2019年05月17日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 9


ヨハネの福音書2章13〜25節

先週は、主の「わたしの時」に対する聖父のご指示が明確にされて後、12節※これまでの家族との送別の時を持ってから、13節 「さて」と、エルサレムへの最初の訪問から先ず手掛けられた 《 宮清め 》 に注目した。主による 《 宮清め 》 は、公的ご生涯の初めと最後の受難週に入られた時とで二度だった。
過越の祭りで捧げる動物売場、神殿税通貨の両替所などは、巡礼者の便宜を図る善意と見受けられるだけにその偽善は恐ろしく、神殿が商業化され法外な利益を得る場となった。
柔和なお方である主が、15節 「細縄でむちを作って」立ち上がられたのを見て想起した弟子たちからの※17節は、宮清めの動機であるが、この「あなたの家を思う熱心」とは、主の聖父への激しい情熱を意味し、主は、神殿を「わたしの父の家」と宣言し、もう一度 《 聖父の神たる尊厳、権利を宣言し、聖父を礼拝されるべき権威者である 》 と迫られた。
そこで横行していた悪事の全て※16節 「それを ここから持って行け」と閉め出されたのだ。
今日的に主は、現在、神の宮とされている【Tコリント3章16、17節】私たちに、神の権利、権威を認めているか尋ねておられる。何故? 私たちは神に占領された礼拝者であるべきだからであり、不敬虔があるなら、罪と汚れの全てを十字架によって追放されるお方として証ししておられる!!

※ 私は真の礼拝者であるのかが問われている。主は神の子たちを真の礼拝者とすべく、神の宮から悪しき全てを追放されるお方と覚えたい、と。


今朝は、エルサレム訪問で先ず手掛けられた主の 《 宮清め 》 を非難して、18節 「すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。『 こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。』 」と、戦いを挑んで来た動きに注目したい。
それは、今まで何ら問題視されずに堂々と行って来ていた神殿での売買を、突如!! 姿を現した主によって、16節 「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と強行に追放されることになったからである。そして、神殿を「わたしの父の家」と主張する主に、もしそれが事実だと言うならば、その裏付けとなる「しるし」を見せるようにと迫ったのだ。
主のお答えは、ユダヤ人には度肝を抜かれるものだった。
19節 「イエスは彼らに答えられた。『 この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。』 」だったから。主のこのおことばがどれだけ衝撃的であったかは、三年後、主が十字架週における最高議会での裁判の際、マタイ26章61節 「この人は、『 わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる 』 と言いました。」と訴えられており、又、十字架刑に処せられた時にも、27章39、40節 「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。『 神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』 」と、この時とばかり、皮肉って嘲笑されたことで分かる。
群衆は挑戦的に※ヨハネ2章20節 「・・・あなたはそれを三日でよみがえらせるのか」と反論しているが、真意が理解出来なかった。

こうして初めての公的ご奉仕の場となったエルサレムでは、ガリラヤでの友好的・好意的反応で受け入れられたのとは打って変わり、敵対視する人々との出会いに始まっている。
18節の「どんなしるしを見せてくれるのか」に対して、微動だにせず※19節 「この神殿を壊してみなさい」と、難問を突き付けられた主に、淡々と 《 公生涯で直面することになるであろう抵抗に備えられた信仰 》 を見る。具体的には・・・?

@ 主は、21節 「ご自分のからだという神殿」だとしつつ、神殿は建て直される、即ち 《 復活することをもってそのしるしだ 》 とする信仰。

この信仰こそ、この始まりから経験される ありとあらゆる迫害、攻撃という形に表れる心の根底に巣食っている肉的性質( 嫉妬心、殺意、貪欲、悪意、高ぶり )に怖じ気付かずに対応させる不動の力である。
23節 「イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」とあるが、それらをもって裏付けとはされずに、復活を提示された。目の前で行われたしるしは、救い主の証拠としてなされたものではあるが、それを見たからといって、人々が主に明け渡す信仰者になる訳ではないと知っておられたから。目で見て信じると言うだけであって、未だ見えないものを確信するという質の信仰ではない。
主は、人々の好奇心を煽って惹き付けたり、その場限りの当面の必要を満たしたりすることをもって、救い主としてのご自身を現そうとは思われなかった。主はむしろ、人々がそれを聞けば、内心を見透かされては怒りをぶつけ、食って掛かって来ざるを得なくされるような事態にされる。敢えてではなく、結果的にそうなる。
因みに、6章60節 「これはひどい話だ」、8章48節 「あなたはサマリア人で悪霊につかれている・・・」、同52節 「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった」、同59節 「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った」と。彼らの受けが良かろうが悪かろうが、その反応を恐れずに、神殿を「わたしの父の家」と証しされ、それに対する証拠を求められたならば 《 復活こそ 》 そのしるしだと。
弟子たちでさえも、2章22節 「・・・思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じ」ることになる。

A 23〜25節 「・・・しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかった」とする信仰。

ここには、主の徹底した 《 聖父と御子との絶対的関係の確立 》 がある。罪人であるお互いは独善的になる危険性があるので、絶えず客観性を必要としているが、主が言われる場合には、そうした恐れのない確信。お互いの倣うべき在り方の為に、言い方を変えるならば 《 聖父が良しとされるか? どうか? のこの一点にのみ関心を寄せ、何事を為すにも肉的なものの全てを介入させない真面目さ 》 である。

※ 霊的主との自立した信仰の確立に留意した信仰を!!

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2019年05月11日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 8


ヨハネの福音書2章12〜17節

先週は、11節 「最初のしるしとしてガリラヤのカナで行」われた 《 水をぶどう酒に変えた 》 奇跡の意義と、そこに秘められた※3、4節に見る 《 主と母の信仰 》 に学んだ。
聖父の時を待つ主と、処女降誕を経験し、主を育てつつ、我が子の公的生涯に入る日を慎重に待ち望んでいた母との信仰である。主に退けられたやに見えた母による、5節 「あの方が言われることは、何でも・・・」に、主のおことばに怯まず、むしろ秘かな喜びをすら感じての指示と窺える。
主は、この不測の事態に聖父の定めた「わたしの時」と確信し、7節 「水がめを水でいっぱいに」と指示して奇跡を行われた。
この奇跡の鍵は、9節 「ぶどう酒になっていたその水」が、6節 「ユダヤ人のきよめのしきたり ⇒ きよめの儀式」の為に置いてあった 《 石の水がめの中の水 》 であったことにある。
一言で 《 主のご降誕の究極的目的である救いの何なるかを示すしるしとしての奇跡 》。即ち、水がめの水は仰々しく手足を洗う外的清めの為のものであり、洗ったことを以て神の前に清いとする儀式を意味していたが、このきよめの儀式に終わりを告げる奇跡、《 主を信じる信仰によって与えられる清め 》 がそれに代わったと告げる奇跡だった。
主は、この「良いぶどう酒」そのものによる喜びを与える為ではない、水によるきよめの儀式では与えられなかった喜びを、「ぶどう酒」がもたらす喜びに擬えた主の福音を与えるとの宣言だったのだ。果たして人々は、それを求めるか?

※ 聖父のご指示を待ち望んで行われた初めての奇跡の意義を正しく理解し、主の与える福音の喜びの再確認をと。


今朝は、主が 《 きよめのしきたり用の水を良いぶどう酒に変えた 》 最初のしるしによってご自分の栄光を現されたことを機に、ご自身に委ねられた 《 公生涯に入るべき時を確認されて初めてのエルサレム訪問 》 での出来事に学びたい。
この新たな局面を迎えられた主が、その前に※12、13節でそのご生涯に節目を!! ここでのけじめを明らかにされた姿勢を見逃さずに見ておきたい。カナの婚礼時には、1、2節 「・・・そこにイエスの母がいた。イエスも弟子たちも」と、母の許での生活上、居合わせた関係性があったこと。その奇跡後も、12節で、弟子たちの名を連ねる前に「母と弟たち」とある。
ここに、これまでの家庭生活における主の忠実さを見る。
主の12歳の時の記事【ルカ2章41〜52節 「・・・それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。・・・イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びていった」】は、実に主のご奉仕が始まる30歳までの18年間における誠実さの証。49節 「父の家にいるのは当然のこと」とする信仰を抱きつつ、時が来るまで仕える姿勢。
しかし、一旦「わたしの時」に対する聖父のご指示が明確にされた今、13節 「さて」と立ち上がられる直前、カナからご自身の宣教拠点カぺナウムに下り「長い日数ではなかったが・・・滞在され」、家族に礼を尽くして送別の時を守られた。
主のご奉仕を見守る母と家族の姿が、折に触れ出て来るが、ルカ8章19〜21節 「・・・わたしの母・・・とは、神のことばを聞いて行う人たちのこと」と、新しい霊的親族関係を示唆された。
その上で、母の最期を使徒ヨハネに託される在り方!!

13節 「さて」と 《 エルサレムへの最初の訪問 》 をもっての公生涯は、こうした丁寧な人間関係における誠実を尽くされた上で開始された事実を念頭に置き、その初めに手掛けられた 《 宮清め 》 に注目したい。
13節 「ユダヤ人の過越の祭りが近づ」いた時の訪問。
この祭りは、出エジプト記12章で指導者モーセを通して実現したエジプト脱出の出来事を記念して、毎年行うよう制定された祭りである ⇒ 21〜28節 「・・・血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入て打つことのないようにされる。・・・永遠に守りなさい」。
主の両親も忠実に過越の祭りに上り、主も12歳から毎年守っておられた祭り、ユダヤ教徒は今日も忠実に守っている。
実に、過越の祭りで捧げられる子羊こそ、十字架上でご自身を、世の罪を取り除く神の子羊である主の予表であり、三年後処刑されることに。
主による 《 宮清め 》 は、この初めの※14〜16節 「宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て・・・ 『 それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。』 」と、最後の受難週に入られた時の※ルカ19章45、46節 「・・・ 『 わたしの家は祈りの家でなければならない 』 と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを 『 強盗の巣 』 にした。」とで二度だった。
これら 捧げる動物売場、神殿税通貨の両替所などは、巡礼者の便宜を図るとの善意の見せ掛けでしかなく、正に神殿が商業化し、法外な手数料で利益を得る場に成り下がっていた。

柔和なお方である主が、15節 「細縄でむちを作って」、神殿を汚している宗教家たちを糾弾される光景を見た弟子たちは、17節 「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてある詩篇の聖句を思い起されたことから、宮清めの意義はここにあると見て一つのことを!!
この「あなたの家を思う熱心」とは、主の聖父への激しい情熱、主の※1章18節 「神を説き明か」す原動力であるが、その情熱で主は、神殿を商売の家にして礼拝されるべき神に無関心である人々に、神殿を「わたしの父の家」と宣言し、もう一度 《 聖父の神たる尊厳、聖父の神たる権利を宣言し、聖父を礼拝されるべき権威者である 》 と迫られた。その上で、人々を礼拝者とすべく彼らを神に取り戻そうとされたのだ。
神殿を本来のあるべき姿、存在目的に叶わせようと、その為、そこで横行していた悪事の全て※16節 「それを ここから持って行け」と閉め出されたのだ。主が手にされた「むち」は、主の権威ある尊厳の象徴であり、その場所に居合わせた人々、それが仮に、神殿に携わる役人であろうが、皆、従うべきとの権威を示されたのだ。
今日的に主は、神の権利、権威を認めているかと尋ねられ、神の宮である【Tコリント3章16、17節】私たちをこそ、神に占領された礼拝者とすべく、私たちのあらゆる不敬虔を見て戒め、罪と汚れの全てを十字架によって追放されるお方として、証しされたのがこの宮清め!!

※ 私は真の礼拝者? 主は、神の子たちを真の礼拝者とすべく、神の宮から悪しき全てを追放されるお方と覚えたい。

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2019年05月04日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 7


ヨハネの福音書2章1〜12節

先週は、バプテスマのヨハネから「世の罪を取り除く神の子羊」と紹介された主が、彼の叫びを聞いてついて来た二人の弟子に、38、「あなたがたは何を求めているのですか。」と尋ねられた意味を考え、弟子の資質を吟味された点に学んだ。
彼らの返事は、38節c 「ラビ( 訳すと、先生 )、どこにお泊まりですか」と、主に敬意の念を寄せながら 《 主を知りたい 》 との訴えだった。弟子の資質が認められた彼らは、39、「来なさい。そうすれば分かります」と言われ、主の泊まっておられる所を見て 《 主のご人格に触れ、主をメシア 》 と知った。主の求められた 《 弟子としての資質 》 を持つ者とは?

@ 38、「あなたがたは何を求めているのですか」に対する答えを、いつも明確にされて行く者であること。
この質問は、初めてお会いした日に、主が彼らを吟味したものだが、主のこの質問は生涯的であると覚えた。

A 39節 「来なさい。そうすれば」と主の如く、議論を止めて、46節b 「ピリポは言った。『 来て、見なさい。 』 」とだけ言える者であること。
言葉による宣教以上に、「見なさい」と、主に感動している生活による宣教に力があるとの弁えを。

B 41節 「まず自分の兄弟シモンを見つけて、『 ・・・メシアに会った 』 」と、身近な人々に影響力を持つ者であること。
B・ヨハネは二人の弟子に主を、アンデレは兄ペテロに、使徒ヨハネは兄ヤコブに主を、ピリポは45節 「ナタナエル」に主をというように、主は伝えられて行っている。

※ 主の求めに適った弟子で有りや無しやを吟味したい、と。


今朝は、主が四人の弟子たちを見出されてから三日目に、2章11節 「最初のしるしとしてガリラヤのカナで行」われた 《 水をぶどう酒に変えた 》 という奇跡に注目したい。
この奇跡の目的は、明確。「しるし」とは、※証拠としての奇跡であり、20章31節で「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」と明記されているように、主が救い主としてこの世に来て下さったとの事実を証しすることを目的としている。従って、「ご自分の栄光を現された」とあり、この席に居合わせた弟子たちは「・・・信じた」と。
この奇跡を短絡的に、主が水をぶどう酒に変えられたのだから、キリスト者においても飲酒が認められている箇所だと考えて、飲酒を是認する方々がいる。果たしてどうなのだろうか? ここカナの婚礼で振る舞われている光景は、むしろ主が来られるまでの旧約時代から引き継がれて来た慣習、即ち、お酒は祝いごとには欠かせないとする慣習に従ってのことにすぎないのだ。
この出来事は、主がこの婚礼での母マリアからの※3節 「ぶどう酒がありません」という不測の事態を、「ご自分の栄光を現され」る機会とすべきとの導きの下で行われた奇跡。私たちが考えているよりも、もっと深遠で、新時代を迎えたという画期的意義が秘められた出来事なのだ。
しかも、4節 「わたしの時は・・・」との慎重を期しつつ歩んで行われた奇跡だとして、注意深く学ぶ必要がある奇跡である。

その慎重さは、主の母マリアとのやり取りに見られる。
母マリアからの「ぶどう酒がありません」との要請に対して、主の答えは※4節 「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」だった。一見、冷やかにも聞こえるこのおことばであるが、この後の「わたしの時はまだ来ていません」で理解すべきおことば。即ち、母への敬意を払いつつも、「わたしの時」を示してくださる聖父のご指示がなければ、何事もなし得ないとする聖父への献身の表明であり、母への礼節。
実は母マリアにしても、処女降誕という不思議を経験して預けられた主を育てるのに、慎重を期しての日々だったに違いないから、理解出来る。主がいつ、公的生涯に臨まれるのかについて、呑気に構えておられる筈のないことだけは明確。
従って、主からのおことばにも怯まずに、むしろ秘かな喜びをすら感じつつ受け止められたのでは? 何故? 5節 「母は給仕の者たちに言った。『 あの方が言われることは、何でもしてください。』 」と、積極的な指示を与えているから。母マリアの姿勢は、主の聖父との関係を尊重し、主の聖父への従順を喜び、信頼し、自分に確信があるからといって自己主張せずに、唯ひたすら、待ち望んで、主から距離を取って身を引いた上での 《 神を畏れる賢い信仰 》 である。
主は主で、母を「女の方」と呼ばれたところに、仮に子と母とに親密な関係、しかも互いの間に霊的一致があったとしても、神と子との間、神と母との間に、それぞれを介入させない信仰である。母マリア自身、受胎告知を直接両親に? 婚約者ヨセフにでもなく、エリサベツ訪問に走った器だった。

主はぶどう酒が無くなった機会を聖父の時と確信され、7節 「水がめを水でいっぱいに」と指示して奇跡をされた。
ここまでの慎重さをもって行われた奇跡、この奇跡の本来の意味しているところを学んで Message としたい。
その鍵は、9節 「ぶどう酒になっていたその水」が、6節 「ユダヤ人のきよめのしきたり ⇒ きよめの儀式」の為に置いてあった石の水がめの中の水であったことにある。
単なる結婚式の、危機的状況 打破の為の奇跡ではない。
一言で 《 主のご降誕の究極的目的である救いの何なるかを示すしるしとしての奇跡 》。即ち、水がめの水は仰々しく手足を洗う外的清めの為のもので、洗ったことを以て神の前に清いとする儀式を意味していたが、この儀式に終わりを告げる奇跡で、《 主を信じる信仰によって与えられる清め 》 がそれに代わったと告げる奇跡なのだ。人々は、水がぶどう酒に変わったこと自体を喜ぶ喜びに留まり、主を信じることによって与えられる、ぶどう酒に勝る真の喜びを求めることには、程遠かった。
主は、人々が喜んだ「良いぶどう酒」そのものによる喜びを与えようとなさったのではない。水から変えられた「良いぶどう酒」は、飲んだ時に生じる喜びを内側から変える福音の喜びに擬えたのだ。果たして人々は、それを求める?

※ マタイ23章25〜28節 「外側はきよめるが・・・。まず、杯の内側をきよめよ」との福音を与えるとの奇跡をもって、奥床しく公的ご奉仕に向かわれる主に、いよいよ近づきたい。

posted by luckyfachan at 05:27| Comment(0) | ヨハネの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする