2019年03月13日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 110 完


ルカの福音書24章36節〜53節

先週は、13節、【女性たちが主の復活に与ったのと】同じ日、ここでも主が、弟子たちに 《 待たれていたお方としては迎えられなかった 》 悲しいエマオの途上での出来事に注目した。
その道々、復活の主から、25、26節 「ああ、愚かな者たち」との叱責、27節での聖書の説き明かしに与りながらも悟らなかった弟子たちだったが、遂に、お泊まりを願って応えられたその時、30節 「食卓」で祈られる主によって目覚めた !!
かつての忘れもしない、主が少年の持っていた「大麦のパン五つと、魚二匹」を受け取って感謝の祈りを捧げた時の 《 五千人への給食 》 経験の再現に与ったことによってである。
この事実から、弟子たちが、目の前に顕現するお方が 《 復活された主だ !! 》 と知って生きるには ? もし互いも、主を信じながら失望する日々にあるならば、熟慮すべきことは ?

@ 19節 「この方は神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」と 《 主を唯の預言者だとし、偉大ではあるがあくまでも過去のお方だとする知り方ではなく、現に存在する神である 》 との信仰に生きるべきこと。

A 25、26節 「ああ、愚かな者たち」の叱責に謙るべきこと。
弟子たちの愚かさは ※ 20〜24節 「それなのに・・・」と言う点。
彼らが 《 主の語られる全てを信じられなかった 》 のは、「この方こそ」との期待が 《 単なる地上的解放者であることにしかなく、受難後勝利される魂の解放者にではなかった 》 ことにある。問題の解決に関心 ? 霊的変貌に関心 ?

※ 地上生涯は私たちの究極の求めが何なのかを篩( ふるい )にかける期間と覚えて自戒を【ピリピ 3章7〜11節】、と。


今朝は、復活の主を目の当たりにしながらも、37節 「おびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った」弟子たちを、ご自身の御体が復活の体に変えられたことと、ご自身に関して預言されて来た聖書が成就したとの証しとをもって勇気付けて後、彼らに昇天前に 《 重要な使命 》 を明らかにされたおことばに注目して、『 ルカ 』 の連講を締め括りたい。
その 《 重要な使命 》 とは、48節 「あなたがたは、これらのことの証人となります」である。同じくルカによる 『 使徒の働き 』 1章8節には、「わたしの証人となります」とある。
新約聖書で用いられている「証人」とは、( ギ )マルテュスで、福音の為に殉教した人々に用いられ、( 英 )martyr / マータ 殉教者はここから来ている。弟子たちは、主の為に血を流す生涯を覚悟すべく召された人々だと言われたことになる。主の昇天される地上最後の遺言的おことばとして、弟子たちが聞かなければならなかったおことばがこれだったのだ。
しかしこの遺言となったおことばにしても、弟子訓練開始以来、ずっと主が明確にして来られたことだった。
9章22、23節 「・・・イエスは皆に言われた。『 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい・・・ 』 」と。弟子たちがこのおことばを初めてお聞きした時には、到底納得出来るものではなく、個人的損失を計算して強硬に退けようとさえした。
しかしその弟子たちも、主と生活を共にする中で主を知るようになり、最後の晩餐では「あなたとご一緒なら、 22章33節」と言うところにまで主への愛が育って行ったのだ。
従って、主の弟子たちへのこの宣言は、彼らには耳新しいものではなく、しっかり受止めることの出来るものであり、信任して招かれた召しだったということになる。
私どもも、年頭聖句として元旦礼拝では、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 マタイ 16章24節」の招きから始まったことを想起し、この 《 重要な使命 》 の何なるかを再確認したい。

@ 証人として 《 託され、確信すべきメッセージ 》 は ?

48節 「あなたがたは、これらのことの証人となります」と明確で、46、47節 「次のように書いてあります。『 キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 』 【詳訳】エルサレムから始まる」という福音である。この福音について・・・
a. 「次のように書いてあります」と、長きにわたって預言され、待望され、時が満ちて遂に、用意周到で準備されて成就した出来事が福音であるとの 《 福音の権威ある出所 》 が明白にされている。
パウロによって、コリント 第一 15章1〜11節 「・・・私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」と、実践されている。ペテロによると、ペテロ 第二 1章16〜21節 「・・・それは、巧みな作り話によったのではありません」と言っているように、聖書的権威に基づいて成就した出来事であること。
b. 「キリストは苦しみを受け、三日目に・・・よみがえり、その名によって」と、主イエスの身代わりの死と復活によって 《 イエスの名【マタイ 1章21節】が意味する ⇒ 罪から民を救う 》 が成就した歴史的事実であること。
c. 福音のエッセンスが、「罪の赦しを得させる悔い改め」にあること。この「悔い改め」とは、使徒 26章18節 「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって」とあり、180度 方向転換することである。

A 弟子たちをして「証人」とする 《 原動力 》 は ?

49節 「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられる」ことである。即ち、「父が約束されたもの」とは 《 賜物としての聖霊 》 である。聖霊こそが、「いと高き所から力」を、注がれる聖霊ご自身こそが、原動力だと ⇒ 使徒 1章8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」。生来の熱心さでは到底適わない、と言うより、宣教の妨げにしかならないからである。
その為には、「・・・着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」に従うこと。弟子たちは生来の肉を持って主を裏切った事実に苦しんで嘆き、満たしを渇いて求めること。
使徒 2章1〜4節のペンテコステから宣教の開始が !!

※ その日以来、続けられている宣教の働きに私たちも !!

posted by luckyfachan at 21:34| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月08日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 109


ルカの福音書24章13節〜35節

先週は、主が贖( あがな )いを成し遂げて復活されたという最も輝かしい喜びの記事に学んだ。但し、旧約時代の長きにわたって待望されて成就した 《 救い主の誕生 》 が賛美で迎えられた以上に、歓喜の声をもって迎えられるべき復活だったにも拘らず【主にとっては贖いの成就に向けての厳しいご受難の生涯の始まりの日に勝って、贖いが成就したとの証が告げられる勝利の日だったが】、何と !! 悲しいかな、この日の為に何度も告知されていたにも拘らず、7節 「主がお話しになったことを思い出しなさい」と言われて初めて知った出来事だったと。
「主イエスのからだ」が見当たらないと知って ※ 4節 「途方に暮れ」た女性たち。その後、御使いに諭されてやっと、復活されたと知って他の人々に伝えに行ったものの、10、11節 「この話はたわごとのように思えた・・・信じなかった」という始末。
本来、三日目には埋葬された主の墓の前で期待に胸を膨らませてお迎えすべきだったが、誰もいなかった !! 弟子たちが 《 語られる主の御思いには無関心で、不真面目で、危機感の皆無、怠惰、うわの空 》 でしかなかったからだと。
主をお迎え出来なかった、その「つまずき」の根にあるものは ?
マタイ 16章21〜23節 「神のことを思わないで、人のことを思っている」この肉の性質【自分の願いに反することなど聞きたくもないとして心を閉ざす頑なな自我】。

※ 5節 「主がお話しになったことを思い出しなさい」は、聞き捨てならないことば !! 主の復活の事実こそ望みだという重大な福音が最初に届けられた時、こんなにも悲惨な受け止められ方だったとは、ひとごとではないと、正された。


今朝は、13節から、詳訳 「見よ、その日のこと」、即ち御使いから、6、7節 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と諭されて初めて、主がご自身の復活を語っておられたと ※ 8節 「思い出した」女性たちが、喜び勇んで他の弟子たちを驚かせたのと 《 同じ日のこと 》、「・・・弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン ※ ( 約11キロメートル )余り離れた、エマオという村に向かっていた」時に、主が直接彼らにご自身を現された場面に注目する。
何と !! 同じ日、ここでも主は、弟子たちによって 《 待ちに待ったお方としては迎えられなかった 》 という、重ねて弟子たちの無知を見なければならない、悲しい出来事だった。
それは、ここでは御使いではなく、道々復活された主から直接、25、26節 「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」と叱責され、更に、27節 「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」という熱意に与りながら、それでも悟らず、遂に、主を主とは知らずに、しかしこのように語る人には関心を寄せたからか、一緒に泊まるよう願って応えられるや初めて、30節 「食卓」で祈られる主によって目覚めたという出来事。

実際、復活後、主が直接弟子たちに顕現されたにも拘らず、皆そのお方が主であると気付かなかったのは、この時だけではなかった点に注目すべきである。
ヨハネ 20章14、15節 「・・・イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。『 なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。 』 彼女は、彼が園の管理人だと思って・・・」、21章4節 「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。『 子どもたちよ、食べる魚がありませんね。 』 彼らは答えた。『 ありません。 』 」と、何れの場合も、主を見、主と言葉を交わしておきながら、主であるとは分からなかった !!
ところが遂にはその彼らが 《 何れの場合もご生前の主を思い起こさせられる場面に与らせて頂く事によって 》 目を開いて頂いたというのだ。
マグダラのマリアは主から聞き慣れた声で呼んで頂いた経験、弟子たちがかつてティベリア( 別名・ガリラヤ、ゲネサレ )湖畔で、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と声を掛けられ、忘れもしない、不承不承従った時に経験したあの大漁と正に同様の経験。ここエマオの出来事では、24章30節 「パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された」とは、主が、少年が持っていた「大麦のパン五つと、魚二匹」を受け取られて捧げた「感謝の祈り」のこと、これも忘れもしない 《 五千人の給食 》 の再現である。
この事実から、弟子たちが、目の前に顕現するお方が 《 復活された主だ !! 》 と知って生きるには ? もし互いも、主を信じる者でありながら失望する日々ならば、熟慮すべきことは ?

@ 19節 「この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」という 《 主を唯の預言者で、偉大ではあるがあくまでも過去のお方だとする知り方ではなく、現に存在する神である 》 との信仰に生きるべきこと。

ひと度、弟子たちが主のご生前中に経験した主を想起させられて、初めてあのお方は唯の預言者ではなく、「生ける神の子キリスト」だったと再認識した。これを私たちは当然だと言うだろうか ? 得てして私たちの日常は、主から敢えて、「わたしは神であって、人ではなく・・・ ホセア書 11章9節」と詰問されるべき状態との自戒が必要なのでは ? 人間的見方で神を見る冒涜は ? 主を主とお認めしているか ?

A 25、26節 「ああ、愚かな者たち」の叱責に謙るべきこと。

弟子たちの ※ 20〜24節 「それなのに・・・」と言う、この愚かさ。彼らの何が 《 主の語られる全てを信じられなくさせた 》 のか ? 「この方こそ」と期待する目当てが 《 単なる地上的な解放者であることにしかなく、受難後に勝利される魂の解放者であることにはなかった 》 ことにある。問題の解決に関心 ? それとも霊的変貌に関心 ? の何れかの吟味が必要。

※ 地上生涯は、私たちの究極の求めが何なのかを篩( ふるい )にかける期間と覚えて自戒を。ピリピ 3章7〜11節。

posted by luckyfachan at 20:45| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月28日

聖日礼拝 『ルカの福音書』 より 108


ルカの福音書24章1節〜12節

先週、十字架上で身代わりの死を遂げられた主のみ体の埋葬に用いられた人物、「アリマタヤのヨセフ」に注目した。
23章50節 「議員の一人」だった彼は、51節 「議員たちの計画や行動には同意」せずに居たが、ヨハネ 19章38節 「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」とあり、信仰の戦いを戦っていた人だったことが窺( うかが )える。
主の人気が高まる中での議会は、ヨハネ 7章47、48節 「お前たちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか」との騒々しさが増す中で・・・。
主の埋葬に適った器の選び( イザヤ書 53章9節 )は何処に ?

@ 世的には申し分のない立場【マタイ 27章57節 「金持ち」、マルコ 15章43節 「有力な議員」】にあったが、決してそこに安住出来ずに、安住せずに、ルカ 23章51節 「神の国を待ち望んでいた」人だったことにある。

A 立場が立場であっただけに、信仰告白に時機を待ちつつ、議会には妥協せずに、50節 「善良で正しい人」、主の聖前での正しい関係で生きる者であったところに。

B マルコ 15章43節 詳訳 「結果を恐れずに、勇気を出して【敢えて・・・困難な状況や心理的抵抗を押して物事を行う様。そうするだけの価値があるものとして行う】」と、告白すべき導きを得た時には、明け渡す者であったところに。

※ 逸( はや )る肉的熱心さで最高法院から追放される事態を招かずに、主を求めつつ議員の立場に留まって居たからこそ、ピラトとは対等に願い出られたのでは ? いつでも信仰は 《 主との関係が如何に忠実であるか 》 に心したい、と。


今朝は、「世の罪を取り除く神の小羊」としての死を、十字架上で成し遂げられた主が、予告通りによみがえられたという最も輝かしい訪れを伝える喜びの記事に入る。
主がこの世にご降誕下さった初めの日に、もう一度思いを寄せてみたい。御使いが野宿する羊飼いに伝えられた訪れの日のことである。ルカ 2章10、11節 「御使いは彼らに言った。恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」だったことを。御使いによって羊飼いに伝えられた救い主の誕生の知らせは、「大きな喜び」だったのだ。
それは、旧約時代の長きにわたって待望し続けて来ていた訪れだったからだ。その時、2章13、14節 「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『 いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。 』 」という天の軍勢による賛美の轟きに圧倒された羊飼いたちは、直ちに ※ 15節 「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と、その場所を捜し当てようと胸を躍らせ、喜び勇んで直ちに出掛けたのだ。
20節 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあるが、彼らの歓喜に満ち溢れた喜びようは、どれ程のものだったことか !!

その日から始まった主の「世の罪を取り除く神の小羊」としての33年間を、私たちは23章までの記事に【イザヤ書 53章3節 「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」とある】預言の成就を見て来た。
24章まである 『 ルカ 』 の内、9章51節から23章まで、ほぼ 『 ルカ 』 の三分の二のボリュームにおいて 《 十字架の日に向かっての数か月の宣教の旅 》 だったことを鑑みるに、その間の主の十字架に向かっての犠牲が、全てこの24章の復活に向けて払われて来た代価だったことに思いを馳せなければならない。それと言うのも、24章6、7節 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と、かねてから予告されていたのが 《 主の復活 》 だったから ⇒ 9章22節。
今朝はこの一つの事に注意してメッセージとしたい。それは、主の弟子でありながら、聞いてはいたものの少しも期待もせず、むしろ聞かされてなどいなかった者のようであること。
4節a 「途方に暮れている」女性たち、しかし、4節a’ 「まばゆいばかりの衣を着た人( 御使い )が二人」によって、5b6節で「思い出しなさい」と諭されてやっと、8節 「イエスのことばを思い出した」彼女たちが、10、11節で他の人々に伝えても、「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」という始末。

12節を見ると、辛うじてペテロは立ち上がって走って墓に行ったものの、亜麻布だけだったのを見て、唯この出来事に驚きながら帰って行くだけだったという鈍さの露呈。
実際は、贖( あがな )いが成し遂げられた証としてのこの復活こそ、ご降誕時の「おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した」という光景に勝る歓喜で賛美され、迎えられるべき福音だったにも拘らずなのだ。
神が人には測り知れないご計画を成し遂げて下さっても、果たしてどれだけの人が 《 あの純朴な羊飼いが経験したような歓喜 》 を経験するのか !? 弟子たちに見た 《 無知、語られる主の御思いに無関心、不真面目、危機感の皆無、怠惰、うわの空 》 によるとの自戒を。
主の「つまずき」となる 《 この現れの根に在るもの 》 とは ?
マタイ 16章21〜23節 「あなたは、わたしをつまずかせるもの【妨害、罠】だ。・・・神のことを思わないで、人のことを思っている」この肉の性質【自分の願いに反することなど聞きたくもないとして、心を閉ざす頑なな自我】。同 17章23節 詳訳 「弟子たちはそれで深く激しく嘆いた」に同様。

※ 5節 「どうして生きている方を死人の中に捜すのですか・・・主がお話しになったことを思い出しなさい」は、聞き捨てならないおことば !! 主の復活の事実こそ、弟子の望み !! これ程重大な福音が最初に届けられた時、こんなにも悲惨な受け止められ方だったとは。決して、ひとごとではない。今の私は主の語られるおことばに誠実だろうか、正されたい。

posted by luckyfachan at 21:07| Comment(0) | ルカの福音書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする