使徒の働き26章24~32節
先週は、囚人パウロが、26章1節 「アグリッパ王」の勧めで著名人たちの前で話すことになった弁明に注目した。
9節 「私自身も・・・」と自らを訴えるユダヤ人の反抗が理解出来ない訳ではないと同情しつつ、自らの劇的回心経験と厳粛な選びとを明かし、《 全ての機会を通じて聞く者に救いをとの救霊者パウロの情熱 》に弁明の特色を見た。
ここで Christmas が、17、18節 「この民と異邦人」を「闇から光」に、「聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるため」との目的をもって主が誕生されたとして記念した。
「闇」である「サタンの支配」下に置かれた人類を、今一たび、「光」である「神に立ち返らせ」るためにと!!
神は、初めの人アダムが神との契約に違反して以来、エペソ2章1~5節 「罪の中に死んでいた者」、ローマ6章17、18節 「罪の奴隷」となった私たちをご自身に立ち返らせ、ローマ8章17節 「キリストとともに共同相続人」とする為にと。
この法外な恵みの実現の為、ご降誕くださった主は・・・
ⅰ 「彼らの目を開いて」くださった。
主が、ヨハネ9章39節《 人を罪の自覚に導くこと 》。
ⅱ 「わたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものと」してくださった。
罪を認めながらも頑なならば〈盲目のまま〉であると。
ヨハネ8章3~9節 「律法学者とパリサイ人」がその典型。
※ 実にパウロが19節 「私は天からの幻に背かず」と断固と宣言したのは、この法外な経験【9~15節】に自らが与った故にと覚え、互いのクリスマスの思い巡らしとしたい、と。
今朝は、2節からパウロの弁明が始まり、聞く人々にかなりの衝撃を与えていると見て取ったフェストゥスが中断を図って、パウロに※24節 「おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている」と窘たしなめた時のこと、パウロは微動だにせず、むしろ積極的に※25~27節で総督フェストゥスに対応しながら、聖霊によって扱われ始めていると見たアグリッパ王との接点を求め、29節 「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」と言った彼の信仰に注目して、2021年の締め括りの Message としたい。
ここで確認しておきたい。
パウロの弁明は、25章22節 「アグリッパがフェストゥスに『私も、その男の話を聞いてみたいものです』と言った」ことから叶って実現したもので、聞き手の中心人物はアグリッパ王である。
従ってパウロが※24節 「弁明していると、フェストゥスが大声で」口を挟はさんできた時、彼には一言、※25節 「私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています」と説明しただけで、26、27節 「王様は・・・預言者たちを信じておられますか」と遠慮容赦なく《 王の必要としている内的問題の核心 》に触れようとした。
フェストゥスは、19節 「アグリッパ王よ」と熱弁を振るうパウロに、このまま話をさせることは王に無礼極まりないことだと感じてか? 自分にも及ぶかも知れない警戒心からか?
その理由はどうであれ、総督の目に気違いと映ったのは無理もない、《 パウロの魂への情熱の凄まじさ 》と見るべきでは?
パウロの情熱は、主から※9章15、16節 「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ」と言われた《 主の選び 》として今、その機会を得ているとの厳粛な感動と使命感から出たものではないか!!
パウロのこの情熱の鍵を、パウロが言った※29節 「私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」との宣言に学びたい。
果たして、私の告白でもあるだろうか? と自問自答しつつ。
① 先ず、「私のようになって」という霊的経験に与ること。
9節 「実は私自身も」と告白した《 神への反逆の過去を知って悔い改め、神に受け入れられる、神との和解 》の経験である。
アグリッパ王は、パウロから※27節 「預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」と言われて恐怖に襲われ、28節 詳訳 「おまえは、私をごく短い勧めの言葉で、キリスト者にすることがたやすい仕事である〈わずかなほねおりと説得で私を直ちに誘い込もう〉と考えている」と逃げ腰になった。
それというのも、アグリッパ王には秘められた破廉恥な罪悪があったからだ。パウロは以前〈24章25、26節〉フェリクスの不貞を知って導こうと「正義と節制と来たるべきさばきについて論じた」ことから、「恐ろしくなり、『今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする』」と去った記事同様である。
実は、アグリッパ王においても然り。
25章23節 「アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して」パウロとの謁見室にやって来た訳だが、兄と妹【若くして叔父と結婚したが、夫の死後、次に結婚後も後戻り】の二人は不義の関係【近親相姦】にあったからだ。この事実を知っていたパウロが、これだけの至近距離でアグリッパ王に迫るには、又とない伝道の機会と捉とらえたのも当然。故に、時間が僅かであろうが、なのだ。アグリッパ王は辛うじて、32節 「あの人は・・・釈放してもらえたであろうに」との無罪判決が妥当だとすることで、良心的咎めを治めようとしている。
② 「この鎖は別として」をもって自らの公正を訴えている。
皆がキリスト者になることを願うが、唯、今自らが不条理にも受けることになっている「鎖」に繋がれる必要はないと。24章26、27節により、パウロはフェリクスの個人的な都合で、ローマ行きを二年間カイサリアでの留置で待たされている。キリスト者は全ての道で主を認める信仰によって一切を摂理として受け止め、煩う生活から守られているが、単に人間的都合によって、はかどらない裁判に対して知恵もなく、為されるがままにではなく、絶えず聖霊の導きを求め、機転を与えられながら《 主の聖名の為に、然りは然り、否は否とする姿勢 》に留意したい。
※ 2021年を締め括るに当たり、パウロと共に贖あがないの恵み故に「私のようになってくださること」との思いの確認を!!
先週は、囚人パウロが、26章1節 「アグリッパ王」の勧めで著名人たちの前で話すことになった弁明に注目した。
9節 「私自身も・・・」と自らを訴えるユダヤ人の反抗が理解出来ない訳ではないと同情しつつ、自らの劇的回心経験と厳粛な選びとを明かし、《 全ての機会を通じて聞く者に救いをとの救霊者パウロの情熱 》に弁明の特色を見た。
ここで Christmas が、17、18節 「この民と異邦人」を「闇から光」に、「聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるため」との目的をもって主が誕生されたとして記念した。
「闇」である「サタンの支配」下に置かれた人類を、今一たび、「光」である「神に立ち返らせ」るためにと!!
神は、初めの人アダムが神との契約に違反して以来、エペソ2章1~5節 「罪の中に死んでいた者」、ローマ6章17、18節 「罪の奴隷」となった私たちをご自身に立ち返らせ、ローマ8章17節 「キリストとともに共同相続人」とする為にと。
この法外な恵みの実現の為、ご降誕くださった主は・・・
ⅰ 「彼らの目を開いて」くださった。
主が、ヨハネ9章39節《 人を罪の自覚に導くこと 》。
ⅱ 「わたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものと」してくださった。
罪を認めながらも頑なならば〈盲目のまま〉であると。
ヨハネ8章3~9節 「律法学者とパリサイ人」がその典型。
※ 実にパウロが19節 「私は天からの幻に背かず」と断固と宣言したのは、この法外な経験【9~15節】に自らが与った故にと覚え、互いのクリスマスの思い巡らしとしたい、と。
今朝は、2節からパウロの弁明が始まり、聞く人々にかなりの衝撃を与えていると見て取ったフェストゥスが中断を図って、パウロに※24節 「おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている」と窘たしなめた時のこと、パウロは微動だにせず、むしろ積極的に※25~27節で総督フェストゥスに対応しながら、聖霊によって扱われ始めていると見たアグリッパ王との接点を求め、29節 「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」と言った彼の信仰に注目して、2021年の締め括りの Message としたい。
ここで確認しておきたい。
パウロの弁明は、25章22節 「アグリッパがフェストゥスに『私も、その男の話を聞いてみたいものです』と言った」ことから叶って実現したもので、聞き手の中心人物はアグリッパ王である。
従ってパウロが※24節 「弁明していると、フェストゥスが大声で」口を挟はさんできた時、彼には一言、※25節 「私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています」と説明しただけで、26、27節 「王様は・・・預言者たちを信じておられますか」と遠慮容赦なく《 王の必要としている内的問題の核心 》に触れようとした。
フェストゥスは、19節 「アグリッパ王よ」と熱弁を振るうパウロに、このまま話をさせることは王に無礼極まりないことだと感じてか? 自分にも及ぶかも知れない警戒心からか?
その理由はどうであれ、総督の目に気違いと映ったのは無理もない、《 パウロの魂への情熱の凄まじさ 》と見るべきでは?
パウロの情熱は、主から※9章15、16節 「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ」と言われた《 主の選び 》として今、その機会を得ているとの厳粛な感動と使命感から出たものではないか!!
パウロのこの情熱の鍵を、パウロが言った※29節 「私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」との宣言に学びたい。
果たして、私の告白でもあるだろうか? と自問自答しつつ。
① 先ず、「私のようになって」という霊的経験に与ること。
9節 「実は私自身も」と告白した《 神への反逆の過去を知って悔い改め、神に受け入れられる、神との和解 》の経験である。
アグリッパ王は、パウロから※27節 「預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」と言われて恐怖に襲われ、28節 詳訳 「おまえは、私をごく短い勧めの言葉で、キリスト者にすることがたやすい仕事である〈わずかなほねおりと説得で私を直ちに誘い込もう〉と考えている」と逃げ腰になった。
それというのも、アグリッパ王には秘められた破廉恥な罪悪があったからだ。パウロは以前〈24章25、26節〉フェリクスの不貞を知って導こうと「正義と節制と来たるべきさばきについて論じた」ことから、「恐ろしくなり、『今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする』」と去った記事同様である。
実は、アグリッパ王においても然り。
25章23節 「アグリッパとベルニケは大いに威儀を正して」パウロとの謁見室にやって来た訳だが、兄と妹【若くして叔父と結婚したが、夫の死後、次に結婚後も後戻り】の二人は不義の関係【近親相姦】にあったからだ。この事実を知っていたパウロが、これだけの至近距離でアグリッパ王に迫るには、又とない伝道の機会と捉とらえたのも当然。故に、時間が僅かであろうが、なのだ。アグリッパ王は辛うじて、32節 「あの人は・・・釈放してもらえたであろうに」との無罪判決が妥当だとすることで、良心的咎めを治めようとしている。
② 「この鎖は別として」をもって自らの公正を訴えている。
皆がキリスト者になることを願うが、唯、今自らが不条理にも受けることになっている「鎖」に繋がれる必要はないと。24章26、27節により、パウロはフェリクスの個人的な都合で、ローマ行きを二年間カイサリアでの留置で待たされている。キリスト者は全ての道で主を認める信仰によって一切を摂理として受け止め、煩う生活から守られているが、単に人間的都合によって、はかどらない裁判に対して知恵もなく、為されるがままにではなく、絶えず聖霊の導きを求め、機転を与えられながら《 主の聖名の為に、然りは然り、否は否とする姿勢 》に留意したい。
※ 2021年を締め括るに当たり、パウロと共に贖あがないの恵み故に「私のようになってくださること」との思いの確認を!!
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