2018年03月09日

聖日礼拝 『マタイの福音書』 より


マタイの福音書2章13節〜23節

先聖日は、マリアの従順に次いで、マリアの懐妊が「聖霊によって身ごも」ったものとは知らずに苦悩したヨセフに、「神のことばを聞いてそれを守る人」の信仰の姿勢を学んだ。

@ 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせたヨセフ。
マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免(まぬか)れ得ない、明らかに姦淫罪である。
この事実に苦しんだヨセフは、この難題を 《 マリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」と、主に向けた 》。ここに彼の正しさを見る。
直接事情を婚約者マリアに聴くことも出来たが、そのことによって、沈黙しているマリアを追い込むことになるであろうと気遣って主に委( ゆだ )ね、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いとだけ考え、「ひそかに離縁」する以外に彼女を救う道がないと、「思い巡らしていた」ヨセフ。「正しい人」とは、聖書の教えの中心である 《 愛に生きる人 》 のこと。

A 20b〜23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」との告知を受けた時、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」たヨセフ。
自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。

※ いつでも柔軟に主に従う準備された信仰者でありたいと。


今朝もマタイの福音書から、引き続き、ヨセフの従順に注目したい。
今朝の2章の記事では、主が、23節 「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたことが成就するため」に、ヨセフは地上の父親としての立場で、重要な役割を従順によって見事に果たしたと学びたい。
この「預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたこと」とあるが、旧約聖書の何処にも見出せない言葉。従って、ヨハネの福音書 1章46節 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言われた言葉が意味する侮辱的処遇を受ける生涯を送る人との意味で、多くの預言者によって語られて来ている。イザヤ書 53章は代表的である。
主のご生涯を的確に象徴する「ナザレ」に、幼子イエスを、様々な危険極まりない状況の中お連れするのに、ヨセフの功労があり、取りも直さず、ヨセフの従順によったのだ。
ヨセフの生涯は、母マリア程、その存在感はない。
聖書に登場する場面は、マタイではここで終わっており、他ではルカの記事の2章【1〜7節 ⇒ 人口調査の為に「ダビデの町へ上って行った」折、主がベツレヘムで誕生されたこと。15〜20節 ⇒ 羊飼いたちの訪問を受けられたこと。21〜35節 ⇒ 誕生8日目にして割礼を受けられ、「きよめの期間が満ち」て神殿に上られたこと。《 この間に、今朝のマタイの記事が入る ⇒ ベツレヘムからエジプト経由でナザレの町への旅 》 41〜52節 ⇒ 12歳で律法の子となる儀式に臨まれたエルサレム神殿での出来事】と、詳細な記録がある。
この記事以降、ヨセフはその姿を消している。

こうして見る限り、目立った印象はない。
母マリアは、主の十字架の死を目撃しなければならず、主の最期で、ヨハネの福音書 19章26節 「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に 『 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です 』 と言われた。それから、その弟子に 『 ご覧なさい。あなたの母です 』 と言われ」、老後まで気遣われている。
この日の為に、乳飲み子イエスを抱えて入った宮でのこと、敬虔な老人シメオンによって、ルカの福音書 2章35節 「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く・・・」と預言されている。
しかしマリア程、存在感がなかったとは言え、ヨセフの従順によって主が、やがての日に備えられた事実に注目を。
ヨセフの従順は、主のご降誕による贖( あがな )いを阻止しようと、手ぐすね引いて待ち構えていたサタンの魔の手から幼子を守って、遂に、ナザレの町にお連れするまでの厳しい道のりでのことである。
マタイの福音書には、主がベツレヘムの家畜小屋で産声を上げられたことについての記事がなく、その後、場所をある家に移された時からの記録になっている。
それが、2章11節、「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」に見る。
2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星( 民数記 24章17節 )が昇るのを見たので、礼拝するために・・・」やって来た博士たちの訪問を受けるところからである。

@ ヨセフの従順の実践は・・・

a. 2章13節 「彼らが帰って行くと・・・ヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。・・・殺そうとしています。 』 」に対する、14、15節 「そこでヨセフは立って、夜のうちに・・・逃( のが )れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた」に。
b. 19、20節 「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい・・・ 』 」に対する、21〜23節 「そこで、ヨセフは立って・・・入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。・・・ナザレ・・・に行って住んだ」に。

