2019年02月06日

元旦礼拝


マタイの福音書16章21節〜28節

新年の冒頭、終末に生きるキリスト者として、私たちの日々自覚すべきことは何なのか ? に耳を傾けたい。
今朝の聖句の21節には、「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」とあるが、私たちは 『 ルカの福音書 』 によって、既に、主がゴルゴダの丘に処刑された場面まで辿り着かせて頂いた。
死刑囚が自らの処刑具をかついで処刑場に上る中、衰弱し切った主には処刑具の重さは耐え切れずに倒れ崩れながらも、極みまで罪人の行方をのみ気遣い、更には処刑されるや、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかが分かっていないのです」と叫ばれる主に近づかせて頂いて来た。インマヌエル讃美歌 591番 「主はいのちを与えませり、主は血潮を流しませり。その贖( あがな )いにて我は生きぬ。我何をなして主に報いし」と歌っているが、その応えは、今朝の聖句、24節 「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との招きに応じることをもってしかない。
この招きのおことばを、私たちは何度学んで来たことか !! 肝心なことは、字句の意味を知ることに意義があるのではなく、主のこの招きが自分の生き方にどれだけ反映されているか ? にある。先ず意味を正確に知ることが必要であるが、知った主のこのおことばに、私の内心はどう反応するか ? の正直で真面目な吟味がなければ学ぶ価値はない。その為に、24節の理解を確認したい。

@ 「それからイエスは弟子たちに言われた」おことば。

この「それから」とは、23節 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とペテロを叱責されてからのこと。主は公生涯の半ばから十二弟子を選出して、福音宣教を担う器の育成に力を入れられたが、このペテロは、17章1節 「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と、12人の中から絞られてより主に近くに呼ばれ、特別な訓練に与った三人の中の一人であり、側近中の側近である。彼らは後に、ペンテコステによって誕生する教会の建設に当たって、重要な役割を担うべく備えられる必要があったからである。
期待が寄せられたのは当然である。ペテロも主の期待に沿って、主から ※ 16章15節 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられた時、16節 「あなたは生ける神の子キリスト」ですと答え、17〜19節では「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです・・・」と、主から言われた。
ところがその直後、主は、彼の信仰を確認して、21節 「そのときから」と、ご自身のご受難について吐露されるが、彼は試されることになった。
何と彼は、22節 「イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『 主よ、とんでもないこと・・・ 』 」と非難して 《 内面に巣食っている腐敗した罪性 》 が暴かれることになった。

主の姿勢は明白 !! 仮に主が彼をどれ程期待し、心血を注いでおられたとしても、ペテロが彼の個人的な同情心から主に苦難を避けさせ、主を、23節b’ 「つまずかせ【妨害、罠】」、聖父の御心に背かせる存在となるならば、主は、「下がれ、サタン」と退けるお方。
ペテロの内的罪の腐敗性について、主は ※ 23節c 「神のこと【神的性質】を思わないで、人のこと【人間的性質・神の性質とは相容れない肉】を思っている」と言われた点にある。ペテロにとって、主の言う惨めな死は、恥辱、立身出世が叶わない失望を意味し、こんなことだけは絶対に聞きたくない、受け入れたくないとする野心がある。
※ 24節 「それから」とは、主の期待を裏切るペテロの実態を見せ付けられてから、ということである。 “ つい先には、「あなたは生ける神のキリスト」だと告白したあなたが・・・ そして、18、19節 「そこで、わたしもあなたに言います・・・」と、贖( あがな )い後に託すべく備えられている教会の権威について宣言したばかり ” だった。 “ その後、信頼したからこそ、受難について吐露したのだが・・・ ” である。

A しかしペテロに、「下がれ、サタン」と言わざるを得なくされた主は、その悲しみに妨げられずに、大胆な宣言をなさったのが、このおことば。

何と !! 毅然と、「だれでもわたしについて来たいと思うなら・・・」と仰る信仰 !! ペテロを何としても手放すまいとする個人的願いは一切なく、弟子たちの自主性に委( ゆだ )ねる明け渡し !!
主はご自身に従うことを強要はなさらない。何故なら従うという行為は、詩篇 40篇8節 「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります」とあるように、喜んで従うのでなければ無意味、無価値、従うことにはならないから。
従うという行為は、25節、従う者の永遠を決定することだと、弟子たちのいのちの為の招きなのだ。

B 自主性を持って従う、弟子としての条件を明らかにされたおことば。

a. 「自分を捨て」ること ⇒ ペテロは自らの為に抱いた肉的野心、成功、栄誉心を求めようと思えば、その選択もある。しかし真理は、それを得ようとする者には獲得ではなく永遠の喪失。それを神の御心とは相反するものと分かった時には、潔くそれを放棄すること。忌み嫌うこと。
b. 「自分の十字架を負」うこと ⇒ 内に発見させられた 《 神の御心に反する 》 肉的なものを罪と認めて告白し、主と共に十字架につけて死に至らしめ、新しい性質に変えられ続けること。
ルカ 9章23節 「日々自分の十字架を負って」とある。

※ 主は、全ご生涯、聖父の御心に適わないものは全て退け、聖父の御心に従わせて生きることを喜びとされた。私たちも今年、主に倣う弟子として日々従う者でありたい。

posted by luckyfachan at 22:08| Comment(0) | マタイの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月09日

聖日礼拝 『マタイの福音書』 より


マタイの福音書2章13節〜23節

先聖日は、マリアの従順に次いで、マリアの懐妊が「聖霊によって身ごも」ったものとは知らずに苦悩したヨセフに、「神のことばを聞いてそれを守る人」の信仰の姿勢を学んだ。

@ 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせたヨセフ。
マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免(まぬか)れ得ない、明らかに姦淫罪である。
この事実に苦しんだヨセフは、この難題を 《 マリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」と、主に向けた 》。ここに彼の正しさを見る。
直接事情を婚約者マリアに聴くことも出来たが、そのことによって、沈黙しているマリアを追い込むことになるであろうと気遣って主に委( ゆだ )ね、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いとだけ考え、「ひそかに離縁」する以外に彼女を救う道がないと、「思い巡らしていた」ヨセフ。「正しい人」とは、聖書の教えの中心である 《 愛に生きる人 》 のこと。

A 20b〜23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」との告知を受けた時、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」たヨセフ。
自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。

※ いつでも柔軟に主に従う準備された信仰者でありたいと。


今朝もマタイの福音書から、引き続き、ヨセフの従順に注目したい。
今朝の2章の記事では、主が、23節 「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたことが成就するため」に、ヨセフは地上の父親としての立場で、重要な役割を従順によって見事に果たしたと学びたい。
この「預言者たちを通して 『 彼はナザレ人と呼ばれる 』 と語られたこと」とあるが、旧約聖書の何処にも見出せない言葉。従って、ヨハネの福音書 1章46節 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言われた言葉が意味する侮辱的処遇を受ける生涯を送る人との意味で、多くの預言者によって語られて来ている。イザヤ書 53章は代表的である。
主のご生涯を的確に象徴する「ナザレ」に、幼子イエスを、様々な危険極まりない状況の中お連れするのに、ヨセフの功労があり、取りも直さず、ヨセフの従順によったのだ。
ヨセフの生涯は、母マリア程、その存在感はない。
聖書に登場する場面は、マタイではここで終わっており、他ではルカの記事の2章【1〜7節 ⇒ 人口調査の為に「ダビデの町へ上って行った」折、主がベツレヘムで誕生されたこと。15〜20節 ⇒ 羊飼いたちの訪問を受けられたこと。21〜35節 ⇒ 誕生8日目にして割礼を受けられ、「きよめの期間が満ち」て神殿に上られたこと。《 この間に、今朝のマタイの記事が入る ⇒ ベツレヘムからエジプト経由でナザレの町への旅 》 41〜52節 ⇒ 12歳で律法の子となる儀式に臨まれたエルサレム神殿での出来事】と、詳細な記録がある。
この記事以降、ヨセフはその姿を消している。

