聖日礼拝『使徒の働き』より 73


使徒の働き26章1~23節

 先週は、パウロの裁判を終えたフェストゥスが、25章26、27節〈パウロをローマ最高裁判所に送る際の必要書類〉準備の為、アグリッパ王の協力を求めた記事からだったが、フェストゥスが、パウロがユダヤ人から訴えられている争点を、19節b 「死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きている」ことだとした箇所に注目した。

ⅰ それは、主の死がご自身への報いではなかったからだと。
 ローマ4章25節 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」、ガラテヤ3章13節 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と。

ⅱ 唯、《 身代わりの死からの復活 》の為には、ヘブル5章8、9節 「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ・・・永遠の救いの源となり」と、「人の子」として直面された誘惑に勝つ必要があった。
 その闘いは既に、ベツレヘムの家畜小屋で産声を上げられた時、主を託された両親に対する挑戦に始まっていたが、公生涯開始時の荒野での誘惑を皮切りに、当時の宗教家たちからの日々増し加わる憎悪による十字架上の死までも。
 又、主の「死」は《 刻々の死、ご自身の神の子たる権利を捨て続けて完全に仕える者となる 》姿勢と覚えたい。

※ ピリピ2章5~11節 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず・・・」に倣った在り方をもって主に仕えたい、と。


 今朝はクリスマスを記念して、25章22、23節 「私も、その男の話を聞いてみたいものです」と言っていたアグリッパ王が、他の著名な人々と共に入って来た「謁見室」でのこと、そこに連れて来られたパウロが、26章1節 「自分のことを話してよろしい」と言われて話した弁明から Message を。
 パウロの弁明は※2節から23節に及んでいるが、先ず、「私がユダヤ人たちに訴えられているすべてのことについて・・・弁明できることを幸いに思います」と始め、3節 「どうか忍耐をもって、私の申し上げることをお聞きくださるよう、お願いいたします」と礼儀を尽くし、その上で、9節 「実は私自身も」と、自らを訴えているユダヤ人の反抗が理解出来ない訳ではないと同情を寄せながら、自らの劇的回心経験と厳粛な天からの召しについて話すことをもってなされている。

 パウロには《 迫害するユダヤ人たちを非難するなど有り得ず 》、むしろ積極的に、目覚めて神に立ち返るようにと願ってやまず、彼らに対しては熱い思いしかないと伝えている。
 そして私のしていることは、19、20節 「天からの幻に背かず・・・悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました」、22節 「話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません」、23節 「光を宣べ伝えることになると話したのです」と。
 又、29節 「私が神に願っているのは・・・今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」と言っていることから、《 全ての機会を通して聞く者に救いをとの救霊者パウロの情熱 》を見るのみ。
 パウロの※19節 「私は天からの幻に背かず」とは《 顕現された主への生涯掛けての決意 》であるが、主は直接パウロを16節 「奉仕者、また証人に任命」して何を伝えるべきかを明確にされた。実に18節では、《 主がご降誕くださった目的 》が明確にされているが、ここから Christmas Message を。
 それは、彼ら17節【この民と異邦人】を、「闇から光に、サタンの支配から神に・・・聖なるものとされた人々とともに相続にあずかる」ようにしてくださることにある。
 「闇」である「サタンの支配」の下に置かれた人類を、今一たび、「光」である「神に立ち返らせ」るためにと!!
 私たちは、初めの人アダムが神との契約に違反して以来、エペソ2章1~5節 「・・・罪の中に死んでいた者・・・空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。・・・生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は・・・」と。
 別な表現では、ローマ6章17、18節 「罪の奴隷でしたが・・・義の奴隷」にし、第二コリント5章19節 「神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ」、相続にあずかるようにしてくださったと。
 ローマ8章17節 「子どもであるなら、相続人でもあります。・・・神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」という到底考えられない立場に置かれることに。この法外な恵みの実現の為、ご降誕くださった主は・・・

① 「彼らの目を開いて」くださった(18節a)。

 主が※ヨハネ9章39節 詳訳 「私は・・・〈〔私を信ずる者と私を退ける者との間に〕分裂を起こすための分離者として〉この世に来た。盲人が見えるようになり、目明きが盲目になるため」と言われたことで明らか。人を罪の自覚に導くこと。

② 「わたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものと」してくださった(18節b)。

 自らの罪を知らされた時、その悲しむべき罪の事実を認めて悔い改める者を、唯《 主を信じる信仰によって 》罪の赦しに与らせ、その経験に次ぐ内的腐敗性にも気づかせて清めを適用させ、「聖なるものとされた人々※が受け継ぐものに彼らもあずかる」ようにされた。テトス2章14節 「キリストは、私たちをすべての不法から贖あがない出し、・・・きよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです」。
 実に、イエスの名が「罪からお救いになる」だから。
 しかし厳粛なことは、罪を認めさせられながらも頑なに、しらばくれるならば〈盲目のまま〉と言われた。ヨハネ8章に出て来る「律法学者とパリサイ人」がその典型。姦淫の女をどう扱うかを試された主が告げられた「罪のない者が・・・石を投げなさい」の声に恐れ、手にしていた石を足下に落として身を引いた。罪を知りながら、主を残してその場を去る。

※ 実に、パウロが19節 「私は天からの幻に背かず」と宣言したのは、この法外な経験、主の顕現に自らが与った故に【9~15節】と覚え、お互いのクリスマスの思い巡らしとしたい。

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