聖日礼拝『マルコの福音書』より 7


マルコの福音書1章14、15節

 先週は、バプテスマのヨハネによって予告されていた主が、9節 「ナザレからやって来て」、遂に14節で※そのヨハネが捕らえられた後、本格的な宣教の働きを開始される記事に学んだ。

ⅰ 宣教に先立って先ず、9~11節に見る、《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義について。
 ローマ6章4節がその解説。罪なき子羊としての主イエスが人類に代わって呪われて、十字架刑の死にまで従われるが、主は、同23節 「罪の報酬は死」が適用されない為、その死の中からよみがえられ、罪の中にある人を新しいいのちに歩む者とされるとの象徴的な証。ヨハネから洗礼を受けられた主は、「御霊」の全的な占領により、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」との天の声と共に、父、御子、御霊の完全なる一致の証しをされた。

ⅱ その直後、12、13節に見る、《 荒れ野で主が試みを受けられたこと 》の意義について。
 13節は他の福音書の記述と違い、ダニエルの《 潔白と神への信頼 》の証しとして獅子の口が塞がれたのに同様、父なる神への真実を証しされた。

ⅲ 公に神の子としての生涯を始められるのに、これらの二つは必須の霊的経験であるが、それだからと言うので直ちにではなかったこと。
 実は荒れ野での試みの後、ヨハネの福音書に一年余りのユダヤ伝道があったのを見た。ヨハネ2章1~11節のカナの婚礼でも、《 父なる神の時を待ち望まれる姿勢 》の裡に、最初の奇跡を行われたように、公生涯への決め手を14節の《 ヨハネの投獄に見、先駆者の使命の完成と同時に、ご自身の時が来たとの内的合点 》に至ったとは!!

※ 人間的躊躇感は皆無!! 主はご奉仕の開始においても、神の時を待ち望みつつ御心を確かなものとなさりながらだったのを見て、そこにならうべきと。


 この朝は、主が、14節 「ヨハネが捕らえられた」ことを契機に、《 本格的な公的働きを開始されての「神の福音」宣教 》に注目したい。「神の福音」の内容は《 15節 》に凝縮されているが、エペソ1章3~14 節の聖句によって理解を確かにしたい。

① 「時が満ち」て明らかにされたこと。

 この「時が満ち」とは、より詳細には、「定められた期間は終わった」となるが、エペソ1章10節 「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる【※キリストをかしらとして一つにされる】ことです」と言及されている。
 即ち、かねてより計画されていた福音は長きに及んで準備されて来たが、遂に主イエスの到来によって実行に移されるという、《 輝かしい瞬間 》を迎えた。その計画はどこまで遡るのか?
 それは、エペソ1章4、5節 「すなわち神は、世界の・・据えられる前から、・・・私たちを選び・・・聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」とある。
 なんという壮大なみ思いが計画されていたことか!!
 創世記3章15節 「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ」との予告以前から秘められていた計画。初めの人アダムの神への違反によって、人類に罪が入ったが、それだからといって神は人を創造されたご目的(ご自身との交わりの為に造られた)を無効にはなさらなかった。あくまでも、エペソ1章5~14節 「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは・・・」と。
 マルコ1章15節で、「定められた期間は終わった」と主が言われた時、神のこのご計画が先ずユダヤ人に、更には人類に明らかにされていくことになる。
 主イエスによる宣教が大々的に、同14節 「ガリラヤ」で発せられたのは、※イザヤ9章1、2節 「先にはゼブルンの地とナフタリの地(ガリラヤの北部と南部)は辱めを受けたが、・・・異邦の民のガリラヤ(異邦人に侵略されていた為)は栄誉を受ける」と、預言者イザヤによって引き継がれて来ていたこと。

② 「神の国」との事実、「神の国」が近づいたこと。

 「神の国」と同義のことばが、エペソ1章11、14節にも出て来る。「神の国」とは、先ず、獄中のパウロのように拘束された状況にあろうと、今現在、3節 「天上にあるすべての霊的祝福をもって・・・祝福してくださいました」という霊的経験にあずかること。私たちの肉体は今、地上生活において様々な制約を受けているが、魂は既に、復活によって、神の右の座におられる主イエスに在って、天の所に生きる者とされている。2章6節 「神はまた、キリスト・イエスにあって」と。と同時に、1章11、14節 「受け継ぐ」という、将来的な場所をも意味する。死によってか? キリストの再臨による携挙によってか? 何れかによって、迎えられる場所である。
 「神の国が近づいた・・・」というのは、神の国に導くためにご降誕くださった主が、いよいよその目的を果たすべく、《 先駆者ヨハネの投獄をもって、遂に十字架への道が確定的になったその時を意識されつつ 》、預言の通りに出現されたからである。15節 「時が満ち、神の国が近づいた・・・」と上げられた声は、十字架の道への新たな決意でもある。

③ 「悔い改め、信じ」ることで経験的事実となること。

 この「悔い改め」とは、全人格的方向転換を意味し、自らの罪の深さを知って悲しみ、この罪からの救いの為、もう既に成し遂げられた十字架の愛を自らの為であったと信じ、神に立ち返ることである。自らの罪に嘆く悲しみをもって。
 懺悔(つまり、罪の結果受けるであろう裁きを恐れ、裁きから逃れることにだけ関心がある)とは違う。悔い改めは、罪の結果からの救いよりも、自らの罪そのものを悲しんで告白し、その罪から離別した生き方を求めて、神に立ち返ること。
 エペソ1章13節 「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって」、神の所有とされたと。

※ 着実に、父なる神の時に従われる主、そのお姿に、私たちも!!

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