聖日礼拝『マルコの福音書』より 12


マルコの福音書2章13~17節

 先週は、主の復活を記念して、主が10節「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」と宣言された聖句に学んだ。
 この宣言は、現世での祝福のみを求めて来る傾向にある多くの群衆の中に、主が※5節「信仰」をもって求めて来た人々を見い出し、(ちゅうぶの)からだの不自由な人に病気の治癒ではなく、罪の赦しを伝えた時のこと。6、7節で律法の教師たちが主を非難したので彼らを正す為、からだの自由を奪われたその人を起き上がらせることで、権威を証言された!!
 しかしこの事実に勝る《 主の復活こそが、主イエスの罪を赦す権威が全世界への証言であった 》と再認識して感謝を捧げた!!
 マタイ28章16~20節は、復活のイエスがガリラヤで弟子たちに会って命じられた《 大宣教命令 》であるが、復活の事実によって、18節「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」、19節「ですから【宣教を引き受ける弟子たちの絶対的拠り所である主イエスに権威があるから】、あなたがたは・・・人々を弟子としなさい」と、実現可能だと激励。
 実に、復活こそ《 主の罪を赦す権威の証明 》であること。

ⅰ ひとりの人の子として地上生活を送られた主は、私たちと同じ罪ある者ではなく、神であられたことが明らかにされたから。
 使徒2章22~24節、ローマ6章23節。

ⅱ 「罪を赦す権威を持っている」者であるとは?
 ローマ6章4節「それは、ちょうどキリストが・・・死者の中からよみがえられたように」と、《 信じる者を新たな人に造り変える福音がもたらされ 》た。

※ 十字架の死から復活されたイエスは今も《 互いのあがない、隣りびとへの宣教の権威者として・・・ 》現存される主として、信頼を新たに!!


 この朝は、主が1章16~20節、《 ペテロを初め四人の漁師の召しに続いて 》声を掛けられた、14節「アルパヨの子レビ(マタイ)」が、15節、喜びのあまり食事の席を設けた時のこと、この光景をいぶかしく思ったパリサイ派の律法学者たちに「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく」罪びとを招くためと正された、主のおことばに学びたい。弟子にとの召しにあずかったレビは、14節〈徴収された税を収める場所に座っていたこと〉、レビの祝宴に招かれた人々が、15節〈税を取り扱う人たちや罪びとたちも・・・〉とあり、税金を徴収する役人であったことが分かる。
 ローマ帝国の税を徴収していたのは、主として徴税請負人や、集金に当る下級税吏である。当時、地方の税金はローマ帝国によって直接徴収されず、被征服民族の中から徴税請負人が採用されていた。それは、ローマ政府が危険や損失なしに、収入を確実に受け取る為にである。
 このような徴税システムの中で、税を取っていた者たちが私腹を肥やし、ローマ政府から求められる以上に税に上乗せして集金する為、同胞に憎まれ、強奪者と見なされ、嫌悪の的となった。異邦人との接触を忌むべきものと嫌悪していた厳格なユダヤ人に至っては、ローマ政府と直接に税をやり取りする人たちを〈けがれた者、罪びと〉呼ばわりしていたので、律法学者たちは、16節、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、弟子たちに〈なぜ一緒に食事をするのですか〉と、イエスに直接尋ねるには勇気がなかった? 兎に角、許せない気持ちを露わに!!
 この「なぜ」は、弟子たちに持ち掛けたものではあったが、主が聞き捨てならないとされて語られた※17節から・・・

① ここで主は「パリサイ派の律法学者」を、「強い・健康な人、正しい人《 自己満足・過信しているに過ぎない人 》」だと諭しつつ、自らの本性を知るようにと内面を暴かれた。

 彼らの本性に見られるもの。それは、彼ら自身が16節c〈税を取り扱う人や罪びとたちと一緒に〉食事をしないとしても【言うまでもなく、このこと自体咎められるべき心の姿勢ではあるが】、16節a〈イエスがけがれた者や罪びとたちと一緒に食事するのを見て〉、心に抱いたものである。
 それが誰であれ、先ず「なぜ」と不思議だとするその心の奥にあるもの。それは単純に健気な、純粋な動機では勿論なく、悪意と嫌味を込めての「なぜ」とする心にあるもの。
 その本質的問題は、なんとけがらわしい行為だと蔑視する心。〈税を取り扱う者や罪びとなど〉誰からの善意も許される訳がないと軽蔑して人を見下す傲慢さ。隣りびとに対して無関心であるどころか、隣りびとに手を差し伸べる誰かが現れようものなら、それを不愉快に思い、なしうる限りを尽くして阻止しようとする略奪者であることであり、これらを主は忌まわしいものであると嫌悪された。
 彼らのこの心は、異邦人を忌まわしい、嫌悪すべきものとするユダヤ人の通念でもあった。レビ同様、エリコの町中でイエスに出会ったザアカイの記事にも見られた。ルカ19章5~7節「人々はみな、これを見て・・・文句を言った」と。〈あの人は罪びとのところに行って客となられたのだ〉と。隣りびとへの無慈悲な過剰な干渉こそ、死に値する罪である。
 ローマ1章31、32節を詳しく、「理解を欠き、良心がなく〈信義を欠き〉、情〈愛〉がなく、無慈悲」。彼らは、そのような行いをする者は死に値するという神の正しいみ定めをよく知っていながら、自分自身がそれを行うだけでなく、それを行う他の人を「是認〈かっさい〉さえしています」。

② そうした上で、主は〈わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くため〉と、ご自身の使命を明確にされた。

 実に〈罪びと〉とは、税を取り扱う者や罪びとたち【ただ単に、パリサイ派の規定に従わない人々】に他ならないとして来た〈律法の学者であるパリサイ派の人たち〉でも、もしその自らを罪びとに過ぎないと気づいて譲り、告白するならば、あなたがたも招かれていると言われた。
 レビはザアカイ同様、税を扱う殆んどの人がそうであったように、財的に富んでいた。しかし、※主の14節「わたしについて来なさい」に即刻従ったのには、日頃から良心の痛みを知っていたからだろう。それを、救い主であるとの噂に聞く主イエスからの願ってもない声掛けと感動して、15節の並行記事、ルカ5章29節「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした」であったことで明らかではないか。彼はこれ以降、これまでの生涯を清算して、主の弟子となり、福音書の記者となった(マタイ5章3~12節)。

※ 自らの病める事実をより確かに知っては、罪びとを招かれる主イエスのあがないに感動を新たにしつつ、お従いしたい!!

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