マルコの福音書1章3~8節
先週は、4節の、「バプテスマのヨハネ」が荒れ野に現れた記事に学んだ。
「主の通られる道をまっすぐにせよ」、との召しは、バプテスマのヨハネに託された事業だったが、復活の主イエスが昇天直前に語られた、※使徒1章8節の宣言に生きる者ならば、この召しに生きたヨハネの姿勢に学ばなければならないと。
ⅰ 「バプテスマのヨハネ」が現れたことに見る、神への畏怖とその信仰を。
バプテスマのヨハネは※ルカ1章8節から17節まで、天の使いからの告知通り、主の宮に仕える父・ザカリヤの子として生を受けたが、彼はユダヤ社会での特権的な立場を辞して76、77節の、「幼子よ、あなたこそ・・・預言者と呼ばれる」を受け留め、遂に80節 「イスラエルの民」に現されるまで荒れ野に居て、3章2節 「神のことば」が直接臨むのを待ち望んだ。何故なら、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。世俗から自らを隔離させ、神の語られるところに耳を傾けようとの荒れ野とは、※6節の極めてシンプルで健康的な生活に通じる。
その現れが極端であればある程、それは《 神からの召しというものへの責任を感じる真面目さ 》と見るべきであり、第二列王5章26節 「今は(国難を意識して)金を受け、衣服を受け、・・・羊や牛、男女の奴隷を」受けるその時だろうかと、貪欲なゲハジを咎めた神の人・エリシャにも共通の信仰。
ⅱ 「私には、かがんで・・・(履物の)ひもを解く資格もありません」との、7、8節に見る《 自らの分をわきまえる謙遜な霊的資質 》。
自らを奴隷以下とする、荒れ野で「叫ぶ者」バプテスマのヨハネこそ、「仕えられるためではなく仕えるため・・・」、に相応しいではないか!!
※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたいと。
この朝は、バプテスマのヨハネが、8節 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、・・・聖霊によってバプテスマをお授けになります」と明言した聖句に注目したい。
実に、バプテスマのヨハネが荒れ野で、3節 「叫ぶ者」として《 生涯を掛け 》イスラエルの民に、「主の通られる道をまっすぐにせよ」と叫び続けたその声の目指すところは、1節《 神の子が人の子となられたイエス 》が、8節b、聖霊によってバプテスマをお授けになりますと伝えることにあった。
① 「聖霊によってバプテスマをお授け」になるとは?
『マタイ』と『ルカ』には、「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」とあるが、マラキ3章1~3節にその解説を見ることが出来る。即ち、2、3節 「精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。・・・銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、・・・彼らを純粋にする」と、《 聖霊の働きを、火が持っている物理的作用 》に譬ている。火は、私たちの日常生活に欠くことの出来ない、身近なものであるが故に分かり易い。
先ず、取り上げられている性質として、「精錬する者の火」とある。「精錬」とは不純物の多い金属から、純度の高い金属を取り出す過程のことだが、精錬する者はそれを「火」を通してする。その過程を経た金属が、純粋だということ(※ヨブの23章10節の信仰告白がこれだ)。
その過程で、《 聖霊は神のことばをもってなされる 》。ヘブル4章12節を詳しく訳すると、「神の語られるみことばは生きていて、・・・力に満ちており・・・鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで・・・、心の思いと意図までも・・・〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉からです」と。
火は、罪という不純物が混合している私たちに吹き付けて精錬するとは、驚くべき福音!! 同時に、火はエネルギーでもあるので、使徒たちの心を愛で燃やした。
このような一連の働きを表現して、《 聖霊によってバプテスマ(浸す、沈めること)を授ける 》と言っている。復活の主イエスが昇天される前に、使徒1章5節 「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と言われ、この成就を見たのが、使徒2章1~4節の《 ペンテコステの日 》である。昇天された主が、父なる神の右の座に着かれて、10日目のことであった。
② 何故、主は「聖霊によってバプテスマ」を授けられるのか?
主が人の子としてご降誕くださった究極の目的が、ガラテヤ3章13、14節 「14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるため」、即ち人類を救おうとする、父なる神のみこころを成し遂げられるべき主イエスの地上生涯は、その働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣をもって完成する訳であるが、その彼らの働きの必須条件だからだ。
使徒1章4、5節 「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです』」とあり、主の選びとして、立場的に弟子であったとしても、その霊的経験を持ち合わせない限り(その肉のままでは)主の用に叶わないからだ。
③ 「聖霊によってバプテスマ」が授けられるためには?
バプテスマのヨハネが、「聖霊によってバプテスマをお授けにな」る主イエスの先駆けとして、※下準備としての、8節a 「水でバプテスマを授け」、4節 「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を伝え、それを聞いた人々が、5節b 「自分の罪を告白し」、彼らにバプテスマを受けさせていたことがあった。
私たちが先ず、自らが神から離れて身勝手に生きて来たこと、即それが罪であり、その生き方から様々な外的悪しき生活があったことを認め、悔い改めて神に立ち返ること。
聖霊のバプテスマには新生経験後、聖霊の光がより深く心の深奥部にまで届けられては、気づかされる《 内的腐敗性の事実》を知って痛み、そこからの清めを求める時、唯、第一ヨハネ1章7節の約束をもって備えられている恵みがあること。
※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって救いを完成された、主のその代価の功績に感謝しつつ、信仰に立ち続けたい。
先週は、4節の、「バプテスマのヨハネ」が荒れ野に現れた記事に学んだ。
「主の通られる道をまっすぐにせよ」、との召しは、バプテスマのヨハネに託された事業だったが、復活の主イエスが昇天直前に語られた、※使徒1章8節の宣言に生きる者ならば、この召しに生きたヨハネの姿勢に学ばなければならないと。
ⅰ 「バプテスマのヨハネ」が現れたことに見る、神への畏怖とその信仰を。
バプテスマのヨハネは※ルカ1章8節から17節まで、天の使いからの告知通り、主の宮に仕える父・ザカリヤの子として生を受けたが、彼はユダヤ社会での特権的な立場を辞して76、77節の、「幼子よ、あなたこそ・・・預言者と呼ばれる」を受け留め、遂に80節 「イスラエルの民」に現されるまで荒れ野に居て、3章2節 「神のことば」が直接臨むのを待ち望んだ。何故なら、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。世俗から自らを隔離させ、神の語られるところに耳を傾けようとの荒れ野とは、※6節の極めてシンプルで健康的な生活に通じる。
その現れが極端であればある程、それは《 神からの召しというものへの責任を感じる真面目さ 》と見るべきであり、第二列王5章26節 「今は(国難を意識して)金を受け、衣服を受け、・・・羊や牛、男女の奴隷を」受けるその時だろうかと、貪欲なゲハジを咎めた神の人・エリシャにも共通の信仰。
ⅱ 「私には、かがんで・・・(履物の)ひもを解く資格もありません」との、7、8節に見る《 自らの分をわきまえる謙遜な霊的資質 》。
自らを奴隷以下とする、荒れ野で「叫ぶ者」バプテスマのヨハネこそ、「仕えられるためではなく仕えるため・・・」、に相応しいではないか!!
※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたいと。
この朝は、バプテスマのヨハネが、8節 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、・・・聖霊によってバプテスマをお授けになります」と明言した聖句に注目したい。
実に、バプテスマのヨハネが荒れ野で、3節 「叫ぶ者」として《 生涯を掛け 》イスラエルの民に、「主の通られる道をまっすぐにせよ」と叫び続けたその声の目指すところは、1節《 神の子が人の子となられたイエス 》が、8節b、聖霊によってバプテスマをお授けになりますと伝えることにあった。
① 「聖霊によってバプテスマをお授け」になるとは?
『マタイ』と『ルカ』には、「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」とあるが、マラキ3章1~3節にその解説を見ることが出来る。即ち、2、3節 「精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。・・・銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、・・・彼らを純粋にする」と、《 聖霊の働きを、火が持っている物理的作用 》に譬ている。火は、私たちの日常生活に欠くことの出来ない、身近なものであるが故に分かり易い。
先ず、取り上げられている性質として、「精錬する者の火」とある。「精錬」とは不純物の多い金属から、純度の高い金属を取り出す過程のことだが、精錬する者はそれを「火」を通してする。その過程を経た金属が、純粋だということ(※ヨブの23章10節の信仰告白がこれだ)。
その過程で、《 聖霊は神のことばをもってなされる 》。ヘブル4章12節を詳しく訳すると、「神の語られるみことばは生きていて、・・・力に満ちており・・・鋭く、いのちの息〈魂〉と〔不滅の〕霊、また関節と骨髄〔すなわち、私たち人間性の最奥部〕の分かれ目に至るまで・・・、心の思いと意図までも・・・〈ふるいにかける〈分析する〈さばく〉からです」と。
火は、罪という不純物が混合している私たちに吹き付けて精錬するとは、驚くべき福音!! 同時に、火はエネルギーでもあるので、使徒たちの心を愛で燃やした。
このような一連の働きを表現して、《 聖霊によってバプテスマ(浸す、沈めること)を授ける 》と言っている。復活の主イエスが昇天される前に、使徒1章5節 「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と言われ、この成就を見たのが、使徒2章1~4節の《 ペンテコステの日 》である。昇天された主が、父なる神の右の座に着かれて、10日目のことであった。
② 何故、主は「聖霊によってバプテスマ」を授けられるのか?
主が人の子としてご降誕くださった究極の目的が、ガラテヤ3章13、14節 「14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるため」、即ち人類を救おうとする、父なる神のみこころを成し遂げられるべき主イエスの地上生涯は、その働きを継ぐ弟子たちの任命と派遣をもって完成する訳であるが、その彼らの働きの必須条件だからだ。
使徒1章4、5節 「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです』」とあり、主の選びとして、立場的に弟子であったとしても、その霊的経験を持ち合わせない限り(その肉のままでは)主の用に叶わないからだ。
③ 「聖霊によってバプテスマ」が授けられるためには?
バプテスマのヨハネが、「聖霊によってバプテスマをお授けにな」る主イエスの先駆けとして、※下準備としての、8節a 「水でバプテスマを授け」、4節 「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を伝え、それを聞いた人々が、5節b 「自分の罪を告白し」、彼らにバプテスマを受けさせていたことがあった。
私たちが先ず、自らが神から離れて身勝手に生きて来たこと、即それが罪であり、その生き方から様々な外的悪しき生活があったことを認め、悔い改めて神に立ち返ること。
聖霊のバプテスマには新生経験後、聖霊の光がより深く心の深奥部にまで届けられては、気づかされる《 内的腐敗性の事実》を知って痛み、そこからの清めを求める時、唯、第一ヨハネ1章7節の約束をもって備えられている恵みがあること。
※ 罪からの赦しのみならず、罪の内的腐敗性をすら清める《 聖霊によるバプテスマ 》をもって救いを完成された、主のその代価の功績に感謝しつつ、信仰に立ち続けたい。
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