使徒の働き28章1~10節
先週は、ローマへの航海が難航する中、27章24節 「神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます」との約束が現実となるに当たっての、信仰の人パウロに注目した。
ⅰ 出港当初、※9b~10節の警告に重きを置かなかった百人隊長や兵士たちのパウロに寄せるその思いは信頼に変わり、徐々に《 彼らにはなくてならない存在 》とされていること。
31、32節に見る彼らの従順を受け、33~36節 「一同の前で」と祈りに一同を動員し、42、43節 「しかし・・・」と、百人隊長による「パウロを助けたい」との思いから、囚人たちへの殺害計画は制止された。
ⅱ パウロは、神ご自身による顕著な働きに関与している。
神が、24節b 「あなたに与えておられます」と言われる御心は、様々な紆余曲折がある中、ご自身の計画の実現に向けて、粛々と動いておられるという幾つもの事実によって証しされている。
パウロに30節、《 水夫の逃亡 》に目を留めさせ、31節 「とどまっていなければ」、助かる見込みはないと判断させ、乗り合わせた全ての者が救い出されるため賢明な警告とさせた。
何故なら、難航している船の現場での操作の全ては、専門知識を持っている彼らが負っていたからだ。
又、43節 「パウロを助けたい」と、百人隊長が兵士たちの計画を制止した場面でも、明らかな神による干渉があってのこと。詩篇124篇「『もしも 主が私たちの味方でなかったなら。』さあ イスラエルは言え・・・」に留意を。
※ パウロが抱く信仰、神の実体験が極めて現実的であると覚えつつ、お互いの信仰を吟味したいと。
今朝は、28章1節 「こうして助かって」、漂着したマルタ島で顕された《 神の主権的権威 》に注目したい。パウロを乗せてのマルタ島寄港は、2節 「島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。・・・寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなを迎えてくれた」ことに始まった。
cf. 【ローマへの最後の旅】航海の季節
27章9節 「断食の日もすでに過ぎていた」と、この日は《 贖罪の日で、紀元59年10月5日のこと。地中海で航海が危険な季節は、9月14日から11月11日であった為、※その時の同12節、クレタの港「フェ二クス」に行く決断が極めて危険な判断だった 》中での出帆で難破し、最も寒い冬だったことになる。
このマルタ島では、※結局11節 「三か月」滞在することになって、いよいよ目的のローマの地に到着するという最終段階に入ることになる。
このマルタ島で注目すべき《 神の主権的権威 》について。
① ローマ到着直前まで、神が挑戦を受けられた。
それは、3節の出来事に見る。パウロが枯れた枝を抱えて火にくべると、熱気の為に一匹のまむしが出て来て、「彼の手にかみついた」というハプニングが起こったことに見る。【こうした記述にパウロの積極的に人々に仕える動きを見るが、26章29節 「この鎖は別として」と、手首には鎖がはめられていたであろう、その手でである。】
この出来事を目撃した※4節 「島の人々は」みな、パウロの手首を見て、囚人と見なしたからだろう。彼らがそれを見て、「言い合った。『この人はきっと人殺しだ。・・・正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。』」としたのも、土着の人々の感覚では至極当然のことだっただろう。
② しかし、その挑戦をすら《 神はご自身のご計画の支障とはなさらず、ご自身を顕される 》好機とされたこと。
※5節 「しかし、パウロはその生き物を・・・振り落として、何の害も受けなかった」為、6節 「人々は、彼が今にも腫れ上がってくるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと待っていた。しかし、いくら待っても彼に何も変わった様子が見えないので、考えを変えて、『この人は神さまだ』と言い出した」。
この出来事に、第三次伝道旅行中、様々な迫害を乗り越えながらも《 コリントから書かれた 》ローマ8章35~37節の聖句、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難【押しつぶされそうな環境】ですか、苦悩【苦難によって引き起こされる心の圧迫】ですか、迫害ですか、飢えですか、裸【当然の権利の剥奪】ですか、危険【自然的な】ですか・・・。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され・・・る羊と見なされています。』しかし、これらすべてにおいて【なお】も、・・・私たちは圧倒的な勝利【征服】者【以上】です。」にあるパウロの《 経験的信仰告白が極めて現実的であったこと 》を見る。
ここで〈苦難、苦悩・・・〉を、「だれが・・・」と擬人化して呼んでいるのは、これらを《 神に挑戦する手立てとして用いている、人格的存在であるサタン 》を意識してのこと。
この《 圧倒的な勝利【征服】者【以上】 》とは?
a. 7~9節 「さて、その場所の近くに、島の長官でプブリウスという名の人の所有地があった。彼は私たちを歓迎して・・・親切にもてなしてくれた。たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで・・・パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り・・・」と。
パウロがまむしにかまれた出来事が、「島の長官」宅に近い場所でのこと、その長官の「父」が病床にあったことも、人間的には「たまたま」のことだったが、すべて神の配剤によった。
マルタ島にパウロによって植えられたキリスト信仰は、現在にまで続き、プブリウスの家はキリスト教会になったと言われているとのこと。
b. 10節 「また人々は私たちに深い尊敬を表し、私たちが船出するときには、必要な物を用意してくれた」ことに。
何と、至れり尽くせりの好意であることか!!
ヨハネ14章30節b 詳訳 「彼は私に対してなんの権限も持たない〈私となんの関係もない、私には彼のものは何もない、彼は私を支配するなんの力も持っていない〉」のだ。
※ 神のご計画が成就するまでに挑戦として何が持ち込まれようと、粛々と御心を行われるそこに信頼して従うのみ!!
先週は、ローマへの航海が難航する中、27章24節 「神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます」との約束が現実となるに当たっての、信仰の人パウロに注目した。
ⅰ 出港当初、※9b~10節の警告に重きを置かなかった百人隊長や兵士たちのパウロに寄せるその思いは信頼に変わり、徐々に《 彼らにはなくてならない存在 》とされていること。
31、32節に見る彼らの従順を受け、33~36節 「一同の前で」と祈りに一同を動員し、42、43節 「しかし・・・」と、百人隊長による「パウロを助けたい」との思いから、囚人たちへの殺害計画は制止された。
ⅱ パウロは、神ご自身による顕著な働きに関与している。
神が、24節b 「あなたに与えておられます」と言われる御心は、様々な紆余曲折がある中、ご自身の計画の実現に向けて、粛々と動いておられるという幾つもの事実によって証しされている。
パウロに30節、《 水夫の逃亡 》に目を留めさせ、31節 「とどまっていなければ」、助かる見込みはないと判断させ、乗り合わせた全ての者が救い出されるため賢明な警告とさせた。
何故なら、難航している船の現場での操作の全ては、専門知識を持っている彼らが負っていたからだ。
又、43節 「パウロを助けたい」と、百人隊長が兵士たちの計画を制止した場面でも、明らかな神による干渉があってのこと。詩篇124篇「『もしも 主が私たちの味方でなかったなら。』さあ イスラエルは言え・・・」に留意を。
※ パウロが抱く信仰、神の実体験が極めて現実的であると覚えつつ、お互いの信仰を吟味したいと。
今朝は、28章1節 「こうして助かって」、漂着したマルタ島で顕された《 神の主権的権威 》に注目したい。パウロを乗せてのマルタ島寄港は、2節 「島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。・・・寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなを迎えてくれた」ことに始まった。
cf. 【ローマへの最後の旅】航海の季節
27章9節 「断食の日もすでに過ぎていた」と、この日は《 贖罪の日で、紀元59年10月5日のこと。地中海で航海が危険な季節は、9月14日から11月11日であった為、※その時の同12節、クレタの港「フェ二クス」に行く決断が極めて危険な判断だった 》中での出帆で難破し、最も寒い冬だったことになる。
このマルタ島では、※結局11節 「三か月」滞在することになって、いよいよ目的のローマの地に到着するという最終段階に入ることになる。
このマルタ島で注目すべき《 神の主権的権威 》について。
① ローマ到着直前まで、神が挑戦を受けられた。
それは、3節の出来事に見る。パウロが枯れた枝を抱えて火にくべると、熱気の為に一匹のまむしが出て来て、「彼の手にかみついた」というハプニングが起こったことに見る。【こうした記述にパウロの積極的に人々に仕える動きを見るが、26章29節 「この鎖は別として」と、手首には鎖がはめられていたであろう、その手でである。】
この出来事を目撃した※4節 「島の人々は」みな、パウロの手首を見て、囚人と見なしたからだろう。彼らがそれを見て、「言い合った。『この人はきっと人殺しだ。・・・正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。』」としたのも、土着の人々の感覚では至極当然のことだっただろう。
② しかし、その挑戦をすら《 神はご自身のご計画の支障とはなさらず、ご自身を顕される 》好機とされたこと。
※5節 「しかし、パウロはその生き物を・・・振り落として、何の害も受けなかった」為、6節 「人々は、彼が今にも腫れ上がってくるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと待っていた。しかし、いくら待っても彼に何も変わった様子が見えないので、考えを変えて、『この人は神さまだ』と言い出した」。
この出来事に、第三次伝道旅行中、様々な迫害を乗り越えながらも《 コリントから書かれた 》ローマ8章35~37節の聖句、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難【押しつぶされそうな環境】ですか、苦悩【苦難によって引き起こされる心の圧迫】ですか、迫害ですか、飢えですか、裸【当然の権利の剥奪】ですか、危険【自然的な】ですか・・・。こう書かれています。『あなたのために、私たちは休みなく殺され・・・る羊と見なされています。』しかし、これらすべてにおいて【なお】も、・・・私たちは圧倒的な勝利【征服】者【以上】です。」にあるパウロの《 経験的信仰告白が極めて現実的であったこと 》を見る。
ここで〈苦難、苦悩・・・〉を、「だれが・・・」と擬人化して呼んでいるのは、これらを《 神に挑戦する手立てとして用いている、人格的存在であるサタン 》を意識してのこと。
この《 圧倒的な勝利【征服】者【以上】 》とは?
a. 7~9節 「さて、その場所の近くに、島の長官でプブリウスという名の人の所有地があった。彼は私たちを歓迎して・・・親切にもてなしてくれた。たまたまプブリウスの父が、発熱と下痢で苦しんで・・・パウロはその人のところに行って、彼に手を置いて祈り・・・」と。
パウロがまむしにかまれた出来事が、「島の長官」宅に近い場所でのこと、その長官の「父」が病床にあったことも、人間的には「たまたま」のことだったが、すべて神の配剤によった。
マルタ島にパウロによって植えられたキリスト信仰は、現在にまで続き、プブリウスの家はキリスト教会になったと言われているとのこと。
b. 10節 「また人々は私たちに深い尊敬を表し、私たちが船出するときには、必要な物を用意してくれた」ことに。
何と、至れり尽くせりの好意であることか!!
ヨハネ14章30節b 詳訳 「彼は私に対してなんの権限も持たない〈私となんの関係もない、私には彼のものは何もない、彼は私を支配するなんの力も持っていない〉」のだ。
※ 神のご計画が成就するまでに挑戦として何が持ち込まれようと、粛々と御心を行われるそこに信頼して従うのみ!!
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