マルコの福音書14章51、52節
先週をもって、79回に及んだ『使徒の働き』の連講を終えて、今朝から『マルコの福音書』の連講に入る。
今朝は、学びの初めに先ず、《 聖霊の記者として用いられたマルコという人物について 》学んで Message としたい。
久しく『使徒の働き』に親しんで来たお互いの耳に、マルコという人物は記憶に新しい。周知の通り、主の十二弟子ではないが、冒頭から「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と、直ちに《 主の公生涯の始まりを告げる働きの内容 》は、実際その場に居合わせた者でなければ知ることのない、目撃者の一人として伝えるという、生彩に富んだ記事となっている。
その理由は、マルコが晩年の使徒ペテロと行動を共にしていたことで、ペテロから細部に至るまで情報を得ていたからである。この事実から、「マルコの福音書は、本質的にペテロの回想録だ」とも言われて来ている。
マルコがどうして使徒ペテロに仕えることになったのかの詳細は分からないが、『使徒の働き』に出て来るマルコの記事から、マルコの生涯をざっと見てみたい。
使徒ヤコブの殉教後、捕らえられたペテロの救出の為、12章5節 「教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげ」、天の使いによって助け出されることになった。12節 「それが分かったので、ペテロは、マルコ(ギリシア語の名前)と呼ばれているヨハネ(ヘブル語の名前、主は恵み深い、の意)の母マリアの家に行っ」て、釈放されたことを伝えようと真っ先に駆けつけ向かったのが、教会の為に開放されていた、マルコの実家だった。
母マリアは、家族を挙げて教会に仕えていたからだ。
折しも、アンティオキア教会からエルサレム教会への支援献金を届けるために派遣された、25節 「バルナバ【マルコの叔父】とサウロ」であったが、「マルコと呼ばれるヨハネを連れて」、と、アンティオキア教会に戻る時、マルコも同行することになる。このマルコは、エルサレム教会で「慰めの子」と呼ばれるバルナバをおじに持ち、幼い頃から信仰に導かれ、献身を志していたからだと思われる。
このようなことから、アンティオキア教会から、バルナバとパウロが伝道に派遣されることになった時、13章5節で彼らは「マルコと呼ばれるヨハネ」も助手として連れて行ったと。ところが、キプロス島での凄まじい働きを見てか、13節 「(キプロス島の)パポスから船出してパンフィリアのペルゲに」渡った時点で、そこから離れてエルサレムに帰ってしまったとある。
あくまでも推測でしかないが、マルコのこの離脱は、恐らく宣教に伴う熾烈さに怯えたからではないだろうか?
二年後、パウロとバルナバが再び伝道旅行に出る際、15章36~39節を見ると、両者はそれぞれの見解を重んじ、マルコは、パウロの宣教に寄せる厳格な姿勢を尊重したバルナバによって(甥の育成にとの重荷から)、キプロス島へ行くことに。しかしその【パウロに退けられた】マルコは、自分の事で激論が交わされた忘れもしない扱いによって信仰に切り込みを入れられ、使徒たちの真剣な伝道姿勢に捕らえられていく。
それから10年、どのような経緯によってか、28章30、31節、ローマでの「二年間」の第一次幽囚生活に、その名を連ねている。
ピレモン24節 「私の同労者・・・マルコ」、コロサイ4章10節 「私とともに囚人となっている・・・バルナバのいとこであるマルコ・・・」とあるのは嬉しいことであり、パウロとは献身を共にしている。
釈放後のマルコは、ペテロが、第一ペテロ1章1節で「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア」にいる選ばれた人たち宛に書いた手紙に、5章13節 「あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会(執筆場所から、メソポタミア? エジプト? のバビロンではなく、象徴的バビロン、即ちローマの教会)と、私の子(霊的な意味での)マルコが・・・」と言っていることから、ペテロの同伴者として、弟子として、《 この小アジアで通訳も兼ねながら 》伝道に携わったと考えられる。
この密着した期間、マルコはペテロからしっかりと、《 主と共に過ごした歳月の様子 》を聞いたことだろう。こうして導かれた『マルコの福音書』であるから、ペテロの回想録と呼ばれるのではないか!!
マルコがこの福音書を執筆した時期については、ペテロの殉教後、【パウロと共に、64年のローマの大火の前後? 又は67、68年から、70年エルサレムの陥落までの間】ではなかったかと。
《 マルコが、伝道の表舞台に引き抜かれて弟子の一人となったのも 》、エルサレム教会をパウロと共に訪ねた叔父のバルナバからの誘いで、アンティオキア教会に連れて行かれたことに始まったのではあるが、この『マルコの福音書』を学ぶに当たって、マルコを知る上で見逃せない記事を見て、連講第1回目の Message としたい。それは今朝の聖句、※マルコだけが記録している14章51、52節で、「ある青年」が、亜麻の衣を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした為、衣を脱ぎ捨てて、裸で逃げることになったと、自らをそっと忍ばせている。ゲツセマネからさほど遠くない自らの寝床で、異様なざわめきと思った時の咄嗟の行動と考えられる。主の十二弟子ではなかった若きマルコにも、主との接点があったことには感動する。
亜麻の衣を、「一枚まとっただけ・・・」には、起き上がった時の慌てた様子が見て取れる。着替える間もなく、寝具を体に巻き付けた状態で飛び出し、「イエスについて行った」その心は?
マルコはペテロから、《 ペテロも含めた十二弟子たちの、裏切りの事実 》を聞いて記録している。50節 「(ペテロを除く弟子たちは)イエスを見捨てて逃げてしまった」、そして※ペテロの号泣した場面(ペテロはどのような面持ちでマルコにこの経験を伝えただろう? )、54、66~72節 「ペテロは、遠くからイエスの後について・・・庭の中にまで入って行った。・・・そして彼は泣き崩れた」と。
こうしてマルコは記録しながら、人ごとではなくなり、自らの内側から湧き出てくる《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは? 第一次伝道旅行で、途中から離脱した時にも見せた自らの内的課題を、今は聖霊によって変えられているとの感動をもって。
※ 第二ペテロ1章21節 「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語った」福音書の学びによって、更に深く、主を!!
先週をもって、79回に及んだ『使徒の働き』の連講を終えて、今朝から『マルコの福音書』の連講に入る。
今朝は、学びの初めに先ず、《 聖霊の記者として用いられたマルコという人物について 》学んで Message としたい。
久しく『使徒の働き』に親しんで来たお互いの耳に、マルコという人物は記憶に新しい。周知の通り、主の十二弟子ではないが、冒頭から「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と、直ちに《 主の公生涯の始まりを告げる働きの内容 》は、実際その場に居合わせた者でなければ知ることのない、目撃者の一人として伝えるという、生彩に富んだ記事となっている。
その理由は、マルコが晩年の使徒ペテロと行動を共にしていたことで、ペテロから細部に至るまで情報を得ていたからである。この事実から、「マルコの福音書は、本質的にペテロの回想録だ」とも言われて来ている。
マルコがどうして使徒ペテロに仕えることになったのかの詳細は分からないが、『使徒の働き』に出て来るマルコの記事から、マルコの生涯をざっと見てみたい。
使徒ヤコブの殉教後、捕らえられたペテロの救出の為、12章5節 「教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげ」、天の使いによって助け出されることになった。12節 「それが分かったので、ペテロは、マルコ(ギリシア語の名前)と呼ばれているヨハネ(ヘブル語の名前、主は恵み深い、の意)の母マリアの家に行っ」て、釈放されたことを伝えようと真っ先に駆けつけ向かったのが、教会の為に開放されていた、マルコの実家だった。
母マリアは、家族を挙げて教会に仕えていたからだ。
折しも、アンティオキア教会からエルサレム教会への支援献金を届けるために派遣された、25節 「バルナバ【マルコの叔父】とサウロ」であったが、「マルコと呼ばれるヨハネを連れて」、と、アンティオキア教会に戻る時、マルコも同行することになる。このマルコは、エルサレム教会で「慰めの子」と呼ばれるバルナバをおじに持ち、幼い頃から信仰に導かれ、献身を志していたからだと思われる。
このようなことから、アンティオキア教会から、バルナバとパウロが伝道に派遣されることになった時、13章5節で彼らは「マルコと呼ばれるヨハネ」も助手として連れて行ったと。ところが、キプロス島での凄まじい働きを見てか、13節 「(キプロス島の)パポスから船出してパンフィリアのペルゲに」渡った時点で、そこから離れてエルサレムに帰ってしまったとある。
あくまでも推測でしかないが、マルコのこの離脱は、恐らく宣教に伴う熾烈さに怯えたからではないだろうか?
二年後、パウロとバルナバが再び伝道旅行に出る際、15章36~39節を見ると、両者はそれぞれの見解を重んじ、マルコは、パウロの宣教に寄せる厳格な姿勢を尊重したバルナバによって(甥の育成にとの重荷から)、キプロス島へ行くことに。しかしその【パウロに退けられた】マルコは、自分の事で激論が交わされた忘れもしない扱いによって信仰に切り込みを入れられ、使徒たちの真剣な伝道姿勢に捕らえられていく。
それから10年、どのような経緯によってか、28章30、31節、ローマでの「二年間」の第一次幽囚生活に、その名を連ねている。
ピレモン24節 「私の同労者・・・マルコ」、コロサイ4章10節 「私とともに囚人となっている・・・バルナバのいとこであるマルコ・・・」とあるのは嬉しいことであり、パウロとは献身を共にしている。
釈放後のマルコは、ペテロが、第一ペテロ1章1節で「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア」にいる選ばれた人たち宛に書いた手紙に、5章13節 「あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会(執筆場所から、メソポタミア? エジプト? のバビロンではなく、象徴的バビロン、即ちローマの教会)と、私の子(霊的な意味での)マルコが・・・」と言っていることから、ペテロの同伴者として、弟子として、《 この小アジアで通訳も兼ねながら 》伝道に携わったと考えられる。
この密着した期間、マルコはペテロからしっかりと、《 主と共に過ごした歳月の様子 》を聞いたことだろう。こうして導かれた『マルコの福音書』であるから、ペテロの回想録と呼ばれるのではないか!!
マルコがこの福音書を執筆した時期については、ペテロの殉教後、【パウロと共に、64年のローマの大火の前後? 又は67、68年から、70年エルサレムの陥落までの間】ではなかったかと。
《 マルコが、伝道の表舞台に引き抜かれて弟子の一人となったのも 》、エルサレム教会をパウロと共に訪ねた叔父のバルナバからの誘いで、アンティオキア教会に連れて行かれたことに始まったのではあるが、この『マルコの福音書』を学ぶに当たって、マルコを知る上で見逃せない記事を見て、連講第1回目の Message としたい。それは今朝の聖句、※マルコだけが記録している14章51、52節で、「ある青年」が、亜麻の衣を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした為、衣を脱ぎ捨てて、裸で逃げることになったと、自らをそっと忍ばせている。ゲツセマネからさほど遠くない自らの寝床で、異様なざわめきと思った時の咄嗟の行動と考えられる。主の十二弟子ではなかった若きマルコにも、主との接点があったことには感動する。
亜麻の衣を、「一枚まとっただけ・・・」には、起き上がった時の慌てた様子が見て取れる。着替える間もなく、寝具を体に巻き付けた状態で飛び出し、「イエスについて行った」その心は?
マルコはペテロから、《 ペテロも含めた十二弟子たちの、裏切りの事実 》を聞いて記録している。50節 「(ペテロを除く弟子たちは)イエスを見捨てて逃げてしまった」、そして※ペテロの号泣した場面(ペテロはどのような面持ちでマルコにこの経験を伝えただろう? )、54、66~72節 「ペテロは、遠くからイエスの後について・・・庭の中にまで入って行った。・・・そして彼は泣き崩れた」と。
こうしてマルコは記録しながら、人ごとではなくなり、自らの内側から湧き出てくる《 居ても立ってもいられない負債感 》が、自らの惨めさを書かざるを得なくさせたのでは? 第一次伝道旅行で、途中から離脱した時にも見せた自らの内的課題を、今は聖霊によって変えられているとの感動をもって。
※ 第二ペテロ1章21節 「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語った」福音書の学びによって、更に深く、主を!!
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