聖日礼拝『マルコの福音書』より 6


マルコの福音書1章9~15節

 先週は、バプテスマのヨハネが、8節 「私は・・・水で・・・、(イエスは)聖霊によってバプテスマをお授けになります」と明言して《 主を紹介した聖句 》に注目して、三つのことを!

ⅰ 「聖霊によってバプテスマをお授け」になるとは?
 マラキ3章1~3節がその解説。《 「精錬する者の火」として、不純物の多い金属から純度の高い金属を取り出す 》過程を経て、純化する。その過程で、《 聖霊は神のことばをもって、私たちに吹き付けられる 》。ヘブル4章12節を詳しく訳すると、「力に満ちており・・・鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで・・・、心の思いと意図までも・・・〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉」と。同時に、「火」はエネルギーとして、使徒たちの心を愛で燃やした。
 このことは、2章1~4節、《 ペンテコステの日 》に成就。

ⅱ なぜ主は、「聖霊によってバプテスマ」を授けられるのか?
 主イエスの働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣の必須条件だから。

ⅲ 「聖霊によってバプテスマ」が授けられるためには?
 バプテスマのヨハネが下準備としての働きを。即ち、人が自ら、神から離れて身勝手に生きて来たことを罪と認め、悔い改めて神に立ち返る新生経験の第一の転機に始まる。後に、聖霊が光をより深く心の深奥部にまで届けられては気づかせる《 内的腐敗性の事実を知って痛み、そこからの清めを渇いて求めるとき》、第一ヨハネ1章7節の約束を信仰によって受け、受け続けてあずかる恵みである。

※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって、救いを完成された主の代価に感謝しつつ、信仰に立ち続けたいと。


 この朝は、バプテスマのヨハネから、7節 「私の後に来られます」と予告されていた主が、遂に、9節 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」という、《 人々がこの事実をそれと認めようが認めまいが、人類に待たれていた日を迎えることになった 》という記事に学びたい。
 実に主が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた出来事であるが、その後、14節 「イエスはガリラヤに行き、神の福音を」伝えて、ガリラヤ伝道を開始された記事になっている。
 しかし四つの福音書を合わせ読む中で、『ヨハネの福音書』にだけ、初期のユダヤで行われた働きが記録されている点に留意したい。
 これらの働きは、9~11節《 ヨハネからのバプテスマ、洗礼 》を受けられ、12、13節《 荒れ野の試み 》があってからのことではあったが、本格的な開始は、14節 「ヨハネが捕らえられた」後からであったことが分かる。なんと!! 主でさえも、本格的なご奉仕にと臨まれるのに、どれ程、慎重を期されてのことだったかは、驚きである。

① 宣教に先立って9~11節に見る、《 主が洗礼を受けられたこと 》の意義

 そもそも洗礼は、ローマ6章4節 「キリストの死にあずかるバプテスマによって・・・ちょうどキリストが・・・死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」が象徴されている。
 罪なき主イエスは人類に代わって呪われるべく、十字架刑による《 死 》を受けられたが、主はそれを自らの為だと受け入れて、しかし人の子として罪を犯されなかったので「罪の報酬は死」が適用されず、その死の中からよみがえられたので、その者もキリストに在って新しいいのちに歩む者とされた、の意。
 洗礼を受けられたことで、主は「御霊」の全的な占領により、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」との天の声と共に、父、御子、御霊の完全なる一致の承認にあずかられた。

② その直後、12、13節に見る、《 荒れ野での試み 》の意義。

 12節 「それから直ぐに」、御霊によってイエスは荒れ野に追いやられたが、そこに、御霊の強制的力を読み取ることが出来る。父、御子、御霊の交わりに見られる相当の気迫であり、父なる神への従順の、先ずの試験。13節は『マルコ』にだけ出て来るが、野獣にかみ裂かれることなく共におられたのは、さながら、血と肉に飢えた獅子の穴に投じられたダニエルが無傷だったのが、「彼が神に信頼していたから・・・ ダニエル6章23節」に同様、父なる神への真実の証!!

③ 公に神の子としての生涯を始められるのに、これらの二つは必須の霊的経験であるが、それだからと言うので直ちにではなかった意義。

 実際主のお心は、幼い頃から《 父なる神の御心を行うこと 》に向けられており、十二歳の出来事が証言している。ルカ2章41~51節 「イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか』」と。
 その後、父なる神の御心を内に秘め置き、同51節 「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられ」ること《 成人三十歳 》までの生活。
 マルコ1章9節は、十八年間の沈黙を破られての出現で洗礼を受けられたことになるが、主は実に奥床しい。
 マルコ1章14節 「ガリラヤ」での、福音宣教に先立って行われた奇跡を見ておきたい。ヨハネ2章1~11節、《 カナでの婚礼 》で行われた「最初のしるし」の出来事でのこと。ここでは何一つ気負いはなく、母の機転によってなされた奇跡だった。4節 「すると、イエスは母に言われた。『・・・わたしの時はまだ来ていません』」と。しかし無下に退けずに受け止めて父なる神に尋ねられた。その結果は、父の御心との確信によって出された指示に奇跡を見ることとなる。
 こうした経緯を通過しての初期のユダヤ伝道に携わりながら、遂に公生涯への決定的な一手が、このマルコ1章14節 「ヨハネが捕らえられた」ことをもって《 先駆者の使命の完成と同時に、ご自身の時が来たとの内的合点 》だった。これまで、バプテスマのヨハネ自身が荒れ野に退いて自らの召しに対する十分な確信を待ち望んだに同様、それ以上の慎重さを抱かれての公生涯に臨まれた姿勢、使徒1章4節に通じる。

※ 人間的躊躇感にある恐れは皆無!! 神の御心とうなずける内的確信に大胆な始まりを見て、そこにあやかりたい。

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