2019年01月31日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 105


ルカの福音書23章32節〜43節

先週のクリスマス記念礼拝では、処刑場に向かう主について来る、27節 「嘆き悲しむ女たち」に、28節 「わたしのために泣いてはいけません」と、血を滴らせながらも渾身の力を振り絞って彼らの誤りを正された主のみ思いに学んだ。

@ 28、「わたしのために泣いてはいけません」とは ?
主ご自身への受難に同情すべきではないの意。嘆く声を黙って聞いていることが出来なかったからであり、とことん魂の永遠を気遣って追い掛ける羊飼いの心である。 ゴルゴダに向かわれる主のご受難が【私たちの病、背き、咎( とが )】故だったと分かれば、主への同情心から感傷的になっては居られない恐れに見舞われる筈だから。

A 28節c 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われ、自分自身の罪の事実と罪への容赦なき裁きに「泣きなさい」と主は言われる。
29〜31節で、厳粛な裁きの日について、主は予告された。その時の人々の叫びについての30節は、復活の主によって ※ 黙示録6章12〜17節 「・・・私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ・・・」の聖句でも明らかにされた。その苦難の時、29節の説明のように、ユダヤ人の風習から蔑まれていた女性たちはむしろ、苦しむ子どもたちを目の前にしなくて済むということで羨( うらや )ましがられるだろうとも。

※ 主の「自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」とある 《 罪の事実を認めて聖前に悔い改めよ 》 に従い、心から悔いて流す涙をもって感謝の涙としたい、と。


今朝私たちは、ゴルゴダへの道を 《 倒れ崩れるみ体を起こされては、涙して悲しむ人々を正しつつ 》 上られた主が、遂に処刑に服された場面に目を向けなければならない。
処刑場に着くや否や、兵士たちは容赦なく、33節 「そこで彼らはイエスを十字架につけた」とあり、この時の様子については、詩篇 22篇の預言によって知らされている。その1節は、cf. プリント【十字架上の七言】4番目のおことばであるが、6〜18節 「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を見る者はみな、私を嘲( あざけ )ります。口をとがらせ、頭を振ります。『 主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。 』 ・・・彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」と、実に主のこと。
主が処刑されたこの場が、「どくろ」と呼ばれるのは、その名の如き場所だからだ。血生臭い場所で、処刑された受刑者たちの頭蓋骨が散乱しているからなのでは ?
主がこの地上に初めて身を横たえられた場所は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶。この処刑場のような呪いの場所では勿論ないが、出産の場所としては衛生上適していたとは言えない。しかし御使いは、「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。 ルカ2章12節」と言ったが、主の「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。 ルカ9章58節」を象徴。主の地上最後に身を横たえられた場所が「どくろ」で、十字架の上 !!
又しても、ぬくぬくと安泰であることを求める私たちの生ぬるさに光が当てられて、心刺される光景であるが、こうしたあしらわれ方こそが、御使いの言う救い主たるお方の「しるし」であり、 《 全ご生涯における全場面を象徴する光景 》 なのだ。
驚くべきことは、34節 「そのとき、イエスはこう言われた」と、このような戦慄が走る場面で発せられたおことばが、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」だったことにである !! まさか !! 誰も !! 処刑された人から聞かされる言葉だとは考えも及ばない、耳を疑う言葉が主の御口から発せられた !!

主のこのおことばを考えてみよう !!

@ 主は 《 民の執り成し手 》 大祭司としての資格を持って、聖父の聖前に大胆に出られた祈り。

実に、主が処刑されたこの日こそ、大祭司が年に一回( へブル 9・7 )会見の天幕の前で屠( ほふ )られた小羊の血を携えて、聖所から会見の天幕をくぐって至聖所に入り、契約の箱の恵みの座に注ぎ、民の罪の赦しを求めていた贖( あがな )いの日。
へブル 9章11、12節 「キリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、・・・永遠の贖いを成し遂げられました」と。この実現の為に、同 5章7〜10節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かて、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ・・・完全な者とされ・・・大祭司と呼ばれました」とある。
主が「父よ、彼らをお赦しください」と祈れば、聖父は、御子の完全な無傷の供え物に免じて赦されるとの、体を張っての確信によって大胆に出て下さった執り成しの祈りだった。
コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず・・・」との全き愛によって、罪人の言動の全てを、「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と致命的欠陥を知って祈られた。

A 神の子たちに対する 《 この生き方への招き 》 の祈り。

主のこの祈りは、共に処刑された一人の犯罪人に、40〜43節 「・・・ 『 ・・・おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。 』 そして言った。『 イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。 』 」と悔い改めに導いた。処刑された時には、主を嘲っていたのだが。
又、47節 「百人隊長」においても然り !!
初代教会最初の殉教者ステパノは、聖霊の愛に満たされて、主のこの祈りを捧げる人と変えられていた。使徒の働き 7章54〜60節の殉教の現場でのこと、そこに居合わせた迫害者パウロも又、後日、まばゆいばかりの彼の祈りに捕らえられ、殉教者としての生涯に導き入れられた。ここにこそ、宣教の鍵があるからだ。

※ 今年最後の礼拝の朝、主のこの祈りの故に救われたお互いも又、この生き方に招かれているとの自覚を持って新年を !!

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2019年01月25日

Candle Service の夕べ



ルカの福音書2章8節〜20節

主のご降誕を記念するクリスマスをご一緒にお迎えするこの夕べのひと時を感謝したいと思います。ようこそお出掛けくださいました。
今晩は一つのことに思いを馳せて頂きたい。
私たち全人類を宇宙の中の一つの星、自然に恵まれた地球( 近年に至っては地球が疲れていると言われるようになり、人類の生存を脅かす環境問題が発生している )に置いて下さった創造主である神が、宇宙という果てしない無限の神秘的空間に幾つもの巨大な星を創造され、今も秩序を保ちつつ「その力あるみことばによって万物を保っておられ・・・ へブル 1章3節」畏敬をもって礼拝されるべきお方、神が、最も関心を寄せておられるところとは、何処に ? ということに。
そしてあえて申し上げたい、実は神の本質的な偉大さを何処に ? 私たちは見るべきかという問い掛けでもある。
と同時に私たちは、日頃、何に関心を抱き、何をもって偉大だとし、優秀だとして称賛する者かと自問自答したい。

聖書全巻を通して知る真理であるが、『 ルカ 2章8〜20節 』 からその答えを見てみたい。この記事は、イエスの誕生が告げられた時のもの。
告げられたメッセージは、10、11節 「御使いは彼らに言った。『 恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 』 」だった。告げられたメッセージは、「恐れることはありません」とあるように、聞く人々の誰もがそう簡単に理解できるような次元のものではないからでしょう、しかし人類にとって最も必要としていた、願ってもない出来事についてだった。
このニュースが、ユダヤ人に対してあったことについては、納得のいくところ。ユダヤ人は、かつて神がアブラハムに「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。 創世記 12章1〜3節」と言われた 《 選ばれた民族 》 だからであり、救い主誕生について長年に亘( わた )って預言され続け、救い主誕生を待ち望む民族だったからである。
待望し続けて来た比類なきメッセージを、眩( まばゆ )いばかりの栄光輝く中で、初めに受け取った人々が、8節 「羊飼い」だったこと。当時の指導的立場に君臨していた人々ではなかった。
むしろ社会的には卑しい仕事と見做されていた羊飼いだったが、このメッセージが伝えられた時には、15、16節 「羊飼いたちは話し合った。『 さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。 』 そして急いで行って・・・捜し当てた」とあるように、謙虚に受け止められる人々だった。何という素直さが !! 理屈をこねて、議論する人々ではなかった。その当時、宗教的指導者たちが存在してはいたが、後、主が「偽善の律法学者、パリサイ人」と呼び 《 杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦、偽善と不法で満ちている。白く塗った墓。やもめを食い物にしている 》 と嘆かれた人々。

何故 ? 当時の大金持ち階層にあった指導者、富裕層にではなかったのか ? ローマ人への手紙 1章28節 「彼らは神を知ることに価値を認めなかった」人々、物質的豊かさに価値を見出し、成功志向に身を置き、ひたすら人々からの称賛を求めているならば、御使いのメッセージが届かないからだ。彼らとは真逆の境遇に在る羊飼いは、こうした世の傾向性には馴染まず、それもその筈、人は物質をもってしては満たされないように造られているからであり、いよいよ関心は心の必要にと向かう人々だったから。世はこのような人々を、情けない、もっと楽しめば良いではないか !! もっと努力すれば・・・とけしかける。しかし神の目は、この世的な価値観では飽き足らず、内的渇望に正直に向き合う人々に向けられている。
神はそこに何を届けて下さる為だったのか ?
11、12節 「この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」と、彼らが最も必要としていた 《 救い主キリスト、罪から私たちを救う救い主 》 を。『 飼葉桶に 』 とは、人類の救いの為に屈辱的な扱いをお受けになる生涯の象徴である。
しかしそれこそ、救いがもたらされる徴( しるし )だと。
主の誕生地ベツレヘム、主の母マリアの素性の貧しさも合わせて、主の目はここに価値を見出させたお方。

※ 最も低くされたところに目を留められることこそ、真の偉大さ !!

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2019年01月23日

クリスマス記念礼拝 『ルカの福音書』 より 104


ルカの福音書23章27節〜31節

先週は、主の死刑を叫ぶ最高法院に屈服したピラトが、遂に主を死刑執行人に引き渡し、処刑場に引かせる場面に注目。
道のりとしては、数百メートルではあるが、前日からの鞭による拷問が主の肉体を衰弱させ、死刑囚が背負わされる十字架の重さに耐えられず、その途中から「田舎から出て来たシモンというクレネ人」が主に代わったという状況である。
ここで、注目したのは、他の福音書で彼が、「無理やり背負わ」されて抵抗した人として出て来たところにである。
主に代わって十字架を背負うことに抵抗したシモンだったが、その彼が永遠的祝福に与ったことをもって激励とした。
マルコは、「アレクサンドロとルフォスの父」と、諸教会にその名を知られるキリスト者となっていたと伝えており、「ルフォス」は、ローマ人への手紙 16章13節 「主にあって選ばれた人」、又、「彼と私の母」とあるのは、十字架を背負ったシモンの妻であり、パウロに献身的に仕えた人物として出て来ているのだから。「十字架を無理やり背負わ」されたシモンとその家族は、何という恵み !! 救いに与ったのだ !!
シモンは、直接主のみ顔を拝し、十字架上での主のおことばにも触れて、主に立ち返ったのだろう !! 彼は後、担うまいと抵抗したあの十字架は、本来自分が背負うべき十字架だったことを知って愕然としたに違いない。無知の故に、抵抗したことを悔いたのだろう。本来、どれ程の屈辱を受けることがあったとしても、当然だとする信仰で主に感謝しつつ、買って出るべきだったとして、信仰を新たにしたに違いない。

※ へブル 13章11〜16節 「ですから私たちは・・・」に従いたいと。


今朝は、処刑場に向かう主の後からついて行った、十字架を背負うシモンだけではなく、27節 「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして」従って行った人々に、ご自身心身ともに力尽きておられる中から振り向いて語られた主の 《 重要なおことば 》 に注目したい。
28節 「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と慈しみ深く、しかし「いけません」と言われたおことばに。どう考えても、このことばには単なる優しさではなく、主の叱責とも窺( うかが )える厳粛さがあると見て学びたい。
従って、今朝 《 クリスマスを記念して礼拝 》 を捧げている全世界の、私たち全ての人々に対する警鐘が鳴り響いているメッセージであると。

@ 28、「わたしのために泣いてはいけません」とは ?

主はこのおことばを、27節 「イエスのことを嘆き悲しむ女たち」に向けられた。血を滴らせる主は渾身の力をふりしぼって、ご自身に同情を寄せて嘆いている人々の涙を歓迎せずに、むしろ「泣いてはいけません」と退けられた。ここにも、35節で、主に向かって揶揄する人々の声が。「民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。『 あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。 』 」で証言された 《 主の生き様の証 》、主に反抗して止まない人々でさえも認めざるを得なくされた主の「他人を救った」という生き様の証を見る。
主は、ご自身のご受難に同情して嘆く嘆きを、黙って聞いていることが出来なかったからである。何という !! とことん魂の永遠を気遣って追い掛ける羊飼いであることか !!
確かに主は、聖父から 《 人類の罪への怒りを一手に引き受けることによって 》 呪われ捨てられることへの恐怖故に、「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られたのではあるが、人類の救いの為の最後の試みに勝利されて、羊の為に極みまで心を砕かれたのだ。
主への感傷的にむせび泣く涙を、主は退けられる。
宗教的芸術が、私たちを主への感傷的な涙に誘うにすぎないのであれば、仮にそこに荘厳さ、感情的高まりがあったとしても、ゴルゴダに向かわれる主は退けられる。
主はペテロの手にした剣の一振りによって助けられなければならない惨めな方ではない。その時にですら助けを求めるならば叶うが、それをあえてしなかった救い主だから。
そもそも、ゴルゴダに向かわれる主のご受難が何の為だったのかを考えれば、感傷に浸っている場合ではないから。
イザヤ書 53章4節 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと」と思っている限り、私たちは感傷的な域から抜け出すことは出来ない。が、5、6節 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎( とが )のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。・・・しかし、主は・・・彼に負わせた」と分かると事態は変わる。

A そこで主は、28節c 「むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われた。

即ち、イザヤ書 53章の預言に従って、ゴルゴダに向かわれる主のその無残なお姿が 《 私たちの病、背き、咎 》 故だったと分かったならば、感傷的な思いに浸っては居られないという恐れに見舞われる筈だから、私たち自らの罪の事実と罪への容赦なき裁きに「泣きなさい」と主は言われる。
29〜31節で、厳粛な裁きの日について、主は予告された。
明らかに、その裁きとは、31、「生木にこのようなことが行われるなら・・・」と、ご自身への、人類の罪への聖父の怒りを十字架上で明らかにされるように、自らの罪の事実を認めて悔い改めないならば、その「枯れ木」に対する神の怒りは如何ほどであろうか !!
その時の人々の叫びについての30節は、復活の主によって ※ 黙示録 6章12〜17節 「・・・私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。・・・」の聖句でも明らかにされた。
その苦難の時、29節の説明のように、ユダヤ人の風習から蔑まれていた女性たちはむしろ、苦しむ子どもたちを目の前にしなくて済むということで羨( うらや )ましがられるだろうとも。
主の言われた「自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」とは、主のご受難に自らが受けるべき罪への呪いを見て 《 罪の事実を認めて、聖前に悔い改めよ 》 である。

※ 心から悔いて流す涙を通して、感謝の涙としたい。

posted by luckyfachan at 19:30| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする