使徒の働き23章1~11節
先週は、パウロの弁明に【22、23節】殺意を露わにした群衆の前の《 パウロの立ち居振る舞い 》に注目した。
その殺気に満ちた気配を察知した千人隊長が、パウロが何をしたからなのか知る為に拷問を命じた時、パウロが「ローマ市民である」と主張した姿勢にであるが、それは《 ひとえに神の御心がなされる為に 》であったと学んだ。
ⅰ パウロのローマ行きの実現に備えさせたこと。
自白用の「むち」とは、死刑用ではないが拷問用の道具。従って死に至らせないまでも【可能性は有る】、一生その傷を負うのが常。金属や骨の破片で重しを付けられた皮の鞭で一振り毎に肉体に食い込み、肉片を引きちぎるもの。
パウロが捕縛覚悟で臨んだエルサレム入りは、ローマでの証しの為であり、傷害を受ける訳にはいかなかったからだ。パウロのその機転によって最高法院会議に臨むことに。
ⅱ 25節b 詳訳 「ローマの市民である者を、裁判もしないで〈有罪の宣告もないのに〉、むち打つということは法にかなった事か」と、法に則っての裁きを促し、千人隊長と百人隊長を救った。
29節 「・・・知って恐れた」とは、相応の罰があるからだ。
ローマ13章1節 「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられている・・・」、4節 「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべ」、権威を委ねられている高位高官が「神のしもべ」であるべきとして、パウロは責任を感じ、彼らを正して救った。
※ 何事も自分の利益ではなく、神の御心を求めてする行動は、隣人をして霊的祝福に与らせる機会とすると覚えたいと。
今朝は、パウロが何故、ユダヤ人から激しく訴えられているのか? その理由を知ろうとして、千人隊長が急きょ招集した特別最高法院議会でのこと、1節 詳訳 「そこで、パウロは、議会〔サンヘドリン〕をじっと見つめて言った、『兄弟たちよ、私はきょうのこの日まで〈市民として、また真の忠実なユダヤ人として〉完全に善い良心を持って私の義務を行ない、神のみ前で生活してきました』」と出た《 パウロの宣言 》に注目したい。
パウロのこの第一声は、直ちに※2節 「すると、大祭司アナニアは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じ」という《 憎悪に満ちた反感 》を招いた。
それは言うまでもなく、パウロの言葉が大祭司の心を刺したからだが、パウロの※3節 「そこで・・・」と更に罪を見過すまいと迫る言葉は見逃せない。パウロの「神があなたを打たれる」との言葉は、4節 「そばに立っていた者たち」の「あなたは神の大祭司をののしるのか」を見ると、聞く者たちの度肝を抜く激しいものではあったが、事実預言的なことばであり、数年後、暗殺団シカリの手によって殺害された歴史があると言われている。
パウロが続ける※5節 「私は彼が大祭司だとは知らなかった」については、“ まさかこのような命令を発する人物が大祭司だとは思わなかった ” と痛烈な皮肉を込めて話していると解釈される。6節以下の会議場でのやり取りには、かなりの機転を要している有様が窺えるが、11節 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい・・・』」と言われる主の特別な顕現に与っているパウロを思う時、どれ程の緊張感に襲われての時間であったかが推測できるのでは?
さて注目すべき※1節 「私は今日まで」とは? 記憶を辿ることが出来る過去から今日までの意? キリスト者となってからの今日までの意? 《 彼の全生涯の宣言 》として考えたい。
① キリスト者となる以前のユダヤ教徒として「健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」との宣言。
パウロは、22章3節 「私は・・・先祖の律法について厳しく教育を受け・・・神に対して熱心な者でした」と言っている。
26章9~11節 「詳訳 9 私自身は確かに〔かつては〕、ナザレのイエスの名に反対して〈逆らって〉、多くの事をすることを私の義務と思い込んでいました」と、良心的咎めは無い。
それは、第一テモテ1章13節 詳訳 「・・・信仰のなかった時に無知のために行なった」、ピリピ3章6節 「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした」と言い切れたのだから。
何故なら彼は、律法を守ること【克己、熱心、厳格な生活態度、人との比較における優越した正しい生活】によって神の聖前に義と認められるという信仰で生きていたからだ。
十字架の主を信じることによって義とされる信仰を唱えるキリスト教徒を異端者とし、神への冒涜者と見なすパウロは、ステパノを死に至らせたとしても良心に咎められることはなかった。
しかし、この「良心にしたがって、神の前に生きてきました」というのが、パウロが未だユダヤ教徒としての告白であるならば、大祭司の関与するところでもなく、ましてや激怒することにはならなかったであろう。
② パウロは最早ユダヤ教徒ではなく、回心している身の今現在、キリスト教徒として「健全な良心にしたがって生きてきました」と宣言した。
彼の回心は、ステパノの殉教を目撃した時、パウロの信仰生活に激震が走り、ダマスコ途上の復活の主の顕現によって画期的出来事となった。
確かにパウロは、律法において非の打ち所のない生き方をして来たとは言え、キリストに似せられたステパノの最期の死を目撃し、これまで見たことのない天からの使いの如く輝いた品格に、信仰の究極を見た。
回心してからというもの、ピリピ3章2~11節で伝えている信仰、特に9節 「私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つ」キリスト者の特権に生きることこそ、へブル9章14節 「・・・その血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」と。
パウロの律法の理解が変わった。律法の使命は、守ることで神の前に義とさせるのではなく、私たちに罪を知らせ、十字架の主に近づかせるものであると。ガラテヤ3章24節。
※ パウロの1節の宣言は、大祭司に回心の必要性を訴えることとなり、ローマ3章20~24節 「・・・律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や・・・神の義が示されました」へ導いたのだ。彼の魂への情熱にあやかりたい。
先週は、パウロの弁明に【22、23節】殺意を露わにした群衆の前の《 パウロの立ち居振る舞い 》に注目した。
その殺気に満ちた気配を察知した千人隊長が、パウロが何をしたからなのか知る為に拷問を命じた時、パウロが「ローマ市民である」と主張した姿勢にであるが、それは《 ひとえに神の御心がなされる為に 》であったと学んだ。
ⅰ パウロのローマ行きの実現に備えさせたこと。
自白用の「むち」とは、死刑用ではないが拷問用の道具。従って死に至らせないまでも【可能性は有る】、一生その傷を負うのが常。金属や骨の破片で重しを付けられた皮の鞭で一振り毎に肉体に食い込み、肉片を引きちぎるもの。
パウロが捕縛覚悟で臨んだエルサレム入りは、ローマでの証しの為であり、傷害を受ける訳にはいかなかったからだ。パウロのその機転によって最高法院会議に臨むことに。
ⅱ 25節b 詳訳 「ローマの市民である者を、裁判もしないで〈有罪の宣告もないのに〉、むち打つということは法にかなった事か」と、法に則っての裁きを促し、千人隊長と百人隊長を救った。
29節 「・・・知って恐れた」とは、相応の罰があるからだ。
ローマ13章1節 「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられている・・・」、4節 「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべ」、権威を委ねられている高位高官が「神のしもべ」であるべきとして、パウロは責任を感じ、彼らを正して救った。
※ 何事も自分の利益ではなく、神の御心を求めてする行動は、隣人をして霊的祝福に与らせる機会とすると覚えたいと。
今朝は、パウロが何故、ユダヤ人から激しく訴えられているのか? その理由を知ろうとして、千人隊長が急きょ招集した特別最高法院議会でのこと、1節 詳訳 「そこで、パウロは、議会〔サンヘドリン〕をじっと見つめて言った、『兄弟たちよ、私はきょうのこの日まで〈市民として、また真の忠実なユダヤ人として〉完全に善い良心を持って私の義務を行ない、神のみ前で生活してきました』」と出た《 パウロの宣言 》に注目したい。
パウロのこの第一声は、直ちに※2節 「すると、大祭司アナニアは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じ」という《 憎悪に満ちた反感 》を招いた。
それは言うまでもなく、パウロの言葉が大祭司の心を刺したからだが、パウロの※3節 「そこで・・・」と更に罪を見過すまいと迫る言葉は見逃せない。パウロの「神があなたを打たれる」との言葉は、4節 「そばに立っていた者たち」の「あなたは神の大祭司をののしるのか」を見ると、聞く者たちの度肝を抜く激しいものではあったが、事実預言的なことばであり、数年後、暗殺団シカリの手によって殺害された歴史があると言われている。
パウロが続ける※5節 「私は彼が大祭司だとは知らなかった」については、“ まさかこのような命令を発する人物が大祭司だとは思わなかった ” と痛烈な皮肉を込めて話していると解釈される。6節以下の会議場でのやり取りには、かなりの機転を要している有様が窺えるが、11節 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい・・・』」と言われる主の特別な顕現に与っているパウロを思う時、どれ程の緊張感に襲われての時間であったかが推測できるのでは?
さて注目すべき※1節 「私は今日まで」とは? 記憶を辿ることが出来る過去から今日までの意? キリスト者となってからの今日までの意? 《 彼の全生涯の宣言 》として考えたい。
① キリスト者となる以前のユダヤ教徒として「健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」との宣言。
パウロは、22章3節 「私は・・・先祖の律法について厳しく教育を受け・・・神に対して熱心な者でした」と言っている。
26章9~11節 「詳訳 9 私自身は確かに〔かつては〕、ナザレのイエスの名に反対して〈逆らって〉、多くの事をすることを私の義務と思い込んでいました」と、良心的咎めは無い。
それは、第一テモテ1章13節 詳訳 「・・・信仰のなかった時に無知のために行なった」、ピリピ3章6節 「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした」と言い切れたのだから。
何故なら彼は、律法を守ること【克己、熱心、厳格な生活態度、人との比較における優越した正しい生活】によって神の聖前に義と認められるという信仰で生きていたからだ。
十字架の主を信じることによって義とされる信仰を唱えるキリスト教徒を異端者とし、神への冒涜者と見なすパウロは、ステパノを死に至らせたとしても良心に咎められることはなかった。
しかし、この「良心にしたがって、神の前に生きてきました」というのが、パウロが未だユダヤ教徒としての告白であるならば、大祭司の関与するところでもなく、ましてや激怒することにはならなかったであろう。
② パウロは最早ユダヤ教徒ではなく、回心している身の今現在、キリスト教徒として「健全な良心にしたがって生きてきました」と宣言した。
彼の回心は、ステパノの殉教を目撃した時、パウロの信仰生活に激震が走り、ダマスコ途上の復活の主の顕現によって画期的出来事となった。
確かにパウロは、律法において非の打ち所のない生き方をして来たとは言え、キリストに似せられたステパノの最期の死を目撃し、これまで見たことのない天からの使いの如く輝いた品格に、信仰の究極を見た。
回心してからというもの、ピリピ3章2~11節で伝えている信仰、特に9節 「私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つ」キリスト者の特権に生きることこそ、へブル9章14節 「・・・その血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」と。
パウロの律法の理解が変わった。律法の使命は、守ることで神の前に義とさせるのではなく、私たちに罪を知らせ、十字架の主に近づかせるものであると。ガラテヤ3章24節。
※ パウロの1節の宣言は、大祭司に回心の必要性を訴えることとなり、ローマ3章20~24節 「・・・律法を通して生じるのは罪の意識です。しかし今や・・・神の義が示されました」へ導いたのだ。彼の魂への情熱にあやかりたい。
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