こうして見る限り、目立った印象はない。
母マリアは、主の十字架の死を目撃しなければならず、主の最期で、ヨハネの福音書 19章26節 「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に 『 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です 』 と言われた。それから、その弟子に 『 ご覧なさい。あなたの母です 』 と言われ」、老後まで気遣われている。
この日の為に、乳飲み子イエスを抱えて入った宮でのこと、敬虔な老人シメオンによって、ルカの福音書 2章35節 「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫く・・・」と預言されている。
しかしマリア程、存在感がなかったとは言え、ヨセフの従順によって主が、やがての日に備えられた事実に注目を。
ヨセフの従順は、主のご降誕による贖( あがな )いを阻止しようと、手ぐすね引いて待ち構えていたサタンの魔の手から幼子を守って、遂に、ナザレの町にお連れするまでの厳しい道のりでのことである。
マタイの福音書には、主がベツレヘムの家畜小屋で産声を上げられたことについての記事がなく、その後、場所をある家に移された時からの記録になっている。
それが、2章11節、「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」に見る。
2章2節 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星( 民数記 24章17節 )が昇るのを見たので、礼拝するために・・・」やって来た博士たちの訪問を受けるところからである。

@ ヨセフの従順の実践は・・・

a. 2章13節 「彼らが帰って行くと・・・ヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。・・・殺そうとしています。 』 」に対する、14、15節 「そこでヨセフは立って、夜のうちに・・・逃( のが )れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた」に。
b. 19、20節 「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。『 立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい・・・ 』 」に対する、21〜23節 「そこで、ヨセフは立って・・・入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。・・・ナザレ・・・に行って住んだ」に。

A ヨセフの従順の鍵は・・・

a. 「主の使い」の指示を聞き逃すまいとする忠実さ。
「幼子を殺そうとしています」という緊急事態での顕現。ヨセフはたった今、博士たちから幼子の生涯を象徴する贈り物に与ったばかり。その厳かさの余韻を噛みしめながら、尋常ではない状況判断が出来ていた。
b. 聞かされたことへの即刻の対応。
c. 「入った。しかし」と、聞いては従うという姿勢が、主との絶えざる継続的で、瞬時の交わりの中で為されている。

※ 主への従順には、いい加減さのない真面目さが肝要。

posted by luckyfachan at 21:36| Comment(0) | マタイの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

聖日礼拝 『マタイの福音書』 より


マタイの福音書1章18節〜25節

先聖日では、ルカの福音書 11章27節、※ 主を育てた母マリアを幸いだと言って来た女性に、28節、※ その事実を肯定しつつ、「幸いなのは」と、「神のことばを聞いて・・・守る人」と仰った聖句から 《 守ったマリア 》 に注目した。

@ 母マリアへの過度な崇拝は慎むべきこと。
マリア崇拝について考えた。人間的には、マリアの 《 主の母としての 》 光栄ある選びの故に、又その選びに相応しい女性である故に、マリアに敬意を表することがあったとしても、礼拝は神ご自身に対するものである為、慎むべきであると。

A 霊的関係を、肉の家族関係より優位 !! とされたこと。
主が 《 肉の家族関係 》 を否定してはいない。聖書には、父母に対する義務についての言及がある。
但し、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」との言及があることから明白。

B 真の祝福は、28節 「神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」にあると言われた、それをマリアの姿勢に見た。
マリアが受胎告知に与った時に戸惑い、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言ったのは( ルカ 1・34 )、マリアの誠実さによるもの。しかし一旦、神からのものと聞いたならば、38節 「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に」との従順こそ、私たち信仰者の誰もが倣うべき模範的姿勢である。
従う時に伴う代価をものともせずに、ひたすら神の御心がなるように、その為ならば「どうぞ」という従順 !!

※ 主の言われる 《 真の幸い 》 に与る者でありたい、と。


今朝は、マリアの従順に次いで、マタイの福音書 1章18節 「母マリアはヨセフと婚約していた」とあるヨセフの従順に学びたい。
18節b' には、「二人がまだ一緒にならないうちに、( 御使いの言った通り )聖霊によって身ごも」ったという事実が伝えられている。そして私たちは直ちに、19、20節の記事に、マリアが身ごもったというこの事実を認めざるを得なくされた 《 ヨセフの苦悩 》 を見ることになる。
それは、マリアの「胎に宿っている子は聖霊による」とヨセフに伝えられたのが、「彼がこのことを思い巡らしていた」時、「主の使い」によったのが初めてだったから。
ルカの福音書 1章26〜38節の記事も、この事実を裏付けている。マリアが受胎告知に与った時、彼女が人間的には到底受け入れ難いとして、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と出たが、「神にとって不可能なことは何もありません」との御使いの言葉に、即刻、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身に・・・」と、信仰を告白した記事。既に自立した信仰が育っていた。誰かに相談してからではなく又その後、39〜45節 「マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした・・・」とある。こうした記事を読む限り、マリアは、受胎告知を受諾( じゅだく )する際にも、受諾したこと自体においても、全く婚約者ヨセフにさえも伝えず、脇目も振らずに飛んで行った所は何と !! 直線距離にして120キロの「山地にあるユダの町」、御使いによって伝えられた、36節 「見なさい。あなたの親類のエリサベツ」の家だったからだ。
こうしたことから実に、「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。 ルカの福音書 11章28節」と主が言われる 《 この「聞いて・・・守る」という主との関係は、極めて個人的なものである 》 と再吟味する必要があるのでは !!
正に、「聞いてそれを守る」という姿勢は、先聖日学んだように、霊的関係は、肉の家族関係に勝るものとの意味を明確にしているからだ。

マリアの懐妊を知ったヨセフに、「神のことばを聞いて・・・守る人」の信仰の姿勢を学びたい。

@ 1章19節 「夫のヨセフは正しい( 聖書に忠実な )人」との聖霊の証を得て、全ての思いを一つにして主に従わせた。

マリアの懐妊は、どう考えても結婚関係なくして起こった不貞関係・不義の関係以外には考えられないことで、律法によれば裁きは免( まぬか )れ得ない、明らかに姦淫罪である。
しかしそうだとしつつも、ヨセフは、今まで知るマリアの信仰からはとても考えられない出来事であり、何か事情がない限りあり得ないことだった筈と悩む。
彼は、ここで人間的理解を超えた問題とした時、それを 《 人であるマリアに向けずに、20節 詳訳 「このことを熟慮していると・・・」とあるように、主に向けた 》、ここに正しさを見る。
何という思慮深さ、冷静さ !! しかし、20節の御使いの言葉は「恐れずに」であった。やはり、何故こうしたことが起こり得たのかとの思いは、信頼し合えるマリアを思う時、恐怖が彼の心を締め付けてはいたからだ。
この不可解な出来事を婚約者マリアに、直接事情を聴くことも出来た。しかし、直接マリアからの言葉もない時に、その沈黙を破って話すように促( うなが )すことは、マリアを苦悩に追い込むことになるであろう。ヨセフにとっては、マリアの懐妊による裏切り行為がどの様なものであれ、自分を被害者と見做さず、ひたすら、「マリアをさらし者にしたくな」いという思いだけ。その為には、「ひそかに離縁」する以外に、彼女を救う道がないと「思い巡らしていた」ヨセフ。
ヨセフは、コリント人への手紙 第一 13章5節 「自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留め」ない愛に徹する道を選択しつつ、しかし性急には事態を変えようとせずに、自らの心の判断が正しいのかどうか、全てを待ち望み、主の裁断に委ねたのがヨセフ。「正しい」とはこの愛に生きること。

A 1章20b〜23節 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」との告知を受けた時、ヨセフは、24節 「・・・主の使いが命じたとおりにし・・・」とは、何という従順。

自らが決断したことに固執しない姿勢は素晴らしい。
それは、《 あくまでも、自分の思いではなく、主の御心にのみ従いたい 》 とする明け渡しの姿勢に生きているから。

※ いつでも柔軟に主に従える準備された信仰者でありたい。

posted by luckyfachan at 19:40| Comment(0) | マタイの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする