2019年02月22日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 107


ルカの福音書23章50節〜56節

先週私たちは、午前九時の処刑から息を引き取られる午後三時までの六時間に及ぶ十字架上での主のご聖務に臨んだ。
主の地上における贖( あがな )い主としてのご生涯の真価は、この最期の六時間にかかっていた。主のこの最期が正念場であると知っているサタンから受ける執拗な挑戦は、地上生涯どの場面での経験より、熾烈さを増していた。【十字架上の七言】を、十字架上での主のご聖務のご様子を知る重要な手掛かりとしつつ、その頂点としての、46節 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」によって、主に近づいた。
何故なら、このおことばは、聖父の御心を完全に成し遂げて「息を引き取られ」る直前の 《 勝利宣言 》 となったから。
十字架上の主には、最早神は「父」ではなく、「わが神」としてしかお呼び出来ない、呪われた罪人として裁かれた。
その恐怖心の現れは、ヨハネ 19章28節 「わたしは渇く」の叫びにあり、地獄の苦しみ悶( もだ )える恵みからの絶縁状態に。
人類の 《 罪の報酬としての死 》 を、代わって壮絶な苦悩を味わわれた時、主は、ヨハネ 19章30節 「完了した」、全てが終わったと仰った時の最期のおことばが、この「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」だったから・・・。何という勝利 !! 主は最期に、「神よ」ではなく、もう一度「父よ」と、何一つ距離感もなく、かつて持っておられた関係でお呼びすることが出来るようになられたのだから。
ご自身の死は 《 人類の身代わりの死であり、神とは絶対的信頼関係にあって 》 贖いが成就したとの確信を貫かれた証。

※ 如何なる時にも、主の犠牲故にある幸いを確信したい、と。


今朝は、十字架上で身代わりの死を遂げられた主のみ体の埋葬について記している四福音書を読み比べながら、この葬りに用いられた人物「アリマタヤのヨセフ」に注目を。
彼は、23章50節 「議員の一人」、エルサレム最高法院の議員だったと明記されている。ということは、23章1節で「集まっていた彼ら全員は立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」時には、彼も又、そこに居合わせていたのだ。
しかし彼は、51節では「議員たちの計画や行動には同意していなかった」とあることから、かなりの内的葛藤があったことが想像出来る。更にヨハネはその福音書の中で、19章38節 「イエスの弟子であった【マタイ 27章57節 「彼自身もイエスの弟子になっていた」】が、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と語っている。即ち、ユダヤ教の本山であるエルサレム最高法院で、国民の人望を集めている議員という立場に置かれていながら、イエスの弟子となっているという、ユダヤ教徒からすれば、許し難き敵、除名処分を余儀なくされるべき存在になっていたということなのだ。
ユダヤ教徒からキリスト教徒に移行する過渡期にあっての戦いが如何に至難なものであったかが推察出来る。その緊張した空気を垣間見ることの出来る記事が、ヨハネ 7章45〜52節にある。
主の人気が高まって行く中で、最高法院内が騒々しくなっていく様子を伝える記事である。ここには、埋葬に立ち会ったもう一人の議員ニコデモが登場するが、彼もヨセフ同様隠れクリスチャンだった。

議員たちが嫉妬する主の捕縛を狙っていたことから、45節 「なぜあの人を連れて来なかったのか」の詰問は当然。
続くやり取りは、46〜49節 「下役たちは答えた。『 これまで、あの人のように話した人はいませんでした。 』 そこで、パリサイ人たちは答えた。『 おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。 』 」とある。ここにニコデモが知恵深く登場する。
50、51節 「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。『 私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。 』 」と。
主が、ヨセフを主の埋葬の為にと選ばれた、主の選びとは ? ヨセフは、既に、イザヤ章 53章9節で預言されていた。

@ ヨセフにしてもニコデモにしても、世的には申し分のない、高位高官の立場【マタイ 27章57節では「金持ち」、マルコ 15章43節 「有力な議員」】にあったが、決してそこに安住出来ずに、安住せずに、ルカ 23章51節 「神の国を待ち望んでいた」人だったことにある。

同じ議員の一人だったあの 《 若き役人 》 は、自らの欠如を知る点は別としても( ルカ 18・22 )、一般的議員。しかし彼らとは対照的だったのが、ヨハネ 3章2節 「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています・・・」と、主を神と認めざるを得なくされていた二人。
主の許を悲しみながら去った若き役人は、自ら命を欠くとの自覚があったからこそ、主に「永遠のいのち」を求めた筈。ところが試された時、彼はこの富にしがみついた。主はこの世にあって霊的渇望を持つ者に目を留められるお方。

A 立場が立場であっただけに、信仰告白の至難さはあっても、彼らの霊的渇望は、単なる妥協によってではなく、その都度の真剣な主に向かう姿勢、ルカ 23章50節 「善良で正しい人」、即ち、主の聖前における正しい関係で生きる者であったところに。

そこには虚偽がない。彼らは、弟子であることを隠していたとは言え、偽って主を否定する態度でいた訳ではない。その生き方において、51節 「議員たち・・・には同意」せず、ニコデモに見たように毅然と発言する態度において真実だった。主の聖前での正しさに従って闘っていた。

B マルコ 15章43節 詳訳 「結果を恐れずに、勇気を出して【敢えて・・・困難な状況や心理的抵抗を押して物事を行う様。そうするだけの価値があるものとして行う】」と、告白すべき導きを得た時には、明け渡す者であったところに。

※ 逸( はや )る肉的熱心で最高法院から追放される事態を招かずに、主を求めつつ議員の立場に留まって居たからこそ、ピラトと対等に、願い出られたのでは ? いつでも信仰は 《 主との関係が如何に忠実であるか 》 に心したい。

posted by luckyfachan at 22:56| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 106


ルカの福音書23章44節〜49節

先週私たちは、ゴルゴダにお着きになられるや、直ちに処刑に服された主に思いを寄せた。主がこの地上に来られて初めて身を横たえられた場所は、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶、その日以来「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところも・・・ ルカ 9章58節」なく、地上最後に身を横たえられた場所が、十字架の上だった主に。
戦慄が走る場面で発せられたおことばが、「そのとき」と、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは・・・何をしているのかが分かっていない」と発せられたこの祈りに注目した。

@ 主は 《 民の執り成し手 》 大祭司としての資格を持って、聖父の聖前に大胆に出られた祈り。
実に、主の処刑のこの日こそ、大祭司が年に一回、会見の天幕の前で屠( ほふ )られた小羊の血を携え、聖所から隔ての幕を通って至聖所に入り、契約の箱の恵みの座に注ぎ、民の罪の赦しを求めた贖( あがな )いの日。小羊の血ならぬ 《 流しておられるご自身の血をもって 》 捧げられた執り成しの祈り。

A 神の子たちへの 《 この生き方への招き、宣教の鍵 》 の祈り。
主のこの祈りは、共に処刑された一人の犯罪人を悔い改めに、47節 「百人隊長」を救いに導いた。
更に、初代教会最初の殉教者で聖霊に満たされたステパノは主のこの祈りを捧げる人と変えられていた人物。使徒 7章54〜60節の彼の殉教現場で、迫害者パウロも又、後日まばゆいばかりの彼の祈りに捕らえられ、殉教者としての生涯に導き入れられた。

※ 主のこの祈り故に救われたお互いも又、この生き方を、と。


今朝私たちは、主が十字架上で成し遂げなければならなかった地上最期の聖務の場に臨む。
マルコには主の処刑が「午前九時であった。 15章25節」と言及されており、ルカ 23章44節 「さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた」とあることから、十字架上におけるご聖務は、六時間に及ぶものだったことが分かる。
主が、この日に向けて成し遂げて来られたご奉仕の真価と有効性は、このご生涯最期の六時間の主の在り方如何にかかっていた。それは、仮に、今日までのご奉仕が完璧だったとしても、息を引き取られるその瞬間まで、聖父の御心を完全に満たす無傷の小羊として自らを捧げ尽さなければならなかったからである。しかも主の最期の戦いであることを知っているサタンの挑戦は、より巧みで執拗であることから、極度の緊張感を必要としておられる聖務である。
へブル人への手紙 5章7〜9節 「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり」とあるように、地上生涯どの場面での経験より、この最期での経験程、強烈に感じられたことはなかったのでは ?
神の御子であられながら「肉体をもって生き」る人の子としての弱さは、断末魔の苦しみという極限状態に於いてこそ、試されるからである。

cf. プリント【十字架上の七言@〜F】は、十字架上での主のご聖務のご様子を知る重要な手掛かりであり、聖霊はこのおことばを明記することによって、人の子となられた主が 《 完全に聖父の御心・人類の贖いを成し遂げられたこと 》 を知らせている。
これらの七つのおことばの頂点は、46節 「イエスは大声で叫ばれた。『 父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。 』 こう言って、息を引き取られた」である。何故このおことばが、頂点なのか ? それは聖父の御心を完全に成し遂げた 《 勝利宣言 》 だから。
主はこのおことばを 《 十二時頃から三時間、全地が真っ暗闇に包まれての最期の午後三時 》 息を引き取られる直前に「大声で叫ばれた」勝利宣言なのだ。
主が先ず、闇のベールが恐ろしく全地を覆った時に、Cマタイ 27章46節 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『 エリ、エリ、レマ、サバクタニ。 』 これは、『 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか 』 」と叫ばれた叫びは、聖父から完全に捨てられた瞬間である。
父なる神とは、これまでずっと「父よ」と、親しくお呼び出来る関係にあった主。ところが、この時ばかりは最早「父」ではなく、罪を容赦なく徹底的に裁く厳格な神、近付くことなど決して許されない神でしかなくなったのだ。
ゲツセマネで、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 マタイ 26章39節」と祈って求められたのは、この恐怖、親しい父から捨てられることへの恐怖からだったが、現実、今味わわれた。

しかしあのゲツセマネでは、未だ、「父よ」とお呼びすることが出来、近付き難いお方としての神ではなかった。
ところが今、主にとっては、「わが神、わが神」としてしかお呼び出来ない、聖父との親交は断たれ、呪われた罪人として出なければならなくされた。その恐ろしさの現れは、Dヨハネ 19章28節 「わたしは渇く」なのだ。贅沢に遊び暮らしていた金持ちが、門前に居ても顧みなかったラザロを遣わしてくれるようにと言った記事【ルカ 16章24節 「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」】とある 《 苦しみ悶( もだ )える 》 恵みからの絶縁状態。
人類の 《 罪の報酬としての死 》 を、代わって壮絶な苦悩を味わわれた時、主は、Eヨハネ 19章30節 「完了した」、全てが終わったと言うことが出来た。その時の最期のおことばが、F「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」だった。
初めに、勝利宣言だったと言ったが、「わが神」ではなく、もう一度「父よ」と、何一つ距離感もなく、かつて持っておられた関係でお呼びすることが出来るようになられたから。
あくまでも 《 見捨てられたのは人類に代わっての死に過ぎず、わたしと聖父とは、決して断ち切られることのない絶対的愛による信頼関係にあるとの告白 》 で閉じられたからだ。

※ 拒絶されたのでは ? と感じられた時、主が地獄の苦悩から聖父の愛を信頼し抜いた信仰に倣って、信頼し続けたい。

posted by luckyfachan at 21:38| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月06日

元旦礼拝


マタイの福音書16章21節〜28節

新年の冒頭、終末に生きるキリスト者として、私たちの日々自覚すべきことは何なのか ? に耳を傾けたい。
今朝の聖句の21節には、「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」とあるが、私たちは 『 ルカの福音書 』 によって、既に、主がゴルゴダの丘に処刑された場面まで辿り着かせて頂いた。
死刑囚が自らの処刑具をかついで処刑場に上る中、衰弱し切った主には処刑具の重さは耐え切れずに倒れ崩れながらも、極みまで罪人の行方をのみ気遣い、更には処刑されるや、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかが分かっていないのです」と叫ばれる主に近づかせて頂いて来た。インマヌエル讃美歌 591番 「主はいのちを与えませり、主は血潮を流しませり。その贖( あがな )いにて我は生きぬ。我何をなして主に報いし」と歌っているが、その応えは、今朝の聖句、24節 「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との招きに応じることをもってしかない。
この招きのおことばを、私たちは何度学んで来たことか !! 肝心なことは、字句の意味を知ることに意義があるのではなく、主のこの招きが自分の生き方にどれだけ反映されているか ? にある。先ず意味を正確に知ることが必要であるが、知った主のこのおことばに、私の内心はどう反応するか ? の正直で真面目な吟味がなければ学ぶ価値はない。その為に、24節の理解を確認したい。

@ 「それからイエスは弟子たちに言われた」おことば。

この「それから」とは、23節 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱責されてからのこと。主は公生涯の半ばから十二弟子を選出して、福音宣教を担う器の育成に力を入れられたが、このペテロは、17章1節 「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と、12人の中から絞られてより主に近くに呼ばれ、特別な訓練に与った三人の中の一人であり、側近中の側近である。彼らは後に、ペンテコステによって誕生する教会の建設に当たって、重要な役割を担うべく備えられる必要があったからである。
期待が寄せられたのは当然である。ペテロも主の期待に沿って、主から ※ 16章15節 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられた時、16節 「あなたは生ける神の子キリスト」ですと答え、17〜19節では「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです・・・」と、主から言われた。
ところがその直後、主は、彼の信仰を確認して、21節 「そのときから」と、ご自身のご受難について吐露されるが、彼は試されることになった。
何と彼は、22節 「イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『 主よ、とんでもないこと・・・ 』 」と非難して 《 内面に巣食っている腐敗した罪性 》 が暴かれることになった。

主の姿勢は明白 !! 仮に主が彼をどれ程期待し、心血を注いでおられたとしても、ペテロが彼の個人的な同情心から主に苦難を避けさせ、主を、23節b’ 「つまずかせ【妨害、罠】」、聖父の御心に背かせる存在となるならば、主は、「下がれ、サタン」と退けるお方。
ペテロの内的罪の腐敗性について、主は ※ 23節c 「神のこと【神的性質】を思わないで、人のこと【人間的性質・神の性質とは相容れない肉】を思っている」と言われた点にある。ペテロにとって、主の言う惨めな死は、恥辱、立身出世が叶わない失望を意味し、こんなことだけは絶対に聞きたくない、受け入れたくないとする野心がある。
※ 24節 「それから」とは、主の期待を裏切るペテロの実態を見せ付けられてから、ということである。 “ つい先には、「あなたは生ける神のキリスト」だと告白したあなたが・・・ そして、18、19節 「そこで、わたしもあなたに言います・・・」と、贖( あがな )い後に託すべく備えられている教会の権威について宣言したばかり ” だった。 “ その後、信頼したからこそ、受難について吐露したのだが・・・ ” である。

A しかしペテロに、「下がれ、サタン」と言わざるを得なくされた主は、その悲しみに妨げられずに、大胆な宣言をなさったのが、このおことば。

何と !! 毅然と、「だれでもわたしについて来たいと思うなら・・・」と仰る信仰 !! ペテロを何としても手放すまいとする個人的願いは一切なく、弟子たちの自主性に委( ゆだ )ねる明け渡し !!
主はご自身に従うことを強要はなさらない。何故なら従うという行為は、詩篇 40篇8節 「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります」とあるように、喜んで従うのでなければ無意味、無価値、従うことにはならないから。
従うという行為は、25節、従う者の永遠を決定することだと、弟子たちのいのちの為の招きなのだ。

B 自主性を持って従う、弟子としての条件を明らかにされたおことば。

a. 「自分を捨て」ること ⇒ ペテロは自らの為に抱いた肉的野心、成功、栄誉心を求めようと思えば、その選択もある。しかし真理は、それを得ようとする者には獲得ではなく永遠の喪失。それを神の御心とは相反するものと分かった時には、潔くそれを放棄すること。忌み嫌うこと。
b. 「自分の十字架を負」うこと ⇒ 内に発見させられた 《 神の御心に反する 》 肉的なものを罪と認めて告白し、主と共に十字架につけて死に至らしめ、新しい性質に変えられ続けること。
ルカ 9章23節 「日々自分の十字架を負って」とある。

※ 主は、全ご生涯、聖父の御心に適わないものは全て退け、聖父の御心に従わせて生きることを喜びとされた。私たちも今年、主に倣う弟子として日々従う者でありたい。

posted by luckyfachan at 22:08| Comment(0) | マタイの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする