マルコの福音書1章16~20節
先週は、バプテスマのヨハネの捕縛を契機に、主イエスが本格的な公的働きを開始されての「神の福音」宣教について、《 15節 》を基礎に、エペソ1章3~14節の聖句によって理解を確かにした。
ⅰ 「時が満ち」と、定められた期間が終わり、周到な準備がなされた上での《 輝かしい瞬間 》を迎えた福音であること。
その計画はエペソ1章4、5節、「神は、世界の・・据えられる前から」と、極めて壮大な〈創世記3章15節の予告以前から秘められていた〉ご計画。初めの人アダムの神への違反によってさえも、無効にはされなかった。主の宣教が、先ず「ガリラヤ」で始められたのは、イザヤ9章1、2節の預言。
ⅱ 「神の国」の事実と、「神の国」が近づいたと宣言する福音。
「神の国」と同義のことばが、エペソ1章11、14節にも出て来るが、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、今現在、3節、2章6節の霊的経験・祝福にあずかること。と同時に、「受け継ぐ」ものであり、死によってか? 主イエスの再臨による携挙によってか? 迎えられるやがての場所。
「神の国が近づいた」というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく、《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になった時を意識され、覚悟されての 》預言成就の宣言である。
ⅲ 「悔い改め、信じ」ることで経験的事実となること。
この「悔い改め」とは、全人格的方向転換を意味し、自らの罪深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ること。
※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも、と!!
この朝は、本格的ご奉仕の開始が、先ず《 弟子を募る働き 》、17節 「わたしについて来なさい」、その詳細は〈私の弟子になりなさい〉からであった点に注目したい。
主のご降誕のご目的は、ヨハネ3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、あくまでも全人類の救いにある。が、神のこのご目的を果たされるのに用いられた方法が《 弟子を募り、訓練することをもってであった 》と。
主イエスの招きは、16節 「シモンとシモンの兄弟アンデレ」、19節 「ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ」の四人で、実は、既にガリラヤ伝道開始前から、厳密に調べるならば一年余り、主の働きに同行する機会にあずかっていた人々であった(ヨハネ1章35~42節)。そしてこの時からヨハネ5章まで、主の働きに同行していたことが分かる。その様子を見るならば、2章2節 「イエスも弟子たちも」、12節 「イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカぺナウムに下って行き」、17節 「弟子たち」、22節 「弟子たちは・・・聖書とイエスが言われたことばを信じた」、3章26節b 「先生。ヨルダンの川向こうで・・・なんと、バプテスマを授けておられます。そして・・・」、4章1節 「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作って・・・」と、主の周囲にはかなりの人々が付きまとうようになっているのが分かるが、一年余りの様子をご覧になられながら、このマルコの記事で、初めてこの四人に先ず、直接的招きをしていることになる。
それでも本格的弟子訓練は、マルコ3章13~19節 「 14節 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた」その時からとなるが、主のたった三年余りのご奉仕期間の後半に入ってのことであるとは、人間的には極めて驚くべきことでは!!
一年余り時間を必要とされて、主が「わたしについて来なさい、弟子となりなさい」と招かれたことに何を読むべき?
① 人の子としての地上生涯における関心事が、《 唯一つのこと、人の魂を救うことにのみある 》ということ。
主はお独りで多くの奇跡を行い、人々を魅了し、名声を得ることもお出来になられた。事実、ユダヤ初期の働きを開始するや否や、直ちにそのような気運が高まり、主イエスに対して人々からの絶えざる(この世の価値観ではあるが)期待感による誘いがあった。ヨハネ3章1~3節に見る、《 ニコデモの期待していることへの、主の返答 》にもその事実を見ることが出来る。ニコデモはメシア到来によるローマからの解放を切望していた為、主イエスに「しるし」への称賛を述べた。しかし、主はご自身への世の価値観による期待を退け、《 ローマ帝国からの解放による救いを期待する 》彼の心を正し、「神の国」への待望と入国に関心を向けさせ、救いへと導かれた。
このことは、5章41節 「わたしは人からの栄誉は受けません」、44節 「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか」と戒めつつ、父なる神から与えられた召し《 人類のあがないに仕える 》をもって喜びとしていることを意味している。
② 弟子への招きは、16節 「シモンとシモンの兄弟アンデレ・・・彼らは漁師であった」、19節 「ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ」に対してであったこと。
彼らはガリラヤ周辺の貧しい地方で育った人々で、あかぬけたユダヤ地方の出身者はイスカリオテのユダ一人。ユダヤ社会では、人間的標準で評価されたならば軽視され兼ねない人々? しかし、ここでの評価は人が求めるものとは違う。彼らの言動には、とても協力者となれるような能力を備えもった人々とは認められない現れがある。にも拘らず、主イエスから直截に指摘して頂ける人々、決して反抗的にならずに “ 問題はどこに在るのか、教えて下さい ” と正直に率直に聞ける柔らかい心を持ち合わせた人々だった。
何故なら召しを受けた彼らは、既に、バプテスマのヨハネの弟子としての生活があり、宗教の形骸化しているユダヤ社会に問題意識を抱く霊的資質にあずかっている人々だったから。
主が彼らをそれと認められた証しが17節b 「人間をとる漁師」、すなわち、《 主のご奉仕に適う者にしよう 》との願ってもない招きと知った時、直ちに従う人々であったことに見、又、ルカ5章1~11節では、主が大漁の奇跡を行われた時のこと、ペテロは、自らの罪深さに気づき恐れをなしたが、その自覚こそ適任者だとされて招かれたことから、内的・霊的渇きを知る人々であったことに見る。
※ 第二コリント4章7節は、より詳しくは「〔弱い、人間の〕・・・」であるが、その人をあえて選び、ご自身の力を最大限に示される、主の知恵と覚えたい。
先週は、バプテスマのヨハネの捕縛を契機に、主イエスが本格的な公的働きを開始されての「神の福音」宣教について、《 15節 》を基礎に、エペソ1章3~14節の聖句によって理解を確かにした。
ⅰ 「時が満ち」と、定められた期間が終わり、周到な準備がなされた上での《 輝かしい瞬間 》を迎えた福音であること。
その計画はエペソ1章4、5節、「神は、世界の・・据えられる前から」と、極めて壮大な〈創世記3章15節の予告以前から秘められていた〉ご計画。初めの人アダムの神への違反によってさえも、無効にはされなかった。主の宣教が、先ず「ガリラヤ」で始められたのは、イザヤ9章1、2節の預言。
ⅱ 「神の国」の事実と、「神の国」が近づいたと宣言する福音。
「神の国」と同義のことばが、エペソ1章11、14節にも出て来るが、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、今現在、3節、2章6節の霊的経験・祝福にあずかること。と同時に、「受け継ぐ」ものであり、死によってか? 主イエスの再臨による携挙によってか? 迎えられるやがての場所。
「神の国が近づいた」というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく、《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になった時を意識され、覚悟されての 》預言成就の宣言である。
ⅲ 「悔い改め、信じ」ることで経験的事実となること。
この「悔い改め」とは、全人格的方向転換を意味し、自らの罪深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ること。
※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも、と!!
