2018年10月05日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 86


ルカの福音書19章28節〜44節

先週は、主が、11節 「エルサレムの近くに来」られた時、「神の国がすぐに現れると思っていた」人々を相手に、彼らの誤りを正す為に話された13節から、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」に注目した !!
タラントが 《 先天的に与えられた能力 》 に言及し、ミナは誰もが共通に持つ 《 賜物としての聖霊 》 であると確認した上で、聖霊で「商売」を、即ち 《 活用する 》 とは ? を学んだ。

@ 聖霊との関係における真面目さの如何を吟味すること。
主は、15節 「彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思った」と、どれだけもうけたか ? ではなく、商売【活用】の仕方・在り方・心の姿勢・何事かをする時の動機の如何に関心を。
主の十ミナもうけた人への喜びは、17節 「小さなことにも忠実だった【詳訳 : 信頼できる】」、心の姿勢にあった。

A 聖霊との関係に忠実である時、結果に見る【十ミナのもうけ、五ミナのもうけ】に違いはあっても、主人に実を捧げることが出来るようにされること ⇒ ヨハネ 15章5節( ぶどうの木と枝にたとえて )。

B 聖霊との関係に不忠実な人の霊的状態とは ?
20節のしもべの「私は布に包んで、しまっておきました」に顕著。何のもうけも差し出せなかった理由として自らの怠慢を度外視し、唯、21節に主人の人柄を問題視する姿勢。
結果・失敗を恐れて使えなかったのであれば、主人の言う、23節 「銀行に預け」れば良かっただけのことで、言い訳は通用しない。聖霊との交わりの貧困は、そこから不正直さを生み出させ、その表れは21、22節 《 誤った神理解 》 に顕著である。

※ 聖霊との関係如何は、今日的・永遠的問題と覚えたい、と。


今朝は、半年間に及ぶエルサレム行きの旅に終わりを告げ、遂に十字架刑に臨まれる受難週の始まりの日に入ります。
主がこの日を迎えるに際して、幾度となく口にされたおことばは、ヨハネが福音書で明らかにしているが、「わたしの時はまだ来ていません」だった( ヨハ 7・6、8 )。
即ち、贖( あがな )いを成し遂げる十字架の日の為にご計画しておられる聖父の御心の時期が 《 今なのか ? そうでないのか ? の見極め 》 に慎重を期して来られてのおことばである。
公的生涯の幕開けとなった 《 カナの婚礼の席での奇跡 》 に始まり、受難週直前の 《 ラザロのよみがえり 》 に至るまでの日々、如何に慎重に一挙手一投足の為に聖父を求めておられたことか !! ところが何と !! 今日から目にする主は、最早これまでの様な聖父の時を伺う様子とは一変して、聖父のご自身の時の来たことを知って臨まれる厳然としたお姿である。
主はエルサレム入京に際して、29節 「オリーブという山のふもとの【ベテパゲ地区のベタニアという村】に近づいたとき・・・二人の弟子を遣わされ」て、30節 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい」と指示を与えられた。更にその先のことまで、31節 「もし 『 どうして、ほどくのか 』 とだれかが尋ねたら、『 主がお入り用なのです 』 と言いなさい」と。
実は主は、エルサレム入京に際しての ※ ゼカリヤ書 9章9節 「柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」の預言による行動との確信から出ている指示なのだ。

従って、32〜34節には、その通りのことが為されていて不思議ではないのだ。主はこの時に至って初めて、人々がメシアとしてご自身を迎えるべきであるとの宣言的なお姿で、メシアが当然受けるべき歓迎の仕方で迎えさせた。
主のエルサレム入京の光景は、軍馬にまたがる勝利者のようにではなく、35節では弟子たちが、鞍( くら )の代わりに「上着を掛けて、イエスをお乗せし」、更に人々からは、36節 「道に自分たちの上着を敷」くのに身を任せられたが、謙っての入京。
その人々とは、37節 「大勢の弟子たちは」とあるように、主から数々の実際的な憐れみに与った人々であり、「自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始め」、38節 「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように」と。
その熱狂振りは、39節 「するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、『 先生、あなたの弟子たちを叱ってください 』 と言」わせる程の爆発的騒動だった。
しかし主は毅然とした態度で、40節 「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」とだけ仰って、彼らのことばを真っ向から退けられた。
何故なら、群衆が主を賛美して大歓迎するのは当然だからである。この現象がローマ政府を刺激するのではとの恐れから、民衆の熱狂的歓声を静めるべきだとして、賛美を平然と受ける主を非難するパリサイ人たちの忠告は、妬( ねた )みの為の阻止にしか過ぎないと、知っておられるからである。
主の心は、彼らの反応には目もくれず、彼らの行方を案じ、エルサレムを思う思いで胸が熱いのだ。
主のそのみ思いを41〜44節に見て Message を。

@ 41節 「この都のために泣」かれる主。

この 《 泣いた 》 は強い動詞で、号泣とすすり泣きだと学んでいるが、背後から聞こえる人々の歓喜の声も “ 十字架につけろ ” の声に間もなく変わると知りつつ、それが熱狂的であればある程、その無知に苦しまれての涙なのだ。
彼らが主を賛美し、主に付きまとって来るのは、主から頂いたこの世的な救出の故にであって、奇跡を行うことによって証された救い主ご自身に寄せる信頼ではなかった。
ヨハネの福音書 1章11節 「この方を受け入れなかった」。

A 主の号泣は、頑( かたく )なな彼らの結末を思っての涙。

42節 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている」、44節 「神の訪れの時を、おまえが知らなかった」とは、彼らが「平和【コリント人への手紙 第二 5章17〜19節】に向かう道」を聞いていなかったのではない、唯、平和への和解のことばを退けたことによる。ルカの13章34、35、にも主の嘆きが吐露されているが、最後の最後の機会をも頑なに退ける者への嘆き !!
19章の43、44、は、自らの罪を悔い改めなかった彼らの末路の予告であり、A.D.70年に現実となったと歴史は伝えている。

※ エルサレムの為に号泣された主は、今も「平和に向かう道」が提供されているにも拘らず拒む全人類の為に号泣しておられるお方と覚えたい。

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2018年10月01日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 85


ルカの福音書19章11節〜27節

先週は、主がエリコの町に入られて、あらかじめ会おうと心積もりしておられたザアカイと出会われた時のことに注目した。
一目でも噂の主を見ようと、大人げなく、「いちじく桑の木に登った」ザアカイ。何とその彼に主が、5節 「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と、声を掛けられてからのこと。
6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」た彼は、遂に、9節 「今日、救いがこの家に来ました」と、主との個人的な関係に導かれたことから、10節 「失われた者を捜して救うために来」られた主に注目して、Message とした。

@ 5節 ⇒ 個人的にその人の必要を知って近づかれるお方。
主が、「ザアカイ、・・・降りて来なさい」と言われたのは、「for today I must stay at your house. ( 泊まらなければならない )」とは !! 主のご意志の強さが伝えられている言葉に、主の一人の失われた者への情熱を見る。ヨハネ 4章4節 詳訳 「サマリヤを通って行かれる必要があった」ことに同様と。

A 7節 ⇒ 非難に動揺せず、自ら確信する所に生きられるお方。
実際主は、「失われた者」を捜しておられるが、悲しいことには、ザアカイを罪人だと断罪する人々は、自らの内的必要に目を向けない為に与り得ない現実がある。
ザアカイに対してだけでなく、「罪人のところに行って客となった」主の行動が気になり、罪人に対する扱いに不満を抱く始末。何と !! 彼らとは対照的。7節の非難を耳にしつつも、8節 「しかし」と、躊躇せずに信仰告白している !!

※ 主に尋ねられ、見出されたのが、私たちであるとは !! と。


今朝は、いよいよ最後の訪問となる、11節 「エルサレムの近くに来」られた時、「神の国がすぐに現れると思っていた」人々の誤りを正すべく 《 ご自身がこれからのご受難後、天に帰り、再び来られるまでには期間がある 》 ことを伝えようと、一つの重要なたとえ話をされた記事に学ぶ。
12節からの「ある身分の高い人が遠い国に行った」というのは、その当時、誰もが知っている実際的出来事【ヘロデ大王がアルケラオを後継者としたが、彼は民から拒絶された為、王位継承者であるとの証明を得ようとして、皇帝を訪ねローマへ行ったこと】をモチーフにしていると言われている。現実、27節 「私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。」とあるのは、アルケラオが実際にしたことだった。
この歴史的事実をご自身に重ねて話されたのが、ミナのたとえ話。実に主は、これまでのご生涯において宗教家たちから拒絶され、遂にエルサレムでは間もなく、宗教家たちからの拒絶に加わる民衆からの “ 十字架につけろ !! ” の声によって、決定的に拒絶されようとしている。
アルケラオにとっての「遠い国」は、主にとっては、十字架による死後、復活によって帰る聖父の御許なのだ。更にその後、再び地上に戻られて、御国に備えられるお方が主。
私たちは、主が昇天されてから二千年の経過を見、間もなく主の再臨を迎えつつある。この間をいかにして ? なのだ。
13節 「彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『 私が帰って来るまで、これで商売をしなさい 』 と言った」に注目を !!

このたとえ話に類似した話として、マタイの福音書 25章 《 タラント 》 があるが、決定的な違いは、それぞれのしもべに預けられた資金の問題である。タラントの物語は、マタイの25章15節 「それぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた」と、初めから異なる資金で始まる。それに比べてミナの場合は、ルカの19章13節 「しもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え」とあり、資金は同額である。これらの事実を踏まえて、タラントは、 《 先天的に与えられた能力の違い 》 に言及し、ミナは誰もが共通に持つことが許される 《 賜物としての聖霊 》 であると。
それでは、13節 「私が帰って来るまで、これで・・・」 即ち、聖霊で「商売をしなさい」と言っておられる主の御心とは ?
「商売をしなさい」とは 《 活用すること 》 であるとは ?

@ 聖霊との関係における真面目さの如何を吟味すること。

主が、15節 「彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思った」と言われたことに注目したい。主は、預けた十ミナからどれだけもうけたか ? に関心を寄せておられるのではなく、その人の商売【活用】の仕方・在り方・心の姿勢・何事かをする時の動機の如何に関心を向けておられる。
十ミナもうけた人が、主から、17節 「よくやった。良いしもべだ」と喜ばれたのは、「おまえはほんの小さなことにも忠実だった【詳訳 : 信頼できることが分かった】から」と、彼の信頼に値する心の姿勢にあった。
聖霊との関係における 《 積極的な促( うなが )しは 》 ガラテヤ人への手紙 5章25節 詳訳 「もしも私たちのいのちが聖霊によって神のうちにある【一つになっている】のならば、私たちの行ないを聖霊によって支配して頂いて、列を作って前進しようではありませんか」にある。 《 消極的な促しは 》 エペソ人への手紙 4章30節、テサロニケ人への手紙 第一 5章19節にあると覚えたい。

A 聖霊との関係に忠実である時、結果に見る【十ミナ、五ミナのもうけ】の違いはあっても、主人に実を捧げることが出来るようにされる。

しもべのしたことは、唯、聖霊との関係の正しさに生きることのみ。ヨハネの福音書 15章5節の主のおことば( ぶどうの木と枝のたとえ )で明白。

B 聖霊との関係に不忠実な人の霊的状態とは ?

20節のしもべの「私は布に包んで、しまっておきました」に顕著。何のもうけも差し出せなかった理由として、自らの怠慢を度外視。唯、21節に主人の人柄を問題視する姿勢。
結果・失敗を恐れて、使おうとしなかったとしても、主人の言う、23節 「銀行に預けて」おけば良かったのだ。
聖霊との交わりが、余りにもお粗末で、霊的貧困さが生み出す不正直さに出て来るから恐ろしい。その結果の致命傷は、21節 「あなた様は・・・厳しい方で」、22節 「厳しい人間で・・・」という 《 誤った神理解 》 である。

※ 聖霊との関係如何は、今日的・永遠的問題と覚えたい !!

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2018年09月27日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 84


ルカの福音書19章1節〜10節

先週は、「目が見えるようにしてください。」と主に求めて、主から ※ 42節 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と伝えられた 《 盲人の信仰 》 に学んだ。

@ 主を、38、39節 「ダビデの子」、救い主と認めた信仰。
この称号はこの世の王としてのメシアを期待させ、大多数の人々がそうだった中、真に霊的に王なるお方として待望する少数の中の一人だった。

A 38節 「大声で、『 ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください 』 と言った」時、39節 「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが」、その非難にもめげず、「ますます激しく」と、懸命に主の最善を求める信仰。
彼は、40節 「イエスは立ち止まって」、41節 「わたしに何をしてほしいのですか。」とのおことばを主から頂いた !!
何と彼は、「主よ。目が見えるようにしてください。」と !! 「道端に座り、物乞いを」する形態での生活しか考えられなかった彼が、主を「ダビデの子」と知ってからというもの、これまでのようにではなく積極的に御心を求め、そこに生きる者となる為にと、彼なりに抱いた最善が「見えるようにして」頂くことだと確信したからだったのでは ?
何と彼は、主の ※ 42節 「見えるようになれ」の一言で、43節 「その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った」というのだ。

※  “ 主の為に大いなることを求めよ ” とは、インド宣教に生涯を捧げたウィリアム・カーレーの言葉。主が認められたその信仰から光を受け、主の為に生きる信仰でありたい、と。


今朝は、主がエリコの町に入られて、あらかじめ会おうと心積もりしておられたザアカイと出会われた時のことに注目を。
このザアカイとは、2節によると「取税人のかしらで、金持ちであった」とあり、3、4節 「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」人として出て来る。
何とそのザアカイは、主から ※ 5節 「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と、声を掛けられたのだ。
幸いにもザアカイは直ちに、6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」、遂に、9節 「今日、救いがこの家に来ました」と、主との個人的な関係に導かれた。その時直ちに、8節 「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と、これまでの生き方【「だれかから」とは、もしそうしていたのならという仮定的な意味ではなく、断定的な意味で「不正に税を取り立てていたので」と】情け知らずの貪欲から完全に方向転換して、生活が変えられた !!
方向転換するとは、今日までの生き方が、いかに誤っていたかを知った時、それを常軌を逸していたと認め、即ち、的外れな生き方・罪深い生活だったと認め、この事実を告白し、憎み、正されたいと赦しを乞い、赦しを信じる全てを意味する。赦しを得る為に、償( つぐな )いは無用【ローマ人への手紙 3章23〜26節】なので、ザアカイの償いは、主の愛への感動故のものに過ぎない。

主は、このザアカイを「失われた者」と言われた。
それは、彼が、自らのこれまでの生き方に満足していなかった人だったことを意味している。
彼は人目を気にせず、大人げもなく、3節a’ 「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」、4節 「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」ここには、主への単なる好奇心からではなく、3節a 「どんな方かを見ようとした」とあり、噂で聞いていたからと思われるが、ここに彼の渇望が伺える !!
「失われた者」とは、自分ではこのままで良くないと知りつつも、自分でどうしたら良いのか ? 本能的に、造り主に帰りたいと思いながらも、帰り方が分からず、15章4節 「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」と言われるお方に見付け出して頂く必要のある者のこと。
ここで、19章10節 「失われた者を捜して救うために来」られたと証された主に注目して、Message としたい。

@ 5節 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『 ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。 』 」と、個人的にその人の必要を知って近づかれるお方。

主が、「ザアカイ、・・・降りて来なさい」と言われたのは、英訳 「for today I must stay at your house. ( 泊まらなければならない )」とは !! 主のご意志の強さが伝えられていて、主の一人の失われた者への情熱を見る。
主は、私たちを個々に知って捜しておられる。ヤコブの井戸に腰を下ろして、一人のサマリア人を待っておられたあの時の主のお気持ちも同様なのだ。ヨハネの福音書 4章4節 詳訳 「サマリヤを通って行かれる必要があった」と。
ザアカイの必要も、サマリアの婦人の必要も、主ご自身の最大の関心事であり、その人個人の問題ではないからだ。
ペテロの手紙 第一 2章21〜25節に主の心がある。「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」と。

A 7節 「人々はみな、これを見て、『 あの人は罪人のところに行って客となった 』 と文句を言った」とあるが、非難に動揺せず、淡々とご自身の確信する所に生きられるお方。

ザアカイは、主の招きに直ちに応じて、6節 「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」て救われた。
実際主は、「失われた者」を捜しておられると学んだが、悲しいことには、ザアカイを罪人呼ばわりする人々には、自らの失われた者であるとの自覚がない為に、与り得ない現実がある。何故なら、ザアカイの悪事にばかり関心を抱き、自らの内的必要に目を向けないからである。彼らは、ザアカイだけでなく、「罪人のところに行って客となった」主の行動が気になり、罪人に対する扱いに不満を抱く始末。
何と !! 彼らとは対照的に、ザアカイも又、人目を憚( はばか )らない主に同様、7節の非難を耳にしつつも、8節 「しかし」と、躊躇せずに信仰告白している !!

※ 主に尋ねられ、見出されたのが、私たちであるとは !!

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