マルコの福音書1章1~3節
先週は、晩年のペテロに仕えたマルコが、ペテロの殉教後ローマに残り、《 ローマ人に向けて 》書いた福音書の冒頭、1章1節で《 要約を伝えている内容 》に学んだ。ユダヤ人が対象の『マタイ』では冒頭に系図というものが必要であったが、ローマ人の関心はそこにはなく、【その人が何をした人なのか】、にあることから、主の行われた力ある奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的・闘争的な勝利を得る者ではなく、謙虚なしもべとしての勝利された主イエスにあったことから、※『マルコの福音書』鍵となる聖句は10章45節。当時の栄華を極めたローマ帝国にとって、何ら魅力でもなく、蔑みの対象に過ぎない形でこの書は世に出た。
ⅰ イエスは「神の子」であると。
ルカ1章35節【処女降誕による誕生】に始まり、マルコ1章11節【洗礼を受けられた時の祝福】があり、3章11節【悪い霊でさえも祝福を告げ】、14章36節【アバ、父よ、・・・】との祈り。同じく14章61~64節が【捕縛後の裁判での死刑判決の決め手】となり、15章34節 「わが神、わが神、・・・」との祈りは、37節で息を引き取られる時、ルカ23章46節【わたしの霊を・・・ゆだねます】と。15章38、39節 「本当に神の子であった」と百人隊長が告白!!
ⅱ 「神の子」であるイエスが、キリストであると。
《 しもべとしてのご生涯 》、ピリピ2章6~8節はその解説。従って、マルコの鍵句が《 10章42~45節〈この世の権力者たち〉のようではなく、「しもべになりなさい。人の子も・・・自分のいのちを与えるため」 》であると!!
※ イエス・キリストご自身の《 しもべとしてのご生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたいと。
この朝は、人の子となられた「神の子、イエス・キリスト」をこの世が迎えられるようにと、先駆けて、「わたしの使いをあなたの前に遣わす・・・」と預言されていた記事に学びたい。
マルコは2節で、「預言者イザヤの書にこのように書かれている」と書き出しながら、「わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える」と、『マラキ』3章1節の聖句を引用し、その後イザヤの聖句をと、3節 「主の通られる道をまっすぐにせよ」と、挿入している。1節で『福音書』の要約を端的に伝えながら本文に入って行こうとした時、主イエスに関する預言と言えば、先ず、イザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだったと?
何故ならイザヤ書には、主イエスにまつわる預言がちりばめられているからだ。イザヤ9章1節から、「苦しみのあったところに闇がなくなる。・・・6節 ※ひとりのみどりごが私たちのために生まれる・・・」、11章1節 「エッサイの根株から新芽が生え・・・」と、《 イエス・キリストの誕生とそのご生涯の全貌についての預言 》があり、42章1節から、「わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者・・・」、53章 「3節 ※彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、・・・7節 ※痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。・・・」《 主のしもべの歌の中でも、特に親しまれているのがこの53章の受難の歌 》と。
イザヤは、《 希望の預言者 》と呼ばれていた。
アッシリアが北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも数々の脅かしをもって迫るも、遂にはバビロンによって滅ぼされるのであるが、そのバビロンがいよいよ南ユダの侵略を講じて来る情勢でのこと。王の悪政によって社会的にも宗教的にも腐敗の一途を辿る中、イザヤは《 メシアの待望に国民を導くべく、命を懸ける 》。しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、マラキ書の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 確かに、主の先駆けとして預言されていた記事として、見逃せない《 重要な記事 》が『マラキ』には二度出ている。
一つは、マルコ1章2節bであるが、マラキ3章1節 「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に(わたしが行く前に)道を備える。あなたがたが尋ね求めている(待望している)主が、突然、その神殿に来る。・・・主は言われる」。今一つは、4章5、6節 「わたしは、主の・・・日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼす(破滅をもって打つ)ことのないようにするためである」。
マラキは、【エズラとネヘミヤと同時代の預言者で、七十年間に及ぶバビロン捕囚を経験し、三度にわたるエルサレムへの帰還の旅を経て、又してもの霊的・道徳的な堕落】という時代的背景に在って、絶望的な南ユダに《 神の愛(マラキ1章2節)を伝えては悔い改めを迫り、神に立ち返るようにと、やがて来たるメシアを待望するよう導くべく 》神と民とに仕えた人物。
マラキ3章1節の約束は、2章17節 「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちが疲れさせたのか。』・・・あなたがたが『悪を行う者もみな・・・主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか』と言うことによってだ」、とのやり取りを受けている。預言者に対する反抗的態度は、即、神への横柄さになるが、彼らにやがての主の計画を伝え、警告している。このマラキの Message は紀元前440年頃のことで、新約時代を迎えるまで、聖書の空白時代にこのまま入ることになる。マラキの預言を伝えたマルコが※次に引用した3節は、イザヤ40章3節 「荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」である。
これらの引用聖句は、「神の子、イエス・キリストの福音」がどのような性質のものであるかを伝えている。福音は・・・
① 「見よ・・・」と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落し、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。
② 「あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ」と、人々が自ら受けるのに備える必要があること。
③ 「そのとおりに」と締め括り、その初めは、創世記3章15節まで遡るが、初めの人の違反以来、4000年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た神の計画の成就であること。
※ 人を愛する神の忍耐を覚えつつ、謙虚に耳を傾けたい!!
先週は、晩年のペテロに仕えたマルコが、ペテロの殉教後ローマに残り、《 ローマ人に向けて 》書いた福音書の冒頭、1章1節で《 要約を伝えている内容 》に学んだ。ユダヤ人が対象の『マタイ』では冒頭に系図というものが必要であったが、ローマ人の関心はそこにはなく、【その人が何をした人なのか】、にあることから、主の行われた力ある奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的・闘争的な勝利を得る者ではなく、謙虚なしもべとしての勝利された主イエスにあったことから、※『マルコの福音書』鍵となる聖句は10章45節。当時の栄華を極めたローマ帝国にとって、何ら魅力でもなく、蔑みの対象に過ぎない形でこの書は世に出た。
ⅰ イエスは「神の子」であると。
ルカ1章35節【処女降誕による誕生】に始まり、マルコ1章11節【洗礼を受けられた時の祝福】があり、3章11節【悪い霊でさえも祝福を告げ】、14章36節【アバ、父よ、・・・】との祈り。同じく14章61~64節が【捕縛後の裁判での死刑判決の決め手】となり、15章34節 「わが神、わが神、・・・」との祈りは、37節で息を引き取られる時、ルカ23章46節【わたしの霊を・・・ゆだねます】と。15章38、39節 「本当に神の子であった」と百人隊長が告白!!
ⅱ 「神の子」であるイエスが、キリストであると。
《 しもべとしてのご生涯 》、ピリピ2章6~8節はその解説。従って、マルコの鍵句が《 10章42~45節〈この世の権力者たち〉のようではなく、「しもべになりなさい。人の子も・・・自分のいのちを与えるため」 》であると!!
※ イエス・キリストご自身の《 しもべとしてのご生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたいと。
この朝は、人の子となられた「神の子、イエス・キリスト」をこの世が迎えられるようにと、先駆けて、「わたしの使いをあなたの前に遣わす・・・」と預言されていた記事に学びたい。
マルコは2節で、「預言者イザヤの書にこのように書かれている」と書き出しながら、「わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える」と、『マラキ』3章1節の聖句を引用し、その後イザヤの聖句をと、3節 「主の通られる道をまっすぐにせよ」と、挿入している。1節で『福音書』の要約を端的に伝えながら本文に入って行こうとした時、主イエスに関する預言と言えば、先ず、イザヤの聖句に着眼するのは極めて自然なことだったと?
何故ならイザヤ書には、主イエスにまつわる預言がちりばめられているからだ。イザヤ9章1節から、「苦しみのあったところに闇がなくなる。・・・6節 ※ひとりのみどりごが私たちのために生まれる・・・」、11章1節 「エッサイの根株から新芽が生え・・・」と、《 イエス・キリストの誕生とそのご生涯の全貌についての預言 》があり、42章1節から、「わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者・・・」、53章 「3節 ※彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、・・・7節 ※痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。・・・」《 主のしもべの歌の中でも、特に親しまれているのがこの53章の受難の歌 》と。
イザヤは、《 希望の預言者 》と呼ばれていた。
アッシリアが北イスラエルを滅ぼし、南ユダにも数々の脅かしをもって迫るも、遂にはバビロンによって滅ぼされるのであるが、そのバビロンがいよいよ南ユダの侵略を講じて来る情勢でのこと。王の悪政によって社会的にも宗教的にも腐敗の一途を辿る中、イザヤは《 メシアの待望に国民を導くべく、命を懸ける 》。しかし、主を紹介するに際してのマルコの感動、はやる心は、マラキ書の預言に寄せる思いにも誘われたからなのでは? 確かに、主の先駆けとして預言されていた記事として、見逃せない《 重要な記事 》が『マラキ』には二度出ている。
一つは、マルコ1章2節bであるが、マラキ3章1節 「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に(わたしが行く前に)道を備える。あなたがたが尋ね求めている(待望している)主が、突然、その神殿に来る。・・・主は言われる」。今一つは、4章5、6節 「わたしは、主の・・・日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼす(破滅をもって打つ)ことのないようにするためである」。
マラキは、【エズラとネヘミヤと同時代の預言者で、七十年間に及ぶバビロン捕囚を経験し、三度にわたるエルサレムへの帰還の旅を経て、又してもの霊的・道徳的な堕落】という時代的背景に在って、絶望的な南ユダに《 神の愛(マラキ1章2節)を伝えては悔い改めを迫り、神に立ち返るようにと、やがて来たるメシアを待望するよう導くべく 》神と民とに仕えた人物。
マラキ3章1節の約束は、2章17節 「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちが疲れさせたのか。』・・・あなたがたが『悪を行う者もみな・・・主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか』と言うことによってだ」、とのやり取りを受けている。預言者に対する反抗的態度は、即、神への横柄さになるが、彼らにやがての主の計画を伝え、警告している。このマラキの Message は紀元前440年頃のことで、新約時代を迎えるまで、聖書の空白時代にこのまま入ることになる。マラキの預言を伝えたマルコが※次に引用した3節は、イザヤ40章3節 「荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」である。
これらの引用聖句は、「神の子、イエス・キリストの福音」がどのような性質のものであるかを伝えている。福音は・・・
① 「見よ・・・」と、何れの時代も《 政治的闘争、社会的貧富の差による贅沢と貧困、無関心、虐待など、宗教的に堕落し、道徳的にも弱体化する 》国民を希望に導く光であったこと。
② 「あなたの道を備える、主の通られる道をまっすぐにせよ」と、人々が自ら受けるのに備える必要があること。
③ 「そのとおりに」と締め括り、その初めは、創世記3章15節まで遡るが、初めの人の違反以来、4000年の長きに及ぶ期間を通して預言され続けて来た神の計画の成就であること。
※ 人を愛する神の忍耐を覚えつつ、謙虚に耳を傾けたい!!
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