聖日礼拝『マルコの福音書』より 4


マルコの福音書1章2~8節

 先週は、主の先駆けとして使者を遣わすとの預言を語るのに、2節 「預言者イザヤの書に・・・」と書き出しながらも、『マラキ』を引用した後の『イザヤ』の引用だった点に注目した。
 それは、救い主にまつわる預言がちりばめられている預言と言えば、先ずイザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだからでは? イエス・キリストの誕生から始まるご生涯の全貌の預言があり、特に42~53章、《 主のしもべの歌の中でも、53章の受難の歌は顕著である 》。
 しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、『マラキ』の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 実際、先駆けとしての使者を遣わすとの見逃せない記事が二つあり、その一つが引用されている。
 マラキの Message は紀元前440年頃のことで、新約時代を迎えるまでの約400年間、聖書の空白時代にこのまま入ることに。
 これらの引用聖句は、「神の子、イエス・キリストの福音」がどのような性質のものであるかを伝えている。福音は・・・

ⅰ 「見よ」と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。

ⅱ 「あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ」と、人々が福音を受けるよう備えられる必要があること。

ⅲ 「その通りに」と、その初めは創世記3章15節に遡るが、初めの人の違反以来、4000年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た、神の計画の成就であること。

※ いよいよ語られる福音の啓示に謙虚に耳を傾けたいと!!


 この朝は、3d、4節 「そのとおりに、バプテスマのヨハネが・・・現れ」たという記事に学びたい。
 前回、3節c 「主の通られる道をまっすぐにせよ」の聖句をもって、お互いは人々の魂が、《 主を受け入れやすい霊的状態に備えられるように、心を耕す手助けをすべき 》と学んだが、その実際を、荒れ野で「叫ぶ者」として派遣され、「主の通られる」その道に生きたバプテスマのヨハネに学びたい。
 言うまでもなくこの召しは、《 バプテスマのヨハネに託された事業 》だったからだ。※但し、復活の主イエスが昇天直前、弟子たちに、使徒1章8節 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土・・・地の果てまで、わたしの証人(殉教、マータ・その血をもって証言する)となります」と宣言されたように、主の弟子であるならば、この召しに生きたバプテスマのヨハネの姿勢に学ばなければならない。

① 「ヨハネが・・・現れ」た4節aに見る、神への畏怖とその信仰を。

 バプテスマのヨハネは、ルカ1章8節から17節まで、「17節 ※彼はエリヤの霊と力で・・・歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに・・・、主のために、整えられた民を用意します」と、主の宮に仕える父・ザカリヤへの告知通り、生を受けた。しかし、ユダヤ社会における特権あるその立場を辞して、父から聞いた使命、76、77節 「幼子よ、あなたこそ・・・預言者と呼ばれる・・・」を受け留め、遂に、80節 「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に」現れるその日まで、荒れ野で過ごしていた。それは、ルカ3章2節 「神のことばが・・・ザカリヤの子ヨハネに臨んだ」と、神からの召しが、直接臨むのを待ち望む為に、である。
 何故ならバプテスマのヨハネは、神が立て続けて来られた預言者たちが《 代々受け継いで語り続けて来たメシア待望 》の実現の為に、《 自らが組み込まれているという事実 》に畏怖の念を抱き、その使命たるや他に比べようもない重責を痛感したからだ。実に、マタイ11章10、11節 「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした・・・」との、主イエスからのおことばは最大の賛辞であり、彼がその使命の重大性を自覚せざるを得なくされた所以を見る。
 従ってバプテスマのヨハネは、※父であるザカリヤからの、ルカ1章76節 「あなたこそ・・・預言者と呼ばれる」は、神からの直接的ことばなくして成し得ないとし、《 世俗的なものから自らを隔離させ、神の語られるところに耳をそばだてよう 》と、荒れ野に退くようにされた。荒れ野の意味するメッセージは、彼が、6節 「らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」という、極めてシンプルな、健康的な生活に通じる。
 もし誰かが、バプテスマのヨハネは単なる狂信ではないか? 人間的な禁欲主義者ではないか? といった見方をするなら、その人は決して測り知れない重責を持った人の心境が理解出来ないからではないか? 神からの招きを前に、身震いする程の厳粛な受け止めが理解出来ないからではないか?
 その現れが極端であればある程、《 それは神からの召しというものへの、責任を感じる真面目さ 》と見るべきではないか?
 第二列王5章26節 「今は(国難を意識して)金を受け、衣服を受け、・・・羊や牛、男女の奴隷を」受けるその時だろうかと、貪欲なゲハジを咎めたのは神の人エリシャだ。

② 罪の赦しに導く、「悔い改めのバプテスマ」を伝えて(4節)、「(力ある主イエスが)私の後に来られます。私には、かがんで・・・(履物の)ひもを解く資格もありません。私は・・・水でバプテスマを授けましたが、・・・聖霊によってバプテスマをお授けになります」と証言しているところに見る(7、8節)《 自らの分をわきまえる、謙遜な霊的資質 》

 この姿勢こそ、3節で※神が言われた、荒れ野で「叫ぶ者」の意。
 主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の・・・代価として、自分のいのちを与えるために来た」、と言われた。しもべとしてキリストに仕える者も又、履物の「ひもを解く資格も」ない、奴隷以下だとする《 この自覚こそ、仕える者として相応しい 》ではないか!!

※ 謙遜の主イエスに相応しく、その品性にあずかりたい。

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