2019年04月05日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 3


ヨハネの福音書1章9〜18節

先週から本文に入り、先ず、冒頭の聖句に注目したが、「アブラハム」から始める 『 マタイ 』、唐突に福音宣教から始める 『 マルコ 』、処女マリアによるベツレヘムの家畜小屋での誕生から始める 『 ルカ 』 とは違い、主を「ことば」なる方、存在の始まりはなく、永遠の過去から存在されたお方として紹介している点に 『 ヨハネ 』 の深遠さを覚えた。永遠の過去から存在された「ことば」なるお方は・・・

@ 1節b 「神とともにあった。・・・神であった」お方。
この「あった」とは、 《 受肉以前、神とともにあり、神であった。受肉以降も神とともにあり、神である 》 の意で、18節 「父のふところにおられ・・・」と表現される親密な関係である。

A 3節 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」と、いのちの創造者。
へブル1章2、3節 「御子によって世界を造られました。・・・その力あるみことばによって万物を保っておられます」、同11章3節 「この世界が神のことばで造られたこと・・・」とも。
それは、ヨハネ1章4節a 「この方にはいのちがあった ⇒ いのちの源( 肉体的生命、霊的生命 )」からだと。更には、4節a’ 「このいのちは人の光であった」とあり、その後の歩みにおける「光」、今日の歩むべき道、生きる目的、地上生涯の道のりのみならず、やがて迎えられる永遠に向けての全てを照らし導かれる。しかも、5節 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とは、何という希望。

※ 大胆なこの書き出しに、主への新たな信頼を寄せたいと。


今朝は、ヨハネが「ことば」なるお方を「人の光であった」とした紹介を中断して、6、7節 「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」と、バプテスマのヨハネを登場させているが、彼については、後、19節 「さて、ヨハネの証しはこうである」と出て来る時の学びに委ねて、冒頭からの「ことば」なるお方を、より詳細にしている9〜18節の聖句に学びたい。
先に、「ことば」なるお方である主を、4節 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」と伝えていたが、9節では更に、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と言われている。
どの時代、又、何処にでも、人々に何らかの良き感化、影響を及ぼす人物が出没して来たし、今も、これからも現れはするし、優れた書物も世に送り込まれてはいる。又、それぞれの道、学問を究めた人だからこそ語ることの出来る優れた名言、格言的言葉もある。人はそれらによって感動し、「光」を得たと言う。確かに「光」となり得たし、なるだろう。
しかし記者ヨハネは、それらの「光」とは別格に考える必要から、人間的標準を超越させて「まことの光」だと言った。
この「まことの【詳訳:混じり気のない、完全な、不変の】光」を「その」と言って、「すべての人を照らすまことの光」である主だからだ、とした。この「照らす」は、ルカ2章34、35節 「多くの人が倒れたり立ち上がったり・・・人々の反対にあうしるしとして定められ・・・あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く・・・。多くの人の心のうちの思いが、あらわになるため」の意。

この初代教会から始まった宣教の歴史と、今日ももし福音に根差している教会、キリスト者にこうした現象があるならば、それこそ聖霊によって告げられたシメオンの言葉の徴。
9節a’ 「世に来ようとしていた」とあるのは、旧約聖書に長きに亘って預言されて来た 《 救い主の出現 》 が今、現実になろうとしているという、実は厳粛な啓示である。
アダムが神との契約を破って後、神からの【※創世記3章15節】という約束が今、果たされようとしているということ。この日について、待望され続けていたにも拘らず現実は、10、11節 「・・・知らなかった・・・受け入れなかった」とあり、その究極が、主を「十字架につけろ」の声なのだ。そうすることで、神を敬っているとする人々の手で。
ここで今朝は、12節 「しかし」に注目して Message を。
この「しかし」とは、大多数がこの「まことの光」である主を拒絶したとしても、イザヤの「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。53章1節」と悲嘆に暮れて言わざるを得なくされた現実があったとしても、『 ヨハネ 』 は、「神の子どもとなる【神の家族の一員になる】特権」に与った人々がいるという喜びの証言なのだ。
「神の子どもとなる」というのは、13節 詳訳 「彼らの誕生は血による( 肉体的血縁関係 )のではなく、肉の願い( 肉体的な衝動 )によるのでもなく、人( 親 )の願いによるのでもなく」人間的には絶望的ではあるが、「神によって」と、新生を生み出す力は神以外にない、神からであると。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ・・・ ローマ人への手紙3章23節」なかった者に、「神の子どもとなる特権をお与えになった」とは!? 自らが扱われる日々、いよいよ自らを知らされるその都度、感動を新たにするのでは?

@ この特権は、唯、14、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」主の謙卑によると覚えたい。

詳訳 「ことばは肉( 人間性を持つ者 )となり、私たちの間に幕屋( 彼の肉体という天幕 )を張られた。しばらく住まわれた」とある。文字通り、乳飲み子として母マリアに育てられる期間を過ごされ、公生涯に入られるや、募られた弟子と生活を共になさりつつ、人々の必要に応じられた。
人々は、18節 「・・・神を解き明かされ」る主に、14節c’ 「恵みとまことに満ちておられ」る栄光を身近に見つつ、16節 「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」のだ。律法は罪の指摘のみであるが、主はその罪からの豊かな救いを与えるお方として。

A この特権は、唯、12節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」に与えられると覚えたい。

自らの罪人としての正体が明るみにされた時、弁解せずその自らの罪の事実を悔い改め、そこからの救い主として、主をお迎えするという謙虚さだけが求められている。

※ 3章19〜21節 「光よりも闇を愛し・・・光を憎み・・・」の姿勢だけがこの特権を退けると覚え、唯々、謙虚でありたい。

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2019年04月01日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 2


ヨハネの福音書1章1〜5節

先週から 『 ヨハネの福音書 』 の連講に入り、記者である使徒ヨハネについて、又、この書の執筆目的を確認した。
ヨハネの福音書は、他の三つの共観福音書に比して、補足的にヨハネならではの観点から書かれていて、自身の名を明記せず、唯「主が愛された弟子」を貫いている点に注目した。
ここに生来、気性の激しい彼からは想像出来ない奥床しさを見たが、ひとえに他の弟子たちに同様、聖霊経験に与ってから変えられた証と見て励まされた。今後の連講に先立って執筆目的を20章31節に学んだ。

@ 「あなたがたが信じるため」とは、主が「神の子キリストである」と信じる( ※信じ続ける ⇒ 生涯的な主従関係 )為と明確。
その為、主の教えが神からのもので、神から遣わされたお方である裏付けとして、cf. 『 ヨハネの福音書 梗概 』 を見つつ、主が行われた多くの奇跡のうちの七つを確認した。

A 「また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」。この「いのち」、17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」と、主の功績によって神との交わりに与り、その交わりによって体得することになったいのち。罪の報いとしての死を受けずに、永遠に神と共に生きる全く新しいいのち。
このいのちは、主を信じたと同時に与えられ、やがて主の再臨の日、「私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に」変えられるいのちである。

※ 「一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」とのビジョンのもとに書かれた福音書を共に学びつつ、お互いも救霊の重荷をもって学んで行きたい、と。


