、マタイの福音書 19章17節では、「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」とあり、彼が「どの戒めですか」と聞いたので、( ルカに戻って )20節 「戒めはあなたも知っているはずです」と、モーセの十戒の〈 人に対する戒め 〉を挙げられた。

直ちに反応した彼の答えは、21節 「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」だった。
「何をしたら」と聞いた彼は、主から「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」と言われたので、それなら、私はしっかり守って来ましたと言ったのだ。
主の言われた「守りなさい」とは、どういう意味で ?
戒めの役割は、ローマ人への手紙 7章13節 「この良いもの【戒め】が、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いもの【罪の極度の悪意と、測ることも出来ない罪深さがはっきりと現れる為】となりました」と、ここにある。
従って、主が「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい」と言われたのは、 《 守れば良い 》 の意味でではなく、 《 戒めによって自らの正体を知り、謙りなさい 》 なのだ。
主は、彼の「何をしたら・・・」を問題なく受け取られたようにも見受けられるが、そうではない。
主は、この真面目な青年と親身に関わり、彼を永遠のいのちに導くべく 《 何が出来る者か ? ではなく、何者か ? 》 を知って、謙るようにと扱おうとされた。
そこで主はその青年に【マルコの福音書 10章21節 「彼を見つめ、いつくしんで」と】、22節 「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります」と、多くある中の一つを欠いているの意ではなく、 《 根本的・本質的な欠け 》 があると言われた。

それを知らせる為、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と言われた。この、隣人への態度如何は、彼が自らを知るのに必要だった。
彼の取った態度は、23節 「これを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったから」と扱われたのだ。実に、20節 「盗んではならない」は破られ、貧しい者に手を開くようにとの戒め( 申命記 15章7〜11節 )は退けられている。
彼が「永遠のいのち」に与る為になすべきことは、 “ 守っています ” ではなく、 “ 戒めを守ることの出来ない者 ” 、むしろ戒めによって自らの神の聖前における正体、 “ 罪の極度の悪意ある、罪深い者 ” との自覚に立つようにと促( うなが )されたのだが、悲しいことに、彼は求めながら、主の許を離れた。
彼を見送られた主は、彼を惜しみつつ、24、25節 「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。・・・」と彼の為に嘆かれた。それは、富への執着心が彼の永遠のいのちへの道を阻んでいるからである。唯、彼を惜しまれたのは、27節 「人にはできないことが、神にはできる」のだから、その無力のまま飛び込んで来れば良いのに、と。

※ 自らの罪深さを知って、「神にはできる」と言われるお方に飛び込む幸いを経験し続けたい。これを聞いた弟子たちは、28節 「ご覧ください」と、意気揚々と言って来たが、マタイの福音書 19章30節の余韻を残されたお心に留意して従いたい。

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