2017年06月19日

イースター記念礼拝


『 ピリピ人への手紙 』 より 3章5節〜11節

イースターを記念して、パウロが ※ 3章10節 「私は、キリストとその復活の力を知り」と告白している信仰に学びたい。
パウロのこの告白は、主との出会いが許されて以来、心に堅く定めた生涯的追求テーマ・目標である。

@ そのパウロの過去の目標とは ? 人生の価値を何処に ?

5、6節に列挙している 《 人間的な拠り所 》 が、パウロの生き甲斐であり、パウロの誇りだった。
「八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者」と。
ユダヤ人に宛てた福音書マタイの冒頭は、イエス・キリストの系図から始まるが、このことは、ユダヤ人が如何に系図・血統を重視する国民であったかを証している。
彼にとって、ベニヤミン族であることが誇りだったのは、旧約時代の転換期を迎えた出来事に遡( さかのぼ )るが、ダビデの子ソロモンの子の時代に、王に反逆した北民族とは一線を画し、王の血筋ユダ族に付き、南ユダ国に帰属し今日に至っているという経緯から。
又、宗教生活の熱心さにおいては、第一人者との自負があった。「律法による義についてならば非難されるところのない者」であるとは、ガラテヤ人への手紙 1章13、14節 「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、・・・人一倍熱心でした」とある。
しかし非の打ち所がない宗教生活とは、あくまでも外的・儀式的生活を厳格に、かつ忠実に守ったというもの。その為ならばどれ程の克己が求められようと、先祖伝来の慣習を勤勉に学び、誰一人として彼の右に出る者はいなかったと。
私たちにとってはパリサイ人と言う時、主の忌み嫌っておられた、「人に見せるため」に掟を守り、見せびらかし、優越感に浸り、守らない人を罪人呼ばわりした人々との印象がある。ところがパウロは違っていた。只管( ひたすら )神からの誉れを受けようとして学び、実践し、厳格な宗教生活に忠実だった。宗教改革者ルター、ウエスレーにおいても同様だった。

A そのパウロに驚くべき転機が訪れた。

7、8節 「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と。
神からの誉れと寵愛を受けるものであれば何でも獲得しようと重要視し、誇りとし、更に情熱を傾けて得た 《 これらのもの全て 》 を、「損と思うように」なったという奇跡的転機である。それらの追及に命を懸けたとしても無意味 !! 無価値 !! 無益と知ったとの意味で「損」だった。
但し、この「損」とは、もっと積極的な( キリストにある自由からすれば )損失だったとの経験に導かれた。

それは、神の寵愛どころか、何と、神に敵対する者だったとの絶望的気付きだった。パウロはいつこの経験に ?
死んで葬られた筈の主の顕現が、パウロに・・・ ⇒ コリント人への手紙 第一 15章1〜11節/使徒の働き ※ 26章8〜18節。
※ 14節 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と言われた時、15節 「主よ。あなたはどなたですか」と答えたパウロの心境を、一体誰が想像出来るだろうか ?

今日まで、 《 キリストを信じることによって義とされる 》 と伝えているキリスト者を、「何という神への冒涜 !! 不敬虔 !! 怠惰 !! 」と糾弾して迫害に命を懸け、それをもって神に仕えていると燃えていたパウロが、そのお方に打たれたのだから。
寵愛どころか、神に仕えていると思っていたことが、実は敵対者だったと知った時の恐怖そのものの大それた「損失」をである。
この経験以来、その思いは、パウロをして「すべてのものを捨てて、それらを塵あくた【ごみくず、値打ちのない物、取るに足りない物】と思っている」と言わせるまでに。
血統付きの家柄、高学歴、神の為にと築き上げて来た功績、経済力( 生まれながらにしてローマの市民権を持っていたことから )、人望・名声の全て、キリスト者迫害事業を買って出たリーダーとしての情熱の全て、これらを価値あるものとして生きて来た生き方にキッパリ背を向け、方向転換したのだ。

B その時以来のパウロの生涯的目標が ※ 10節 「キリストとその復活の力を知」ること !! 「復活の力」とは ?

9節 「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望み」をもたらした力。
ローマ人への手紙 3章23、24節 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められるのです」とある。
パウロは自らの努力で、神の聖前における義を得ようとしたが、その努力では勝ち取ることができないのが義であると知った。
罪人がどんなに努力したところで、神の義に与ることはできない。律法を完全に守って下さったキリストによってのみ、神の聖前に義と認められる。ローマ人への手紙 4章24、25節。
私たちのすることは、ピリピ人への手紙 3章10b'、11節 「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」とあるように、「キリストの死と同じ状態」になること。平易に言うと、聖霊によって示された【肉の性質】を憎み、直ちに、その肉を十字架で滅ぼしてくださった主の犠牲を受け入れること。

※ この復活の力を知ることによって、10節a’ 「キリストの苦しみにあずかることも知って」主の重荷を共に担い、主と隣人とに仕える者と変えられて行くとの約束に与りたい。

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2014年04月24日

イースター記念礼拝


『 ピリピ人への手紙 』 より 3章10節〜11節

主の死者の中からの復活を記念するこの朝、パウロが力説している 《 10節 「キリストとその復活の」とは ? 》 どのような「力」を意味するのかを考えて、聖餐式に臨みましょう。
10節〜11節から( 下記参照 )、如何にパウロが、この「キリストとその復活の力を知」るということに渇いていたかが伺える。
実際パウロは、既に【コリント 第二 13章3節〜4節】でその「力」を経験している。「こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」と。
この「神の力」こそ、《 キリストを死者の中からよみがえらせた神の力 》 であり、それをパウロは知っている。しかし、日に日に新たに 《 知りたい 》 と渇望しているということなのだ。

※ ピリピ人への手紙3章10節〜11節 詳訳

「【私の心に堅く定めた目的は】を知ることです〈 段々と、更に深く、更に親しを知るようになり、更に強く、更に明白に【の人格の驚異を】知り、認識し、理解することです 〉。またそれと同様に、の復活から溢れてくる力【復活が信者たちの上に及ぼす力】を知るようになり、またの死【にさえも似るように】されることのです。
【私の希望は】私が、出来ることなら、【この肉体にありながらも】死者の中から【私を引き上げる霊的な、また道徳的な】復活に到達したいということです」。

それでは 《 具体的に復活の力 》 とは ? を考えたい。

@ 「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。」 ⇒ 死に勝利した力である。

主が「弱さのゆえに十字架につけられました」とあるのは、《 弱い状態を受け入れたので、十字架に掛かられた 》 の意。主は徹底的に【自己弁護を捨て、完全な敗北者となり、人としての尊厳を剥奪されることに甘んじられ、実に罪人として】辱めの極致である場所に身を委ねられたのだ。
主が、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との永遠の滅びを味わい、悲痛な叫び声を上げる場所、その惨めな辱しめを晒す場所に、である。
本来なら誰しもが、何故あのキリストが十字架に ! と叫ばせる場所なのだ。何故なら主は、主を目の敵にした人々でさえも 《 他人を救っても、自分を救わない 》 と認めた生涯を送られたのだから。
ところがどうでしょう。ここで、《 ペテロのペンテコステ説教で説き明かされ使徒の働き 2章22節〜36節 》 に注目したい。
24節 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」と。「死」は、「罪から来る報酬 ・・・ ローマ 6章23節」であり、主は罪とは無縁のお方、聖父の御心を愛し、御心には悉く従われた聖なるお方だからである。

A 主を 《 死に勝利させた 》 復活は、主を信じる者をも死に勝利させ、よみがえりの命に与らせた。

ローマ 6章4節〜11節 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる・・・」とあるように。 ⇒ 《 復活の「いのちにあって新しい歩みをする」 》 者とする「力」。
即ち、罪人を「新しい歩み」に導き入れ、新しいのちの中に生きるようにさせたのだ。
復活は、6節 「罪のからだ【詳訳 : 罪の道具】が滅びて【詳訳 : 罪の為には無能・不活動となって】、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」生活に導いたのだ。
「からだ」そのものは、悪ではない。唯、古い自己が神に違反した為、腐敗の一途を辿って来たのだ。「からだ」をその意のままに使うことによって、良くも悪くもして来たということ。
しかし、「からだ」を使う自己が死んで、新しいいのちにあって生きるようにされたならば、必然的に「からだ」は罪から解放されるので、神の御心に従う、18節 「義の奴隷となった」との生活を送るようになる。

パウロの実際生活における変化に明白 :

ピリピ 3章7節 「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」、8節 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っている( ※ 段々と、更に深く、更に親しく知るようになる )ことのすばらしさ( ※ 貴重な特権〈 圧倒的な価値、絶大な値打ち、至上の利益 〉を得た )のゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」との変貌である。


※ この命に与り、与り続ける「復活の力を知」る生活の為には、「キリストの死と同じ状態になり( 徹底的に自己を死に渡し )、どうにかして ・・・ 達したい」と渇く情熱を。


posted by luckyfachan at 22:16| Comment(0) | ピリピ人への手紙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする