2016年02月04日

元旦礼拝


ヨハネの福音書5章30節

私たちの求めて止まない日々の願いは 《 主を知ること、主に似せられること 》 にあるというのが、お互い共通の思いではないでしょうか。年頭に当たってこの一事を再確認して、新年の歩みに備えましょう。

@ 「わたしは、自分からは何事も行うことができません。」と語られる主のお言葉の意味を考えたい。

主の「できません」とは、あくまでも自主的な選択による意思表示なのだ。パウロがピリピ人への手紙 2章6節〜7節で、「キリストは、神が神であられるための属性( 神の存在に固有の性質 )をすべて保有しておられる神ご自身であられますが、神と等しい在り方を固守しておきたいとはお思いになられないで、かえってご自分をむなしくして( そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて )しもべの姿をとられ、人間としてお生まれになりました。」と語った主のご生涯について、主がご自身のお言葉をもって証言されたのが、この聖句。
ゲッセマネの園で主は、ペテロに「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。 マタイの福音書 26章52節〜53節」と仰った。ここにも、「できません」と仰る主のお心の説明がある。
主は 《 出来ないのではない、そうしようとは思われないという 》 自己放棄の告白なのだ。ペテロは、主をそのようなお方として理解出来なかった為に、彼は彼らしく剣を手にした。しかし主はむしろ、彼を窘( たしな )められたのだ。

私たちは、このように仰る主に似ているだろうか ?

主が放棄された特権は、神ご自身であるにも拘らず、神固有の性質( 霊性、永遠性、遍在性、主権的意思 )であった。「富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。コリント人への手紙 第二 8章9節」と、富んでおられた主が、【棄てて】貧しくなられた。しかし、私たちは「貧し」かったのだ。この貧しさとは、何も持っていないという貧しさではなく持っている物の貧しさである。
エペソ人への手紙 2章1節〜3節 「・・・死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」という貧しさ。
神を離れた時から、神のかたちを失い、サタンの支配下に身を任せていた極貧状態にある貧しさである。
ですから、私たちに求められている放棄すべき物とは、そうした生き方によって形成されて来た自己の放棄である。
A・W・トウザーは、自己放棄について 《 自己愛、自信、自己義、自惚れ、自己拡大、自己憐憫 》 と説明し、 “ これらは、全能の神の禁制品【禁断の実】であり、これらのものが心にあるならば、神はその力強い御霊を送って、ご自分の所有とすることができない ” と言っている。私たちも又、主が仰るように「自分からは何事も行うことができません。」と言えるのでしょうか ?

A 主に従って、「自分からは何事も行うことができません。」と言えるには、私たちはどうしたら良いのか ?

a. 消極的面 : 自己放棄の実践。
難しいことではない。様々な局面で示される一つ一つの自己中心的性質をその都度どのように扱うのかが、鍵 !!
喜ぶのか、忌まわしく思い嫌悪するのか ? そのままで良いとして心の内に仕舞い込んで置くのか、その傾向性に悲しみ、取り除いて欲しいと願うのか ? その都度、どちらを選択するのか ? 主が「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 マタイの福音書 5章4節」と勧めておられるところに従うことだけ。そこに備えられている 《 十字架による赦しと清め 》 によって、自己放棄は可能とされる。

b. 積極的面 : 「ただ聞くとおりに」との主との交わり。
主は良く聖父と交わり、聖父との時間を死守された。
「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ベタニヤのマリヤは、主をもてなすことに非協力的だとしてマルタから咎( とが )められたが、主から「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。ルカの福音書 10章42節」と弁護されている。
しなければならないことが多くある中で優先順位を定め、聖書を読むということではあるが、聖書を通して主と交わるという意識で、聖前に出るお互いでありたい。

何が ? 私たちをそのような営みへと導くのだろうか ?

B 主をして、「自分からは何事も行うことができません。」と言わせた 《 その動機 》 にその答えを。

「わたし自身の望むことを求めず【詳訳 : 自分の意思を考慮せず、自分自目的、意図に沿うことをしたいと願わず】、わたしを遣わした方のみこころを求める【お喜びになることだけをしようと願う】からです。」と、ここにある。
聖父のみこころとは ? 主に託されていたのは 《 人類の贖いを成し遂げること 》 だった。「・・・このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。12章27節」と祈られた。又、ゲッセマネでは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。 ルカの福音書 22章42節」と。
極限状態にあられた主は、「わが神、わが神。どうして・・・」と、聖父への愛に疑念を抱かせようとするサタンからの執拗な誘惑に襲われつつも( マタ 27・46 )、聖父の愛を信頼する愛を貫き、遂には、「父よ。わが霊を御手に委ねます。」と愛の告白をもって息を引き取られた( ルカ 23・46 )。主がご自身を完全にお棄てになり、贖いの生涯を全うされたのは、人類の救いを願われた聖父への愛に他ならない。私たちは、ルカの福音書 7章47節 《 多く罪赦された自覚こそが、主を多く愛する 》 とのおことばに留意したい。


