使徒の働き24章1~21節
先週は、パウロがエルサレム最高議会騒動から救出され、その夜に受けた※11節《 顕現された主のおことば 》に学んだ。
ⅰ 主の顕現は一度ならず、最も必要と思われる、《 パウロの意気消沈している時 》に与えられていること。
第二次伝道時コリントでのこと【18章9、10節】、ローマ行きの船が難破しかけた時【27章23~26節】など。
ⅱ 主のこの顕現は《 ご自身の御心を信仰で受け止めて従う者への報いとして与えられる保証 》である。
パウロの《 ローマ行きは 》単なる個人的な思い付きや願望、救霊の情熱・重荷によってではなく、宣教の主から出たビジョンであったことを想起しなければならない。主の為にと願って行われる働きの全ては《 神の御心に適っているか否か 》が大前提であり、その限りにおいてのみ、行き詰りのその都度、主は顕現をもって今を保証される。従って、主の為にと動き回ってはいても、動機において独善的熱心さによる働きである時にはその限りではない。
ⅲ パウロに《 証人としてローマに立つ日の 》保証を与えた主の顕現は〈そのビジョン実現の前に立ちはだかって阻止しようとする勢力を〉退却させる主の権威の証である。
ローマ行きのビジョンに対するここ迄の動きが然りであり、たった今も、23章10節で救出され、更には、12~15節《 パウロ殺害計画の陰謀 》からも、遂には、23節 「カイサリアに向けて」《 厳重な警備の下での護送 》をもって※35節 「保護」され、着々とローマ行きに備えられることに。
※ イザヤ14章24、27節、46章10節《 主への礼拝のみ 》と。
今朝は、主の顕現によってローマ行きへの勇気を得たパウロが、《 遂にその第一歩を踏み出し、護送されて 》到着したカイサリアで裁判に臨むことになった記事に注目する。
cf.【ローマへの最後の旅】パウロのカイサリア行きは、ローマ行きを待ち望んでいたパウロが、22章25節 「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むちで打ってよいのですか」と、自らローマ市民権を持っていることをもって、千人隊長に《 ユダヤ最高議会からローマ法廷における正式な裁判を促した 》ことによる。福音宣教の為であったこの権利の主張は実現し、ローマ総督によって公式の裁判に臨むことになった。
23章33~35節 「騎兵たちはカイサリアに到着すると、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた。総督は手紙を読んでから、パウロにどの州の者かと尋ね・・・」と、パウロは簡単な尋問を受けてから、「ヘロデの建てた官邸【宮殿で、後に、ローマ人のユダヤ総督官邸になった】に彼を保護しておくよう」命じられ、法廷を待つことになった。
遂に、24章1節 「五日後、大祭司アナニア」が弁護士を伴って用意周到で乗り込んで開かれることになった法廷であるが、その告訴が終わった、10節 「そのとき、総督がパウロに話すよう合図したので、パウロは次のように答えた。『閣下が長年、この民の裁判をつかさどってこられたことを存じておりますので、喜んで私自身のことを弁明いたします・・・』」と《 聖霊に勇気づけられて答弁するパウロ 》に注目したい。
パウロと弁護士テルティロとは共に総督の前に出ているが、法廷に臨むその動機に極めて対照的な違いがある。勿論、弁明する立場と告訴する立場における相違は論外とした上での相違であるが、両者の在り方における相違、その動機における相違であり、目的を果たす上での《 動機の純粋性如何の問題 》における対照的な違いのことである。
① テルティロを見るに、パウロの抹殺を求めて告訴するのに使った手立てに顕著。総督フェリクスがどのような人物であるかを知りながら、自らの願欲を満たす為に総督を誉めそやし、好意を勝ち取ろうとする動機。
果たして総督フェリクスは、テルティロの述べた※2、3節 「閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を享受し・・・また、閣下のご配慮により、この国に改革が進行しております・・・」と言われるに値する人物なのか? 実は、歴史的に見ると、この訴えとは全く逆の人物なのだ。
21章38節では、あるエジプト人が暴動を起こして、「四千人の暗殺者を荒野に連れて行った」とあるが、その彼が(ローマからの解放を求めて)、ユダヤ人の不平分子たちから従者を募って混乱を招いたことから、フェリクスが弾圧的にユダヤ社会の治安を図ろうとして、反ローマ主義の過激分子を徹底的に殺害するなどした為、ユダヤ人の代表者たちからネロ皇帝に訴えられることになり、27節 「フェストゥスが」後任となったのである。
実際、平和どころか治安が悪化し、ローマ帝国とユダヤ人との関係は悪化しているにも拘らず、総督の思惑に叶うよう、テルティロは《 パウロの三つの罪状 》を突き付け、平和を乱す人物としてパウロの死罪判決を求めて告訴!!
a. 5節a 「この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こし」、反ローマ主義者で、
b. 5節b’ 「ナザレ人の一派の首謀者」として宗教団体を装い、世界帝国ローマを牛耳る魂胆を持っている革命家、
c. 6節 「この男は宮さえも汚そうとしました」と、ユダヤ人の反感を買うよう仕向け、主への十字架に付けろ同様に、
というものであったが、ここにあるのは必死さのみ!!
② パウロも「閣下が長年、この民の裁判をつかさどって・・・」と讃辞を送っているが、自らの個人的救いを求める為のものではなく、ユダヤ人事情に明るい人物との事実【22節a】を認め、正しい裁きを行うであろうことへの感謝が動機。
従って答弁は、「喜んで私自身のことを弁明いたします」と極めて明るい。何故? テルティロが是が非でもと躍起になって獲得した機会であったのとは違い、パウロには、何が何でもではなく、委ねて与えられた機会であったから。パウロが先の三つの罪状に従っての弁明は淡々としたもので、13節 「・・・証明できないはず」、19~21節 「私に対して何か非難したいことがあるなら・・・訴えるべきだったのです。私は・・・と叫んだにすぎません」と。
※ 主の顕現【23章11節】こそその力、ピリピ1章28節。
先週は、パウロがエルサレム最高議会騒動から救出され、その夜に受けた※11節《 顕現された主のおことば 》に学んだ。
ⅰ 主の顕現は一度ならず、最も必要と思われる、《 パウロの意気消沈している時 》に与えられていること。
第二次伝道時コリントでのこと【18章9、10節】、ローマ行きの船が難破しかけた時【27章23~26節】など。
ⅱ 主のこの顕現は《 ご自身の御心を信仰で受け止めて従う者への報いとして与えられる保証 》である。
パウロの《 ローマ行きは 》単なる個人的な思い付きや願望、救霊の情熱・重荷によってではなく、宣教の主から出たビジョンであったことを想起しなければならない。主の為にと願って行われる働きの全ては《 神の御心に適っているか否か 》が大前提であり、その限りにおいてのみ、行き詰りのその都度、主は顕現をもって今を保証される。従って、主の為にと動き回ってはいても、動機において独善的熱心さによる働きである時にはその限りではない。
ⅲ パウロに《 証人としてローマに立つ日の 》保証を与えた主の顕現は〈そのビジョン実現の前に立ちはだかって阻止しようとする勢力を〉退却させる主の権威の証である。
ローマ行きのビジョンに対するここ迄の動きが然りであり、たった今も、23章10節で救出され、更には、12~15節《 パウロ殺害計画の陰謀 》からも、遂には、23節 「カイサリアに向けて」《 厳重な警備の下での護送 》をもって※35節 「保護」され、着々とローマ行きに備えられることに。
※ イザヤ14章24、27節、46章10節《 主への礼拝のみ 》と。
今朝は、主の顕現によってローマ行きへの勇気を得たパウロが、《 遂にその第一歩を踏み出し、護送されて 》到着したカイサリアで裁判に臨むことになった記事に注目する。
cf.【ローマへの最後の旅】パウロのカイサリア行きは、ローマ行きを待ち望んでいたパウロが、22章25節 「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むちで打ってよいのですか」と、自らローマ市民権を持っていることをもって、千人隊長に《 ユダヤ最高議会からローマ法廷における正式な裁判を促した 》ことによる。福音宣教の為であったこの権利の主張は実現し、ローマ総督によって公式の裁判に臨むことになった。
23章33~35節 「騎兵たちはカイサリアに到着すると、総督に手紙を手渡して、パウロを引き合わせた。総督は手紙を読んでから、パウロにどの州の者かと尋ね・・・」と、パウロは簡単な尋問を受けてから、「ヘロデの建てた官邸【宮殿で、後に、ローマ人のユダヤ総督官邸になった】に彼を保護しておくよう」命じられ、法廷を待つことになった。
遂に、24章1節 「五日後、大祭司アナニア」が弁護士を伴って用意周到で乗り込んで開かれることになった法廷であるが、その告訴が終わった、10節 「そのとき、総督がパウロに話すよう合図したので、パウロは次のように答えた。『閣下が長年、この民の裁判をつかさどってこられたことを存じておりますので、喜んで私自身のことを弁明いたします・・・』」と《 聖霊に勇気づけられて答弁するパウロ 》に注目したい。
パウロと弁護士テルティロとは共に総督の前に出ているが、法廷に臨むその動機に極めて対照的な違いがある。勿論、弁明する立場と告訴する立場における相違は論外とした上での相違であるが、両者の在り方における相違、その動機における相違であり、目的を果たす上での《 動機の純粋性如何の問題 》における対照的な違いのことである。
① テルティロを見るに、パウロの抹殺を求めて告訴するのに使った手立てに顕著。総督フェリクスがどのような人物であるかを知りながら、自らの願欲を満たす為に総督を誉めそやし、好意を勝ち取ろうとする動機。
果たして総督フェリクスは、テルティロの述べた※2、3節 「閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を享受し・・・また、閣下のご配慮により、この国に改革が進行しております・・・」と言われるに値する人物なのか? 実は、歴史的に見ると、この訴えとは全く逆の人物なのだ。
21章38節では、あるエジプト人が暴動を起こして、「四千人の暗殺者を荒野に連れて行った」とあるが、その彼が(ローマからの解放を求めて)、ユダヤ人の不平分子たちから従者を募って混乱を招いたことから、フェリクスが弾圧的にユダヤ社会の治安を図ろうとして、反ローマ主義の過激分子を徹底的に殺害するなどした為、ユダヤ人の代表者たちからネロ皇帝に訴えられることになり、27節 「フェストゥスが」後任となったのである。
実際、平和どころか治安が悪化し、ローマ帝国とユダヤ人との関係は悪化しているにも拘らず、総督の思惑に叶うよう、テルティロは《 パウロの三つの罪状 》を突き付け、平和を乱す人物としてパウロの死罪判決を求めて告訴!!
a. 5節a 「この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こし」、反ローマ主義者で、
b. 5節b’ 「ナザレ人の一派の首謀者」として宗教団体を装い、世界帝国ローマを牛耳る魂胆を持っている革命家、
c. 6節 「この男は宮さえも汚そうとしました」と、ユダヤ人の反感を買うよう仕向け、主への十字架に付けろ同様に、
というものであったが、ここにあるのは必死さのみ!!
② パウロも「閣下が長年、この民の裁判をつかさどって・・・」と讃辞を送っているが、自らの個人的救いを求める為のものではなく、ユダヤ人事情に明るい人物との事実【22節a】を認め、正しい裁きを行うであろうことへの感謝が動機。
従って答弁は、「喜んで私自身のことを弁明いたします」と極めて明るい。何故? テルティロが是が非でもと躍起になって獲得した機会であったのとは違い、パウロには、何が何でもではなく、委ねて与えられた機会であったから。パウロが先の三つの罪状に従っての弁明は淡々としたもので、13節 「・・・証明できないはず」、19~21節 「私に対して何か非難したいことがあるなら・・・訴えるべきだったのです。私は・・・と叫んだにすぎません」と。
※ 主の顕現【23章11節】こそその力、ピリピ1章28節。
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