聖日礼拝『マルコの福音書』より 14


マルコの福音書2章23節~3章12節

 先週は、レビの祝宴を※傍観していた人たちからの18節の質問に対応された主のおことば19~22節に注目した。
 「断食」について、詩篇35篇13節に深い内省をもってとりなしをする、真剣で自主的な祈りが食を断たせ、又、国家的罪に悲しんで捧げる祈りが食を断たせるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて出ざるを得なくされた結果 食を断たせたと。ところがいつしか、形だけの、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為と化した。イザヤ58章3~5節、ヨエル2章12、13節 「13a (引き裂くのは)衣ではなく、あなたがたの心を」に見る糾弾に同様、主は彼らを扱われた。

ⅰ 《 形式的で命のない、死んだ信仰 》の指摘。18節から20節まで。
 18節、【私たちは】しているのに、「なぜあなたの弟子たちは・・・」と《 していることを吹聴して隣りびとを裁く心 》。主は弟子たちを信任し、19、20節で、今の喜びの祝宴ではしないが、やがて痛恨の悲しみに浸る断食の時を迎えると。

ⅱ 《 救い主、イエスご自身を受け入れるべき必然性 》の指摘。21、22節。
 真新しい布切れと新しい葡萄のお酒とは、新しい《 キリスト信仰 》のこと、古い衣と古い皮袋とは《 ユダヤ教の律法主義信仰 》のことで、今や、〈新しい葡萄のお酒【新しい布切れ】は、新しい皮袋に【新しい衣に】入れる【継ぎを当てる】 べきと〉。
 主のもとにやって来た人々は、「信仰の律法」によって神の前に義とすべく、「人の子」となられた主を見て、画期的な瞬間を経験している・・・。

※ 行いによる救いから、信仰による救いをと指導されつつ、ユダヤ人に仕える主の忍耐を見るが、今後にも学びをと。


 この朝は、安息の日を巡って抗議して来たパリサイ派の人たちに、主の27節〈安息は人のために設けられたのです。人が安息の日のために造られたのではありません〉に学びたい。
 彼らの抗議とは、〈なぜ、彼らは安息の日にしてはならないことをするのですか〉である。23、24節で、ある安息の日に弟子たちは道を進みながら、穂をつみ始めたのであるが・・・
 その抗議から見えてくるものは、※早くも3章6節で、イエスを殺す相談をし始めたことに明白、《 頃合いを見て、主を殺害すべき理由を取り付ける材料にしようとの悪意 》。
 実際彼らが、主の弟子たちを〈安息の日にしてはならないことをした〉と裁いたのは、※弟子たちが23節で道を進みながら穂をつみ始めたことにあるが、《 その行為を労働、収穫したと見なすこと 》出エジプト記20章10節 「七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない」を犯して神にそむいたとする訴えである。
 これは明らかに、とんでもない拡大解釈であるが、ここで少し考えて見たい。
 パリサイ派の人たちに、〈弟子たちが穂をつむ行為を労働だとする〉解釈の愚かさを説明することもお出来になったが【弟子たちは(23節 欄外参照)貧者に許されている行為だとして】、なんと その誤りには直接触れず【真理を話しても理屈をこねるのみが常】、むしろ違反行為だとした※彼らの断罪をそのままにして、唯、25節 「食べ物がなくて空腹になったとき」違反行為でも許可されたケースに同様とされた。

 主が引用された出来事は25、26節、主の宮で神に伺う者として「エブヤタル」が立てられていた頃とある。第一サムエル21章1~6節を見ると、実際 彼の父「アヒメレク」が聖別の備えのパンをダビデに与えたことになっている。
 それは、ダビデを嫉妬するサウルの耳に入るや彼が激怒した時、神に伺う者たち一族を殺すよう命じたが、その惨事から唯一人、ダビデのもとに命からがら逃れて以降、ダビデに仕えたのがアヒメレクの子「エブヤタル」だったからでは?
 アヒメレクの善意は、ダビデの空腹を満たした。規定では、神に伺う者たち以外の人が食べてはならない「臨在のパン」を融通したのだ。主は、この二例をもって、※彼らの24節〈安息の日にしてはならないことをするのですか〉に対して、「してはならない」ことをしたのだから外見上 規定を破る形を取ることになるが、実は、律法を犯してはいないのだと。27節を解説したい・・・

① 常に目くじらを立てて仕掛けて来る彼らは、〈人が安息の日のために造られた〉とする者でしかないこと。

 パリサイ派の人たちの出方を見れば分かるが、そもそも律法を定められた神の心を知ろうともせずに、唯、律法の文字にのみこだわる為、外見上の完璧さを求め、それをもって守っているとし、神のご嘉納にあずかっている、神の前に正しいと自負する者のこと。その在り方はいつでも、18節、【私たちは】しているのに、「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言いたくなって裁く人になる。
 ここでは、23節〈安息の日に穂をつみ始めた〉その弟子たちが気になって仕方なく、又しても「なぜ彼らは」と、律法違反者だと裁かなければ落ち着かず、心の騒がしい安息なのだ。主の安息の名称《 やめる、休む 》に由来しているが。只管、規定を守ることに終始、律法に縛られるのみ。
 もし自分がしていることでも、隣りびとはしていないといって、穏やかでいられなくなり、イライラ、不愉快ならば、自らは律法を守っていると自負できても、それは律法を守っているとは言えない。

② 実際のところ、道を進みながら穂をつみ始めた弟子たちと主とは、〈安息は人のために設けられた〉と知る者であること。

 神の定めた律法の心を知り、真実に律法を実行する者だと証しされた。ローマ13章9、10節〈どんな戒めであっても、それらは、あなたの隣りびとを自分自身のように愛しなさい ということばに、要約されるからです〉。「愛は律法の要求を満たすもの」とあるように。
 3章でも律法主義に生きている人々は、安息の日に癒すのは仕事だと見なして主を試した。彼らの意図を見抜かれた主は、癒すことは仕事とは見なさずに、病める人々への神の愛ゆえに、4、5節 「手は元どおりに」と実を結ばれた。
 主の安息は人の《 霊、魂、からだの祝福の為に休むようにと 》制定されたのであって、縛る為ではない。

※ 28節、主の《 み思いに従うことをもって 》安息の日 遵守を!!

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