2019年06月14日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 12


ヨハネの福音書3章22〜36節

先週は、イースターを記念する礼拝に当たって、15節 「永遠のいのちを持つ」ことについて考えた。

@ 「永遠のいのち」とは?
時間が無限に続くというイメージを抱きがちだが、ここでは時間を超越した “ 神の属性【固有の性質】 ” を意味する。従って、「永遠の」は「神の」と同じで、神のいのち、神に属するいのち、神との生きた関係にあって初めて経験するいのち。3章3節 「神の国を見る」、4節 「神の国に入る」と、《 神の国に生きるいのち、神のいのちに与るいのち 》 なのだ。
将来的にも現在地上に居ながらにして経験するいのち。

A 「永遠のいのち」はどの様にして与えられたのか?
14節 《 主の十字架の事実によって 》 である。
ローマ人への手紙3章23、24節 ⇒ 罪人への相応しさは 《 肉体の死 》 《 霊的死 》 《 永遠の死、絶望的な死 》 の為、「神の恵み」による主の身代わりの代価によらない限り、絶望的だからだ。

B 「永遠のいのち」に与るには?
15節 「信じる者がみな」、16節 「信じる者が」で、「信じる」とは、18節b 「神のひとり子の名【罪から救う】を信じ」ることに他ならない。信じる者となるには、罪人は自らの罪を知る必要がある。その為主は、1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光」として来られ、罪を明らかにされた。その時、3章20節 「光を憎」むのか? 21節 「光の方に来る」のか? 罪が明るみになるのを避けずに、悔い改め【罪を認め、罪を悲しみ、憎み、捨て】て、方向転換することである。

※ 十字架の主と共に死んでよみがえるべく、聖餐式にと。


今朝は、26節 「彼らはヨハネのところに来て言った。『 先生。ヨルダンの向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。』 」と、バプテスマのヨハネの立場を気遣ってやって来た弟子たちへの彼の言葉に注目を。
B・ヨハネの弟子たちは、「なんと ⇒ 詳訳 : ご覧なさい」と、師であるヨハネに注意を喚起して、先生が私たちに紹介されたお方が、先生を差し置いて人々に「バプテスマを授けて」いること( 実際は、4章2節によると「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」とある )は問題ではありませんか? と迫り、又、「皆があの方のほうに行っています ⇒ リビングバイブル訳 : こちらに来ないで、どんどんあの方のほうへ行ってしまいます」、こんなことで良いのですか? 何か打つ手を考えないのですか? と。
弟子たちのこの訴えは、モーセが経験したものでもあった。
民数記11章26〜29節 「・・・彼らは宿営の中で預言した。それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。・・・若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。『 わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。』 モーセは彼に言った。『 あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』 」と。
モーセは従者ヨシュアの忠言に、「私の為を思っての妬み」と見て潔く退け、むしろやがて迎えるペンテコステの祝福を予告して喜びに浸るべきだとして、指導している。

さて、B・ヨハネは弟子をどのように指導したのか?
その指導の内容を※27〜30節の聖句に見るが、モーセ同様この現象こそ望ましいことだと、潔く明確にしている。
連講の初め、B・ヨハネが登場した時に、主に仕えるB・ヨハネの姿勢こそ 《 主の証人の模範 》 と学んだが、その時の学びに加えて、B・ヨハネの信仰から光を受けたい。
彼が明言した核となる言葉は、29節 「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています」である。
それこそモーセに同様、 “ あなたがたは私の為に妬んで悲しみ、大変な事態となったと心配しているが、とんでもないこと!! むしろ喜ぶべき時が来たと知って歓迎すべきなのだ。そのように心配しているあなたがたこそ、実はこのことの証人なのだ ” として彼らの忠言を退けた。

B・ヨハネの信仰は?

@ 28、「私はキリストではありません。」と弁えた信仰。

全ては主に帰せられるべきであるとの信仰。
黙示録4章9〜11節 「これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『 主よ、私たちの神よ・・・ 』 」の幻に生きること。
3章27節 詳訳 「人は天から与えられているもの以外は、何も受けること〈 自分のものと主張する、自分のものとすること 〉は出来ない【天から与えられる賜物を受けることで満足しなければならない】」との弁えである。B・ヨハネの弟子の中からも、使徒ヨハネ、アンデレを初めとして主に従うようになったことを受けて、花婿なる主に従うのは当然なのだと。35節 「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった」とあるように、むしろ従って、永遠のいのちに与るべきと( 36節 )。

A 28節 「 『 私は・・・ではありません。むしろ( 唯 )、その方の前に私は遣わされたのです。』 と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます」と、自らは唯、主に先立って道を備えるようにと送られた先駆者にすぎないとの弁え。

従って、29節 「花婿が語ることに耳を傾けている友人」として、「花婿の声を聞いて大いに喜びます。・・・私もその喜びに満ちあふれています」と。
30節 「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と、自らの殉教の死を予感しながら、間もなく果たすべき使命を終えようとしているとほのめかしている。
B・ヨハネの喜びは、先駆者としてなすべきことをした奉仕そのものからの喜びではなく、奉仕の結果、贖いの日に向けて実を結んで行かれる主ご自身にあった。

※ 徹底的に 《 私ではなく、主の喜びを喜ぶ 》 信仰に倣いたい。



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2019年06月05日

イースター礼拝 『ヨハネの福音書』 より 11


ヨハネの福音書3章13〜21節

先週は、主との個人面談を求めて来た※1節 「パリサイ人の一人で・・・ユダヤ人の議員」ニコデモを迎える主に注目した。
彼の訪問が※2節、「夜」であったことには、立場上人目を憚( はばか )る理由【迫害の危惧】があってのことと思われるが、主の働きから光を受けて、エルサレムの宗教・司法を司る最高議会体制に疑念を抱き、真理を知りたかったからなのだ。
2章25節b 「人のうちに何があるかを知って」、ニコデモを扱われた主のお扱いから主の心を学んだ。

@ 主の誠実さ。
3章2節 「夜、・・・ 『 ・・・神がともにおられなければ・・・ 』 」と、主の働きに感動しつつやって来た悩める器を迎えた主は、ご自身への称賛をよそに、直ちに彼の呻きを読み取って、3節から救いの必要性を訴えられた。その近付き方は鋭く、10節 「あなたはイスラエルの教師なのに」、11、12節 「あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。・・・信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」と、彼に議員としてのプライドには刺激となる詰問をもって、彼の求めを確かなものとされた。

A 主の誠実さはニコデモを勝ち取られた。
ニコデモがその時、主の扱いを不服とせずに主に留まり、内密にではあるが、信仰を公にする機会を待ち望みつつ賢明に従ったこと【7章45〜51節、19章39、40節】で分かる。
記者ヨハネは、彼を誠実に扱われた主に栄誉を帰している。

※ ニコデモを扱われた主が真の救霊者として私たちの内面に剣を当てて、救いに導かれるお方であることを感謝した。


今朝は、イースターを記念する礼拝に当たって、15節 「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」のおことばから、Message として三つのことを。

@ 「永遠のいのち」とは?

初めに先ず言っておきたい。永遠と言うと、時間が無限に続くというイメージを抱きがちで、地上のいのちの延長線上にあると考えているなら、改めたい。
全く違う性質のもので、時間を超越した “ 神の属性【固有の性質】 ” であるとして考えるべきいのちである。
従って、「永遠の」ということばは、「神の」ということばと同じで、エペソ人への手紙4章18節 「彼らは知性において暗くなり、・・・無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています」と言い換えられている。
それ故「永遠のいのち」とは、神のいのち、神に属するいのち、神との生きた関係にあって初めて経験するいのちなのだ。ヨハネはこの経験を更に明確にして、3章3節 「神の国を見る」、4節 「神の国に入る」と言われた主のおことばを伝えているが、「永遠のいのち」とは 《 神の国に生きるいのち、神のいのちに与るいのち 》 ということなのだ。
従って、「永遠のいのち」は時間を超越している「いのち」なので、将来的に経験するいのち【ルカ17章21節 「神の国はあなたがたのただ中にある」】と共に、現在地上に居ながらにして経験するいのち【ルカ21章31節 「神の国が近いことを知りなさい」】なのだ。

A 「永遠のいのち」はどの様にして与えられたのか?

15節 「それは、・・・人の子にあって永遠のいのちを持つため」に、14節 「・・・人の子も上げられなければなりません」という主の十字架の事実によってである。
それは、ローマ人への手紙3章23、24節「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」からで、到底「罪を犯して」来た私たちには与り得ないのが「永遠のいのち」で、唯、「神の恵み」によらない限り、与り得ないのが「永遠のいのち」だからだ。
実に、罪人に定められていた「神の栄光を受けることができ」ないという状態は、死以外の何物でもない。この死とは 《 肉体の死 》 《 いのちの源である神から離れて生きる今、経験する霊的死 》 そして 《 永遠の死 ⇒ 神に立ち返る機会を最早失い、恐るべき第二の死と黙示録で言われている絶望的な死、しかも尽きることのない悔いの苦しみ 》 である。
「神の恵み」、神の一方的なご好意によってということで、私たちには神に認めて頂けるような善がないからだ。
ローマ人への手紙3章10〜20節 「義人はいない。一人もいない。・・・なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です」とあるように。
同じくローマ人への手紙4章25節 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」、この 《 御子の死と復活 》 によってである。

B 「永遠のいのち」に与るには?

15節 「信じる者がみな」、16節 「神は・・・世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。この「信じる」とは、18節b 「神のひとり子の名【罪から救う】を信じ」ることに他ならない。
信じる者となるには、罪人は自らの罪を知る必要がある。
その為に主は、1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光」として来られ、罪の事実を明らかにされたのだ。
その時、3章20節 「光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」という態度を取るのか? 21節 「真理を行う者」への渇きをもって「光の方に来る」のか? 罪が明るみになるのを避けずに、悔い改め【罪を認め、罪を悲しみ、憎み、捨て】て、方向転換することである。
それは、14節 「人の子も上げられなければ」と、間もなく十字架上で私の罪の報いとしての死を受けるべく 《 肉体が裂かれ、裂かれた肉体から流される血 》 をもって引き受けられた身代わりの死を、私の為と信じることなのだ。
この信仰に立つことによって与えられた「永遠のいのち」は、17章3節 「唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること【交わる生活によって ⇒ Tヨハネ1章7、9節】」日に日に豊かにされて行くと。

※ 信じるとは、赦しの為に罪を告白し、清めの為に罪の性質を告白すること。十字架の主と共に死に、よみがえるべく、聖餐式に臨みたい。

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2019年05月25日

聖日礼拝 『ヨハネの福音書』 より 10


ヨハネの福音書2章23節〜3章15節

先週は、主がご奉仕の手始めに行われた 《 宮清め 》 を見て、18節 「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と非難したユダヤ人を扱われた記事に学んだ。

@ 主は21節で、神殿を「ご自分のからだ」だとし、19節で神殿を壊すよう命じられ、神殿は建て直されると宣言!!
救い主としての※23節 「しるし」は行われたものの、それらをもって裏付けとはされず、復活を提示された。主が行われるしるしは全て、主が救い主だとの証であるが、目の前で行われるしるしをもってその「しるし」とせずに、信仰によらなければ受け止められないことを以て、答えとされた。しかし謙虚に更に知ろうとすれば分かるのだが。
彼らの反応を恐れずに、神殿を 《 やがてあなたがたが処刑する私だとし、建て直すという証拠を求められたならば、復活こそ、そのしるしだ 》 とされた主の毅然とした姿勢。

A 23〜25節 「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかった・・・」とする信仰をもって。
ここには、主の徹底した 《 聖父と御子との絶対的関係の確立 》 がある。罪人であるお互いには独善的になる危険性があるので、絶えず客観性を必要としているが、主が言われる場合は、そうした恐れのない確信。
聖父が良しとされるか? どうか? この一点にのみ関心を寄せ、何事を為すにも肉的なものの全てを介入させない真面目さ故の確信である。

※ 霊的主との自立した信仰の確立に留意した信仰を、と!!


今朝は、主との個人的面談を求めてやって来たニコデモを迎えられた主に注目したい。彼は、3章1節 「パリサイ人の一人・・・ユダヤ人の議員で・・・」と、70人からなるエルサレム最高議会の一議員だった。
その彼が、2節a 「この人が、夜、イエスのもとに来て」と、単独で、しかも人の目を憚( はばか )ってやって来たのだ。2節a’ 「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」とあることから、議員の中にもニコデモ同様、主を好意的に見ている者が居ることになるが、そうとは言え、申し合わせて出て来るのではなく、又大っぴらに出て来る訳にはいかない事情があったと窺える。
彼はあくまでも個人的渇きを抱いて、しかもその渇きは、彼の行く手を阻む人間的・肉的煩いとして、彼が持っている社会的立場を脅かし兼ねない非難と恐れがあるであろう、それにも拘らず、ニコデモはやって来たのだ。それは、2節c 「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」と告白する信仰に、彼の決意の程が分かる。大多数の人々は、2章18節 「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と偏狭で挑戦的反応だったが、彼には 《 神への畏敬の念 》 があってのこと。実際、主のしておられることは これまでの宗教体制とは相容れない動きである為、神を畏れる畏れが確立していない者には到底理解出来ることではない。
エルサレムの宗教・司法を司る最高議会体制に、主による光が投じられた今、このままでは? との疑念からの渇きが!!
2章24節 「ご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった」という主は、2章25節b 「人のうちに何があるかを知っておられた」お方。ニコデモとのやり取りに主のそのお心を見て、Message としたい。

@ 主は、ご自身に近づく者を誠実に扱われるお方。

老聖徒ニコデモの訪問は、主の喜びだった筈。何故なら、主の公的生涯初めてのエルサレム奉仕は、17節 「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という立ち上がりだったが、反感を抱かれた矢先のエルサレム滞在時に、3章2節 「夜、・・・ 『 ・・・神がともにおられなければ・・・ 』 」と求道者を、しかも指導的立場に在って悩める器を迎えたのだから。
ところが主は、ご自身のその喜びを秘めながらも人間的歓迎のおことばをもっては迎えずに、直ちに、彼の※2節の言葉には言い表されていない 《 彼の呻き声 》 を読み取って、3節から救いの必要性を訴えられた。彼の 《 個人的にやって来た事情、指導者として真理を委ねられつつも、その任が果たせていない現実に悩んでいる事情を 》 知って。
主の※10節 「あなたはイスラエルの教師なのに・・・」は、パリサイ人が如何に、普段から律法分野の専門家として自負を抱きながら、その実を知ってはいないか、誰からの教えも乞う必要などないとする傲慢不遜な人々であるか、の指摘であるが、彼にもこの事実を明確に自覚させ、どこまで徹底的に謙虚になれるのか、真の自分を知らせて、求道の真意を彼に分からせようとしておられるのが見える。
更に続く、11、12節 「まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか」にも、彼は何と答えるのか? ニコデモは “ はい、その通りです。私には救いが必要です ” と答えるのか!! 主はニコデモの心に容赦なく鋭いみことばの剣を当て、予め 《 もし謙るならば、5節 「水と御霊によって」を受け入れるべき 》 と言っておられる。

A 主は、ニコデモを主の弟子としての生涯に導かれた。

ニコデモは、主の扱いを不服としてその場を去ってしまう器ではなかったことを見て共に喜びたい。肉は “ 勇気を出して訪ねて来たのに、歓迎ではなく、私を否定するようなことを言って問題の指摘に終始するとは!! ” と憤慨する性質を持っているが、人の心を見透かされる主は、もし救いを求めさえすれば、責任を持って救われるお方。
記者ヨハネは 《 ニコデモが表立ってではないが、信仰を公にする機会を待ち望みながら、賢明に従ったことを※7章45〜51節、19章39、40節に登場させ、彼の信仰を明記することで 》 彼を誠実に扱われた主に栄誉を帰している。

※ ニコデモを扱われた主が真の救霊者として、私たちの内面に剣を当てて救いに導かれるお方であることを感謝したい。

posted by luckyfachan at 20:23| Comment(0) | ヨハネの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする