元旦礼拝


ローマ人への手紙13章11~14節

 今朝は年頭に当たり、11節 「今がどのような時であるか知っています」、ですから、14節 「主イエス・キリストを着なさい」との神の語り掛けに耳を傾けて新年の歩みに備えたい。
 パウロが「今」と言った時、何を意味しての「今」?
 危機的、道徳的意味を持った時を意味する「今」である。
 1章28~32節《 罪の渦巻き 》と称されている内容を直視している「今」、又、3章9~20節で描かれている人類の現実を直視している「今」、従って、その時代に仕える者として「今がどのような時であるか知っている」と言った時、あたかも十字架の前夜、主がゲツセマネの園で「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈らざるを得なくされた《 人類の罪が盛られた杯に怯えて祈られた 》あの重圧感に襲われての「今」なのだ。
 ところがパウロは、彼が生きていた時代にそのような重荷を抱えていたのではあるが、第二テモテ3章1節 「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい」と言って、実は21世紀に生きている私たちが迎えるであろう時を見越して言っていたことに留意したい。
 その特色は、正に終末に見る姿についてであるが、同2~7節 「そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり・・・」とは、実に私たちの「今」現実味を帯びている。

 今、世界は2019年末から、新型コロナ感染症発生から丸二年の経過を見ているが、パンデミックであるとの宣言を受けて以来、その感染力はもとより、コロナ社会にあって問題視されている、コロナ虐待とも言うべき事態に直面している。
 パンデミックについては、以前配布した、ジョン・レノックス著『コロナウイルス禍の世界で、神はどこにいるのか』によると、“ おそらく最も古い記録としては、紀元前165~180年のアントニヌスのペスト ” 、ローマ帝国に甚大な影響を与え崩壊させた天然痘? に始まった【五百万人死亡】。“ さらに14世紀に黒死病(1346~1353年)が流行して ” 、世界人口が20%も減少する【推定七千万~一億人死亡】。“ 歴史的には、その後19世紀と20世紀前半にコレラのパンデミックが数回起こり・・・ ” 、何回となく経験して来ての今。“ しかし、時代は21世紀です。疾病の理解や医学は大きく進歩し、多くの人々が当然のように、パンデミックは過去のものと信じて疑いませんでした。しかし、今になってやっと、パンデミックが過去のものではないとわかりはじめた ” とあった。
 従って生化学者は英知を結集させて〈ワクチン、治療薬〉に取り組んでいるが、その困難を極めているのは《 コロナの変異株によって人類を脅かしている現象 》である。
 しかし、この事実を踏まえながらではあるが、21世紀の私たちが最も厳しく受け止めなければならないことは、何と言っても《 コロナによって引き起こされる虐待、人々との互いの間に発覚している内的腐敗性の事実 》である。
 パウロが「今がどのような時であるか・・・」と言った時、将来を見据えての「終わりの日には困難な時代が来る・・・」に耳を傾け、最も恐れるべき事態を、コロナ禍にある互いの心の内的腐敗性の事実に見る者でありたい。即ち、この事実を踏まえた者としての生活は?

① 「眠りからさめるべき」こと、即ち「今は救いがもっと私たちに近づいている」との自覚をもっての生活(11節)。

 ここで使われている「救い」とは、「もっと私たちに近づいている」というもので、将来的に経験する「救い」のこと。確かに、罪を悔い改めて《 犯した罪の赦し 》によって救いに与る。そればかりでなく、罪を犯させた罪の性質からの《 罪性の清めの経験 》によってその救いをより確かなものとされる。しかしこの救いは、いつでも失う可能性のあるもの。与えられた救いは、第一ヨハネ1章6~9節 「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし・・・」とあるように、救いを受けても、一度の信仰で永久を保証するものではない。救い後、日々神との交わりを保っていく、その時にだけ保たれていく。
 神とのその交わりに日々与り続ける者だけに備えられている「救い」、即ち、究極の救いのことである。
 8章18節 「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」、23節 「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖あがなわれることを待ち望みながら、心の中でうめいています」と。

② 「主イエス・キリストを着なさい【身に着ける】」に従う生活(14節a)。

 この表現は、外から衣を着るようなイメージを持つかも知れないが、8章29節 詳訳 「なぜなら、神は、その予知される者〈彼が前もって知っておられる、愛しておられる者〉が、み子のかたちに形造られ〔内的にのかたちにあずかる〕ことをも、初めから定め〈予定し〉ておられるからです」とあるように、内住のキリストが、私から外に輝き出でて頂くようになること。
 このことは取りも直さず、清めの信仰に立ち続けることによって形造られる。日々のその一つ目的の為に、日夜聖霊は、私たちを扱われる。日々、心の底に沈殿している罪の性質を清める為に引き出しては扱われる。従って、主の聖手が触れられる時、痛みを伴うが感謝すべきなのだ。こうして、13節b 「昼らしい、品位のある生き方に」導かれる。

③ 「欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」に従う生活(14節a’)。

 12節 「闇のわざ【闇の中だから出来るわざ、明るみに晒されたならば到底出来そうにもないわざ】を脱ぎ捨て」、13節 「遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではな」い生き方を選択し続けること。
 ガラテヤ5章16~24節 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」。

※ いよいよ主の再臨を待ち望みつつ、心しつつの歩みを!!

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