2018年03月17日

クリスマス記念礼拝


へブル人への手紙5章7節〜10節

先聖日もマタイの福音書から、ヨセフの 《 2章23節 ⇒ 屈辱的処遇を受けるとの主のご生涯の預言が成就する「ナザレ」に、幼子イエスを、危険極まりない状況の中お連れするという 》 従順に学んだ。
ヨセフの生涯は母マリヤ程の存在感はなかったが、彼の従順によって、主がやがての日に備えられた所に意義が大 !!
主のご降誕による贖( あがな )いを阻止しようと、手ぐすね引いて待ち構えていたサタンの魔の手から幼子を守って、遂に、ナザレの町にお連れするまでの厳しい道のりでのことだった。
2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星( 民数記 24章17節 )が昇るのを見たので、礼拝するために・・・」とやって来た博士たちの訪問を受けたこと始まる。

@ ヨセフの従順の実践は
2章13節 「彼らが帰って行くと・・・ 『 立って・・・エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。・・・殺そうとしています。 』 」に対し、14、15節 「そこでヨセフは立って、夜のうちに・・・逃( のが )れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた」に/19、20節 「・・・立って・・・イスラエルの地に行きなさい・・・」に対し、21〜23節 「そこで、ヨセフは立って・・・入った。しかし、・・・ナザレ・・・に行って住んだ」に。

A ヨセフの従順の鍵は
a. 「主の使い」の指示を聞き逃すまいとする忠実さ。
b. 聞かされたことへの即刻の対応。
c. 「入った。しかし」と、聞いては従うという姿勢が、主との絶えざる継続的で、瞬時の交わりの中で為されている。

※ 主への従順には、いい加減さのない真面目さが肝要だと。


待降節では、「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人」として 《 母マリアとヨセフ 》 に学んだが、今朝はヘブル人への手紙から 《 主ご自身の従順 》 に注目して、クリスマス記念礼拝を。
5章7節 「キリストは、肉体をもって生きている間」とは、聖父のご計画して下さった 《 人類の贖い ⇒ 神から離れて「羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせ・・・ イザヤ書 53章6節」るべく 》、人の子となられた主がこの世にご滞在下さった33年余りの期間を意味する。
この受肉について 《 ピリピ人への手紙 2章6〜8節 》 ほど雄弁に描写している場所は他にないと言われているが、実に驚くべき主の自己放棄・謙卑を的確に伝えている。
ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶に御身を委( ゆだ )ねられた事に始まったこの自己放棄は、十字架の日に向かって歩み始められた第一歩の瞬間であり、この瞬間から「十字架の死にまで従われました」と、その自己放棄の日々を着実に歩み続けられたということ。
神であられるから、聖父に自己放棄をもって従われることは簡単だったのでしょうか ? 主は確かに神ご自身ではあられるが、神であられるならば当然お持ちの筈の権能・権利を一切かなぐり捨てて、「乳飲み子」として母マリアのお世話を受け養育され、人が成長するのに必要な過程を経て同じように成人されたお方ですから、簡単だった訳ではない。
そのご生涯について、へブル人への手紙 4章15節では、「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」と言っている。
その試みとは、5章8節 「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみ」とあり、本来受ける必要のない処遇、あり得ないお扱いであるが、人となったことによって味わうことになられた経験。
ヨハネの福音書 4章9、10節【サマリアの女の主への扱い】、7章3、4節【兄弟たちの主への扱い】、12章3〜5節【ユダの主への扱い】、19章8〜11節【ピラトの主への扱い】、これらは全て、主を神とは知らず、唯の人としてでしか見られていない扱いであるが、主は神として扱われること( 崇められて当然であるが )を捨てて、罪ある者として扱われることに甘んじられた。
完全な正しさをもって生きた主は、神を冒涜する者と断罪された。ヨハネの福音書 15章22節 「もしわたしが来て彼らに話さなかったら」、24節 「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら」受けずに済んだであろう ※ 25節 「ゆえもなくわたしを憎んだ」という反抗、悪口雑言の数々を受け、十字架目前には、愛弟子による裏切り、究極的な苦難は、罪人に代わって罪ある者・呪われた者となって 《 聖父から完全に捨てられる 》 という地獄の恐怖である。

本来「御子であられる」とは、御子の優越性について語られている 《 1章2〜13節を見る時 》、このようなお方であられるのに、33年間「肉体をもって生きている間」、お受けになる必要の全くない「様々な苦しみ」を味わわれた。
主のこの地上生涯における使命は、5章9節 「完全な者とされ【世の罪を取り除く神の小羊の資格を得て】、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな」ることにあった。
この一事の為に生涯貫かれたのが、8節 「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学」ぶことだった。即ち 《 聖父への絶対的従順 》 である。
先の問い掛けに戻りましょう。
神であられるから、聖父に自己放棄をもって従われることは簡単だったのでしょうか ? 言うまでもなく、否です。
主をして、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従わ」せた( ピリ 2・8 )のは、何だったのか ?
7節 「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」にある。
この聖句は、明らかに 《 ゲッセマネの園での祈り 》 を想起させるが、その時に限られた姿勢ではない、日々の営み !!

@ 「聞き入れられました」という聖父によらなければとの、人の子としての 《 無力さの徹底的自覚 》。いつも、「自分からは何も行うことができません」と( ヨハ 5・19、30 )、悉( ことごと )く聖父に見て、聞いて、行うと言っておられた。

A それだからこそあった、主には「できる方に向かって」の 《 真剣な祈りと正直な祈りの生活 》。

B その生活にのみ認められる「敬虔」、即ち、何としても、聖父の御心には従いたいとする 《 堅固な意志 》。

※ 主は聞き入れられたので、無傷の小羊として身代わりの資格を得て、従う者の永遠の救いの源となってくださった。主の徹底的自己放棄の故に感謝して、聖餐に与りたい。

posted by luckyfachan at 21:13| Comment(0) | ヘブル人への手紙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする