2018年11月17日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 94


ルカの福音書21章5節〜38節

先週は、頑( かたく )なな宗教家たちと語られるのに渾身の力を絞り出されてお疲れだったと思われる主が、「目を上げて」目にされた光景から、21章3節 「この貧しいやもめは・・・」と、彼女の信仰を褒められた 《 主の評価規準は何処に 》 を学んだ。

@ 主は、献金を捧げる者の捧げる動機を注視される点に。
「貧しいやもめ」の捧げ物は、2節 「レプタ【1デナリの128分の1で、日給5000円の場合は39円】銅貨二枚」であり、4節b 「この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべて」だった。但し主がこれを強要しておられるのではない。
彼女の献金の理解は、単なる義務感によるものではなく、あくまでも主への自主的で積極的な信仰によるものだった。
そこまでしなくてもと、肉は意見するかも知れない。
何故なら、彼女は「やもめ」であり、しかも「貧しい」。
しかも、やもめの家を食い尽くすパリサイ人たちの被害者でもあり、献金も、 “ だから、出来ない。する必要なし ” とすることも出来たに違いないが、捧げたかったのだ。

A 主は、献金を捧げる者の清められた手を注視される点に。
金持ちたちの捧げた ※ 4節 「あり余る」お金には、やもめの家を食い尽くして得たものが入っていると考えられる。
霊の世界は、善行そのものに価値があるのではなく、生活の在り方を問う。マタイ 5章23、24節 「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに・・・。それから」とあり、礼拝、献金は日々の在り方を度外視出来ない。

※ 受難の主の目に適( かな )う生き方をもってお仕えしたい、と。


今朝は、21章5節から21章全体を拝読したが、マタイ、マルコでは、この説教は弟子たちに 《 オリーブ山でなされた 》 とあるが、地上でのご生涯を閉じる最後の長い説教である。
説教の内容は、5、6節で、「宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。『 あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。 』 」と交わされた 《 終末の予告について 》 である。
この終末については、これまでも言及しておられたことでもある。13章35節 「見よ、おまえたちの家は見捨てられる」、19章41〜44節 「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。『 もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。 』 」と。
これまでの予告は、主の復活後のペンテコステによる聖霊の注ぎ以降、『 使徒の働き 』 に見る宣教への直接的迫害が本格化し、ローマ帝国の圧倒的権力によってA.D.70年、エルサレムが陥落・滅亡に至ることについてであった。
しかしこの21章では、そのエルサレム滅亡と主の再臨による世の終わりとを重ねての予告となっている。

ということは、将来的ご自身の再臨を見据えて、身近に迫っているエルサレム滅亡を語り、エルサレム滅亡を語りつつ、やがての再臨について語っておられるというのだ。
主は弟子たちから、7節 「いつ・・・ですか。・・・しるしは」と尋ねられて答えられた 《 顕著な内容 》 は・・・。
8節 「わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『 私こそ、その者だ 』 とか 『 時は近づいた 』 とか言います」と偽キリストの出現/9節 「戦争や暴動」、10節 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」/11節 「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます」/12節 「迫害」/20節 「エルサレムが軍隊に囲まれる」/24節 「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」/25、26節 「太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです」とある天変地異。このような出来事は、主のこの予告から二千年の間に、諸現象として実際起こっていることであり、近年においては、その規模、発生頻度において深刻化し、その現象が周囲に及ぼす影響力の甚大さ、それこそ未曾有の出来事とか、未だかつて経験したことのない出来事とかといった言葉で説明されるようになっていることから極めて現実的な問題なのだ。

こうした事実を前に鳴らされている警鐘とは ?

@ 言及されている 《 時 》 を弁( わきま )えるべきこと。

a. 20節 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」、24節b 「異邦人の時が満ちるまで【異邦人の世の権力が支配する全期間】、エルサレムは・・・踏み荒らされます」。目前に迫ったA.D.70年のローマ軍によるエルサレム神殿の崩壊とユダヤ人離散の予告と同時に、終末が意味されている。cf. 別プリント【国家民族法 : ユダヤ人の国か民主国家か】
b. 22節 「書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです」 ⇒ 20章16節の成就 ⇒ 申命記 28章15〜68節。

A キリスト者として心得るべきこと。

a. 12〜19節、迫害を覚悟し、その迫害を恐れずに証の機会とし、忍耐によって自分のいのちを勝ち取るべきこと。
b. 25〜28節、諸国の民が恐怖に襲われる中、「身を起こし、頭を上げ」、神の約束に堅く立つべきこと。33節 「天地は消え去ります。しかし・・・」だから。又、36節b 「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」、絶えざる神との交わりに生きるべきこと。
c. 34節、生活【交際関係 ? 思い煩い ?】の吟味に怠りがないように、気を付けるべきこと。それらが「罠」となるから。

※ 宮の美しさに感嘆する声( 5節、マルコでは13章1節 )を耳にされて語られた主の説教は、形ある全ての物の破壊を宣言し木っ端微塵にされるお方から出ている宣言であると、心したい。

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2018年11月09日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 93


ルカの福音書21章1節〜4節

先週は、主に殺意を抱いて質問して来た指導者たちが、20章40節 「それ以上、何も」と敗北感を味わった為、面談はこれで終わったかと思われたその時 !! 主がご自身に敵対する彼らをそのまま立ち去らせたく思われず、41節 「すると( しかし )」と彼らの致命的な過ちを正して、彼らに 《 救いの機会 》 をと願われて質問で近づかれた主に注目した。
主の重荷は、彼らが、47節 「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」と言われている人々だからだ。
彼らが受ける、「より厳しい罰」に至る罪とは、46a’、47、にある 《 外見上の敬虔さを装い、特別視されて特別な尊敬が払われることに関心を抱き、虚栄心を満たそうとし、優越感に浸る内的高慢さ、未亡人に対する非情で薄情な仕打ちをしながら、善行だと称して施しをし、祈りは神にではなく、人に向かっての見せ物でしかない偽善 》 である。
主が彼らを正すべく出された質問は、41節 「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」、44節 「ダビデがキリストを主と呼んでいるのです。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」であった。
この日まで、人の子として仕える日々、謙遜の限りを尽くされたが、三日後、十字架で処刑される主は、ご自身 《 神が人となって来た、それがわたしだ !! 》 との受肉の事実を明確にして、彼らへの最後的な責任を果たされた。

※ 人間的標準で主を見て侮( あなど )り、間もなく十字架に付けようとする彼らに、今からでも悔い改めないかと迫っておられる主の極みまでの愛を学び、それを自らのものとしたい、と。


今朝は、21章に入り、3節 「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました」に見る 《 主の価値あるとされた評価 》 に注目したい。
1節には「イエスは目を上げて」とある。明らかに、見上げなければならない位置に、献金箱があったからだというより、主のこの仕草に、これまで交わして来られた宗教指導者たちとのやり取りから 《 身を起された 》 ということで、情熱を傾けられたことによる疲れが、主を襲い、主は目を伏せておられたということではないだろうか。
それというのも、議論を持ち掛けて来た宗教家たちへの糾弾を見ると、唯事ではなかったからだ。ルカの ※ 20章46、47節 「律法学者たちには用心しなさい。彼らは・・・」との記録は、その時語られた警告のほんの一部分でしかなく、 《 マタイが23章全体 》 を要して伝えているその内容でも明らか。
渾身の力を絞り出して、語っておられたことで分かる。
2節から始まるが、何度も「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは・・・ 13( ※ 14 )、15、16、23、25、27、29節」と語りつつ、37節 「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ・・・」と、涙を流された主なのだ。人の子である主 !! 語り掛けがあったとしても謙虚に受け入れようとはしない、彼らの強欲さ、肉の強さに疲労感を覚えて、頭をうなだれておられたのではないか !!
その時ふと、ルカ 21章1節 「イエスは目を上げて」と、目にされた光景から、献金箱に捧げている、極めて対照的な二人の人物が映ったというのだ。主は、20章47節で「やもめの家を食い尽く」す律法学者の偽善を目の当たりにする中、彼らの犠牲者となっている21章2節 「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見」られた時のこのやもめの信仰を見届けられた喜びようはひと方ではなかったに違いない。
さて、主は、「貧しいやもめが」捧げた捧げ物を、3節 「だれよりも多くを投げ入れました」と言われたという問題であるが、主以外、一体誰がそのように考えるだろうか ? 《 主の評価の規準が何処に ? 》 を見なければならない。

@ 主は、献金を捧げる者の捧げる動機を注視される。

 「貧しいやもめ」の捧げ物は、2節 「レプタ【1デナリの128分の1で、日給5000円の場合は39円】銅貨二枚」であり、4節b 「乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべて」だった。但し主がこれを強要しておられるのでない。
主が献金について語っておられる聖句 ※ 11章42節では、パリサイ人は几帳面に「十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」と。彼女の献金の理解は、単なる義務感によるものではなく、あくまでも主への自主的で積極的な信仰によるもの。
そこまでしなくてもと、肉は意見するかも知れない。何故なら、彼女は「やもめ」であり、しかも「貧しい」。しかも、やもめの家を食い尽くすパリサイ人の話が出ていることとは無関係だとは考えられない。
そうであるならば、宗教家たちによる被害者でもあり、捧げるにしても、 “ 出来ない。する必要なし ” とすることも出来たに違いない。しかし、彼女は献金を捧げたのだ。
列王記 第一 17章9〜16節の出来事と重なる。
エリヤがある飢饉の最中、主から「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」と言われて訪ねた、あの「やもめ」の信仰とである。何と、15節 「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした」のだから。
最後のレプタ銅貨二枚は、この時の一握りの粉と少しの油であり、それを神への捧げ物としたのだ。

A 主は、献金を捧げる者の清められた手を注視される。

金持ちたちの捧げた ※ 4節 「あり余る」お金は、どの様にして手にしたものなのかが、問われなければならなかった。やもめの家を食い尽くしておきながら、平気で捧げられるものではないのが、献金であるということ。
霊の世界は、何事かの善行をすれば良いというものではなく、生活の在り方そのものが捧げ物なのだ。マタイの5章23、24節 「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに・・・。それから」とあり、礼拝、献金は日々の在り方を度外視出来ない。

※ 受難の主の目に適( かな )う生き方をもってお仕えしたい。

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2018年11月07日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 92


ルカの福音書20章41節〜47節

先週は献堂十九周年記念宣教礼拝を捧げ、「それを取って食べてしまいなさい」とのご指示を頂いて感謝の壇を築いた。いよいよ語られるおことばに従う姿勢を明確にして、再度、連講の 『 ルカ 』 に戻りたい。
前回は、主が、27節 「復活」を否定するサドカイ人たちの ※ 28〜33節 「・・・では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」という、無知な質問を持ち掛ける彼らを退けず、「聖書も神の力も知らないので、思い違いをして」いるとして、彼らに 《 復活の事実 》 を実証された場面に注目した。

@ 34〜36節 「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世・・・は、めとることも嫁ぐこともありません」と。
主は、結婚は地上生活だけのことで、やがて迎えられる神の国においては最早結婚はないのでその考えは無用と。問題は、誰もが神の国に入れる訳ではなく、35節 「次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たち」であり、ここに注意すべきと。相応しい人とは、ローマ人への手紙 6章4〜11節 「※ 5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになる」人のこと。

A 主は、アブラハムもイサクもヤコブも今、不死の状態で生きており、やがて主の再臨の時、第一の復活に与るべく、その日を待っていると。

※ 主は挑戦者を「聖書も神の力も知らない」と理解し、真理をもって冷静に解明されたお方。この情熱に倣いたい、と。


今朝は、※ 20節、「総督の支配と権威に引き渡すため」という意図をもって詰め寄って来る【パリサイ人、義人を装った回し者( ヘロデ党員 )、サドカイ人たち】が投げ掛けて来た質問の全てに答えられた後のこと、主ご自身から彼らに向けてなされた 《 最後となった質問 》 に学びたい。
彼らの持ち込んだ質問とは、( 1 ) 2節 「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか」、( 2 ) 22節 「私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」、( 3 ) 28〜33節 「・・・では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」だった。
しかし挑戦者は皆、主の説得力ある答弁に脅威を抱くのみで、40節 「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」、19章47、48 「・・・祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、何をしたらよいのか分からなかった」と、その結果は主への苛立ちと、敗北感を味わわせられるだけだった。
ここで、主の彼らとの面談はこれで終わったかと思われたその時 !! 何と最後に、実に彼らにとっては主と面と向かって話の出来る最後の機会となるが、主ご自身が彼らに質問されたのだ。主はご自身に対する敵対心を露わにしている彼らをそのまま立ち去らせたくなかった。彼らの致命的な過ち、彼らの永遠を決定付ける重要な 《 主への理解 》 を正して、彼らに 《 救いの機会 》 を与えたいと願われたからなのだ。

41節 「すると」とは 《 しかし 》 の意で、40節 「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった」ことを受けて、なのだ。主は彼らをこのままで去らせたいとは思われなかった。ご自身を金曜日の十字架刑に処して殺そうとしている彼らに、もう一度 《 悔い改めのチャンス 》 をと願われたからなのだ。エゼキエル書 18章31、32節 「新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない・・・だから立ち返って、生きよ。」と言われる主のお心が伝わって来る。
主の重荷は、彼らが、47節 「こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです」と言われている人々だからである。
彼らが、「より厳しい罰」を受けることになる罪とは ?
46a'、47、「彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席・・・を好みます。また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります」とある。
「長い衣を着て歩き回る」には、外見上の敬虔さを装う心、「広場であいさつされること」とは特別視されて特別な尊敬が払われることに関心を抱く、虚栄心を満たそうとする心、「上席」とは、会衆に面して備えられている席で、優越感に浸る心の現れである。
彼らの実際生活は、そのような心だから !! 結果、そうなるだろうと頷( うなず )ける極めておぞましい偽善なのだ。未亡人に対する非情で薄情な仕打ちをしながら、善行だと称して施しをすると言い、祈りは神にではなく人に向かっての見せ物でしかない。
彼らがエルサレムでの最高議会を占める指導者であるだけに、その責任の重さを思い、彼らへの神の裁きの厳粛さの故に、やはり主は、何も言えなくされている彼らへの最後の機会を逃す訳にはいかないとする救い主なのだ。

主が彼らを正すべく出された質問とは ?
41節 「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか」、44節 「ダビデがキリストを主と呼んでいるのです【42、43節で詩篇 110篇1節を引用された】。それなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」である。これは、 “ あなたがたの目の前にいるわたしは、ローマ人への手紙 1章3、4節 「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」。即ち、わたしは、人としてダビデの血筋から生まれたが、ダビデによって「主」と呼ばれる神。神が人の子として受肉した、それがわたし。神から遣わされた救い主だ ” との証言である。
この日まで、人の子として仕える日々、謙遜の限りを尽くされたが、三日後、十字架で処刑される主は、ご自身 《 神が人となって来た、それがわたしだ !! 》 との受肉の事実を明確にして、彼らへの最後的な責任を果たされた。

※ 人間的標準で主を見て侮( あなど )り、間もなく十字架に付けようとしている彼らに、今からでも悔い改めないかと迫っておられる主の極みまでの愛を自らのものとしたい。

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