2018年12月31日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 101


《 待降節T 》
ルカの福音書22章63節〜71節

先週は、主が、聖父からの呪いを意味する ※ 42節 「杯」を、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。 ヨハネ 18章11節」と告白して葛藤から勝利して立ち上がられるや、47節からのユダを迎えた時の場面に注目した。
主のお気持ちは唯、裏切るユダへの愛を極限まで注ぎ、 “ ユダ、あなたは本当にそれで良いのか ” と反省を促す情熱のみ。
しかし主の極みまでの愛はユダにだけでなく、もう一人の裏切者、33節 「あなたとご一緒なら・・・」と言ったペテロにも。
そのペテロは何と !! 悲しい54〜60節の 《 三度主を否む 》 正体を見なければならなくされることに。ところが、61節 「【すると】主は振り向いてペテロを見つめられた」とある !!
ここで、主の極限まで注がれたユダとペテロへの愛は同じだったにも拘らず、注がれた側には、極めて厳粛な生死を分かつ結末があったことについて考えた。
ユダの結末については、マタイ 27章3〜10節に言及される死・破滅・暗黒が。しかしペテロの結末は、やがて殉教者に。
彼らの生死を分かつことになった決め手は、61、62節 「・・・主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく【非常な悲しみに襲われて】泣いた」この出方にある。
私たちは、ユダ的 ? ペテロ的 ? 主は、ご自身への損失を数えずに、主の聖前で気付かされた自らの貧しい実際に 《 激しく泣く 》 者を完全に救うことが出来るお方なのだ。

※ 自らの過ちそのものを悔やむことに終始するならば、ユダ的結末を迎えるのみ。しかし、過ちの現実に痛み、悲しんで十字架に駆け込むならば、殉教者とされたペテロに同じだと。


今朝は、ゲツセマネの園での捕縛後、22章63節から見なければならない寝ずの尋問を浴びせ掛けられる主に近づく為に、へブル 12章2〜4節 「・・・イエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです」の勧めに従いたい。
聖霊が、迫害下にあって苦しみ、あわや背教し兼ねない信仰者を激励すべく、 《 受けられた辱めをものともしなかった主を凝視するように 》 と勧めている聖句である。
主は、ここで受けられる屈辱の全てを、「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍」ばれたと、聖霊は伝えている。このことは、預言者イザヤを通しても、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。 53章11節」と伝えているところである。
イザヤは、「自分のたましいの激しい苦しみ」と言っているが、ルカに戻ると、63節には「イエスをからかい、むちでたたいた」とあり、主が受けられた仕打ちは肉体的拷問に及ぶ激しさであるにも拘らず、ここで触れられているのは「自分のたましいの激しい苦しみ」だと !!
私たちが「辱めをものともしなかった」主を凝視すべきところとは、この「たましいの苦しみ」なのだ。

自問自答したい。今日私たちがもし、何らかの苦しみという経験、苦しいとしていることがあるとしたなら、一体何をもって苦しいと言っているのだろうか ? 果たして、主の経験しておられる苦しみに同様なのだろうか ? もし、被害者的意識 ? 自己憐憫的傾向にあるならば、到底主の経験しておられる苦しみとは似ても似つかない。
主の「たましいの激しい苦しみ」とは ? エレミヤ書 31章20節 リビングバイブル訳 「エフライムは今でもわたしの子だ。目に入れても痛くない子であることに、変わりはない。罰を加えないわけにはいかないが、それでもなお、彼を愛している」、20節e 「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき( 戦慄する )、わたしは彼をあわれまずにはいられない」とあるように、屈辱を加える者、嘲( あざけ )る者の末路を痛み、彼らの魂の現実を思って、激しく苦しむ苦しみなのだ !!
主を夜通し監視していた者たちのしたことに目を向けると、ルカ 22章63〜65節 「イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、『 当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ 』 と聞いた。また、ほかにも多くの冒涜のことばをイエスに浴びせた」。マタイ、マルコでもそうだが、マルコ 14章65節によると、「唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、『 当ててみろ 』 と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った」とあり、彼らの素手で為し得る限りのことをしたのだ。
主は、これら全てを受ける度に、彼らをそうさせている主への反逆心、彼らの内なる闇に激しく痛まれるのだ。

