2018年08月21日

ペンテコステ記念礼拝


使徒の働き2章37節〜47節

今朝は、2章1節 「五旬節【大麦の初穂の束を捧げる日から数えて50日目( 復活後50日目 )、小麦の刈り入れの祭・初穂の日と呼ばれる、ユダヤ人が祝う三大祭の一つとして記念されていた日】」に、聖霊が注がれた画期的な出来事を記念する礼拝であるが、この出来事が、折しも三大祭の一つとして記念される日に起こったことは偶然ではない。
それはこの祭りの為にと、5〜13節 「天下のあらゆる国々から来て住んでいた」人々の目撃するところとなったからである。目撃者たちの反応は 《 6節 「呆気にとられ」、7節 「驚き、不思議に思って」、8節 「いったいどうしたことか」、11節 「あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」、12節 「驚き当惑して」、13節 「だが、『 彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ 』 と言って、嘲( あざけ )る者たちもいた」 》 という興奮状態である !!
《 どのような意味で、画期的な日 》 なのか ?
単に、キリスト教会において重要事だというのではなく、実は人類にとって祝福の日となったからである。
このことについて、十字架の死から復活された主が、弟子たちに語られた ※ ルカの福音書 24章44〜49節で明らかである ⇒ 47節 「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことになったからである。
主の弟子たちは、聖霊を授けられさえすれば証人となって出て行く為に備えられていた人々だったから。
何と !! 待ちに待たれていたその日が、2章1〜4節 「・・・すると皆が聖霊に満たされ・・・」と、ここに来たのだ。

そして、41、42節 「その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」と、ここエルサレムに教会の産声が上がった記念日なのだ。
こうして聖霊に満たされた弟子たちと教会が、当時の世界を制覇していたローマ帝国( 皇帝礼拝を強いる )を相手に、迫害をものともせずに福音宣教を開始した日でもある。
そして今日までの二千年間( この世の勢力に屈することなく )教会は、1章8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」が現実となり、全世界は福音を知ることになったのだ。
世界の言語約7000( 3300翻訳あり/2450進行中/1800未 )。
残念ながら、宣教の働きが最も盛んだった 《 宣教時代と言われた18、19世紀 》 後の20、21世紀は ?
ヨハネの黙示録 3章14〜22節 「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出す。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、・・・だから熱心になって悔い改めなさい」との警告があり、宣教の終わりを急いでいるのが今日なのだ。

しかし今朝は、こうした主の警告を耳に留めつつ、世界がこの画期的な日を迎えて、今、宣教の責任を担っている教会である私たちは、今日までの宣教が許されて来た 《 初め 》 に注目して挑戦を頂きたい。

@ 聖霊に満たされたペテロの存在。

ペテロが、14節 「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい」と、声を張り上げて語っているとは、人間的にはとてもとても考えられない光景 !!
何故ならば、ペテロは、主が捕縛されて裁判に向かわれる途中、主の行方を案じて後を追う時のこと、「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」、「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」と声を掛けられて、滅相もない、「嘘ならのろわれてもよい」と誓い始め、「そんな人は知らない」と叫ぶ臆病者だったのだから( マタ 26・69〜 )。
ペテロには、主を命懸けで守ろうとの熱意は人一倍あったが、いざその機会を迎えるに及んでは、その情熱は跡形もなく消え失せ、自らの命を守る為に主を否んだのだから。
あの時のペテロを知っている人々の内、一体誰が、この力に満ち満ちたペテロを想像することが出来ようか !!
ペテロは変えられたのだ。あの拒絶の日から、日数的には、たった50日余りしか経っていない。何が彼を変えたのか ?
聖霊に満たされたという理由しかない。
ペテロの側でしたことは唯、1章4節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」に従っただけ。ということは、3節で復活された主を経験したからといって、その喜びのまま出掛けずに、先ずは聖霊を受ける経験に与ることだった。
聖霊の満たしの為には 《 空しくなること ⇒ ペテロは主を否んだ時、自らの自己中心性を激しい痛みの中で思い知らされ、自信が打ち砕かれ、徹底的な悔い改めに導かれることとなった 》。
聖霊経験は、この痛みの経験に比例している。宣教の鍵は、教会に何人、聖霊に満たされた人がいるのか ? にある。

A 心を刺されることを知った人々の出現と存在。

聖霊に満たされたペテロの説教は、聞く人々の心を刺した。3節 「炎のような舌が」とあるのは、聖霊の働きが 《 人々に熱と光 》 の作用をもって臨むことの象徴である。
彼らは、37節 「どうしたらよいでしょうか」と叫ばずには居られなくされた。取り返しの付かないことへの恐怖、このままでは生きて行くことが出来ないとの不安感に襲われた。
自らの正体を暴かれることは恐怖であるが、今生きている間に自らを知って、38節 「悔い改め」に与る者は幸い。何故なら、やがての日があるから ⇒ へブル人への手紙 9章27、28節。

B 生きた教会の存在。

心刺された人々は、41〜47節 「バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた・・・神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」との教会生活を始めた。

※ 間もなく、この群れを妬む宗教家たちによって迫害されることになるが、初代教会に始まった宣教の火は消されずに燃え続けて今日に至っている。私たちも責任を担って派遣を。

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2018年03月31日

元旦礼拝


使徒の働き4章23節〜31節

年頭に当たり、ペンテコステ( 五旬節 )の出来事によって誕生したばかりの教会に、早くも迫害の波がにわかに押し寄せて来た場面に注目してメッセージとしたい。
迫害は、現代の共産圏に限った問題ではない。
仮に国家的規模における迫害はないとしても、主が最後の晩餐の席で語られたと思われる 《 ヨハネの福音書 15章18〜25節 》 に耳を傾ける限り、迫害は、どのような国に国籍を持っているかに関係なく、主に従う立場を明確にするところに起こるものだと伝えられているからである。 
ここで言われる「世」とは、神に敵対し、「この世の神」と呼ばれるサタンに支配されている世界のことで、もし、私たちがキリスト者としての立場を明確にするならば、必ずや何らかの無理解、摩擦、抵抗、反抗、抗議、最悪な場合は、死に至らせられるということ。
この世界は、神に属するのか、サタンに属するのかの何れかの帰属しかないと、主は明確にしておられる。
今朝の記事は、正に、使徒ペテロとヨハネとが自らの帰属を明確にしたことに始まった迫害である ⇒ 18〜20節。
私たちにおいても、自らが 《 この世のものではなく、この世から選び出された者で、主に属する者 》 との立場を明確にする時、大なり小なり、遅かれ早かれ迫害に準じた抵抗が生じて来ることは、避けられない現実。
今朝の記事を学ぶに際して、自らの態度を調べた上で 《 主に属する者であるということを大前提として 》 避けられない現実を前に教会は、どういう所だったのか ? を考えたい。

@ 23節 「釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」とあるが 《 報告し合う仲間の群れだった 》 こと。

32〜35節 「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。・・・彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」とある。経済的事情を知るということは極めてデリケートな問題であるにも拘らず、互いの状況を知って補い合うことが出来ているということは、驚くべき一致である。互いの信頼関係が築き上げられている、真の神の家族として存在している証である。
極めて現実的で、実際的な交わりがなされている限り、現在直面している問題を共有しているということであり、孤立せずに知り合っているということである。
初代教会と違って、一緒に集まる点では制約があるにしても、月二回許されているコイノニヤでの交わりは、非常に貴重な時間、場である。誰一人、孤立した状態では健全な信仰生活を送ることは出来ないとの認識を新たにしたい。

A 24節 「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」と 《 祈る群れだった 》 こと。

その祈りは、極めて冷静で慌ただしくない。その特色は ?
a. 物事を神の視点から見た祈り。
即ち起こり来る全ての出来事を、神の摂理の中で行われているという読み方が出来ているということにある。
28節 「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました」と言い切る信仰である。
それはやはり、聖書に通じていることによる。
25〜27節 「あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『 なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか・・・ 』 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは・・・」と、聖書を理解し、適用において正確である。
私たちにおいても、今日起こる事、明日何が起こることになっても、しっかり 《 神の視点で物事を考える習慣 》 を、聖書に親しむことによって会得する者でありたい。
私たちが狼狽( うろた )えるのは、問題の全てを直ちに目に見えることで判断し、決して 《 聖書では ? 神はどの様に ? 》 と、信仰の目を向けようとしないことにある。
b. 29節 「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」との被害者意識ではなく、積極的に神の干渉を祈る祈り。
それは、教会が完全に 《 神のものとの意識が明確 》 だったことにある。9章4節 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」に顕著。教会を迫害する時、主はご自身への痛みとして感じ、直接、迫害者に向かって干渉されるお方だからである。
c. 31節 「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」という結果を見た祈り。
彼らは、迫害によって決して敗北してはいない。
コリント人への手紙 第二 4章7〜18節 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」。
同じく、コリント人への手紙 第二 6章1〜10節 ※ 9、10節 「人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」という、逆説的な生き方をもって勝ち誇るのが主のご生涯の特色であり、キリストに従う教会の特色ともなる。

※ この元旦礼拝から始まる2018年も、全てがご自身の御手に握られている主に属する【19、20節 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」との明確な意志表示する】であるとの意識を新たにして踏み出したい。

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2016年12月27日

聖日礼拝 『使徒の働き』 より 56完


使徒の働き28章16節〜31節

先週は引き続き、28章14節 「こうして、私たちはローマに到着した。」とある ※ この「こうして」の内容の後半を 《 三ヶ月間留まったマルタ島での出来事に 》 学んだ。
奇しくも現在、40万人程の人口を持つマルタ島が、キリスト者が98%というキリスト教国となっているということに言及し、根強い土着の信仰に生きていた 《 島民をすら主に帰属させた 》 という実を結んでのローマ到着だったのだと。この結実の為に、主による備えがあったことに注目した。 

@ 3節 「・・・一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついた。」という 《 一匹のまむし 》 の備え。
4節〜6節は島民の反応であるが、パウロに危害が及ばなかったことが証の機会となり、まむしが宣教の道具となった。

A 7節〜8節a 「・・・たまたま【別訳: 時に―時あたかも、正にその時】ポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。」という 《 ポプリオの父の病 》 の備え。
8節b〜9節 「そこで」とは、まむし騒動を受けてのことになるが、「パウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。このことがあってから、島のほかの病人たちも来て・・・」と、その事件は次の結実に導いた。10節 「それで彼らは」と、三か月後、島民からは敬意を払われて見送られ、14節〜15節 「こうして、私たちはローマに到着した。・・・神に感謝し、勇気づけられた」のだ。

※ 主はかつて、敵国アッシリヤの救いの為、ヨナを 《 大きな魚/とうごまの木/一匹の虫/東風 》 の備えをもって扱い、宣教されたことと同様に働かれる主を覚えたい、と。


この 『 使徒の働き 』 は、主の昇天後、弟子たちに注がれた聖霊による教会の誕生、及び、聖霊による教会を通しての主の宣教命令がどのように繰り広げられたかが記録されている歴史書である、と学んだ。
そして今朝は、その結びに学んで連講を終えようとしているが、初めに主が仰った、1章8節 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」との宣言が、私たちは、たった30年の歳月を以って成就したのを今見ることになった。
何という凄まじい勢いかと思う。しかし、主が約束された「聖霊があなたがたに臨まれるとき」とは、いつでも何処ででも 《 然りだということを 》 受け止めなければならない。
ローマにまで届けられた福音は、その流れをここローマで留められることなく、パウロは二年間の幽囚生活から釈放されて後、スペインにまで行ったとされている。
その後、A.D.64年 ローマの大火を経ての3、4年後、再び捕らえられて二回目の幽囚生活を送り、遂にはA.D.68年頃、斬首刑をもって殉教するが、福音宣教は中断することなく、引き続き聖霊に満たされた弟子たちによって今日までの二千年間、ヨーロッパ全域のみならず、世界の全大陸へと運ばれ、実に私たちにまで及んでいるという紛れもない事実があるからである。
という訳で、今朝で聖霊による 『 使徒の働き 』 の記録は完結を見るが、実は、聖霊に満たされた聖徒たちに引き継がれ、それは私たちにも引き継がれていることを覚えて学びを閉じたい。

ローマへの旅を終えたパウロは、28章16節〜17節 「番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。三日の後・・・」と、早速囚人としてローマにやって来ては答弁の機会を得て、その趣旨が伝えられることになった。欄外を見て頂くと明白で、パウロと同船した他の囚人( 27章1節 )は、即座に拘束されたが、パウロには特別な処遇が許されたのだ。
それは、パウロはカイザルの囚人ではなく、「異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私・・・ エペソ人への手紙 3章1節」とのパウロの自覚通り、派遣者が主だからだ !!

『 使徒の働き 』 を締め括るに当たって、28節 「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」から、最後の Message をお伝えしたい。
パウロが、ローマに到着するや否や、手掛けたこと。
それはやはり先ず、( 17節〜20節、23節〜28節を見ると )同胞の民への重荷の故に福音を語ることだった。ところがユダヤ人の反応は、24節 「ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。」とある。実にこの時のパウロの心境は、「ああ、エルサレム、エルサレム。・・・わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに・・・。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」と涙された主に同じ( マタ 23・37、38 )。
そしてその時主が預言された 《 エルサレム崩壊の日の到来 》 が、パウロのこの警告から7年後( A.D.70年 )に現実となるのだ。
この意味において、聖霊が 『 使徒の働き 』 を結んだ ※ 28節は、パウロを通して同胞の民への断腸の思いを伝えつつ、彼らへの最後通達としての厳粛な予告だった。と同時に、今日異邦人に救いが及んでいる事実を見る時、この結びは、聖霊による使徒たちを通しての働きの完結を告げるものではなく、《 異邦人宣教の始まり 》 を伝える宣言でもある。
その異邦人宣教の始まりを、ここローマ幽囚生活二年間にしたためたパウロ書簡【エペソ人/コロサイ人/ピリピ人/ピレモンへの手紙】で知ることが出来るが、その一部から。
ピリピ人への手紙 1章12節〜14節 「・・・親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり・・・」、4章22節 「カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。」は驚くべき感化である !!
使徒の働き 28章16節 「番兵付き」の家に数か月滞在して後の二年間は ※ 30節 「自費で借りた家に住み」とあるが、このような制約の下にあって、その住居の場所は定かではないにしても、親衛隊( 皇帝を守る兵士たちで、一万人いた )、或いは、カイザルの家の者( 皇室に仕える奴隷 )との接触が許され、彼らが甚大な感化、回心に導かれたことが伝えられている。
又、ピレモンへの手紙 10節 「獄中で生んだわが子オネシモ」とある。エペソ人への手紙 6章10節〜20節は、パウロの霊的闘いがどれ程だったか、また、聖霊によって宣教に専念した様子を伝えている。《 殉教者は教会の種である 》 とは至言 !!


※ 『 使徒の働き 』 は “ 今も聖霊によって継続している ” と結び、「私を・・・ イザヤ書 6章8節」と応えるべきと伝えている。

posted by luckyfachan at 18:08| Comment(0) | 使徒の働き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする