2016年01月20日

Candle Service の夕べ


ペテロの手紙 第一 2章18節〜25節

メッセージ
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
             ペテロの手紙 第一 2章24節 より

今晩、全世界で記念されています 《 クリスマスの夕べ 》 を、ご一緒にお迎え出来たことを、心から嬉しく思います。お忙しい中から、ようこそお出掛け下さいました。皆様とご一緒に、キリストの誕生を感謝して祝うクリスマスのひと時を、この機会を、待ち焦がれておりました ♪
早速ですが、これから聖書の記事をお読みして、三つの事をお伝えしたと思います。それは・・・

@ キリストは、何の為に誕生されたのか ?

《 自分から 》
キリストはご自身を妬んで抹殺を謀った当時の宗教家たちの手から逃れることもお出来になりましたが、彼らの為されるがままになられたことを意味する。
《 十字架の上で、 》
完全に衣を剥ぎ取られた上での、品位の剥奪と言われている辱めの極刑に甘んじられた。
《 私たちの罪をその身に負われました。 》
ここに至って、何故、キリストが、極刑に甘んじられたのかが分かる。殺害する側の目には隠されている、神のご計画の故にである。あくまでも、キリストは ※ 22節〜23節 「罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした・・・」と、罪のないお方なので、キリストの処刑はあり得ないこと。当時の裁判官ピラトも、「( キリストには )何の罪も見られない」と証言している( ヨハ 19・4 )。しかし、キリストを妬む宗教家たちの殺気は尋常ではなく、ピラトはキリストを十字架に付けろと叫ぶ群集を恐れて責任を逃れ、卑怯にも、キリストを虐待して後、死刑執行人に引き渡すことに。しかしキリストは勝利しておられた。「このためにこそ、わたしはこの時に至った」と仰る 《 同情を寄せ付けない静かな決意 》 をもって、十字架刑に甘んじられたのだ( ヨハ 12・27 )。
実に、キリストが、ベツレヘムの家畜小屋の飼葉桶で産声を上げられたのは、十字架上で、私たちの罪の結受けるべき死を引き受けるという、この為の誕生だった。24節が鍵 !

A 何故、全世界で、キリストの誕生が祝われているのか ?

「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため」という、願っても無い生涯に、私たちが招き入れられることになったからである。
18節 「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」/19節 「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」とある。20節 「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」とも。
ここで取り上げられている問題は、私たちがしばしば直面する問題の一つではないでしょうか ?
家庭内でさえも ? 職場 ? その範囲を拡大するならば、国際問題にまで発展する。しかも、大人社会だけのことではなく、子どもたちの人間関係においても、悲しくも極めて深刻で現実的な問題。共通の問題意識は持ちつつも、人間社会から一掃出来ずに放置同然の難題。しばしば、理不尽だ ! と叫びたくなるような出来事を皆経験する。
何と、悲しい現実 ? 全ての人々の心に、自己中心という闇があるからです。こうした人間関係は、悪に対して悪をもって向う現象となって、際限なく悪しきことの連鎖を生んで行く。その結果は、被害者だった筈の私が、狂暴に振舞うという悲劇。

「罪を離れ、義のために生きる」とは ? 「罪」とは、「的外れ」という意味の言葉である。即ち、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 ローマ人への手紙 1章21節」の意味。
この「罪を離れ」とは、この「的外れ」の生き方を止めること。
19節 新共同訳 「※ ・・・神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」/20節 新共同訳 「※ ・・・これこそ神の御心に適うことです。」/23節 「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」とあるように、いつも、どんな場面でも、絶えず、神を畏れ、神をお認めして生活するということなのだ。

B どのようにして、その恵みを自分のものにするのか ?

実は、「罪を離れ、義のために生き」ていなかった自らの現実を知ることから始めることである。
18節〜20節の光に照らされて、私の生き様を顧みるならば、到底、出来たものではなかったことを謙虚に認めること。
19節 「不当な苦しみを受け」た時、私はどんな気持ちになるのでしょうか。20節 「善を行っていて苦しみを受け」た時、どんな気持ちになるのでしょうか。私たちは決して、穏やかではない。23節のキリストのようではない。
しかも、口から出る言葉において、態度において、実は、横暴だと見做した相手と同じだということに気付かされる。実は私も又、善人でもなく、横暴な者であり、死刑囚に過ぎないのだ。だから、キリストが私のその罪をご自身の身に負って、裁かれたのだ。その時、24節c 「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」との経験に。

※ クリスマスのこの出来事が、お一人お一人の経験となりますように。

posted by luckyfachan at 05:07| Comment(0) | ペテロの手紙 第一 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする