使徒の働き25章13~27節
先週は、※1節 「フェストゥス」がユダヤ総督フェリクスの後任となり、《 監禁から二年後に再開された裁判でのパウロによる無罪の主張、10、11節 》に、二つのことを学んだ。
ⅰ あくまでも《 パウロの無罪の主張 》は、23章11節 「ローマでも証しを」と言われた主の啓示の成就の為にである。
実際パウロは、20章24節 「自分の命は少しも惜しいとは思」わない、と宣言した。現に完走した時、第二テモテ4章6~8節、殉教死を喜びをもって受け入れ、第一ヨハネ3章16節、イザヤ53章1~9節、その愛の故に当然と!!
ⅱ その為パウロの《 無罪の主張 》が真実であることが必須。
パウロが主張した「無罪」とは、8節であるが、マタイ5章20節 「パリサイ人の義にまさっ」た生き方においてであり、パリサイ人の義は人からの称賛を得る為のものでしかないが、あなたがたは、人の評価の如何にではなく、神から評価される《 動機の純潔 》における義であるようにと。
従ってパウロが、「死に値する何かをしたのなら」と言う「無罪」の主張は、ローマ1章29~31節で羅列されている罪からの無罪を意味する。パウロは、自分に代わって引き受けてくださった主の十字架の死を《 犯した罪の赦しと、罪を犯させる罪の性質の清めの為と 》信じ、信じ続けるが故の「無罪」を確信して生きている。
※ パウロが23章1節、24章16節 「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」と恐れなく言うことが出来たのは、主の十字架によって常に無罪とされているとの信仰故にであると。
今朝は、フェストゥスによる裁判から、13節 「数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た」時、フェストゥスが、14節 「パウロの件を王に持ち出して」協力を求めた記事に注目したい。
その協力とは、ユダヤ人たちに訴えられている囚人パウロを見るに、25~27節 「私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。ところが、彼について、わが君【ネロ皇帝】に書き送るべき確かな事柄が何もありません 。・・・取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです」と〈パウロをローマの最高裁判所に送る際に必要な書類〉の準備の為だった。
フェストゥスは、アグリッパ王がユダヤ人であることから期待したと考えられる。というのも、パウロが訴えられている争点を、19節 「彼ら自身の宗教に関すること」だとして、20節 「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と困惑しているからだ。
この話を聞いたアグリッパ王は、22節 「私も、その男の話を聞いてみたいものです」と好奇心を抱き、26章はそれが叶かなって《 パウロのアグリッパ王の前での弁明 》の記事となる。
今朝は待降節に寄せて、フェストゥスが、19節 「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです」から Message を。
詳訳では、「死んでいるのに、それをパウロが、生きていると〔くり返しくり返し〕主張してやまないイエスという人物に関するものでした」とある。
フェストゥスは、パウロの弁明の要点をついてはいても、20節 「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と、福音の要となる部分に触れていながら、彼の反応を見ると、26章24節 「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている・・・」。
22節 「聞いてみたい」と反応したアグリッパ王はその後、26章28節で恐怖心を抱く。福音に対する生来の反応は、無理解、無関心、無反応、真っ向からの拒絶、恐怖心であるが、今日に至っている。
① 主の死が、ご自身への報いではなかったからである。
パウロは唯、ローマ4章25節 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」と言っている。
それは取りも直さず、ローマ6章23節 「罪の報酬は死です」とあるからだ。
使徒2章23、24節 「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです」と。
ガラテヤ3章13節 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖あがない出してくださいました」。
② しかし主は《 死からの復活 》の為には、へブル5章8、9節 「キリストは御子であられるのに・・・苦しみによって従順を学び、完全な者とされ・・・永遠の救いの源となり」と、「人の子」として受けられた誘惑に勝つ必要があった。
その闘いは、ベツレヘムの家畜小屋で産声を上げる前から、既に主を託された両親に対する挑戦に始まっていた。誕生されるやヘロデ大王【息子ガリラヤの領主ヘロデがバプテスマのヨハネを殺害/孫ヘロデ・アグリッパ1世の使徒ヤコブ殺害/主も又同様だったが、パウロの前に立つ曾孫アグリッパ2世、ヘロデ一族による教会への迫害】による幼児虐殺、エジプトへの逃亡時の出来事などがある。
しかし主ご自身が味わわれた公生涯開始時の荒野での誘惑を皮切りに、当時の宗教家たちから受ける十字架に向かって増し加わる日々の憎悪、そのクライマックスである処刑と、「完了した」までの誘惑である。
その最たる誘惑は、主が「わが神、わが神・・・」と叫ばざるを得なくされ《 聖父に捨てられたと知って苦悩され愛を疑うよう誘われた瞬間 》である。
主の「死」は《 刻々の死、ご自身の神の子たる権利を捨て続けて完全に仕える者となる 》姿勢と覚えたい。
※ ピリピ2章5~11節 「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず・・・」に倣った在り方をもって主に仕えたい。
先週は、※1節 「フェストゥス」がユダヤ総督フェリクスの後任となり、《 監禁から二年後に再開された裁判でのパウロによる無罪の主張、10、11節 》に、二つのことを学んだ。
ⅰ あくまでも《 パウロの無罪の主張 》は、23章11節 「ローマでも証しを」と言われた主の啓示の成就の為にである。
実際パウロは、20章24節 「自分の命は少しも惜しいとは思」わない、と宣言した。現に完走した時、第二テモテ4章6~8節、殉教死を喜びをもって受け入れ、第一ヨハネ3章16節、イザヤ53章1~9節、その愛の故に当然と!!
ⅱ その為パウロの《 無罪の主張 》が真実であることが必須。
パウロが主張した「無罪」とは、8節であるが、マタイ5章20節 「パリサイ人の義にまさっ」た生き方においてであり、パリサイ人の義は人からの称賛を得る為のものでしかないが、あなたがたは、人の評価の如何にではなく、神から評価される《 動機の純潔 》における義であるようにと。
従ってパウロが、「死に値する何かをしたのなら」と言う「無罪」の主張は、ローマ1章29~31節で羅列されている罪からの無罪を意味する。パウロは、自分に代わって引き受けてくださった主の十字架の死を《 犯した罪の赦しと、罪を犯させる罪の性質の清めの為と 》信じ、信じ続けるが故の「無罪」を確信して生きている。
※ パウロが23章1節、24章16節 「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」と恐れなく言うことが出来たのは、主の十字架によって常に無罪とされているとの信仰故にであると。
今朝は、フェストゥスによる裁判から、13節 「数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た」時、フェストゥスが、14節 「パウロの件を王に持ち出して」協力を求めた記事に注目したい。
その協力とは、ユダヤ人たちに訴えられている囚人パウロを見るに、25~27節 「私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。ところが、彼について、わが君【ネロ皇帝】に書き送るべき確かな事柄が何もありません 。・・・取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです」と〈パウロをローマの最高裁判所に送る際に必要な書類〉の準備の為だった。
フェストゥスは、アグリッパ王がユダヤ人であることから期待したと考えられる。というのも、パウロが訴えられている争点を、19節 「彼ら自身の宗教に関すること」だとして、20節 「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と困惑しているからだ。
この話を聞いたアグリッパ王は、22節 「私も、その男の話を聞いてみたいものです」と好奇心を抱き、26章はそれが叶かなって《 パウロのアグリッパ王の前での弁明 》の記事となる。
今朝は待降節に寄せて、フェストゥスが、19節 「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです」から Message を。
詳訳では、「死んでいるのに、それをパウロが、生きていると〔くり返しくり返し〕主張してやまないイエスという人物に関するものでした」とある。
フェストゥスは、パウロの弁明の要点をついてはいても、20節 「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかない」と、福音の要となる部分に触れていながら、彼の反応を見ると、26章24節 「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている・・・」。
22節 「聞いてみたい」と反応したアグリッパ王はその後、26章28節で恐怖心を抱く。福音に対する生来の反応は、無理解、無関心、無反応、真っ向からの拒絶、恐怖心であるが、今日に至っている。
① 主の死が、ご自身への報いではなかったからである。
パウロは唯、ローマ4章25節 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」と言っている。
それは取りも直さず、ローマ6章23節 「罪の報酬は死です」とあるからだ。
使徒2章23、24節 「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです」と。
ガラテヤ3章13節 「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖あがない出してくださいました」。
② しかし主は《 死からの復活 》の為には、へブル5章8、9節 「キリストは御子であられるのに・・・苦しみによって従順を学び、完全な者とされ・・・永遠の救いの源となり」と、「人の子」として受けられた誘惑に勝つ必要があった。
その闘いは、ベツレヘムの家畜小屋で産声を上げる前から、既に主を託された両親に対する挑戦に始まっていた。誕生されるやヘロデ大王【息子ガリラヤの領主ヘロデがバプテスマのヨハネを殺害/孫ヘロデ・アグリッパ1世の使徒ヤコブ殺害/主も又同様だったが、パウロの前に立つ曾孫アグリッパ2世、ヘロデ一族による教会への迫害】による幼児虐殺、エジプトへの逃亡時の出来事などがある。
しかし主ご自身が味わわれた公生涯開始時の荒野での誘惑を皮切りに、当時の宗教家たちから受ける十字架に向かって増し加わる日々の憎悪、そのクライマックスである処刑と、「完了した」までの誘惑である。
その最たる誘惑は、主が「わが神、わが神・・・」と叫ばざるを得なくされ《 聖父に捨てられたと知って苦悩され愛を疑うよう誘われた瞬間 》である。
主の「死」は《 刻々の死、ご自身の神の子たる権利を捨て続けて完全に仕える者となる 》姿勢と覚えたい。
※ ピリピ2章5~11節 「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず・・・」に倣った在り方をもって主に仕えたい。
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