今朝から本文に入るが、前回本書を評して 《 世界で最も深遠な書物 》 と言った A・T・ロバートソンの言葉を思い出して頂きたいが、何と!! 1節 「初めにことばがあった」とは!!
共観福音書の冒頭と読み比べると、見えて来るものがある。
マタイ1章1節「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図 ⇒ ヨセフの家系」。
マルコ1章1節「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。 
ルカの冒頭から出て来るのは 《 ザカリヤとエリサベツによるバプテスマのヨハネ誕生物語 》 であるが、ひとえに、受胎告知を受ける処女マリアを、1章36節 「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています」と、激励する為、又主の先駆者としての関係性を示すという目的があってのこと。直接的な系図は、3章23節 「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると ⇒ マリアの家系」〜38節 「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る」。※創世記1章26節 「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」、即ち、神の似姿の意。
三書がそれぞれ、主の存在を「アブラハム」から始めるのと違い、又唐突に、福音宣教から始めるのと違い、処女マリアによるあのベツレヘムの家畜小屋での誕生から始めるのとは違い、主を「ことば」なるお方として紹介し、主は、「初めに」と、一番目二番目にという一番目を意味するのではなく、主には 《 存在の始まりはなく、永遠の過去から存在しておられた 》 なのだと。永遠の過去から存在しておられた「ことば」なるお方は・・・

@ 1節b 「神とともにあった。・・・神であった」。

この「あった」とは、過去を意味することばでは勿論なく、受肉された事実を伝えたいがための言い回しに過ぎず 《 受肉以前、神とともにあった、神であった。受肉以降も神とともにあり、神である 》 の意である。
主ご自身のおことばで確認を。17章5節 「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」の祈りで明白。
又、同21、22節 「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。・・・またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と祈られた祈りこそその証言。
更にヨハネは強調して、1章2節 「この方は、初めに神とともにおられた」とも紹介している。
この「ともに」とは、18節 「父のふところにおられるひとり子の神」と表現される親密な関係である。
出エジプト記33章11節では、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」とあるが、モーセとの関係がこの様であれば、より完全な意味での親密な交わりを意味する。又、民数記12章7、8節 「だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている」とまで。
Tヨハネ1章3節は、私たちも又招かれている交わり!!

A 3節 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」、いのちの創造者であること。

へブル1章2、3節 「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました」、同11章3節 「この世界が神のことばで造られたこと・・・」とも。
実に、ヨハネ1章4節a 「この方にはいのちがあった」からだ。これは唯、主がいのちを持っておられたという意味だけでなく 《 いのちの源 》 という意味。この世に生を与えて頂いた肉体的いのちも、罪を悔い改めて罪からの救いを与えて頂いた霊的ないのちも主ご自身から頂くということ。
更に、4節a’ 「このいのちは人の光であった」と、その後の歩みにおける「光」となり、今日の歩むべき道、生きる目的、地上生涯の道のりのみならず、やがて迎えられる永遠に向けての全てを照らし導かれる。
詩篇119篇105節 「あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です」そのもののお方。
しかも、5節 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とは、何という希望。

※ 大胆なこの書き出しに、主への新たな信頼を寄せたい。


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2019年03月26日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 1


ヨハネの福音書20章30、31節

先週をもって、110回に及んだ 『 ルカの福音書 』 の連講を終了し、今朝から 『 使徒ヨハネによる福音書 』 の連講に入る。
他の三つの福音書が共観福音書と言われており、其々が共通した観点から記録されていることに比して、ヨハネの福音書は独自の観点から補足的【共観福音書にない記録がある】に主と主の働きを紹介しているのが特質。書かれた時期が、福音書では最後のものだとされている( A.D.90年頃、他は50〜60年 )こととの関係性が否定出来ないとしても、積極的な意味で、ヨハネならではの観点によると考えるべき書である。
ヨハネは十二使徒の中でも、より親密に主の行かれるところに同行し、特別な訓練を受けるべく選ばれた三人「ペテロとヤコブとヨハネ」の中の一人で、ヨハネだけが福音書記者として選ばれていることになる。
ペテロは、A.D.64年ローマの大火がキリスト者の放火によるものと理不尽な扱いを受けて後、殉教したとされ、ヤコブはより早い段階で、使徒として初めての殉教者となる中、ヨハネは独り、生きながらにして殉教の日々を送りつつ、長寿をもって迫害下にある教会に仕えた人物だった。
ヨハネは、第一の手紙1章1、2節で、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます」と言っているように、かつてこの様には知り得なかった知り方で主を知った者だからなのだ。

