聖日礼拝『マルコの福音書』より 10


マルコの福音書1章35~45節

 先週は、カぺナウム入りして安息の日を迎えたその日のご奉仕で、《 22節、人々が主を「権威ある者」と認めた 》のは? に注目。

ⅰ イエスが、22節「律法学者たちのよう」ではなかったからだ。
 22節で「教えに驚いた」人々は、マタイ23章2節「モーセの【権威の】座に着いて」いる「律法学者たち」から、一度たりとも、主イエスに感じた感動を感じたことがなかった。
 講壇が「権威の座」であるのは、聖書が神のことばだからであり、神のことばに権威があるからだ。にも拘らず、彼らの説教には感動を覚えなかったのは、みことばが彼らの生活に受肉されていなかったからだ。ローマ2章17~24節は、実に律法学者への警告である。
 従って、人々が主を「権威ある者」と認めざるを得なくさせたのは、《 聖書を神のことばとして自らの生活に実践され、自らの栄誉を求めず、人々の益のみを図る動機の純潔 》に生きておられたからだ。

ⅱ ひとたび、主が、25節「出て行け」と命じられると、26節「その人から出て行った」と、けがれた霊を従わせたからだ。

ⅲ 事実、影響があったからだ。28節「こうして・・・広まった」、32、33節「こうして・・・集まって来た」と。
 同じ日に起こった〈奇跡のニュース〉があっという間にガリラヤ周辺の全域に広がり、みもとに連れて来られた多種多様な病める人々に、神の干渉が及ぶところとなった。

※ 人々をして「権威ある者として教えられた」と驚かせた、《 みことばに生きられた主 》を凝視しながら、宣教のためにきよめを頂いて、神的権威に期待をと!!


 この朝は、35節「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」とある聖句に注目したい。
 ここでの「朝早く、まだ暗いうちに」とは、並行記事のルカ4章42節によると、安息の日ではあったが、カぺナウムでの多忙なご奉仕を終えられての翌日、「朝【夜明け】になって」であったこと。更には引き続き、「群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした」とある。マルコでは、36、37節「シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、『・・あなたを捜しています』と言った」とある。恐らく、宿泊しておられたペテロの家に押しかけた群衆が、ペテロの後をつけて来たことが見て取れるのでは?
 途切れることのないご奉仕の日々に実践された「朝早く・・・寂しいところに出かけて行き」、祈っておられたそのお姿に《 父なる神との、関係がいかに 》を!!

① 先ず、目の前の必要にやみくもに応えることをもって良しとはせず、絶えず父からの召しを全うするために、ご自身の一挙手一投足の是非を確認しつつ労される、父なる神への忠実さを。

 主は、弟子たちが※36、37節でイエスの後を追って来て、「あなたを捜しています」と、現に群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来て・・・「自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうと」されている。しかし、彼らを祈りの場に迎えることになった主は、何ら躊躇されることなく、38節「さあ」と、「近くにある・・・村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」と立ち上がられた。
 このことは彼らを迎える前までの「暗いうちに起きて寂しいところ」での父なる神との交わりによって与えられた答えである。
 もし、目の前の必要に翻弄される日々であったならば、救い主のしるしとしての奇跡が尋常ではないだけに、父からの時を待たずに消耗し切るご生涯になり兼ねなかったであろう。主は、39節「ガリラヤ全域にわたって」彼らの会堂で福音を伝え、悪い霊を追い出しておられたのであり、《 ツァラアトに冒された人へのきよめは40節から44節まで続く 》。しかも未だかつて見たことも聞いたこともないしるしが伴ったことで、周囲は《 熱狂的な興奮状態となり 》、主は当然、当時の宗教・司法の権威を握っていたエルサレム最高法院の光る眼のとまる所となり、あえて、危険に身を晒すことは避けられなくなる。
 従って、43、44節で主が彼を厳しく戒めて、すぐに去らせ、そのとき彼に、「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を・・・見せなさい。そして・・・」と言われる機転は、やはり、父なる神との交わりから導かれてのこと。それでも、45節「ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスは・・・寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところから・・・やって来た」という動きの覚悟が必要であった。
 なおかつ《 宣教活動に伴う、救い主のしるしとしての奇跡 》にはいつも、奇跡のみ求める群衆をいかにその本質的な罪からの救いに繋げられるのかのご奉仕。
 これら至難なご奉仕の為に日々、「寂しい所」を求められては退き、父との密着した交わりによって実際的ご指示を頂いて《 父なる神の必要 》に応じられた。
 主は十字架の上で、ヨハネ19章30節「(酸いぶどうはあがないの成就の意味、それを受けて)『完了した』と言われた。そして・・・霊をお渡しになった」その日までのご生涯は、父とのお独りになられる《 寂しい所とその時 》程、慕うべき空間はこの世において何処にもあり得なかった。実に、マタイ8章20節「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われた通り。

② ヘブル5章7節キリストは肉体をもって生き・・・大きな叫び声と涙をもって祈り・・・」に、(自分を死から救い出すことが出来る)父なる神へのよりたのみを。

 実に「人の子」として生きられた主は、聖であられる父への愛の故の志の日々ではあるが、父からの日毎の力の賦与なしには生きられないとされる祈りの生活があった。人の子として受ける誘惑に勝利することで成長するという過程を経ながら完全な者となり、十字架の死に臨まれた。

※ 主イエスがそうであられたように、互いこそ《 父なる神への忠実さとよりたのみの為 》に、「朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところ」を隠れ家としたい。

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