私たちの誰が、そのような彼らの闇を憐れんで激しく痛まれる主を知る者だろうか ? 憎しみの限りを尽くす彼らへの愛を知る者だろうか ? 私たちは、このような状況での隣人への思いが、果たして主に同じだろうか ?
更に、夜明けと同時に、66節以下、エルサレムの最高法院 ※ サンヘドリン、宗教のみならず司法を取り扱う最高議会に連れ出され、67節 「おまえがキリストなら、そうだと言え。」と苛立ちを露わにしての詰問攻め。
ところが主は、彼らの詰問には直に応じなかった。
言うまでもなく、ペテロが、自らの命を惜しんで回避した態度とは対照的で、答えることの無意味さの故にむしろ、ご自身の立場を明確にされ、69節 「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、責任ある証言をされた。
案の定、この証言は指導者たちの怒りを引き出し、彼らは激怒して、70節 「では、おまえは神の子なのか。」と詰め寄った。その時更に、70節b 「イエスは彼らに答えられた。『 あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。 』 」と宣言された。指導者たちは、71節 「・・・これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と 《 主を冒涜罪で訴えるべく 》 遂に、23章1節 「イエスをピラトのもとに連れて行った」と、ローマの法廷に持ち込むことに。

※ へブルの聖句を覚えよう !! 12章3節 「あなたがたは・・・このような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないように」に注意を払いたい。

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2018年12月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 100


ルカの福音書22章47節〜62節

先週は、主が最後の晩餐から立ち上がられて後、ゲツセマネの園に退き、44節 「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた」、人の子として経験された極限状態の苦悩に注目した。

@ 主の苦悩は、殉教者の苦悩ではなく贖罪者の苦悩 !!
殉教者とは、自らの個人的犯罪の故に処刑された人々では勿論ない。むしろ、初代教会のステパノのように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。 使徒 7章60節」と迫害者の為に祈りつつ、息を引き取った人々。とは言え、神の聖前においては皆、赦されるべき罪人として、自らの罪を認めて悔い改め、生涯的方向転換をした人々だった。
ところがイザヤ書 53章を見ると 《 主が、単なる殉教者ではなく贖罪者だった 》 即ち、本来裁かれる必要のないお方が裁かれるお方となられたとあり、死とは無縁のお方が。

A 主の苦悩は、殉教者の苦悩とは根本的に違う !!
殉教者にあるのは激励のみで、神から捨てられる恐怖はない。しかし主は、耐え難い恐怖に襲われ、怯( おび )えたのだ。主が飲み干すことによって受けることになる 《 神の呪い、神に捨てられるという恐怖 》 を。

B しかし主の苦悩は、捨てられる恐怖に勝利された !!
「この杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」との告白によって、人類への贖( あがな )いを計画された聖父のご意思に、自らのご意思を完全に従わせ、勝利を取られた。この時以来、毅然と十字架に向かわれた。

※ キリスト者の勝利も、42節 「しかし、わたしの願いではなく、みこころが」との、この明け渡しにあり、主に倣いたいと。


今朝は、主が聖父から呪われることを意味する ※ 42節 「この杯」を、「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。 ヨハネ 18章11節」と、葛藤から勝利して立ち上がられるや否や、47節、ユダを「先頭に」やって来た群衆を迎えられた場面に注目したい。
この場面で、先ず私たちは、47c、48節 「ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。しかし、イエスは彼に言われた。『 ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。 』 」と仰った主のお心はどの様だっただろうと、胸が熱くなる。
マタイの26章50節 別訳には、「友よ、※ 何のために来たのですか」と。マルコには、14章44、45節 「イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、『 私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ 』 と言っておいた。ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、『 先生 』 と言って口づけした」との言及がある。
何れの記事でも伝えられている主のお気持ちは、唯、裏切ろうと企てているユダへの愛を極限まで、惜しみなく注ごうとの情熱で占められている。 “ あなたは本当にそれで良いのか ” 、敢えて「何のために・・・」と尋ねて反省を促し、 “ 今からでも遅くはない ” との言葉を掛けられる情熱を。
しかし、主がご自身の愛を極みまで注がれたのはユダだけではなかった。もう一人の裏切者となった人物にペテロがいる。
ペテロは、33節 「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言っていた。

確かにペテロは、本気でそうしようと思っていた。
その証を、49、50節の衝動に見る。「周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、『 主よ、剣で切りつけましょうか 』 と言った。そして、そのうちの一人( ペテロ )が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした」。
ところが、そのペテロも、何と !! 悲しい現実を自らの正体として見なければならなくされることに。
54〜60節で、予期せぬ事態に遭遇することになったのだ。
それは、56、57節 「 『 この人も、イエスと一緒にいました。 』 しかし、ペテロはそれを否定して、『 いや、私はその人を知らない 』 と言った」、58節 「 『 あなたも彼らの仲間だ。 』 しかし、ペテロは 『 いや、違う 』 と言った」、59、60節 「 『 確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。 』 しかしペテロは、『 あなたの言っていることは分からない 』 と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた」と、主が彼に予告された通り 《 主を三度否んだ 》 のだ。
ところが何と !! 61節 「【すると】主は振り向いてペテロを見つめられた」とあるではないか !!
主は、「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」と声を掛けられたのと同じ情熱をもって、見つめられたのだ。
主から自らの拒絶を予知されて、32節 「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われても、気にも留めず、むしろ心配ご無用とはね除ける勢いだったペテロを、主は「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」との期待をもって見つめられたのだ。

ここで考えたい。主の極限まで注がれたユダとペテロへの愛は、同様だったにも拘らず、注がれた側には、極めて厳粛な生死を分かつ結末があったことについて。
ユダの結末については、マタイの27章3〜10節に言及される死・破滅・暗黒が。しかしペテロの結末は、やがて殉教者に。 《 彼らの何が ? 》
生死を分かつ決め手は、61、62節 「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく【※ 非常な悲しみに襲われて】泣いた」この出方にある。
ペテロは、如何に自分を知らない者、忠告に謙虚ではなく傲慢不遜な者、主を思っても自らの熱意では成し得ない者、結局は自らの身を守る者、十字架の主を恥とし世的価値観を選び主を捨てる者であるか・・・を知らされて、その自らの霊的貧困さを認めて悲しむ悲しみに襲われて泣いた、ここである。
私たちは、ユダ ? ペテロ ? 主はご自身への損失を数えず、主の聖前におけるそれぞれの悲しい現実に気づかされては 《 悲しみに襲われて泣く者 》 を完全に救うことが出来るお方であると覚えたい。

※ あくまでも唯、自らが犯した過ちそのものを悔やむことに終始するならば、ユダ的結末を迎えるのみ。しかし、犯した過ちの現実に痛み、砕かれた悔いる心で十字架の下に来るならば、殉教者とされたペテロに同じと覚えて、謙りたい。

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2018年12月18日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 99


ルカの福音書22章39節〜46節

先週は、35節で主が、弟子たちにご自身と共にあった生活を振り返らせてから、36節で、「しかし今は」と警告し、37節 「わたしに関わることは実現するのです」という十字架の日を迎えるに当たって 《 ただならない新しい局面に入ると告げられたおことば 》 に注目した。
それは、今後の為に ※ 36節 「・・・を持ち、・・・剣を買いなさい」と伝えることによってであるが、彼らの即刻の反応は、38、「ここに剣が二本あります」だった。弟子たちは主の意図されたことが理解できていたのだろうか ? と考えてみた。
49、50節で大祭司のしもべに切りかかった【ヨハネ 18章10節 「ペテロ」】が、主から ※ 同 11節 「剣をさやに収めなさい・・・」、マタイ 26章52節 「剣を取る者はみな剣で滅びます」と叱責され、主は切り付けられたしもべを癒されたことから、弟子たちが、剣を持つように言われた主の意図を理解していたとは考えられない。

※ こうしたことから二つのことを考えた。
@ 弟子たちは、直訳主義・物質主義という不運な病気にかかっていたと、ラルフ・アールは言っているが、正に然り。みことばの身勝手な悪用には気をつけたい。自らの身を守る為にならば、剣を使って良しとする文化には NO !! と。
A 実際、主の言われた「剣を買いなさい」、又、弟子たちからの「剣が二本あります」に対して、主が「それで十分」と答えられた意図が分からないとしても、無理に考えようとはせずに、主のご性質から全てを鑑( かんが )みつつ、信頼に生きることに留意したい、と。


今朝は、最後の晩餐から立ち上がられた主が、三人の弟子だけを伴ってオリーブ山のゲツセマネの園に退かれ、十字架を前にして祈られた祈り、44節 「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」という、 《 人の子として経験された極限状態の苦悩 》 に注目を。
人の子として生きて下さった主が、私たち罪人の誰も経験することのない、経験し得なかった、経験する筈もない苦悩を味わわれたという事実に思いを馳せながら、ゲッセマネで祈られた主に近づかせて頂きましょう。

@ 主の苦悩は、殉教者の苦悩ではなく贖罪者の苦悩 !!

殉教者とは、自らの個人的犯罪の故に処刑された人々では勿論ない。むしろ、初代教会における最初の殉教者ステパノのように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。 使徒 7章60節」と迫害者の為に祈りつつ、息を引き取った人々。とは言え、神の聖前においては皆、赦されなければならない罪人として、人生の何処かで自らの罪を認めて悔い改め、生涯的方向転換をした人々だった。
そのような訳で彼らは、人々に 《 罪を認め、悔い改めて罪の赦しと清めに与るよう、聖霊によって新しい生き方を迫った 》 器たちであり、迫害者を敵とは見做さず、むしろその姿はかつての自分との意識に立っている器たち。
ローマ皇帝の名の下で殉教死を遂げたパウロも又、自らを、「信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例( ※見本 )・・・ テモテ 第一 1章12〜16節」でしかないと言っている。
あくまでも自らを罪人と認め、迫害者同様、神に裁かれなければならない存在だとの自覚に立っている人々。
ところがイザヤ書 53章を見ると 《 主が、単なる殉教者ではなく贖罪者だった 》、即ち、本来裁かれる必要のないお方が裁かれるお方となられたとあり、死とは無縁のお方。

A 主の苦悩は、殉教者の苦悩とは根本的に違う !!

殉教者ステパノには、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て・・・ 使徒 7章55節」との主からの激励があり、殉教者パウロも、「みな私を見捨ててしまいました。・・・しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。・・・主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。 テモテ 第二 4章16〜18節」と、あるのは激励のみで、神から捨てられる恐怖はない。しかし主は、耐え難い恐怖に襲われ、怯( おび )えたのだ。
主のゲッセマネにおける初めの祈りは、42節 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください」だった。マタイ、マルコの並行記事では三度こう祈られたとある。しかもマルコには、「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか・・・ 14章36節」と、その願いには切実さがある。取り去って頂きたいと祈られた「杯」には神の呪い、受けるべき 《 人類の罪、人類に死をもたらす恐るべき罪 》 が盛られている。
主が飲み干すことによって受けることになる 《 神の呪い、神に捨てられるという恐怖 》 なのだから。
人類の身代わりを回避されたことはない。弟子たちからの仕打ちを予知する中、「それぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません」と自らを鼓舞されたが( ヨハ 16・32 )、遂に聖父から捨てられるとの現実から逃れられず、神に捨てられるという苦悩なのだ。

B しかし主の苦悩は、捨てられる恐怖に勝利された !!

それは、「わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」との告白によってである( マタ 26・42 )。人類の贖( あがな )いを前に、どうしても聖父から捨てられ、呪われるとの現実を、回避する訳にはいかないとの合点である。ゲッセマネの祈りに向かう主の心に、既に始まっていた恐怖ではあった。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『 父よ、この時からわたしをお救いください  』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。 ヨハネ 12章27、28節」と。
遂に主は、人類への贖いをご計画された聖父のご意思に、自らのご意思を完全に従わせ、勝利を取られた。この時以来、毅然と十字架に向かわれた。

※ キリスト者の勝利も、42節 「取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と従う 《 この明け渡しにのみ 》 ある。主に倣いたい。

posted by luckyfachan at 19:20| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする