2019年01月17日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 103


《 待降節V 》
ルカの福音書23章26節

先週は、大祭司の家での拷問後、エルサレム最高法院に連行された主が、ローマ法廷の座に臨まれた ※ 12節 「この日、ヘロデとピラトは親しくなった」との動きから、ローマ帝国にとって 《 主をどう扱うか 》、パウロが言った「・・・このことは片隅で起こった出来事ではありませんから・・・王様がお気づきにならなかったことはない」と迫ったこの言葉と合わせて、全ての人々は責任ある態度が問われていると考えた。

@ 主を取り囲む人々について。
a. 巧妙に罪状を突き付ける最高法院の全議員たち。主の死刑の決定を求め、ローマ政府にとって最も脅威となる政治的告発を企て、2節で三つのローマ帝国への反逆罪に当たるとして出た。主への嫉妬を動機としての殺害計画である。
b. 裁判の最高権威者として立っている総督ピラト。幾度も、「この人には、訴える理由が何も見つからない」としつつも、野望と名誉心の故に総督の立場にしがみつき、総督の執行すべき責任を放棄し、最も不正で悪質な判定を下した。
c. ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパス。9節で悪質な好奇心による質問攻め。その好奇心が満たされなかった時には ※ 11節で主への野蛮な反逆心を露わに。

A 自らの野望に生きる人々からの裁きを受けている主は、毅然たる態度で、イザヤ 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足」されるお方。

※ 私たちは、主に対してどのような態度を取るのか ? 人に対する扱いをもって主への扱いの如何が裁かれるお互いも又、責任を問われる事実に留意したい、と。


今朝は、議員たちの妬みから主を死刑にとせがんだ力に屈服したローマ法廷の最高責任者ピラトが、遂に主を死刑執行人に引き渡し、主を処刑場に引いて行く場面である。
処刑場については、33節 「 『 どくろ ⇒ ゴルゴダ( アラム語ではどくろを意味する音訳 )、カルバリ( ラテン語 ) 』 と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた」と言及されているが、木曜日の最後の晩餐を立ち上がられてからの翌金曜日の処刑に至るまでの道筋を辿ると位置が分かる。cf. プリント 《 エルサレムのイエス 》
道のりとしては、数百メートルだろうか ? 距離的に長いとは言わないかも知れないが、その道のりが如何に厳しく酷く、主には耐えられない程の一歩一歩だったかが分かる。
言うまでもなく、死刑の道具は死刑囚がそれぞれ担うものである為、主も又、担わされた訳だが、主だけは処刑場へ行く途中、「田舎から出て来たシモンというクレネ人」が代わりに主の十字架を担う事態となった。目的地に辿り着く前に、主が死ぬことがないようにと考えたのだろう。
それもその筈。他に十字架を担う二人の囚人がいたが、彼らとは違い、主は裁きの座で拷問を受けておられたのだ。木曜日の夜の大祭司の家での拷問( 22章63節 )に続き、23章16、22節にあるピラトによる拷問、25節b 「他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」とある。
拷問に使われるむちは、残忍な道具だったとされ、短い皮ひものむちで、そのむちの先端には金属や鋭い骨が括( くく )りつけられ、一振りごとに体に食い込み、肉は引き裂かれる。

兵士たちに道中むち打たれながらゴルゴダに向かう囚人たちの中で、ひときわ目立っているのが、血みどろで惨めな極悪人としての扱いを受けつつ歩いておられた主である。
イザヤ書の53章7〜9節 「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠( ほふ )り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと・・・」とある記事は、この情景である。
私たちは人々から蔑まれながらゴルゴダに向かわれる主と、現在、歩みを共にしているだろうか ?
実に、私に代わって歩んでおられる主なのだが、私は ?
ここで注目したい。見せ物になっている囚人たちを一目でも見ようと群がる人々の中にいた一人の人、「シモンというクレネ人」にである。他の福音書では、彼が「無理やり背負わ」された人として出て来ることから、彼にとっては 《 とんでもないこと、滅相もないこと 》 としか考えられず、かなり抵抗したことが伺えるのでは ?
彼は、北アフリカからの旅人で、主を見るのも初めてだったであろうし、十字架で処刑される人物との関わりを一体何処の誰が好むというのだ !! 実際、いる筈もないこと !! 何故私が !! と。 
まさか、私たちまで、彼と同じように感じることはないと信じたいが、あえてどうだろうかと、自問自答したい。
たとえば、私たちが悉( ことごと )く主の御心を優先し、主を選択する生活上、主が覚えられた孤独感を味わうことがあるとしよう。
主に従うなら必然的に、主への世の処遇は私にも同様 !!
ある意味で、このシモンは信仰とは無縁だったにも拘らず、そのような事態に遭遇したのだ。シモンが死に物狂いで抵抗するのは当然なのだ。しかし兵士たちからの強引な選びには抵抗出来なかった為、背負わざるを得なくされた。

しかし私たちは、主と共に【他ならぬ、私たちに代わっての屈辱の十字架なのだが】、主に代わって十字架を背負ったシモンが永遠的祝福に与ったことをもって激励としたい。
マルコの記述によると、「アレクサンドロとルフォスの父」とあり、その名を知られるキリスト者となっていたと伝えているからである。「ルフォス」は、ローマ人への手紙 16章13節 「主にあって選ばれた人」と出て来ており、「また彼と私の母」とあるのは、十字架を背負ったシモンの妻であり、パウロに献身的に仕えた人物として出て来ているのだから。
「十字架を無理やり背負わ」されたシモンとその家族は、何という恵み !! 救いに与ったのだ !!
恐らく十字架に処刑される主とは直接的に顔を合わせる機会を得、十字架上での主のおことばにも触れて、主に立ち返ることになったのだ !! シモンは後、むしろ自らが囚人として負うべきだった十字架から逃れようとしたことを悔いて、主を仰いだに違いない。本来、どれ程の屈辱を受けることがあったとしても、当然だとの信仰で、主に感謝しつつ、買って出るべきとして、信仰を新たにしたい。

※ へブル 13章11〜16節 「ですから私たちは・・・」に従いたい。

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2019年01月09日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 102


《 待降節U 》
ルカの福音書23章1節〜25節

先週は、主のゲッセマネの園での捕縛後、主が受けられた拷問の全てについて、へブル 12章2〜4節 「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍」ばれ、イザヤ 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみ・・・」の故だったと伝えている聖句と重ねて考えた。
主の「たましいの激しい苦しみ」だったとは !! エレミヤ 31章20節の伝える 《 屈辱を加える者、嘲( あざけ )る者の末路を痛み、彼らの魂の現実を思って、激しく苦しむ苦しみ 》 なのだ !!
主は、拷問の鞭と辱め、又、66節以下のエルサレムの最高議会における裁判での尋問を受けられるその都度、彼らをそうさせている反逆心、彼らの内なる闇に激しく痛まれた。
主は、彼らの詰問にむやみに応えられず、ご自身の立場を明確にすることに専念され、69節 「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、責任ある証言をされた。
案の定、主の証言は指導者たちの怒りを引き出し、70節 「では、おまえは神の子なのか」と詰め寄らせたが、更に主は、70節b 「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と宣言された。指導者たちは、71節 「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と 《 主を冒涜罪で訴えるべく 》、遂に、23章1節 「イエスをピラトのもとに連れて行った」とあるように、主はローマの法廷に立つことになった。

※ へブル 12章3節 「あなたがたは・・・反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」との忠告に従いたい、と。


今朝は、そうした大祭司の家での拷問後、エルサレムの最高法院に連行された主が、遂にローマ法廷の裁きの座に連れて行かれた場面に共に臨むことになる。
その為に、23章12節には「この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである」との動きから、ローマ帝国にとって 《 主をどの様に扱うかという、ユダヤ人から持ち込まれた問題 》 が、簡単に片付けられる問題ではなかった、一大事だったことに注意を払いたい。
ピラトはローマ帝国がパレスチナに駐屯させていた行政長官・総督・官僚。彼は政治的手腕が買われてか、皇帝から直接の責任を担わされ、最高の法的権限を持っていた。
彼は、その権威の下で派遣された初期のこと、聖所でいけにえを捧げているガリラヤ人を殺害するという無残な事件を引き起こしている( 13章1節 )。彼がパレスチナに派遣された当初、四分化されていたパレスチナの一つガリラヤ地方は、ヘロデ・アンティパス( バプテスマのヨハネを殺害 )の管轄下にあった。ピラトの様々な出方から、両者には行政執行権上のトラブルによる敵対関係があったと考えられる。にも拘らず、主を巡っては、総動員で取り組まれることになったのだ。
パウロの裁きの座での弁明の言葉を思い出して頂きたい。
彼が ※ 使徒の働き 26章19〜29節でダマスコ途上での劇的経験を証した時に、「・・・このことは片隅で起こった出来事ではありませんから・・・王様がお気づきにならなかったことはない」とアグリッパに迫ったこの言葉は、全ての人々は 《 このお方への責任ある態度が問われている 》 と警告していると !!

@ 主を取り囲む人々について。

a. 巧妙に罪状を突き付ける最高法院の全議員たち。
議会は、※ 22章69節、主の「人の子は力ある神の右の座に着きます。」との宣言に激怒し、71節 「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」、マルコ 14章64節では「イエスは死に値する」と言って、死刑を確定した。
しかしローマ法廷では宗教的事項による案件では審議されない為、ローマ政府にとって最も脅威となる政治的告発でと企てた。2節、「わが民を惑わし」、「カエサルに税金を納めることを禁じ」、「自分は王キリストだと言っている」と全て、ローマ帝国への反逆罪に当たるとする 《 主への嫉妬を動機としての 》 殺害計画である。
10節 「イエスを激しく訴え」、18、19節 「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」、21、23節 「十字架につけろ」と叫ぶ。
b. 裁判の最高権威者として立っている総督ピラト。
4節 「訴える理由が何も見つからない」としつつも、5節の議員たちからの反論にひるみ、6、7節 「ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送っ」て責任回避を図る。13、14節でも、「罪は何も見つからなかった」とし、20節 「イエスを釈放しようと」し、22節 「この人がどんな悪いことをしたというのか。・・・むちで懲らしめたうえで釈放する」としつつも、最終的には、24、25節 「それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。・・・イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた」のだ。
野望と名誉心の故に総督の立場にしがみつくも、総督の執行すべき責任を放棄し、最も不正で悪質な判定を下した。
c. ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパス。
9節 「いろいろと質問した」とは、8節 「イエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたから」と、悪質な好奇心による質問攻め。その好奇心が満たされなかった時には、11節に見る主への野蛮な反逆心を露わにした。

A 自らの野望に生きる人々からの裁きを受けている主は、毅然たる態度で、イザヤ書 53章11節 「自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足」されるお方。

議員たちからの ※ 2節の偽証にも、10節の訴えにも、18節 「その男を殺せ」にも、21節の「十字架につけろ」にも、23節の「その声がいよいよ強くなっていった」ことにも、主は何一つ、動ずることなく、為されるがままに。
ピラトからの ※ 3節の問い掛けにも、誠実に答えられた ⇒ ヨハネ 18章33〜38節。ヘロデの質問には、9節 「何もお答えになら」ず、彼の不真面目で、単なる個人的好奇心を満足させるだけのものとの洞察による賢明な対応を。ヘロデと兵士たちからの ※ 11節 「侮辱・・・」にも、動ずることなく、冷静沈着に。あくまでも、彼らを憐れむのみ !!

※ 私たちは、主に対してどのような態度を取るのか ? マタイの25章31〜33節は、人に対する扱いをもって主への扱いの如何が裁かれる光景。責任を問われる事実に留意したい。

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2018年12月31日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 101


《 待降節T 》
ルカの福音書22章63節〜71節

先週は、主が、聖父からの呪いを意味する ※ 42節 「杯」を、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。 ヨハネ 18章11節」と告白して葛藤から勝利して立ち上がられるや、47節からのユダを迎えた時の場面に注目した。
主のお気持ちは唯、裏切るユダへの愛を極限まで注ぎ、 “ ユダ、あなたは本当にそれで良いのか ” と反省を促す情熱のみ。
しかし主の極みまでの愛はユダにだけでなく、もう一人の裏切者、33節 「あなたとご一緒なら・・・」と言ったペテロにも。
そのペテロは何と !! 悲しい54〜60節の 《 三度主を否む 》 正体を見なければならなくされることに。ところが、61節 「【すると】主は振り向いてペテロを見つめられた」とある !!
ここで、主の極限まで注がれたユダとペテロへの愛は同じだったにも拘らず、注がれた側には、極めて厳粛な生死を分かつ結末があったことについて考えた。
ユダの結末については、マタイ 27章3〜10節に言及される死・破滅・暗黒が。しかしペテロの結末は、やがて殉教者に。
彼らの生死を分かつことになった決め手は、61、62節 「・・・主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく【非常な悲しみに襲われて】泣いた」この出方にある。
私たちは、ユダ的 ? ペテロ的 ? 主は、ご自身への損失を数えずに、主の聖前で気付かされた自らの貧しい実際に 《 激しく泣く 》 者を完全に救うことが出来るお方なのだ。

※ 自らの過ちそのものを悔やむことに終始するならば、ユダ的結末を迎えるのみ。しかし、過ちの現実に痛み、悲しんで十字架に駆け込むならば、殉教者とされたペテロに同じだと。


今朝は、ゲツセマネの園での捕縛後、22章63節から見なければならない寝ずの尋問を浴びせ掛けられる主に近づく為に、へブル 12章2〜4節 「・・・イエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです」の勧めに従いたい。
聖霊が、迫害下にあって苦しみ、あわや背教し兼ねない信仰者を激励すべく、 《 受けられた辱めをものともしなかった主を凝視するように 》 と勧めている聖句である。
主は、ここで受けられる屈辱の全てを、「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍」ばれたと、聖霊は伝えている。このことは、預言者イザヤを通しても、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。 53章11節」と伝えているところである。
イザヤは、「自分のたましいの激しい苦しみ」と言っているが、ルカに戻ると、63節には「イエスをからかい、むちでたたいた」とあり、主が受けられた仕打ちは肉体的拷問に及ぶ激しさであるにも拘らず、ここで触れられているのは「自分のたましいの激しい苦しみ」だと !!
私たちが「辱めをものともしなかった」主を凝視すべきところとは、この「たましいの苦しみ」なのだ。

自問自答したい。今日私たちがもし、何らかの苦しみという経験、苦しいとしていることがあるとしたなら、一体何をもって苦しいと言っているのだろうか ? 果たして、主の経験しておられる苦しみに同様なのだろうか ? もし、被害者的意識 ? 自己憐憫的傾向にあるならば、到底主の経験しておられる苦しみとは似ても似つかない。
主の「たましいの激しい苦しみ」とは ? エレミヤ書 31章20節 リビングバイブル訳 「エフライムは今でもわたしの子だ。目に入れても痛くない子であることに、変わりはない。罰を加えないわけにはいかないが、それでもなお、彼を愛している」、20節e 「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき( 戦慄する )、わたしは彼をあわれまずにはいられない」とあるように、屈辱を加える者、嘲( あざけ )る者の末路を痛み、彼らの魂の現実を思って、激しく苦しむ苦しみなのだ !!
主を夜通し監視していた者たちのしたことに目を向けると、ルカ 22章63〜65節 「イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、『 当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ 』 と聞いた。また、ほかにも多くの冒涜のことばをイエスに浴びせた」。マタイ、マルコでもそうだが、マルコ 14章65節によると、「唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、『 当ててみろ 』 と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った」とあり、彼らの素手で為し得る限りのことをしたのだ。
主は、これら全てを受ける度に、彼らをそうさせている主への反逆心、彼らの内なる闇に激しく痛まれるのだ。

私たちの誰が、そのような彼らの闇を憐れんで激しく痛まれる主を知る者だろうか ? 憎しみの限りを尽くす彼らへの愛を知る者だろうか ? 私たちは、このような状況での隣人への思いが、果たして主に同じだろうか ?
更に、夜明けと同時に、66節以下、エルサレムの最高法院 ※ サンヘドリン、宗教のみならず司法を取り扱う最高議会に連れ出され、67節 「おまえがキリストなら、そうだと言え。」と苛立ちを露わにしての詰問攻め。
ところが主は、彼らの詰問には直に応じなかった。
言うまでもなく、ペテロが、自らの命を惜しんで回避した態度とは対照的で、答えることの無意味さの故にむしろ、ご自身の立場を明確にされ、69節 「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、責任ある証言をされた。
案の定、この証言は指導者たちの怒りを引き出し、彼らは激怒して、70節 「では、おまえは神の子なのか。」と詰め寄った。その時更に、70節b 「イエスは彼らに答えられた。『 あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。 』 」と宣言された。指導者たちは、71節 「・・・これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と 《 主を冒涜罪で訴えるべく 》 遂に、23章1節 「イエスをピラトのもとに連れて行った」と、ローマの法廷に持ち込むことに。

※ へブルの聖句を覚えよう !! 12章3節 「あなたがたは・・・このような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」に注意を払いたい。

posted by luckyfachan at 20:20| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする