聖日礼拝『使徒の働き』より 76


使徒の働き27章27~44節

 先週は、二年間の監禁を経たパウロの※1節・イタリア行きが遂に決まって、2節・カイサリアを出発した航海が難航し※7、8節 「やっとのことで、ラサヤの町に近い『良い港』・・・に着いた」ものの、9節 「もはや航海は危険」と見られたにも拘らず続行した為、20節の絶体絶命の危機に直面した時のこと、その難局を打破させたパウロの信仰に学んだ。
 【実際の問題に関与し】重要な役割を果たしたパウロの信仰にであるが、その鍵を、《 23~26節、神との密着した交わりによって、現実的な激励と指導を得る霊的経験の確かさ 》に見た。
 神とのその交わりから・・・

ⅰ 「あなたがたが・・・船出しないでいたら・・・すんだのです。しかし今、あなたがたに勧めます」と迫る機転が生まれた(21b~22a節)。
 パウロはここで、9b~10節に言及しているが、「聞き入れて・・・いたら」とは、大失態ではあるが責める為ではなく、彼らの過ちの事実を思い起こさせることによって、それすらもご自身のご計画の実現の為、法外な恵みに転じることのお出来になる、主権者なる神を伝えたいが為に。

ⅱ 「しかし・・・昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。・・・ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。・・・必ず、どこかの島に打ち上げられます」と宣言。《 全幅的信頼を寄せている生ける神を証しする力 》を得ている(22~26節)。

※ 詩篇106篇23節 「それで神は『彼らを根絶やしにする』と言われた。もし 神に選ばれた人モーセが・・・立たなかったなら・・・」に見る、《 神の人の存在 》が今も必要と覚えたいと。


 今朝は、20節 「私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた」その時、※パウロの25節a 「元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」との明言が、44節 「こうして、全員が無事に陸に上がった」と現実となるが、この日を迎えるまでのパウロの信仰《 その難局がより深刻化する中で、極めて冷静であった姿勢 》に学びたい。
 パウロの確信がそのまま聞き手の確信となる訳ではない中、27節 「十四日」の漂流は、気の休まる状況ではない筈。案の定、29、30節、座礁してしまうのではないかと恐れ、水夫たちは逃げ出そうとして「船首から錨を降ろすように見せかけ」、そこから小舟を降ろしていたという事態を招いている。
 パウロには信仰の友と共に、不動の信仰を維持することができたとしても、他の二百人を超える同船者たちの動揺を治めることは至難な働きであったに違いない。
 いつでも信仰は決まって《 目の前の諸現象にではなく、神が語られたならば、その語られた神を信頼する愛 》が求められ、試みられ、探られることになっているから。その只中にあって神への信頼を持ち続けたパウロに注目!!

① パウロは、出港当初伝えた※【10節】の警告に耳を貸してはもらえなかった百人隊長や兵士たちから、遂には一目置かれる存在になっている。

 1節 「パウロとほかの・・・囚人」に注目しておきたい。
 パウロは、ローマの最高法廷に上訴したローマ市民。
 しかし他の囚人は、明らかに犯罪者としてローマに移送され、既に死刑宣告を受けている囚人。当時の腐敗したローマ社会では、こうした囚人を、ローマ市民の娯楽の為に建造された競技場で猛獣の餌食として処刑するために送り込んでいた。仮に〈百人隊長の目に〉パウロが他の囚人とは区別し得たとしても、出帆の初め、まさか海上での諸事情に通じる訳もないパウロからの意見に耳を傾けるなどあり得ない話で、簡単に退けられても無理からぬことだった。
 ところが彼らのパウロに寄せる思いは信頼に変わり、パウロは徐々に《 彼らになくてはならない存在 》となっている。
 31、32節 「パウロは百人隊長や兵士たちに・・・と言った。そこで・・・」と兵士たちの従順がある。
 33~36節 「一同に食事をするように勧めて、こう言った。『今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。』こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。それで皆も元気づけられ、食事をした」とあるが、「一同の前で」と《 何処にでも神を迎える姿 》には何か惹かれるものがあったのでは?
 42、43節 「兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと図った。しかし、百人隊長はパウロを助けたいと思い、彼らの計画を制止して」と。

② パウロは、神ご自身による顕著な働きに関与している。

 神の御使いからの伝言は、24節 「あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます」だった。
 神が語られたことは、未だ見ない時に、既に「あなたに与えておられます」なのだ!! しかしそれは、その実現を見るまで、様々な紆余曲折があってのこと、その上で粛々と神はご計画の実現に向けて動いておられるという事実!!
 パウロが、30節 「水夫たちが船から逃げ出そうとして」いるところに目を留めて、31節 「とどまっていなければ」、助かる見込みがないと判断したことは同乗者全員の救いのため賢明な警告だった。
 何故なら、難航している船の現場での操作の全ては、専門知識を持っている彼らが負っていたからだ。
 又、42節 「兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと図った」とあるのは、もし、みすみす逃がすことになったならば、業務上の過失として追及され、政府から死に値する罪に問われることになるからだ。
 しかし、43節 「百人隊長はパウロを助けたいと思い、彼らの計画を制止して」という場面にも、明らかな神による干渉があってのこと。詩篇124篇「『もしも 主が私たちの味方でなかったなら。』さあ イスラエルは言え・・・」に留意を。

※ パウロが抱く信仰、神の実体験が極めて現実的であると覚えつつ、お互いの信仰を吟味したい。

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