聖日礼拝『使徒の働き』より 75


使徒の働き27章1~26節

 昨年末は、26章1節でアグリッパ王から許可を得たパウロの弁明が、28節、王の心に恐れを生じさせ、29節 「この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」と迫った彼の信仰に注目して、2021年の締め括りとした。
 このことばは、24節、総督の目に気違いと映った程の《 パウロの魂への情熱の凄まじさ 》の鍵である。

ⅰ 先ず、「私のようになって」という霊的経験の確かさ。
 9節で「実は私自身も」と告白。《 神への反逆の過去を知って悔い改め、神に受け入れられる、神との和解 》の経験である。
 アグリッパ王は、パウロの※27節 「預言者たちを信じておられますか」のことばに恐れをなし、28節で逃げ腰になった。それというのも、アグリッパ王には秘められた破廉恥な罪悪、25章23節でアグリッパとベルニケは「威儀を正して」パウロとの謁見室にやって来た訳だが、兄と妹とは不義の関係〈近親相姦〉にあったからだ。この事実を知っていたパウロが、これだけの至近距離でアグリッパ王に迫るには、又とない伝道の機会と捕らえたのも当然。

ⅱ 「この鎖は別として」をもって自らの公正を訴えている。
 唯、今自らが不条理の「鎖」を主からの摂理と認めて主に一切を委ねるにしても、律法に対し繋がれる必要はないと明言して、主の聖名の為、然りは然り、否は否とした。

※ パウロと共に、贖いの恵み故に「私のようになってくださること」との思いを確認させて頂いた。


 今朝は、パウロが、カイサリアでの二年間の投獄期間を経て、いよいよ、1節 「私たちが船でイタリアへ行くことが決ま」り、2節 「アジアの沿岸の各地に寄港して行く、アドラミティオの船に乗り込んで出発した」記事に学ぶ。
 まずここに、パウロの同伴者に触れておきたい。
 「私たち」とは、21章18節以降、即ちエルサレムでパウロが捕縛されて以降、姿を消していた著者ルカが再び登場していること。ここには名前がないが、ローマ到着後 幽囚生活を送ることになった時の、手紙の送り手に名を連ねているテモテ、2節 「アリスタルコ」がいる(コロ1・1、4・10)。
 目的地のローマに到着するまでの旅が難航した様子を見るにつけ、彼ら同伴者がいたこと、又、3節 「ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たち【11章19節、ほぼ20数年前のステパノの殉教時に散らされた人々による宣教】のところへ行って、もてなしを受けることを許した」こと等と合わせて、パウロを励ます為に備えられた人々であったに違いない。

 cf.【ローマへの最後の旅】地図
 パウロと同伴者を乗せた船は、3節 「シドン」、4節 「キプロスの島陰を航行し」、5節 「キリキアとパンフィリアの沖を航行して、リキアのミラに入港し」、6節 「ここで・・・アレクサンドリアの船」に乗り換えることに。7節 「船の進みは遅く、やっとのことで、クニドの沖まで来た」が、そこから、「サルモネ沖のクレタの島陰を航行し」、8節 「やっとのことで、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる場所に着いた」。9節 「もはや航海は危険であった」が、ここで存在感を示したパウロに注目したい。
 その注目すべきパウロに、《 生死を分ける極限状態での立ち居振る舞い、信仰者の学ぶべき姿勢 》をである。
 20~21a節 「太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた。・・・そのときパウロは彼らの中に立って言った」このような危機的状況に置かれた時、乗船者総数※37節 「二百七十六人」の中から立ち上がったパウロにである。
 こうした《 重要な役割【実際的問題に関与できる恵み】を果たさせたパウロの信仰 》の鍵は、何と言っても、23~26節 「昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』」という《 密着した神との交わりによって、現実的な激励と指導を得る霊的経験の確かさ 》にある。
 ヘブル4章16節 「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵み【内的いのちが強められる、赦しと清め】をいただいて、折にかなった助け【時宜を得た、その瞬間ごとに丁度私たちの必要とする特別な援助】を受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」の勧めに生きていた。
 内的に強められた時に与えられた時宜を得た助けとは?

① 「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら・・・」に見る機転(21b~22a節)。

 パウロはここで、9~11節 「しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した」ことに言及しているが、恐らくこの時点では危機感を感じたであろうが、事態を冷静に見て彼らを諭す力を得ている。
 この「聞き入れて・・・いたら」とは、責める為ではなく、大失態が神の十全によって法外な恵みに転じたと伝えたかったからだ。もし、取り返しがつかなかった、どう責任を取ってくれるのかと言いたいが為ならば言わない。

② 「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」に見る、《 全幅的信頼を寄せている生ける神を証しする力 》(22~26節)。

※ 詩篇106篇23節 「それで神は『彼らを根絶やしにする』と言われた。もし 神に選ばれた人モーセが・・・激しい憤りを収めていただくために御前の破れに立たなかったなら」に見る、《 神の人の存在 》が今も必要と覚えたい。

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