マルコの福音書1章1節
先週は、『マルコの福音書』の連講を始めるに当たって、先ず《 記者マルコ 》に学んで Message とした。周知の通り、主の十二弟子ではないが、その一人ではと思わせる生彩に富んだ内容である。彼が、晩年の使徒ペテロと行動を共にする日々、しっかりと聞かされていたからであり、《 マルコの福音書は本質的にペテロの回想録 》とも言われている。
このマルコという人物を、『使徒の働き』に見た。12章・使徒ヤコブの殉教後、捕縛されたペテロの救出をと、マルコの実家はその祈りの場だった。13章・パウロの第一次伝道旅行に助手として加わるも、途中から離脱。15章・二年後、第二次伝道旅行の際、パウロの同行者とは認められず、バルナバとキプロス島へ。10年後、28章・パウロとの「二年間」の獄中生活を経て、釈放後はペテロと行動を共にし、《 小アジアに通訳も兼ねながら 》伝道に携わった(第一ペテロ1章)。
これらによって《 マルコの、伝道の表舞台に引き抜かれた経緯 》を見たが、14章51、52節、彼を知る上で見逃せない聖句として、《 そっと自らを忍ばせているところ 》に注目した。
この様子は、ゲツセマネからさほど遠くはない、自らの寝床で異様なざわめきを感じた時の咄嗟の行動と考えられるが、若かったマルコにも、主との接点があったと知り感動する。
マルコは、ペテロから聞かされる中で、《 ペテロも含めた十二弟子たちの裏切りの事実 》を記録しながら、人ごとではなくなったと思われる。自らの内側から湧き出る、《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは?
※ 第二ペテロ1章21節 「聖霊に動かされた人たち」が語った福音書の学びから、更に深く、主をと!!
『マルコの福音書』連講第1回では、これまで親しんで来た『使徒の働き』に登場していたマルコの記憶が新しいこともあり、先ず、記者としてのマルコの人となりに学んだが、この朝は、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」、1章1節に『マルコの福音書』の特色を見て、本文に入って行きたい。
四つの福音書の中でも『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』は比較的並行記事が多く、同じ出来事でも三者三様、それぞれの個性を用いられる聖霊によって、歴史的事実が豊かに伝えられている。
因みに、『ヨハネ』だけは趣が異なっており、三つの福音書には記載のない記事が多いことから、補足的であり、出来事を神学上の、霊の目をもって解説しているという特徴がある。
晩年のペテロに伴うようにして教会に仕えたマルコは、ペテロの殉教後、ローマに残り、《 ローマ人に向けて 》福音書を書いたとされている。このことはマルコの福音書の冒頭で、《 主題を単刀直入 》に伝えている内容で分かる。
因みに、『マタイ』の1章1節で、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」から始まっているのは、系図を好み、系図を信頼するユダヤ人が対象だから、という風に。救い主を待ち望むユダヤ人には必要不可欠な導入であり、旧約聖書で語られている、預言成就の救い主であるとの宣言が目的だったから。
しかし、ローマ人の関心は系図、即ち【その人が何処から来たのか】ということより【その人が何をしたのか】、にあることから、主が行われた力あるみわざ、奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的・闘争的な勝利を得る者ではなく、目を見張るほどの謙虚さを持っての力、従順なしもべとしての勝利された主イエスにある。
従って、『マルコの福音書』の鍵句は、10章45節 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のため・・・自分のいのちを与えるために来たのです」、である。ある意味で、当時の栄華を極める世界帝国ローマにとっては、何ら魅力的とは到底見なし得ない、蔑みの対象に過ぎない形をもって、この福音書は世に出ることに。
この事実を、1章1節の聖句に学んで Message としたい。
1章1節は、『マルコの福音書』の内容の要約である。
① イエスは「神の子」であると。
天の使いがイエスの誕生を伝えた言葉に明確。ルカ1章35節 「聖霊があなたの上に臨み、・・・力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と〈処女降誕という〉特別な誕生に見る。
マルコ1章11節 「すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」/悪い霊でさえも恐れひれ伏して、3章11節 「あなたは神の子です」と。
主がゲツセマネで祈られた、14章36節 「アバ、父よ、・・・あなたがお望みになることが行われますように。」/捕縛後の裁判では、61、62節 「『おまえは、・・・キリストなのか。』そこでイエスは・・・『わたしが、それです。』」と宣言され、遂に63、64節で、「『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』・・・彼らは・・・イエスは死に値すると決めた」のだ。
又、十字架の上で、15章34節 「わが神、わが神、・・・」と祈られ、37節で息を引き取られる時も、神の子としての確信を貫かれた。ルカ23章46節 「父よ、わたしの霊を・・・ゆだねます」と。主のそのお姿を目撃した百人隊長は、15章38、39節 「本当に神の子であった」と告白するに至ったとは!! マルコが福音書の要約を先ず、《 イエスは神の子 》と掲げた姿勢に、《 彼が弱い者から強い者とされた、その信仰の証し 》を見る。
② 「神の子」であるイエスが、キリストであると。
神の子であるイエスは、《 マタイ1章21節 「ご自分の民をその罪からお救いになる」 》キリスト、すなわち《 メシア・油注がれた者 》で、《 人間として、この神の子がお生まれになられた 》のだとの宣言。
ピリピ2章6~8節 「〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈神のかたち〉であられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ・・・〈人間としてお生まれになりました〉」とは!! 驚くべき《 しもべとしての謙遜のご生涯 》を送られた。従って、マルコの鍵句は《 10章42~45節〈この世の権力者たち〉のようではなく、「しもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるため・・・自分のいのちを与えるため・・・」 》であると!!
※ イエス・キリストご自身の、《 しもべとして送られた生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたい。
先週は、『マルコの福音書』の連講を始めるに当たって、先ず《 記者マルコ 》に学んで Message とした。周知の通り、主の十二弟子ではないが、その一人ではと思わせる生彩に富んだ内容である。彼が、晩年の使徒ペテロと行動を共にする日々、しっかりと聞かされていたからであり、《 マルコの福音書は本質的にペテロの回想録 》とも言われている。
このマルコという人物を、『使徒の働き』に見た。12章・使徒ヤコブの殉教後、捕縛されたペテロの救出をと、マルコの実家はその祈りの場だった。13章・パウロの第一次伝道旅行に助手として加わるも、途中から離脱。15章・二年後、第二次伝道旅行の際、パウロの同行者とは認められず、バルナバとキプロス島へ。10年後、28章・パウロとの「二年間」の獄中生活を経て、釈放後はペテロと行動を共にし、《 小アジアに通訳も兼ねながら 》伝道に携わった(第一ペテロ1章)。
これらによって《 マルコの、伝道の表舞台に引き抜かれた経緯 》を見たが、14章51、52節、彼を知る上で見逃せない聖句として、《 そっと自らを忍ばせているところ 》に注目した。
この様子は、ゲツセマネからさほど遠くはない、自らの寝床で異様なざわめきを感じた時の咄嗟の行動と考えられるが、若かったマルコにも、主との接点があったと知り感動する。
マルコは、ペテロから聞かされる中で、《 ペテロも含めた十二弟子たちの裏切りの事実 》を記録しながら、人ごとではなくなったと思われる。自らの内側から湧き出る、《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは?
※ 第二ペテロ1章21節 「聖霊に動かされた人たち」が語った福音書の学びから、更に深く、主をと!!
『マルコの福音書』連講第1回では、これまで親しんで来た『使徒の働き』に登場していたマルコの記憶が新しいこともあり、先ず、記者としてのマルコの人となりに学んだが、この朝は、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」、1章1節に『マルコの福音書』の特色を見て、本文に入って行きたい。
四つの福音書の中でも『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』は比較的並行記事が多く、同じ出来事でも三者三様、それぞれの個性を用いられる聖霊によって、歴史的事実が豊かに伝えられている。
因みに、『ヨハネ』だけは趣が異なっており、三つの福音書には記載のない記事が多いことから、補足的であり、出来事を神学上の、霊の目をもって解説しているという特徴がある。
晩年のペテロに伴うようにして教会に仕えたマルコは、ペテロの殉教後、ローマに残り、《 ローマ人に向けて 》福音書を書いたとされている。このことはマルコの福音書の冒頭で、《 主題を単刀直入 》に伝えている内容で分かる。
因みに、『マタイ』の1章1節で、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」から始まっているのは、系図を好み、系図を信頼するユダヤ人が対象だから、という風に。救い主を待ち望むユダヤ人には必要不可欠な導入であり、旧約聖書で語られている、預言成就の救い主であるとの宣言が目的だったから。
しかし、ローマ人の関心は系図、即ち【その人が何処から来たのか】ということより【その人が何をしたのか】、にあることから、主が行われた力あるみわざ、奇跡に多くを費やし、偉大な勝利される主として描いている。但しその偉大さは、ローマの誇る権力的・闘争的な勝利を得る者ではなく、目を見張るほどの謙虚さを持っての力、従順なしもべとしての勝利された主イエスにある。
従って、『マルコの福音書』の鍵句は、10章45節 「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のため・・・自分のいのちを与えるために来たのです」、である。ある意味で、当時の栄華を極める世界帝国ローマにとっては、何ら魅力的とは到底見なし得ない、蔑みの対象に過ぎない形をもって、この福音書は世に出ることに。
この事実を、1章1節の聖句に学んで Message としたい。
1章1節は、『マルコの福音書』の内容の要約である。
① イエスは「神の子」であると。
天の使いがイエスの誕生を伝えた言葉に明確。ルカ1章35節 「聖霊があなたの上に臨み、・・・力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と〈処女降誕という〉特別な誕生に見る。
マルコ1章11節 「すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」/悪い霊でさえも恐れひれ伏して、3章11節 「あなたは神の子です」と。
主がゲツセマネで祈られた、14章36節 「アバ、父よ、・・・あなたがお望みになることが行われますように。」/捕縛後の裁判では、61、62節 「『おまえは、・・・キリストなのか。』そこでイエスは・・・『わたしが、それです。』」と宣言され、遂に63、64節で、「『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』・・・彼らは・・・イエスは死に値すると決めた」のだ。
又、十字架の上で、15章34節 「わが神、わが神、・・・」と祈られ、37節で息を引き取られる時も、神の子としての確信を貫かれた。ルカ23章46節 「父よ、わたしの霊を・・・ゆだねます」と。主のそのお姿を目撃した百人隊長は、15章38、39節 「本当に神の子であった」と告白するに至ったとは!! マルコが福音書の要約を先ず、《 イエスは神の子 》と掲げた姿勢に、《 彼が弱い者から強い者とされた、その信仰の証し 》を見る。
② 「神の子」であるイエスが、キリストであると。
神の子であるイエスは、《 マタイ1章21節 「ご自分の民をその罪からお救いになる」 》キリスト、すなわち《 メシア・油注がれた者 》で、《 人間として、この神の子がお生まれになられた 》のだとの宣言。
ピリピ2章6~8節 「〔キリストは〕、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕〈神のかたち〉であられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい〈保留しなければならない〉とはお思いにならないで、かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ〈奴隷〉の姿をとられ・・・〈人間としてお生まれになりました〉」とは!! 驚くべき《 しもべとしての謙遜のご生涯 》を送られた。従って、マルコの鍵句は《 10章42~45節〈この世の権力者たち〉のようではなく、「しもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるため・・・自分のいのちを与えるため・・・」 》であると!!
※ イエス・キリストご自身の、《 しもべとして送られた生涯 》自体が福音と覚え、自らに光をと、学びを進めたい。
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