A ヨセフの従順の鍵は・・・

a. 「主の使い」の指示を聞き逃すまいとする忠実さ。
「幼子を殺そうとしています」という緊急事態での顕現。ヨセフはたった今、博士たちから幼子の生涯を象徴する贈り物に与ったばかり。その厳かさの余韻を噛みしめながら、尋常ではない状況判断が出来ていた。
b. 聞かされたことへの即刻の対応。
c. 「入った。しかし」と、聞いては従うという姿勢が、主との絶えざる継続的で、瞬時の交わりの中で為されている。

※ 主への従順には、いい加減さのない真面目さが肝要。

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2018年03月03日

聖日礼拝 『マタイの福音書』 より


マタイの福音書1章18節〜25節

先聖日では、ルカの福音書 11章27節、※ 主を育てた母マリアを幸いだと言って来た女性に、28節、※ その事実を肯定しつつ、「幸いなのは」と、「神のことばを聞いて・・・守る人」と仰った聖句から 《 守ったマリア 》 に注目した。

@ 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。
マリア崇拝について考えた。人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選びの故に、又その選びに相応しい女性である故に、マリアに敬意を表することがあったとしても、礼拝は神ご自身に対するものである為、慎むべきであると。

A 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。
主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。聖書には、父母に対する義務についての言及がある。
但し、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」との言及があることから明白。

B 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」にあると言われた、それをマリアの姿勢に見た。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言ったのは( ルカ 1・34 )、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!

※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい、と。


今朝は、マリアの従順に次いで、マタイの福音書 1章18節 「母マリアはヨセフと婚約していた」とあるヨセフの従順に学びたい。
18節b' には、「二人がまだ一緒にならないうちに、( 御使いの言った通り )聖霊によって身ごも」ったという事実が伝えられている。そして私たちは直ちに、19、20節の記事に、マリアが身ごもったというこの事実を認めざるを得なくされた 《 ヨセフの苦悩 》 を見ることになる。
それは、マリアの「胎に宿っている子は聖霊による」とヨセフに伝えられたのが、「彼がこのことを思い巡らしていた」時、「主の使い」によったのが初めてだったから。
ルカの福音書 1章26〜38節の記事も、この事実を裏付けている。マリアが受胎告知に与った時、彼女が人間的には到底受け入れ難いとして、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と出たが、「神にとって不可能なことは何もありません」との御使いの言葉に、即刻、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に・・・」と、信仰を告白した記事。既に自立した信仰が育っていた。誰かに相談してからではなく又その後、39〜45節 「マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした・・・」とある。こうした記事を読む限り、マリアは、受胎告知を受諾( じゅだく )する際にも、受諾したこと自体においても、全く婚約者ヨセフにさえも伝えず、脇目も振らずに飛んで行った所は何と !! 直線距離にして120キロの「山地にあるユダの町」、御使いによって伝えられた、36節 「見なさい。あなたの親類のエリサベツ」の家だったからだ。
こうしたことから実に、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。 ルカの福音書 11章28節」と主が言われる 《 この「聞いて・・・守る」という主との関係は、極めて個人的なものである 》 と再吟味する必要があるのでは !!
正に、「聞いてそれを守る」という姿勢は、先聖日学んだように、霊的関係は、肉の家族関係に勝るものとの意味を明確にしているからだ。

マリアの懐妊を知ったヨセフに、「神のことばを聞いて・・・守る人」の信仰の姿勢を学びたい。

@ 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせた。

マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免( まぬか )れ得ない、明らかに姦淫罪である。
しかしそうだとしつつも、ヨセフは、今まで知るマリアの信仰からはとても考えられない出来事であり、何か事情がない限りあり得ないことだった筈と悩む。
彼は、ここで人間的理解を超えた問題とした時、それを 《 人であるマリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」とあるように、主に向けた 》、ここに正しさを見る。
何という思慮深さ、冷静さ !! しかし、20節の御使いの言葉は「恐れずに」であった。やはり、何故こうしたことが起こり得たのかとの思いは、信頼し合えるマリアを思う時、恐怖が彼の心を締め付けてはいたからだ。
この不可解な出来事を婚約者マリアに、直接事情を聴くことも出来た。しかし、直接マリアからの言葉もない時に、その沈黙を破って話すように促( うなが )すことは、マリアを苦悩に追い込むことになるであろう。ヨセフにとっては、マリアの懐妊による裏切り行為がどの様なものであれ、自分を被害者と見做さず、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いという思いだけ。その為には、「ひそかに離縁」する以外に、彼女を救う道がないと「思い巡らしていた」ヨセフ。
ヨセフは、コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留め」ない愛に徹する道を選択しつつ、しかし性急には事態を変えようとせずに、自らの心の判断が正しいのかどうか、全てを待ち望み、主の裁断に委ねたのがヨセフ。「正しい」とはこの愛に生きること。

A 1章20b〜23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」との告知を受けた時、ヨセフは、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」とは、何という従順。

自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。

※ いつでも柔軟に主に従える準備された信仰者でありたい。

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2017年02月28日

Candle Service の夕べ


マタイの福音書9章9節〜13節

主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスの夕べに、13節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」の聖句に注目したい。
このようにイエスが語られた背景を見ておきたい。
9節 「収税所に座っているマタイという人をご覧になって、『 わたしについて来なさい 』 と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った」と、ここに始まる。
収税所とは、ユダヤの国を支配していたローマ政府に支払う為の税金を納める場所。そこにマタイが座っていたというのは、彼がその税の集金を請け負う取税人だったからである。
ローマ政府は、地方では自国民を使わずに、ユダヤ人を雇った。それは、集金を取り立てる際に起こり兼ねない危険・損失を避ける為、確実に収入を得る為にである。
こういう徴税システムの中、取税人は仕事柄( ローマ政府と直接接触する輩で、同胞に対しては同情も情けもないとして )敵対視されていた。と同時に、ローマ政府に納める税以上の、相当の利幅を取って私腹を肥やしていたとされる人々でもあったからである。その為、同胞から強奪者と見られ、異邦人に加担する「汚れた者」と、嫌悪されていた。

イエスは、このマタイに声を掛けられた。
ということは、ユダヤ人が敵対視し、非国民呼ばわりして嫌悪していた類の人に目を留められたのだ。
マタイの反応は、「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」とあるが、その時の彼の気持ちは・・・。
並行記事 『 ルカの福音書 』 5章29節によると、「そこでレビ( マタイ )は、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた」とある。ここに、マタイの喜びがどのようなものであったかが伝わって来る。今まで聞いたこともない声を聞き、見たこともない眼差しに触れたのだから。

キリストは案の定、冷たい視線を浴びることになった。
10節の「家」とは、イエスを招いたマタイの家でのこと。
11節 「すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『 なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか 』 」と。
彼らは直接、イエスに言えずに、弟子たちに向かって非難したのは、イエスを恐れたからである。

これが、イエスが ※ 13節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と語られた背景。

キリストのご降誕の意義は、ここにあります。
イエスが「正しい人」と言うのは 《 食事の席に着いている人々を見て、11節 「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」と、非難し、軽蔑した 》 パリサイ人のこと。
この「正しい人」とは、12節 「丈夫な者」とも言われているが、自らを正しいとし、決して病んではいないと自負しているだけの者のこと。
イエスが「正しい、丈夫」と認めたということではない。
彼らには、見える形における敬虔そうな宗教家としての生活があった。イエスがその生活振りを問題視されて、13節 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と、彼らの傲慢、自画自賛する無知に切り込みを入れられた。
イエスは、十字架を前にされた最後の週、真っ向から彼らと対決された。23章25〜26節 「忌わしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」と糾弾された(23章1〜28節)。
彼らは、イエスの言葉に探られ、自分たちの事を言っていると認めながらも、一向に謙虚にならずに、遂に、イエスを目の敵にして殺害する方向に走った。
しかしここで、もしその彼らでも、イエスの指摘を受けた時、頑( かたく )なにならず、正直に気付かされた自らの内的汚れを認めさえすれば良いだけのこと。何故なら、イエスは、「罪人を招くために来た」と仰っておられるのですから。
イエスの名は、「罪から救う」を意味する。救うとは、犯した罪を赦し、罪を犯させる罪の性質をきよめ、新しい歩みに導くことを意味している。
何故そのようなことが実現するのでしょうか ?
ペテロの手紙 第一 2章22〜25節の故に。※ 24節 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」と。
実は、クリスマスは、人類を救いに招いて救う為に、イエスがご自身のいのちを捨てる十字架の日を目指して生まれた日であることを覚えて頂いて、クリスマスを感謝したい ♪

posted by luckyfachan at 22:32| Comment(0) | マタイの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする