聖日礼拝『使徒の働き』より 6


使徒の働き1章15~26節

 先週は、12節 「そこで」と主の指示に従った弟子たちが、14節 「いつも心を一つにして祈っていた」の内容を考えた。

ⅰ 内的・霊的渇きに見る一致
 この祈りには使徒たちと共に、ヨハネ7章5節 「イエスを信じていなかった」兄弟たちが加わっているのを見た。
 それは、彼らの関心も一般的ユダヤ人同様、ローマからの解放にあった為、主が表舞台に出ないことにもどかしさを感じ、ヨハネ7章4節 「このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい」と言うのに必死だった兄弟たちも、主の復活を目撃するや後悔の念に駆られて今日までの生き方を捨て、弟子たちに加わり《 エルサレム教会の柱 》として教会に仕えるまでになる。先に名を連ねている※13節の主の弟子たち、14節 「女たち」の《 復活を待ち望まなかったことに象徴する肉を痛み悲しむ 》心で皆、悔恨の念に締め付けられ渇いて出た群れだった。

ⅱ 謙らせられる中でも期待する信仰の一致。
 詳訳は、「待機しながら全く心を一つにして、ひたすら祈りに励んでいた」とある。待機しながらとは、彼らが復活を待たずに狼狽うろたえた失態とは違い、準備を整えて時期が来るのを待つという真剣な期待感を持っての姿勢である。
 既に彼らの内に生じた悔いる砕かれた心を抱いて期待する信仰と、聖父の約束【4、5節】があって初めて、祈りは応えられることに。  

※ 弟子たちの主への裏切りの全ては、第二コリント7章10節 「神のみこころに添った悲しみ」で心を一つにした祈りとなって捧げられ、宣教の幕開けに備えられたことに留意をと!!


 今朝は、弟子たちの祈りの場から年長のペテロが、群れのリーダーシップを取って、21、22節を条件に《 十二使徒に出た欠員 》を埋める作業に立ち上がった場面に注目したい。
 ここでたった一つのこと、ペテロのこの出方が果たして主の御心に叶ったものだったのかを考えて message としたい。
 確かに、ペテロのこの思い付きには、かつて抱いていたような個人的な野心は見られず、16~20節の詩篇のみことばに基づいているようだ。21、22節 「ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません」と。聖書のみことばに “ こう書いてあるから ” と言われれば、なるほどと皆が納得しただろう。
 唯、聖書は文脈を離れては、事態を正確に捉えることは出来ないとの弁わきまえをもって、対処しなければならないと自戒したい。この出来事について、ある方々によると、ペテロは穿うがった出方、みことばを的確に引用して難局を乗り越えようとしたと評価する方々が居ないわけではない。
 しかしあくまでも、聖書に忠実であろうとする時、やはり、そうとは言えない肉の性質の残留した ものの考え方によって押し出されたものに過ぎないことに気づくだろう。
 その唯一の理由、そして最大の理由は、主のご指示は あくまでも、4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」にあったからだ。

 主の求められたことは《 父の約束、即ち聖霊が授けられるまでは、あなたがたは何もしてはならない。何故なら、肉的な性質のままで霊的事柄に携わることは出来ないからだ 》だった。先に学んだように、弟子たちは、復活された主から、3節 「神の国のことを語られた」時でさえ、6節 「イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と、神が主権者として治める神の国への関心に至らず、唯、地上的なローマ帝国からの解放にのみ関心を寄せる者でしかなかった。その為彼らは、7、8節で戒められたのではなかったのか。その流れでのペテロの取り掛かりなのだ。
 その様に戒められてから10日間の待ち望み期間でのこと。
 弟子たちのすること為すこと全て、やはり人間的出所による思い付きでしかない、と認めざるを得ない。
 従ってその方法についても、23節 「そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた」後に、24、25節 「そしてこう祈った。『すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです』」と《 二人を既に立てた後、くじ引きでマッティアを選出 》した。主の十二使徒選出は、徹夜の祈りによってだったが、使徒たちは、予め二人を選んでから「あなたがお選びになった一人を」と祈り、くじ引きでそれとした。しかし主は、彼らの不適切な出方について、直接な叱責をもってではなく、後、9章で権威ある選出で彼らを諭されることに。

 それが、使徒パウロの選出である。

 あくまでも、ペテロの言う「使徒職に就くために」とは、そもそも主の為さったことで、人の介入する分野ではない。
 9章を見ると、ペテロのしたことが如何に人間的であるか、逸はやる心、何とかしなければ・・・は善意に見えるが越権行為なのだ。
 先ずパウロの自己紹介を見ると、ガラテヤ1章1節 「人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロ」なのだ。パウロの自覚は、第一コリント15章8~10節 「使徒と呼ばれるに値しない者」であるが、主ご自身から、使徒9章15節 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」とご自身の権威をもって明確に補充された。使徒9章は極めて感動的・劇的なパウロの主との出会いの記録。彼はこの経験について、22章と26章【12~18節】で証ししているが、20章24節にその感動を伝えている。

※ 今朝 改めて自戒したい。何と、肉は聖霊に先走って何事かをしようとするものだと。ペテロは主導権を持つ必要はなかった。持ち前の先走った性格がここに出て来た。彼には気負いがある。私たちの肉は焦って、今、何かをしなければと気を逸らせるが、主の導きを信頼して待って従うことを学ぶ者でありたい。使徒パウロに優る器はいない。新約聖書のほぼ半分が聖霊の導きによって書かされているパウロ自筆の手紙である。主が準備しておられると信じて、今を生きる者でありたい。

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