この朝は、本格的ご奉仕の開始が、先ず《 弟子を募る働き 》、17節 「わたしについて来なさい」、その詳細は〈私の弟子になりなさい〉からであった点に注目したい。
主のご降誕のご目的は、ヨハネ3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、あくまでも全人類の救いにある。が、神のこのご目的を果たされるのに用いられた方法が《 弟子を募り、訓練することをもってであった 》と。
主イエスの招きは、16節 「シモンとシモンの兄弟アンデレ」、19節 「ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ」の四人で、実は、既にガリラヤ伝道開始前から、厳密に調べるならば一年余り、主の働きに同行する機会にあずかっていた人々であった(ヨハネ1章35~42節)。そしてこの時からヨハネ5章まで、主の働きに同行していたことが分かる。その様子を見るならば、2章2節 「イエスも弟子たちも」、12節 「イエスは、母と弟たち、そして弟子たちとともにカぺナウムに下って行き」、17節 「弟子たち」、22節 「弟子たちは・・・聖書とイエスが言われたことばを信じた」、3章26節b 「先生。ヨルダンの川向こうで・・・なんと、バプテスマを授けておられます。そして・・・」、4章1節 「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作って・・・」と、主の周囲にはかなりの人々が付きまとうようになっているのが分かるが、一年余りの様子をご覧になられながら、このマルコの記事で、初めてこの四人に先ず、直接的招きをしていることになる。
それでも本格的弟子訓練は、マルコ3章13~19節 「 14節 イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた」その時からとなるが、主のたった三年余りのご奉仕期間の後半に入ってのことであるとは、人間的には極めて驚くべきことでは!!
一年余り時間を必要とされて、主が「わたしについて来なさい、弟子となりなさい」と招かれたことに何を読むべき?
① 人の子としての地上生涯における関心事が、《 唯一つのこと、人の魂を救うことにのみある 》ということ。
主はお独りで多くの奇跡を行い、人々を魅了し、名声を得ることもお出来になられた。事実、ユダヤ初期の働きを開始するや否や、直ちにそのような気運が高まり、主イエスに対して人々からの絶えざる(この世の価値観ではあるが)期待感による誘いがあった。ヨハネ3章1~3節に見る、《 ニコデモの期待していることへの、主の返答 》にもその事実を見ることが出来る。ニコデモはメシア到来によるローマからの解放を切望していた為、主イエスに「しるし」への称賛を述べた。しかし、主はご自身への世の価値観による期待を退け、《 ローマ帝国からの解放による救いを期待する 》彼の心を正し、「神の国」への待望と入国に関心を向けさせ、救いへと導かれた。
このことは、5章41節 「わたしは人からの栄誉は受けません」、44節 「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか」と戒めつつ、父なる神から与えられた召し《 人類のあがないに仕える 》をもって喜びとしていることを意味している。
② 弟子への招きは、16節 「シモンとシモンの兄弟アンデレ・・・彼らは漁師であった」、19節 「ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネ」に対してであったこと。
彼らはガリラヤ周辺の貧しい地方で育った人々で、あかぬけたユダヤ地方の出身者はイスカリオテのユダ一人。ユダヤ社会では、人間的標準で評価されたならば軽視され兼ねない人々? しかし、ここでの評価は人が求めるものとは違う。彼らの言動には、とても協力者となれるような能力を備えもった人々とは認められない現れがある。にも拘らず、主イエスから直截に指摘して頂ける人々、決して反抗的にならずに “ 問題はどこに在るのか、教えて下さい ” と正直に率直に聞ける柔らかい心を持ち合わせた人々だった。
何故なら召しを受けた彼らは、既に、バプテスマのヨハネの弟子としての生活があり、宗教の形骸化しているユダヤ社会に問題意識を抱く霊的資質にあずかっている人々だったから。
主が彼らをそれと認められた証しが17節b 「人間をとる漁師」、すなわち、《 主のご奉仕に適う者にしよう 》との願ってもない招きと知った時、直ちに従う人々であったことに見、又、ルカ5章1~11節では、主が大漁の奇跡を行われた時のこと、ペテロは、自らの罪深さに気づき恐れをなしたが、その自覚こそ適任者だとされて招かれたことから、内的・霊的渇きを知る人々であったことに見る。
※ 第二コリント4章7節は、より詳しくは「〔弱い、人間の〕・・・」であるが、その人をあえて選び、ご自身の力を最大限に示される、主の知恵と覚えたい。
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