R・リーは、 “ ヨーロッパでは、この書は 《 キリストの胸の中 》 と呼ばれている ” と紹介し、A・T・ロバートソンは “ 世界で最も深遠な書物 ” だと評価している。
実際、この福音書では、ヨハネは自身の名を明記せず、21章2節 「ゼベダイの子たち( ヤコブとヨハネ )」と言い、他では全て、唯「主が愛された弟子」だとして貫いている。
十字架の日、あの感動的な場面※19章26、27節でのこと、「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に 『 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です 』 と言われた。それから、その弟子に 『 ご覧なさい。あなたの母です 』 と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った」と、自ら名乗らずに書いている。
名を明記せずにこの書でヨハネが初めて自身を登場させているのは、1章35節 「二人の弟子」、40節 「二人のうちの一人は・・・アンデレ」と、バプテスマのヨハネの紹介で主と初めて会った場面でのことである。
彼の生来の性質では、想像出来ない奥床しさ!!
彼は、激しい気性の持ち主だったからだ。
マルコ3章17節 「雷の子」と呼ばれ、10章35〜40節 「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」と自らの将来の優位な立場を取り付けようとし、ルカ9章54、55節 「 『 主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』 しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた」とエリヤ気取りの激しさを見るが、彼の性格を顕著に現している記事である。

しかしこのヨハネも、他の弟子たちに同様、聖霊経験に与ってからというもの、主よりの特別なご訓練に与った者に相応しく、エルサレム教会の柱として( ガラテヤ人への手紙 2章9節 )用いられ、後、彼は迫害によってパトモス島に追放されるが、その前後、エペソ教会での働きに携わったとされている。
今朝は、ヨハネの福音書の連講に先立って 《 本書の執筆の目的について考え 》 次回から本文に入りたい。
20章31節 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっいのちを得るためである」。ここに、二つのことが伝えられている。

@ 「あなたがたが信じるため」。

ヨハネは、主が「神の子キリストである」と信じる( ※信じ続ける ⇒ 生涯的な主従関係 )為との目的を明確に。その為、主の教えが神ご自身からのもので、神から遣わされたお方であることの裏付けとして、主が行われた多くの奇跡のうちの七つを記録している。cf.プリント 『 ヨハネの福音書 梗概 』
2章1〜11節 《 カナの婚礼 》 質を変える/4章46〜54節 《 役人の子の癒し 》 距離・空間の超越/5章1〜9節 《 ベテスダでの癒し 》 38年間をものともしない/6章1〜14節 《 五千人の給食 》 必要の充足/6章16〜21節 《 水上歩行 》 自然法則の支配/9章1〜12節 《 盲人の癒し 》 何故? への解決/11章1〜46節 《 ラザロの蘇生 》 死の克服と、生活を拘束する諸問題を悉( ことごと )く掌握される神として知る手掛かりとなる。

A 「また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」。

「イエスの名によって」とは、イエスの名の意は【罪から私たちを救う、救い主】。この実現の為に十字架の死に至るまで日々死に続けてくださった 《 主の功績にあやかって 》 私たちが「いのちを得るため」と目的を明確にしている。
この「いのち」とは?
3章16節 「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、同36節 「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」、4章14節 「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」、6章54節 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを」といういのち。
17章3節 「永遠のいのちとは・・・知ること」とあるように、主の功績によって与えられることになった神との交わりに入り、体得するいのち。罪の報いとしての死を受けずに、永遠に神と共に生きるいのち。魂の不滅とか、地上の命の延長を意味するものではなく、全く新しいいのちのこと。
このいのちは主を信じたと同時に与えられ、やがて主の再臨の日、ピリピ3章17〜21節 「・・・私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」とある経験を保証するいのちである。

※ 3章16節 「一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」とのビジョンのもとに書かれた福音書を共に紐解きつつ、お互いも救霊の重荷をもって学んで行きたい。

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