2018年07月07日

イースター 午後の集い


コリント人への手紙 第一 13章3〜8、13節

「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。・・・自分の利益を求めず、・・・不正を喜ばずに、真理を喜びます。・・・愛は決して絶えることがありません」、「・・・一番すぐれているのは愛です」。

教会では、主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスに次いで 《 主イエスの十字架による死からの復活 》 を記念するイースター・復活祭があり、今日( 4/1/2018 )がその日になる。
プログラムに記載した聖句から、復活祭の意義を考えたい。
クリスマスは良く耳にし、様々な形で覚えられていても、主イエスの復活には、余り ? 関心が寄せられていないのでは ?
実は、この復活があって初めて主のご降誕を喜ぶことが出来る、重要な出来事である。

イエスとは、罪からの救いの意。
イエスが十字架刑を受けられたのは、直接的には人の妬みによる殺意によるものだったが、実は、ここには、人の妬みをすら 《 神の驚くべき恵みを現す機会とされる 》 神の驚くべき知恵があったことを知らなければならない。
死刑そのものは、罪を犯した者がその仕業に相応しい裁きとして執行される。しかし、罪なきお方が死刑に甘んじられたのが、十字架刑だった。
それは唯、私たちが犯した罪の為に当然受けるべき死の報いを、私に代わって死の報いを、《 身代わりに 》 引き受けてくださる為だった !!
主イエスが死んで「よみがえ」られなかったならば、主イエスも自らの罪の為に死んだに過ぎないことになる。
ところが死者の中から復活されたことによって、主イエスには罪がなかったことが明らかにされたのだ。報いとして死ではなく、いのちに「よみがえ」る罪なきお方だったことが( ヨハ 11・25 )。

コリント人への手紙 第一 15章55節 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」。
死をもたらす「とげ」とは、毒としての罪。罪の結果「死」ぬ。しかし、主イエスが、死から復活されたことによって、主イエスは、死をもたらすとげを抜き取られた。
ローマ人への手紙 4章24、25節 「・・・イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たち・・・私たちが義と認められるために、よみがえられました」。

一体誰が、この救いを知るのか ?
私たちに「死をもたらすとげ」があることに気付いて、このとげを取り除いて頂きたいと願うところから始まる。
コリント人への手紙 第一 13章 《 愛の章 》 を心の鏡として見てみる時、私たちが如何に、「死をもたらすとげ」を持つ者であるかということに気付かされる。
a. 先ず、愛の性質がないことを知る。
b. 主イエスの私に対する愛の性質であることを知る。
c. この愛のないこと自体が、「罪」であると知る。
罪とは、的外れの意。神から離れて、自らの思いに従う生き方から、行為としての犯罪が生じる。

イースターは、自らの努力では到底持つことの出来ない愛による生き方を、「とげ」を処理してくださったことによって、そこに生きる者としてくださる。自らの罪を認め、神から離れていたこと自体を罪と認めて、主の十字架にあやかりながら生きることによって。
この為に、ご降誕された主の代価に感謝したい ♪

posted by luckyfachan at 21:49| Comment(0) | コリント人への手紙 第一 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする