聖日礼拝『マルコの福音書』より 13


マルコの福音書2章18~22節

 先週は、ペテロたちに次いで弟子にとの召しを受けた14、15節、※税を徴収する役人であったレビが感謝の祝宴を設けた時のこと、16、17節、※この光景を疎ましく思ったパリサイ派の律法学者たちを正された記事に注目。
 税を取り扱う人たちは、ローマ政府が税収を確実に得る為、隷属民から採用された徴税請負人のこと。その彼らが、ローマから課せられた税に上乗せして集金する為、同胞から強奪者だとして憎まれ、異邦人と関わることで、けがれた者ともされた。17節から・・・

ⅰ 自らを「強い〈健康な〉、正しい人」だと自称する「パリサイ派の律法学者たち」の本質的内面を暴かれた。
 先ず、「なぜ」と言う心の奥にある本質的問題は、主イエスに受け入れられている〈税を取り扱う人や罪びとたち〉を見下す傲慢さ。隣りびとに無関心であるどころか、彼らに手を差し伸べる者が現れたならば、それを不愉快に思い、阻止しようと過剰に干渉する無情の者。ローマ1章31、32節 「死に値する」病人、罪びとの実態である。

ⅱ その上で、主は〈わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため〉と、ご自身の使命を明確にされた。
 もしその自らを罪びとに過ぎないとして譲り、告白するならば、あなたがたも招かれていると言われた。財的に富んでいた徴税役人のレビは、※主イエスからの14節〈召し〉に即刻従った。それは日頃から罪の責めを感じていたからでは? 噂の救い主、イエスからの願ってもない声掛けに感動して、※ルカ5章29節 「盛大なもてなしをした」ことで明白ではないか。
 彼はこれまでの生涯を清算して主の弟子となり、マタイの福音書記者として選ばれている。

※ 罪びとを招かれる主イエスへの感動を新たに、お従いをと!!


 この朝は、レビが主の召しに感謝して設けていた祝宴でのこと。祝宴を※傍観していた18節〈ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たち〉が、質問を持ち込んで来た時、※その質問に対応された主のおことば19~22節に注目したい。
 彼らの質問は〈ヨハネの弟子たちやパリサイ派の人たちが断食をしているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか〉だが、彼らの〈これぞ信仰と言わんばかりの〉質問である。
 この「断食」について、これと言った起源はないが、詩篇35篇13節 「私は 彼らが病のとき・・・断食してたましいを苦しめ【※自らを戒め】 私の祈りは胸の中を行き来して【私自身の胸に戻って】いました」と、祈りが捧げられた人々の益にはならなかったものの、祈った本人へ、ある程度の祝福をもたらしたのを見ると、断食というものが いかに〈深い内省をもって とりなしをする時の真剣さ深刻さの現れであり、極めて自主的な行為であり、強制的なものなど一切見受けられない〉尊い祈りであるかが分かる。
 又、国家的な罪に悲しんで捧げる祈りの時が断食となるなど、いつもの祈り以上に、神をより近く求めて祈らざるを得なくされての聖別された時である。
 ところがいつしか、そのような断食の心は失われ、形だけのものとなり、むしろ神への恩着せがましい不敬虔な行為にすらなってしまった。イザヤ58章3~5節 「5e これを、あなたがたは断食と呼び」、ヨエル2章12、13節 「13a (引き裂くのは)衣ではなく、あなたがたの心を」。
 主のもとに「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と尋ねて来た〈ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人たち〉は、預言者たちが《 主の民の、形式化した断食をもって断食だとする、死んだ信仰 》を糾弾したのに同様、主イエスから扱われることになった。

① 《 形式的で命のない、死んだ信仰 》の指摘が、18節から20節まで。

 それは、18節、【私たちは】しているのに、「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と《 隣りびとを裁く心 》。
 私が「している」としても、他の人が「しない」からといって、彼らが神に罪と裁かれるべきものでもないのが断食。あくまでも、神との個人的必要を感じて自発的で自由な行為だからだ。マタイ6章16~18節。
 主はここで、弟子たちを信任して弁護された。祝宴でレビの喜びを共にしつつ、もてなしを受けている弟子たちに弁解の機会が与えられていないからだ。主は弟子たちに代わって、19、20節 「花婿に付き添う友人たちは・・・断食できるでしょうか。・・・できないのです。・・・その日には断食をします」と、唯《 喜びの時にはしないが、悲しみの日を迎えたならばする 》と言われた。
 主はご自身を「花婿」に例え、「花婿に付き添う友人たち」を弟子たちと例え、ご自身が取り去られる時を迎える時には、弟子たちは未だかつて経験したことのない痛恨の悲しみに浸る断食の時を迎えることになるだろうと言われた。確かに、十字架刑で息を引き取られてから復活を見るまでにはお扱いに三日を、復活後の主イエスの昇天後、ペンテコステを迎えるまでは十日を、経験することになる、と。

② 《 救い主、イエスご自身を受け入れるべき 》との指摘を。21、22節。

 その理由は、21節〈真新しい布切れ【縮んでいない布】で、古くなった衣【既に、何度も洗うごとに縮んで来ている布】に継ぎを当てたりはしません〉。そんなことをすれば古いものを引き裂いて、破れはもっとひどくなるのだから。22節〈新しい葡萄のお酒【醗酵して膨張する】を古い皮袋【伸び切ってもろくなっている】に入れたりはしません〉。そんなことをすれば、どちらもだめになるのだから。真新しい布切れと新しい葡萄のお酒とは、新しい《 キリスト信仰 》のこと、それぞれの古い衣と古い皮袋とは《 ユダヤ教の律法主義信仰 》のことで、今や、〈新しい葡萄のお酒【新しい布切れ】は、新しい皮袋に【新しい衣に】入れる【継ぎを当てる】 もの〉と。ローマ3章23、24節〈すべての人は神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないを通して、価なしに義と認められるからです〉、27、28節〈行いの律法によってでしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる〉。
 主のもとにやって来た人々は、「信仰の律法によって」神の前に義とすべく「人の子」となられた主を目の前にして画期的な瞬間を経験している・・・。この転向がいかに困難極まりなかったかの実証は、使徒たちによる宣教活動に見た奮闘で明白であるが、今この時を迎えるまでの聖霊の働きに感謝し、最終コースに更なる期待を!!

※ ご自身によって迎える《 行為から信仰への移行の転換期 》の理解をと、ユダヤ人に仕える主の忍耐に学んで行きたい。

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