聖日礼拝『使徒の働き』より 10


礼拝《 献堂二十一周年記念 》
使徒の働き2章37~47節

 先週は、ペテロがペンテコステの説教を始めるに当たって、ヨエル書の成就によるものと切り出して後、《 この預言を成就された神の権威を 》力強く証ししているところに注目。  
 37節 「・・・私たちはどうしたらよいでしょうか」と救いを求めて、「三千人ほどが仲間に加えられた」ところにその証を見た。ペテロが語った神の権威を二つのみことばから・・・

ⅰ 24節 「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って」、「よみがえらせ」たことに。
 仮に人間的権威をもって、23節 「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを・・・人々の手によって十字架につけて殺した」としても、「しかし神は」なのだと。どれ程の世の権威・権力を打ち出し、あらゆる知恵を絞ってキリストを十字架に付けたとしても、神は彼らのしたことを覆されるお方【詩篇2篇】。
 彼らをして主を殺させたのは、主を妬む肉の性質からであり、あくまでも彼らの自由意志をもっての行動。この事実を考える時、何という《 人知を超えた神秘的なこと 》かと。

ⅱ 33節 「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです」。
 主に向かって取ったあらゆる《 蔑み、辱め、嘲笑、暴言を吐いては呪った 》という罪は一体どなたに向けてしまってのものだったのかを、明らかに突き付けたのがペテロの説教。教会迫害を神への大義として生きて来たパウロは神の権威に触れた時、22章10節 「・・・私はどうしたらよいでしょうか」と。

※ お互いも果たして、神の絶対的権威をどこまでお認めしての今か? 真剣に自問自答しつつ、真の礼拝者でありたいと。


 今朝は、献堂二十一周年記念礼拝であることを覚えつつ、41節 「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間【1章15節 「そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」】に加えられた」ことにより、かつて主が、マタイ16章18節 「・・・わたしの教会を建てます」と言われた《 教会の誕生を見ることになった 》場面から語り掛けを頂きたい。

① 41節 「・・・三千人ほどが仲間に加えられた」、47節a’ 「主は毎日、救われる人々を加えて」とある《 教会に人々が加えられた働きは、唯、聖霊による主のわざである 》こと。

 時々、“ コロナ禍に在って、通常通りの集まりと働きが出来なくなったことは、教会にとって痛手だ ” と耳にすることがあるが、果たしてそうだろうか? 聖書の何処に苦境が宣教を困難にさせているという言及があるだろうか?
 むしろ宣教に関するパウロの忠告は、第二テモテ4章2節 詳訳 「何時も緊迫感を持っていなさい。時期が良くても悪くても、有利であっても不利であっても、歓迎すべきものであってもそうでなくても」と極めて積極的で、2章9節 「この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません」とは実体験で、聖霊による氾濫的拡がりを見ているとの証しあるのみ。
 又、ピリピ1章12、13節 「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしい」と、ローマでの幽囚生活に在っての宣教の結実を伝えている。
 ペテロは自らの説教が、33節 「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださった」結果によったと伝え、人間的なものによってではないと明言した。
 その裏付けは、ペンテコステ説教を聞いた人々が、37節 「心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と」、自らの未だ経験したことのない恐怖心に襲われ、助けを求めて来た動きに、である。
 何故なら、聖霊だけが、ヨハネ16章8節 「罪について・・・ ※世に誤りを認めさせ」るからだ。第一コリント14章24、25節 詳訳 「しかし、もしも全部が預言していて〈聖霊による証しをし、神のみ旨とご計画を説き明かしていて〉・・・未信者が入って来たなら、彼は自分の罪を示され〈責められ〉、又、自分の貧しさを調べられ〈評価され、断定され、責任を問われ〉彼の心の秘密が暴露されるのです。それで彼は自分の顔を伏せて神を拝み、『神は誠にあなたがたの中に居られます』と言うのです」と。
 聖霊によらない限り、宣教に結実は期待出来ず、但し、聖霊によってだけ、結実が期待出来る。とするならば、時代的・環境的困難さを理由に、宣教の難しさを論ずるならば、明らかに聖霊を侮辱し、教会は最大の罪を犯すことになる。
 私たちは唯、使徒たちのように《 聖霊に満たされさえすれば良い 》を合言葉に、霊的営みに徹するだけ!!
 ペテロたちは、「私たちはどうしたらよいでしょうか」に、自ら経験した所、38節 「悔い改めて」と的確に導いた。

② 42節 「いつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」に見る《 信じた者が集まって共に生きる教会生活が始まった 》こと。

 教会は、44、46、47節 「みな一つになって・・・ 心を一つにして・・・ 一つ」であることに。この「一つ」とは、初代教会が、エペソ1章23節 「キリストのからだ」との表現に明白。教会とは、エクレシア(ギ)【神によってこの世から召し出された神の民】を意味するが、主と教会との関係を《 主を頭、そのみ体を教会 》とし、その上での肢々の有機的繋がりをもって存在し始めたことを伝えている。
 第一コリント12章12~27節 「※13 一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました」とある。22節 詳訳 「かえって、からだの中で弱いと思われている部分は是非必要なのです」、25節 「それは、からだの中に分裂【不一致】がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し【関心を持ち】合うため」に存在していた。
 マタイ22章37~40節《 第一の戒めの確立に伴う第二の戒め 》の愛による教会建設が始まった。

※ 最後に覚えたい。恵まれたエルサレム教会は間もなく、迫害を好機としながら、福音を※1章8節 「ユダヤとサマリア・・・地の果てまで」と今日の私たちにまで運んで行くことに。香川教会も初代教会に倣い、福音の性質上、教会内に育まれた互いの聖霊の愛をもって、普遍的教会の働きに及ぶべく与えられた宣教支援のビジョンに、第一歩に踏み出しを!!

"聖日礼拝『使徒の働き』より 10"へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント: