2019年04月27日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 6


ヨハネの福音書1章35〜51節

先週は、バプテスマのヨハネが主を見て、共に居合わせた二人の弟子に、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫んだところから、主の証人として知るべきお方の理解を再確認した。
B・ヨハネの※31、33節 「私自身もこの方を知りませんでした」とは、主とは親戚関係にあったことから鑑み、面識がなかったの意ではない。主を知るべき様には知らなかったの意。
その彼も、33、34節 「しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました」と、神からの直接的な顕現に与り、主を真の意味で知ることになった。この経験は、単なる知識的納得によってではなく、圧倒的な権威に裏付けられての知り方をもってのこと。それ故彼は、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と感動の余り叫んだのだ。
ヨハネは、どのようなお方として主を知ったのか?

@ 屠られる「子羊」としての生涯を生きるべく祭壇に向かって、一大決意を固められたお方として。
全人類の身代わりの死の為、無傷の子羊として、「今、わたしはここに来ております。・・・神よ、あなたのみこころを行うために。へブル10章7節」との決意をされたお方として。

A 屠られる「子羊」として捧げられた暁には、34節 「聖霊によってバプテスマを授ける」お方として。
単に犯した罪の赦しに留まらず、罪の性質・腐敗性の全てを焼き尽くす聖霊を注ぎ、聖霊を住まわせて新しい人とし、全人類をご自身の為に買い取るお方として知った!!

※ この「見よ」は、世に宣言すべき互いの叫びと覚えたいと。


今朝は、バプテスマのヨハネから「世の罪を取り除く神の子羊」と、再度翌日も又、36節 「見よ、神の子羊」と紹介された主が、彼の叫びを聞いてついて来た「二人の弟子」を初め、続いて三人をご自身の弟子とされた出来事に学びたい。
彼ら五人が、そして彼らを含む十二弟子の選出までには、ほぼ一年半の経過を見ることになるが、主が公的ご奉仕に携わる際の最初からのビジョンが、この弟子訓練にあったことを見逃せない。
B・ヨハネの紹介によって※37節 「・・・イエスについて行った」二人の弟子を、主がどの様に迎えておられるのか!!
ここに公的生涯に臨まれる主の厳格な姿勢を窺い知る。
38、「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。『 あなたがたは何を求めているのですか【詳訳:あなたがたの願いとは何か】 』 」にである。
勿論、主は彼らのその求めが何であるのかを知らないお方ではない。
唯、B・ヨハネの弟子だった彼らが、今までの指導者から離れて、主に従おうとするその決意にいい加減さがあってはならないからであり、彼ら自身の為にその動機を調べさせ、確固たる決意の程を確認させようとの意図である。彼らの返事は、直接の答えとは思えない、38節c 「ラビ( 訳すと、先生 )、どこにお泊まりですか」という質問になっているが、実はこの予期しない主からの質問への彼らのこの質問は、明確な答えである。何故なら彼らは、主を「ラビ」とお呼びし、主に敬意の念を寄せながら 《 主を知りたい 》 との訴えをもって答えたのだから。

その質問を主が受け入れて、39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われたことで、主が彼らに弟子としての資質があると認められたのを見る。弟子たちは、39節b 「彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た」のだ。何と見たのか? 彼らの一人アンデレが感動の余り、41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 私たちはメシア( 訳すと、キリスト )に会った 』 と言った」ことから、泊まっておられる場所を訪れるや、直ちに、B・ヨハネから伝え聞いた 《 救い主の証を認めた 》 ことが分かる。実に、ルカ2章12節 「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」をであり、《 極めてシンプルな生活、これだけあれば十分とする生活に見た価値観 》 それだけで主のご人格に触れ、主をメシアだと知った!!
ついて来た二人に「何を求めているのですか」と質問された主は、主の泊まっておられる場所を求めることを以て答えとした彼らに満足された。
主は、彼らの求めに「来なさい。そうすれば分かります」と言うだけで良しとされた。何と、歯切れの良い 《 心の深いところでのやり取り 》 ではないか!! 彼ら弟子とされた人々が聖霊に満たされて主の証人として派遣されるまでには、ペンテコステを通過しなければならないが、この時、主は弟子として持ち合わせるべき資質を見、更に、この「何を求めているのですか」によって動機が吟味され、主への人間的関心・好奇心ではなく、救い主としての主を知りたいとする人々だと認められたのだ。
こうしたやり取りに見た 《 主の弟子に求められる資質について 》 考えて、Message としたい。

@ 38、「あなたがたは何を求めているのですか」に対する答えを、いつも明確にされて行く者であること。

この質問は、初めて主にお会いした時に彼らを吟味した質問ではあるが、主からのこの質問は生涯的であると覚えておきたい。何故なら、主に近づけば近づく程、光に近づくのだから内的に深く痛く探られることになり・・・。十字架に臨まれる主に、右大臣・左大臣の席を求めたヤコブと使徒ヨハネに「自分が何を求めているのか分かっていません。マルコ10章38節」と言われる箇所がある。

A 39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われた主の如く、議論を止め、46節b 「ピリポは言った。『 来て、見なさい。』 」と言える者であること。

言葉による宣教以上に、「見なさい」と、主に感動している生活による宣教に力があるとの弁えを。

B 41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 ・・・メシアに会った 』 」と、身近な人々に影響力を持つ者であること。

B・ヨハネは二人の弟子に主を、アンデレは兄ペテロに、使徒ヨハネは兄ヤコブに主を、ピリポは45節 「ナタナエル」に主をというように、主は伝えられて行っている。

※ 主の求めに適った弟子で有りや無しやを吟味したい。

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2019年04月20日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 5


ヨハネの福音書1章29〜34節

先週は、6〜8節に登場するバプテスマのヨハネが唯、「まことの光」である主を証しするために遣わされた人物であるということと、彼の立ち位置こそ、キリスト者の立ち位置であることとを学んだ。
その立ち位置については、「荒野で」明確な召しに与るや働きを始めたB・ヨハネを問題視する宗教家たちから、質問攻めに遭遇することになるが、20節 「ヨハネはためらうことなく告白し、『 私はキリストではありません 』 と明言した」姿勢から学んだ。

@ 自己否定における潔さ。
キリストに帰せられるべき栄誉を、ほんの少しのことからでも自らに帰せられることのないようにとの注意深さである。その為に 《 救い主と自らの関係性 》 を明確にした。
23節 「私は・・・ 『 ・・・荒野で叫ぶ者の声 』 」にすぎないと断言し、26、27節 「その方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、僕の役割ですら与り得ない者だとする謙遜さ。

A 21節 「 『 それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。』 ヨハネは 『 違います 』 と言った・・・」 《 神の誉れにのみ生きる 》 高潔さ。
確かに彼は、マラキ4章5、6節で予告されていた人物。しかし、彼らにその者だと言ったところで、唯、反抗的な態度を取らせるだけとの賢明な判断の下、その事実を明かす必要なしとし、主に委ねて淡々と自らに与えられた使命を果たすことにのみ専念すべきとする弁え。

※ パウロの告白同様、ガラテヤ6章14節 詳訳 「このキリストを通して・・・死にました」の告白に生きる者でありたい、と。


今朝は、宗教家たちからの詰問に対応した翌日のこと、29節 「ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『 見よ、世の罪を取り除く神の子羊 』 」と叫んだバプテスマのヨハネの、信仰の姿勢に学びたい。
誰がそこに居合わせていたのか? 翌日、35節 「ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた」とあることから、名前を伏せている使徒ヨハネは、40節 「アンデレ」と居たと考えられる。この二人は、再度、B・ヨハネの、36節の「見よ」との指差しによって、主の最初の弟子となるが、この「見よ」に掛けたB・ヨハネの思いを、私たちはどの程度理解し、その思いに近づけるだろうか。主の出現を待ち望みながら、来る日も来る日も情熱を傾けて来た たった一つの使命感が、この「見よ」に込められているのだ。たった一つの使命とは、8節 「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来た」ことだが。
B・ヨハネが実に、「証しするため」との一事に掛けていたとする真価は 《 アンデレと使徒ヨハネ、次いで三人が主の弟子として従うことになる 》 この動きを喜び、3章26〜30節 「 『 ・・・皆があの方のほうに行っています。』 ・・・あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と、ここにある。先ず愛弟子たちが、更には皆が、「あの方のほうに」という現象を至上の喜びとし、生き甲斐だとするところに明白なのだ。
B・ヨハネについて考えた際、彼の立ち位置こそ、主の証人であるキリスト者の立ち位置だと学んだが、彼をして確実に人々を主に導いた信仰に学んで Message としたい。

B・ヨハネが、30節 「私の後に一人の方が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです」と言っているのは、1章1節 「初めに」の意味で、神ご自身だとの礼拝の告白である。肉体的誕生においては、主の母マリアへの受胎告知で御使いから、「・・・今はもう六か月です。 ルカ1章36節」と言われており、主より半年先に誕生しているのだから。
又、31、33節 「私自身もこの方を知りませんでした」とは?
面識がなかったということではなく、主の母マリアが受胎告知後、三か月身を寄せたのが、彼の両親の許だった関係から、公的生涯に導かれるまで互いの30年の間の何処かの時点で接触があったと考えるのが妥当ではないか。従って、互いの誕生の経緯をそれぞれの両親から聞かされてもいる筈。とするならば、この「知りませんでした」とは、厳密に考えて、何を意味しているのだろうか?
B・ヨハネが言った、33、34節 「・・・知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『 御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのですに示唆が。
両親から聞くことによって? 主と直接面識を持ったから? でもなく、B・ヨハネは淡々と為すべき分を果たしつつ、主からの直接的な顕現に与ることによって知ったのだ。

主の先駆者という途方もない責務を遂行するのに、神は人類の贖いという大事業の為、責任を持ってB・ヨハネに臨まれ、彼は確固たる信仰に導かれたのだ。さながら、出エジプト事業に召されても、自らの無力さを理由に何度も辞退するモーセを、顕現による派遣に導いたのに同様!! 知識的納得によってではなく、圧倒的権威に裏付けられての派遣に与った。
B・ヨハネは、これまで聞いて信じて来た主への確信をより鮮明にさせられ、強固なものにさせられ、遂に、29節 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」との宣言をもって福音のメッセージを叫んだ。B・ヨハネをして、殉教死をもってその使命を全うさせた原動力は、この確信だった。私たちの宣教の原動力も又、この確信なのだ。ヨハネは、近付いて来られる主を・・・

@ 屠られる「子羊」としての生涯を生きるべく祭壇に向かって、一大決意を固められたお方として見た。

全人類の身代わりの死を遂げる為に、無傷の子羊として、「今、わたしはここに来ております。・・・神よ、あなたのみこころを行うために。 へブル10章7節」との決意を新たに!!

A 屠られる「子羊」として捧げられた暁には、34節 「聖霊によってバプテスマを授ける」お方として見た。

単に犯した罪の赦しに留まらず、罪の性質・腐敗性の全てを焼き尽くす聖霊を注いで、聖霊を住まわせて新しい人とし、全人類をご自身の為に買い取るお方との体得!!

※ この「見よ」は、世に宣言すべきお互いの叫びと覚えたい。

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2019年04月13日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 4


ヨハネの福音書1章6〜8、19〜28節

先週は、6〜8節で登場させているバプテスマのヨハネを今朝からの学びに委ねて、冒頭からの「ことば」なるお方を、9〜18節で更に、「まことの光」として紹介している内容に学んだ。
この世が与えてくれる「光」とは別格に考える必要から、人間的標準を超越した「混じり気がなく完全な不変の光」と言い、それを「すべての人を照らす ⇒ ルカ2章34、35節【心を刺し貫き、思い全てを露わにする剣】」だとしている。そのお方が9節a’ 「世に来ようとしていた」は、旧約から預言されて来た 《 救い主の出現 》 が今現実になろうとしている、の啓示。
にも拘らず、10、11節 「・・・知らなかった・・・受け入れなかった」と、その究極が、主を「十字架につけろ」の声に。
ここで、12節 「しかし」と、大多数がこの主を拒絶したとしても、「神の子どもとなる【神の家族の一員になる】特権」に与る人々がいるという喜びを伝えているところに学んだ。「神の子どもとなる」とは、罪を犯したお互いには絶望的だったが、唯、13節 「神によって」可能となったと!!

@ この特権は、唯、14節a 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」主の謙卑による。
実際的に、18節 「・・・神を解き明かされ」、14節b 「栄光を見」、16節 「・・・恵みを受け」、その恵みとは、律法は罪の指摘のみであるが、主はその罪からの豊かな救いを与えるお方の意。

A この特権は、唯、12節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」に与えられる。
弁解せずに真実に悔い改め、救い主をお迎えする謙虚さだけが必要。

※ 3章19〜21節 《 光を憎むか愛するか 》 の二者択一のみと。


今朝は、前回、今朝からの学びに委ねていた人物、6、7節 「神から遣わされた一人の人・・・この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった」と紹介されている 《 バプテスマのヨハネ 》 に注目したい。
ヨハネの福音書は、彼が何の為に現れたかを明確にしている。
7節 「証しのために来た。光について証しするため」、8節 「光について証しするために」と、紛れもなく唯、「まことの光」である主を証しするためにと。それは取りも直さず、7節 「彼によってすべての人が信じるためであった」と。
使徒ヨハネが明らかにしている 《 バプテスマのヨハネの立ち位置 》 こそ、実に、キリスト者である私たちの立ち位置であり、キリストの証人として弁えるべき分であるが、B・ヨハネは実に、使徒ヨハネの言う通り、この使命感に生きた人物であったと知ることが出来ることは幸いである。
B・ヨハネが公的奉仕に携わった経緯について、ルカは※3章2節 「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と伝えているが、この「荒野で」という姿勢に、彼が如何に、父ザカリヤによって幼児期から聞かされていた任務【1章8〜17節】を厳粛に受け止めていたか、主を畏れつつ待ち望む人物であったかが分かる。いつ? 何を伝える? 先駆者としての弁えは? を、世の喧騒を避けて、単独「荒野」で待ち望んだのだ。
彼を紹介する使徒ヨハネの証言は紛れもない現実となり、彼は主からの賛辞を得て( マタイ11章11節 )姿を消すことになる。

「荒野で」明確な召しに与ってから公の場に出て間もなく、彼の評判は瞬く間に拡がりを見ることになり、救い主を待ち望んでいた宗教家たちを脅かす存在となって行った。
パリサイ人たちが派遣した人々とのやり取りから、如何に彼らが苛立っていたかが分かる。19節 「あなたはどなたですか」、21節 「それでは、何者なのですか」、22節 「あなたはだれですか」、25節 「なぜ、あなたは・・・」と浴びせる尋問は、決して好意的ではなく、目障りだからである。
派遣された人々に※20節 詳訳 「彼は告白し、否認することなく〈 真理を認め、それを隠そうとはしないで 〉、『 私はキリストではない 』 と告白した」を鍵に、主の証人としての毅然とした態度、在り方を学びたい。

@ 自己否定における潔さ。

B・ヨハネのこの告白は、救い主を待望していたユダヤ人から “ もしやこの方が救い主なのだろうか? そんな筈はない ” と、非難めいた気持ちでやって来た彼らであると察知した上での答え。この彼の出方に、彼が如何に 《 主をのみ印象付けようと、注意深く生きていたか 》 を垣間見る。
ほんの少しでも、キリストに帰せられるべき栄誉を、自らに帰せられることのないようにとの注意深さである。
その為に 《 救い主と自らの関係性 》 を明確にした。
a. 23節 「私は、預言者イザヤが言った、『 主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声 』 」ですと、ことばなる主を届ける唯の声にすぎないと。
b. 26、27節 「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と、全幅的信頼を持ってお仕えする唯の、否、最も賎しい僕にすぎないと。

A 21節 「 『 それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。』 ヨハネは 『 違います 』 と言った・・・」に見る 《 神の誉れにのみ生きる 》 高潔さ。

確かに彼は、マラキ4章5、6節で予告されていた人物ではある。しかし、彼らにその者だと言ったところで、唯、反抗的な態度を取らせるだけとの賢明な判断の下、その事実を明かす必要を感じなかったのだ。
彼は正しかった。後、言われた主のことばに注意したい。
マタイ11章14節 詳訳 「もしあなたがたが喜んで受け入れる( 承認する )ならば、このヨハネこそ【御国に先立って】来る筈になっていたエリヤである」と言われた断りを。何という知恵、賢明さを見ることか!! 私たちはどう応えるだろうか? はい、その「エリヤです」と言うのだろうか?
主の言われるように、「喜んで受け入れるならば」のことで、敢えて言う必要はなく、主に委ねて淡々と自らに与えられた使命を果たすことにのみ専念すれば良いとの分別。

※ パウロの告白同様、ガラテヤ人への手紙6章14節 詳訳 「このキリストを通して・・・死にました」の告白に生きる者でありたい。


posted by luckyfachan at 22:41| Comment(0) | ヨハネの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする