イースター記念『マルコの福音書』より 11


マルコの福音書2章1~12節

 先週は、激しいご奉仕に※日々実践された、35節 「朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」主イエスに《 父なる神との、関係がいかに 》を学んだ。

ⅰ 先ず、目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、父からの指示を絶えず確認しつつ労される《 父なる神への忠実さ 》を。
 36~38節で、後を追って来た弟子たちと、主を引き留めようと付いて来た群衆たちに、「さあ・・・」と、どのように対応するべきか、答えは父との交わりによって備えられていた。もし、目の前の必要に翻弄される日々を送るならば、父なる神の時を待たずに消耗し切られたのでは。続く39節、40節から44節と、奇跡は周囲を《 熱狂的な興奮状態 》とし、当時の宗教・司法の権威を握るエルサレム最高法院の光る眼のとまる所となり、危険に身を晒すこと間違いなし。44節 「だれにも何も・・・」には、父との交わりからの冷静さを見る。
 尚かつ、宣教に伴う奇跡は《 群衆たちの関心が罪からの救いよりも、この世の祝福に 》向かうというご奉仕の至難さを見るにつけ、「寂しいところ」に退いては、父との密着した交わりから《 父なる神の必要 》を知って、そこに応じられる為。

ⅱ ヘブル5章7節 「キリストは肉体をもって生き・・・大きな叫び声と涙をもって祈り・・・」に(自分を死から救い出すことが出来る)父なる神への、よりたのみを。
 主は、聖であられる父からの日毎の力の賦与なしには生きられないとされ、受ける誘惑には勝利するという成長過程を経ながら、完全な者となるため闘われ、十字架の死に臨まれた。

※ 互いこそ、《 寂しい所を隠れ家とされた主 》にならいたいと。


 この朝はイースターを記念して、10節 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」と《 この世に人の子として来られた主が、「救い主」と証言する機会を捉えて宣言 》された聖句に注目を。
 その場面は、先に主が、1章後半、カぺナウムでの奇跡を見た人々から、37節 「あなたを捜しています」と、しばらくの滞在を求められたが、38、39節で〈その要請を退けてガリラヤの全域を巡られて〉、再度、2章1節を詳しく、「カぺナウムに戻られて数日後」のこと、「おそらく、ペテロの家」におられるという噂がたって、3節 「人々が・・・みもとに」連れて来た《 (ちゅうぶの)からだの不自由な人を扱った時のこと 》である。主の日々の重荷は、ご自身が「ご自分の民を罪から救う」救い主・神から遣わされた神の子である証拠としての奇跡を行うも、大多数の人々は現世での祝福のみを求めて来る、そこにあったと学んでいるが、何と!! ここで主はご自身を、「救い主」と証言すべき時と見て取れる機会を捉えられたのだ。
 それは、5節 「イエスは彼らの信仰」、からだの自由を奪われた(ちゅうぶの)人を担いでくる四人が《 その友の内的苦悩からの 》救いを懸命に願って出て来た行動と見たからだ。
 主は心に喜びを隠せなかったのでは? 直ちにその人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。何らかの後遺症・疾患によるものなのか、からだの自由を奪われた(ちゅうぶの)人と、その彼を思いやってイエスのもとに必死に担いで来た四人の信仰に《 病気そのものの治癒ではなく、罪の赦しの宣言 》を与えられた。主はこの宣言が、目の前で見聞きしている※6、7節 「律法学者たち」にとっては心を苛立たせ、非難を浴びせ掛ける機会となるであろうと知りつつ、堂々と立ち向かわれた宣言なのだ。

 先の※1章22節では、誰もが「その教え」に驚き、「権威ある者」として認めざるを得なくされて、2章12節でも、「驚き、『こんなことは、いまだかつて見たことがない』と言って神をあがめた」とされているが、こうした周囲の状況がある中、律法学者たちの存在を見逃さなかった。
 そこで主は、6、7節 「律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか』」と、反感を抱いた人々への責任を果たすべく《 9節の質問を投げ掛けて、堂々、10節 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と 》チャンスを最大限生かされた。
 実は、この朝記念する《 主の復活 》こそが、この宣言の確かさを全人類に証言された日だと再認識して感謝を!! マタイ28章は、主の埋葬されたお墓を訪ねた女性たちに、天の使いから※6節 「ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられた」と《 主の復活 》が伝えられ、9、10節では直接、復活のイエスにお会いし、弟子たちへの伝言がゆだねられている。何という喜び!! 主は伝言通り、ガリラヤで弟子たちに会って、《 宣教の大命令 》を下されたのである。この宣教命令には、18節 「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」、19節 「ですから【宣教命令を引き受ける弟子たちの絶対的拠り所があるのだから】、あなたがたは・・・人々を弟子としなさい」と、実現可能だと激励。
 実に、ここで律法学者に〈持っていると言われた権威〉は、《 十字架の死からの復活によって 》紛れもない現実となった!! 従って復活を見るまでは、主は※その事実を10節 「あなたがたが知るために」と、9節で(ちゅうぶの)からだの不自由な人に、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのと、どちらが易しいかと質問されてから、難しい方を取られて、11節 「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」、12節 「すると・・・」という結果で証しされた。しかし、究極の証明は復活によって!! 復活は・・・

① ひとりの人の子として地上生活を送られたイエスは、私たちと同じ罪ある者ではなく、神ご自身であられたことを証明した。

 使徒2章22~24節 「死につながれていることなど、あり得なかった」、それは、ローマ6章23節 「罪の報酬は死」だから。律法学者が言った※マルコ2章7節 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろう」は、まさに然り、主イエスの復活は、主が神であると証明したからだ。

② 「罪を赦す権威」を持つ者であると証明した。

 ローマ6章4節 「それは、ちょうどキリストが・・・死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩む」者《 信じる者を新たな人に造り変える 》福音がもたらされた。

※ 十字架の死から復活されたイエスは今も《 互いのあがない、隣人への宣教の権威者として 》現存される主として信頼を新たに!!

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