使徒の働き25章1~13節
先週は、総督フェリクスがパウロに弁明の機会を許した後、24章22節で裁判を延期し、カイサリアに二年間拘置しておくことにしたパウロと個人的面談を求めた記事に注目した。
フェリクスがパウロを呼び出して聞こうとした話に、25節 「しかし」と対応したパウロが、「正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、『今は・・・』」と出たところに注目し、彼に、ヨハネ3章16~21節《 光よりも闇を愛する人 》を見て二つのことを考えた。
ⅰ 彼に恐れをもたらしたのは罪の事実、その罪とは?
フェリクスは、シリア王アジザスの妻だったドルシラを奪い、彼女も夫を捨てて彼と結婚した破廉恥な罪。
又、フェリクスが裁判を延期した理由【22節はキリスト者に好感を抱いていたことを意味するが、パウロに罪を認めなかった故に、無罪の判決を、としたかったが、最高法院の反応を恐れたこと】に見る無責任さ。フェリクスは最も無難な方法、22節d 「延期」で難を逃れた。27節b’ 「ユダヤ人たちの機嫌を取ろう」に見る後任に任せる卑怯さ。
26節 「パウロから金をもらいたい下心」に見る《 パウロにお金で釈放を求められることを期待する 》貪欲さ。
ⅱ フェリクスには「折を見て」は最早なかったことは厳粛。
聖霊による認罪が与えられながら、その自覚を放置し、「折【詳訳:私の都合の良い時にあなたを呼びにやる】」という機会を後回しにすることは、永遠の悔いであるとの自戒を。
この良い時とは、第二コリント6章1、2節 「今は」である。
※ 世界も、クリスマスの事実を受けて光に従う節季をと!!
今朝は、ユダヤ総督フェリクスの後任者※1節 「フェストゥス」が着任するのを待って再開された《 パウロの裁判 》に注目したい。それは、初めての裁判から監禁二年後のことだった。
フェストゥスは、カイサリア【ローマの政治機関の所在地】に到着するや、先ず、エルサレムに上り、《 ユダヤ人の宗教的な首都 》視察を兼ねての訪問である。
総督を迎えた最高法院は、忘れもしない※2節 「パウロのことを告訴」して、再度、エルサレムでの裁判を求めた【その魂胆は、3節c 「待ち伏せして、途中でパウロを殺そうとしていた」ことにある】が、4、5節 「しかし・・・」と彼らのその要求は応えられず、彼ら自身がカイサリアに来て「訴えればよい」とだけ言われ、総督は※6節 「カイサリアに下り、翌日、裁判の席に着」き、パウロの裁判が始まることに。
初めて臨んだ裁判の時に同様、7節 「エルサレムから下って来たユダヤ人たちは彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てた」が、「それを立証することはできなかった」とある。
ここで、8~11節が《 パウロの弁明 》になるが、パウロが明言している唯一つのこと、それは無罪の主張《 8節 「何の罪も犯してはいません」、10節 「何も悪いことをしていません」、11節 「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません」 》だった点に注目を。
パウロのこの確固たる無罪の主張に何を学ぶべき?
① あくまでも《 パウロの無罪の主張 》は、主の※23章11節 「エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しを」と言われた啓示の成就の為に他ならない。事実、25章12節 「カエサルのもとに行くことになる」と。
パウロは確信をもって、11節 「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません」と言い放った。
実際、パウロは、20章24節 「私が・・・走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」と言い切る器なのだ。
現に、第二テモテ4章6~8節で、走り通したと分かった時、殉教死を逃れるどころか、喜びをもって受け入れている。
何故? 第一ヨハネ3章16節 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから・・・」と、イザヤ53章1~9節を知ったからには、その愛に生きるのは当然と!!
主は無傷の子羊として誕生し、無傷のまま私の受けるべき死を肩代わりして十字架に臨まれ、ご自身が無傷の神の子の証として復活された。
② その為パウロの《 無罪の主張 》が真実であることが必須。
パウロがここ法廷で主張した「無罪」とは、8節 「ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルに対しても、何の罪も犯してはいません」を意味している。
しかしパウロがこのように言う時、主が、マタイ5章20節 「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われた意味での「パリサイ人の義にまさっ」た在り方、生き方においてであると覚えたい。
主の言われる「パリサイ人の義にまさっていなければ」とは? パリサイ人の義は表面的で、その動機において、いつも人からの称賛を得ようとする形での善を意識したものに過ぎない。しかしあなたがたは、人の評価の如何にではなく、神が評価される《 動機の純潔 》における義であるようにと。
従ってパウロが、「死に値する何かをしたのなら」と言う「無罪」の主張は、ローマ1章32節 「彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら」と言われている罪、同29~31節で羅列している罪を犯していないとの告白を意味する。
パウロは過去、このような「死に値する」者でしかなかった自らを知って絶望したが、この死を代わって引き受けてくださった主の十字架の死を、《 犯した罪の赦しと、それらの罪を犯させる罪の性質の清めの為と 》信じ、信じ続ける限りにおける「無罪」を確信して生きている。
※ パウロがいつも、23章1節、24章16節 「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」と恐れなく言えているのは、主の十字架によって常に無罪とされているとの信仰故と覚えたい。
先週は、総督フェリクスがパウロに弁明の機会を許した後、24章22節で裁判を延期し、カイサリアに二年間拘置しておくことにしたパウロと個人的面談を求めた記事に注目した。
フェリクスがパウロを呼び出して聞こうとした話に、25節 「しかし」と対応したパウロが、「正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、『今は・・・』」と出たところに注目し、彼に、ヨハネ3章16~21節《 光よりも闇を愛する人 》を見て二つのことを考えた。
ⅰ 彼に恐れをもたらしたのは罪の事実、その罪とは?
フェリクスは、シリア王アジザスの妻だったドルシラを奪い、彼女も夫を捨てて彼と結婚した破廉恥な罪。
又、フェリクスが裁判を延期した理由【22節はキリスト者に好感を抱いていたことを意味するが、パウロに罪を認めなかった故に、無罪の判決を、としたかったが、最高法院の反応を恐れたこと】に見る無責任さ。フェリクスは最も無難な方法、22節d 「延期」で難を逃れた。27節b’ 「ユダヤ人たちの機嫌を取ろう」に見る後任に任せる卑怯さ。
26節 「パウロから金をもらいたい下心」に見る《 パウロにお金で釈放を求められることを期待する 》貪欲さ。
ⅱ フェリクスには「折を見て」は最早なかったことは厳粛。
聖霊による認罪が与えられながら、その自覚を放置し、「折【詳訳:私の都合の良い時にあなたを呼びにやる】」という機会を後回しにすることは、永遠の悔いであるとの自戒を。
この良い時とは、第二コリント6章1、2節 「今は」である。
※ 世界も、クリスマスの事実を受けて光に従う節季をと!!
今朝は、ユダヤ総督フェリクスの後任者※1節 「フェストゥス」が着任するのを待って再開された《 パウロの裁判 》に注目したい。それは、初めての裁判から監禁二年後のことだった。
フェストゥスは、カイサリア【ローマの政治機関の所在地】に到着するや、先ず、エルサレムに上り、《 ユダヤ人の宗教的な首都 》視察を兼ねての訪問である。
総督を迎えた最高法院は、忘れもしない※2節 「パウロのことを告訴」して、再度、エルサレムでの裁判を求めた【その魂胆は、3節c 「待ち伏せして、途中でパウロを殺そうとしていた」ことにある】が、4、5節 「しかし・・・」と彼らのその要求は応えられず、彼ら自身がカイサリアに来て「訴えればよい」とだけ言われ、総督は※6節 「カイサリアに下り、翌日、裁判の席に着」き、パウロの裁判が始まることに。
初めて臨んだ裁判の時に同様、7節 「エルサレムから下って来たユダヤ人たちは彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てた」が、「それを立証することはできなかった」とある。
ここで、8~11節が《 パウロの弁明 》になるが、パウロが明言している唯一つのこと、それは無罪の主張《 8節 「何の罪も犯してはいません」、10節 「何も悪いことをしていません」、11節 「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません」 》だった点に注目を。
パウロのこの確固たる無罪の主張に何を学ぶべき?
① あくまでも《 パウロの無罪の主張 》は、主の※23章11節 「エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しを」と言われた啓示の成就の為に他ならない。事実、25章12節 「カエサルのもとに行くことになる」と。
パウロは確信をもって、11節 「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません」と言い放った。
実際、パウロは、20章24節 「私が・・・走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」と言い切る器なのだ。
現に、第二テモテ4章6~8節で、走り通したと分かった時、殉教死を逃れるどころか、喜びをもって受け入れている。
何故? 第一ヨハネ3章16節 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから・・・」と、イザヤ53章1~9節を知ったからには、その愛に生きるのは当然と!!
主は無傷の子羊として誕生し、無傷のまま私の受けるべき死を肩代わりして十字架に臨まれ、ご自身が無傷の神の子の証として復活された。
② その為パウロの《 無罪の主張 》が真実であることが必須。
パウロがここ法廷で主張した「無罪」とは、8節 「ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルに対しても、何の罪も犯してはいません」を意味している。
しかしパウロがこのように言う時、主が、マタイ5章20節 「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」と言われた意味での「パリサイ人の義にまさっ」た在り方、生き方においてであると覚えたい。
主の言われる「パリサイ人の義にまさっていなければ」とは? パリサイ人の義は表面的で、その動機において、いつも人からの称賛を得ようとする形での善を意識したものに過ぎない。しかしあなたがたは、人の評価の如何にではなく、神が評価される《 動機の純潔 》における義であるようにと。
従ってパウロが、「死に値する何かをしたのなら」と言う「無罪」の主張は、ローマ1章32節 「彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら」と言われている罪、同29~31節で羅列している罪を犯していないとの告白を意味する。
パウロは過去、このような「死に値する」者でしかなかった自らを知って絶望したが、この死を代わって引き受けてくださった主の十字架の死を、《 犯した罪の赦しと、それらの罪を犯させる罪の性質の清めの為と 》信じ、信じ続ける限りにおける「無罪」を確信して生きている。
※ パウロがいつも、23章1節、24章16節 「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」と恐れなく言えているのは、主の十字架によって常に無罪とされているとの信仰故と覚えたい。
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