※ 贖いは主の自己放棄によった。宣教は、置かれたところでの自己放棄による。私たちもこの一年、自己放棄させる主への愛に動かされて、主と隣人とに仕える者でありたい。

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2015年02月07日

元旦礼拝


ヨハネの福音書21章15節〜19節

2015年の年頭、先ず、「あなたはわたしを愛しますか」と語り掛けられる主の聖声( みこえ )を聞かせて頂きたいと思います。
主が、私たちに「愛しますか」と尋ねて下さるということは、一体どういうことなのでしょうか ? この問い掛けが誰に向けられたものであるのかを考える時、より一層その思いが強くなります。更に、この「愛しますか」の問い掛けこそが、尋ねられた人・ペテロに 《 主に献身の生涯をもって従わせる 》 チャンスと転機をもたらしたと知る時、感動を新たにさせられるのではないでしょうか !
この「愛しますか」の問い掛けは、神の愛、他の如何なる愛とも完全に区別される 《 アガペーの愛の典型 》 である。

@ 「愛しますか」とは、交わりの回復へ招く愛。

主は、私たちとの交わりを求めていて下さるお方だから。
神と人との交わりは、《 すべて生きる物の創造後、最後に「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 創世記 1章26節」と、神がご自身との交わりの唯一の対象として人を造ってエデンの園に置き、エデンの名の示す通り【歓喜に満ちた】関係を作って下さったことに 》 始まった。その時交わされた約束事が、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。 創世記 2章17節」であったが、人は、神との関係を蔑ろにして、自らの好奇心で道を踏み外してしまった。その結果、神の臨在を避けるようになり、尋ねられなければ戻ることの出来ない「失われた人」になってしまったのだ。
神はその「人」を、ご自身の方から近付くことによって、本来在るべきところに回復するようにと働き掛けるお方。
主は 《 人が皆、神から離れて生きるようには造られていないこと、しかも、自分の方からはとても近付けないと考えていることとを知っておられるので 》、近付かれる。
21章1節〜4節 「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。」とあるのは、この理由によるのだ。
ペテロはどんなにか、主の胸の中に飛び込みたいと願っていたことか。主を三度拒むや否や、鶏の鳴き声を聞いた時、主と目が合ったペテロは、主の言われたお言葉【ルカ 22章31節〜34節】を思い出して、激しく泣いたのだから。
ですからペテロは、6節 「網をおろしなさい。」と命じられた方が、7節 「主」だと伝えられた時、咄嗟に「裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込」み、岸辺に立たれる主に向かったのだ。しかしその彼でも、主の方から近付いて下さらなかったならば、そいうことにはならなかったのだ。
主が、5節〜6節で「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」と出られたのはかつて主から取り扱って頂いた光景を思い起こさせることによって【何という思い遣り】、死に掛けていた弟子たちの心に触れようとされたからである。
彼らは、肌でそれを感じ始めていた。
7節 「そこで」、ヨハネが大漁を見た時、直ちに「主です。」と叫んだのは、かつて「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。ルカ 5章10節」と主が仰った時のことを思い出したからである。

A 自らの罪を誰よりも深く 痛く悔いている者に、より親しく近付く愛。

一目散に主のところに泳いで行ったペテロは、9節 「そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見」るや、どうしたのでしょうか ? ここでは唯、打ち砕かれている弟子たちを気遣う主の【10節 「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」 & 12節 「さあ来て、朝の食事をしなさい。」との】声のみを聞き、目の前におられる主に、何も言えずに沈黙するのみ。悲しみと申し訳なさで静まり返っていた雰囲気の中、静寂を破られたのは、主なのだ。
主はここで、「わたしを愛するか」とペテロに尋ねておられる。“ まさか、この私に !? よりに選って、何故この私に !? ” と、ペテロは自分の耳を疑ったのではないだろうか ?
何故なら、アガペーの愛は、何かをするから、したからということを 《 価値の判断基準としない性質 》 だからである。
確かにペテロは、主を拒絶した。しかも、「のろいをかけて誓い始め、『 私は、あなたがたの話しているその人を知りません 』 マルコ 14章71節」とまで言っている。
しかし、ペテロを愛する愛は、それだからというので変わることはなかったのだ。ペテロという一人格者を、一人格者であるが故に愛するのが、アガペーの愛なのだ。
しかし主は、ペテロの犯した罪の事実を有耶無耶( うやむや )にされたのではなく、むしろ彼に直視させた。それは敢えて、15節 「この人たち以上に」 & 17節 「三度 『 あなたはわたしを愛しますか 』 」と、彼が「心を痛め」るように導かれたことで分かる。

B 敗北者ペテロを信じて、活かす愛。

コリント人への手紙 第一 13章5節 「人のした悪を思わず( 記帳せず、不問に付す )【主への拒絶の理由を問いただして追及せず】」、7節 「すべてをがまんし【※ おおい】、すべてを信じ【何時でも快くすべての人の最善のものを極度まで信じ】、すべてを期待し【どんな事情のときにも色あせることのない希望を抱き】、すべてを耐え忍びます【あらゆることに耐え、弱ることがない】。」の愛をもって、ペテロに迫っておられるのだ。
主は、彼が自信満々に、主への服従を約束した時でさえ、ペテロをむしろ諭されて、彼への愛を予め明らかにされた。ルカ 22章31節〜34節 「※ 32 ・・・あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけて・・・」と。その時、ペテロは、主のこのお言葉の意味を知る由もなかったが、挫折して砕かれた今、そしてこの敗北者に近付いて下さった主の愛に触れた今、初めて知るところとなった。
その後、18節〜19節 「どのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して」との預言の通り、殉教死を遂げたペテロ。殉教直前には、主の言われたように、兄弟たちを力づける為に、ペテロの手紙 第一、第二を迫害で苦しむキリスト者に託して激励した。「燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」と( ペテロの手紙 第一 4章12節 )。
15節、16節、17節 「はい。主よ。私があなたを愛することは【※※※フィレオー】・・・」の愛ではなく、聖霊による神の愛が注がれて初めて可能になった。


※ 神の愛を今一再確認して、主の為に活かされる一年を。

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2015年02月01日

Christmas Candle Service の夕べ


ヨハネの福音書3章16節

「神は、実に、
  そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
   それは御子を信じる者が、
    ひとりとして滅びることなく、
     永遠のいのちを持つためである」。

私たちはキリストの誕生を記念する Christmas に、何を思い起こして心を新たにするのでしょうか ?
それは、キリストが誕生されたという歴史的事実をもって、神が「世を愛された」という 《 神の愛が具体的に、実際的に 》 現されたことを思い起こすときでもあります。
しかその「愛された」という神の愛は、「そのひとり子をお与えになったほどに」との、神の愛の度合いがどれ程だったのかということをも、明らかにしてくれます。

「神の愛」とは ?

私たちは日常、愛という言葉をよく聞きますし、使いもしますが、いざ、愛をどのように理解しているのかと尋ねられると、曖昧ではないでしょうか ?
ギリシヤ語では、四通りの意味があります。アガペー、フィリア、エロース、ストロゲーであるが、この中のエロース、ストロゲーの愛は新約聖書にはないが、ストロゲーは、「肉親愛や血縁関係の情」を表わし、エロースは、一般的に「男女間の自然の愛や恋愛」を意味する。フィリアは「人間関係で一般的に用いられる温かさのこもった親愛の情の表現」としての愛。
ところが、これらの愛とは別格に、アガペーの愛と言われている愛がある。神だけが持っている、神にしかない愛、神のご性質のこと。ローマ人への手紙 5章6節〜9節 「弱かった( 自分ではどうすることも出来ない、道徳的に無力 )・・・不敬虔な者・・・罪人・・・敵であった」者、罪の為に無力となってしまっている者を愛する愛。実は、私たちは、誇れるような何かがある自分は愛せても、無力で無価値である自分は愛せないのでは ? ところが、このアガペーの愛は、何かに勝れているから価値があるとは言わない、むし全く取り得がないのに愛する愛の性質。

「神は、実に、・・・世を愛された」とは ? を考えたい。

@ 「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことを望まれる愛。これは、聞き捨てならない言葉である。

私たちは、自ら過ちを犯してしまった時、恐れないでしょうか ? それは何故 ? そこには必ず、それ相応の裁きが伴うということを知っているからではないでしょうか。
キリストを裏切ったユダも正にそうだった。マタイ 27章3節〜4節 「イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、『 私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして 』 と言った」。ユダが味わったその後悔は、取り返しの付かないことへの恐怖心となった。ユダの恐怖は、ユダに死を招いた。しかし神は、ユダが死ぬのを、自ら滅びるのを願わないというのだ。
人はユダをどう見るだろうか ? 当然の報い ? 裁かれるべき ? その状態からの立ち上がりを願うよりも、冷たい視線を向ける ? 人が思いを巡らせるまでもなく、本人がそこからの回復を断念するのでは ?
どんなその人に好意を寄せていたとしても、ひとたび過ちを犯したとなれば、“ そんなことをする人だとは思わなかった ! ” と憤慨し、“ もう二度と係わりたいとは思わない ” と言う。
しかし神は、その状態からでも「滅びることなく、永遠のいのち【赦しに与り、神の愛に与る新しいいのち】を持つ」ことを願って下さるというのだ。

A この「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことを願って下さるというのは、単なる思いを抱くだけのことではなく、「ひとり子をお与えになった」という、ご自身の身を切る実践的行為をもってのこと !!

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 ローマ人への手紙 6章23節」と。ユダは自分で罪の始末をと、死に急いだ。しかし神は、当彼が受けるべき罪の報いとしての死を、御子キリストが身代わりに引き受けることによって、ユダを、そして私たちを滅びからいのちに移そうとされたのだ。

B ユダは、「御子を信じ」さえすれば良かった。

「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と、祭司長、長老たちに告白したが、妬みからキリストを十字架刑に処すると決定した彼らの所ではなく、キリストに飛び込むべきだった。三年行動を共にした彼は、赦す主を知っている筈。


※ クリスマスは、十字架に向って生まれて下さった歴史的事実を思い起こして、神の愛に与り、心を新たにする日です。

posted by luckyfachan at 08:39| Comment(0) | ヨハネの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする