聖日礼拝『使徒の働き』より 66


使徒の働き22章22~30節

 先週は、エルサレムで捕縛されたパウロがその事態を、いよいよローマに向けての第一歩とした出来事に入ったが、パウロが捕えられた時《 千人隊長から※33節 「パウロが何者なのか、何をしたのか」との 》群衆に尋ねた言葉を拾い、それを22章1節からの弁明の機会とした記事に学んだ。
 但し、弁明ではあるが、告訴されている自らの潔白を明らかにする為ではなく、彼らの魂を愛するが故の救霊説教であった。

ⅰ 「パウロが何者なのか」について。
 3~5節 「私は・・・神に対して熱心で〈熱狂的でさえ〉あったことは、今日のあなたがたと同じ・・・〔そうです〕私は・・・」と、誰もが認める生粋のユダヤ教徒であったが、6~9節《 ダマスコ途上で劇的に回心した経験 》を告白し、自ら、7、8節【復活のイエスの顕現】に与り、16節、神に立ち返った者だと。

ⅱ 「パウロは何をしたのか」について。
 10節 「主よ、私はどうしたら良いでしょうか」との問いに答えられた主の指示に従って、12節 「アナニア」に会い、14~16節 「私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです」と。又主からの、18節 「早く、急いでエルサレムを離れなさい・・・」を受け、一度は辞退したものの、再度の※21節 「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」に従い、《 唯、神の指示通り忠実に行う 》だけであると。

※ ルカ12章11、12節の主のお約束の確かさに信頼をと!!


 今朝は、パウロの証しを静粛になって聞き入っていた会衆たちが、※21節 「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」との言葉を聞いた途端、突如、異邦人への神の扱いを何のためらいもなく言い放つパウロに憤りを露わに、22、23節 「・・・声を張り上げて言った。『こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない。』人々がわめき立て、上着を放り投げ、ちりを空中にまき散ら」した場面で見せた《 パウロの立ち居振る舞い 》に注目したい。
 パウロは弁明の時、20節 「あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私自身もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの上着の番をしていた」と回顧して言っているが、何と今は!! 自らがあのステパノ同様の状況に置かれていることを意識したに違いない。同時に、あの時襲い掛かった人々の中に自らが居たということとも重ねたであろう。
 実に、ガラテヤ1章23、24節 「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」自らを感慨深く重ねつつ、迫害する人々への重荷を熱くしただろう。
 この光景にただならぬ気配を察知した千人隊長が、24節 「パウロを兵営の中に引き入れるように命じ、なぜ人々がこのように彼に対して怒鳴っているのかを知るため、むちで打って取り調べるように言った」時のこと、25節a 「彼らがむちで打とうとしてパウロの手足を広げたとき」、25節b 「パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むちで打ってよいのですか。』」と出たパウロに。
 パウロが自らを「ローマ市民」であると名乗ってローマ市民権を主張したことについては、既に一回、16章37節《 ピリピ伝道 》であった。
 何れの場合も、自らの名誉誇示とか保身の為にではなく、あくまでも神の御心がなされる為にである。それを、身の安全確保の為には主張せず、唯、宣教に支障を来し兼ねない状況を迎えた時にだけ慎重に主張していることで明白。
 このローマ市民権を主張したことで為された神の御心とは?

① パウロのローマ行きの実現に備えさせたこと。

 千人隊長が命じた、25節a 「彼らがむちで打とうとしてパウロの手足を広げたとき」は、正にむち打ち直前のことであるが、使われる「むち」とはどのような道具だったのか?
 死刑の為のものではなく、群衆を激怒させているパウロが、どのような悪事を働いたからだったのか白状させる為の恐ろしい拷問用の道具である。従って死に至るまでのことにはならないまでも【可能性は有る】、一生その傷を負うのが常であったとされている。金属や骨の破片で重しを付けられた皮のむちだったとされている。一振り毎に肉体に食い込み、肉片を引きちぎるもの。
 捕縛覚悟でのパウロのエルサレム入り。23章11節 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」と、ここで傷害を受ける訳にはいかなかった。
 従ってパウロは拷問による被害を受けずに、30節c 「祭司長たちと最高法院全体に集まるように命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせ」られ、23章1節からの最高法院における裁判に臨むようにされた。

② 25節c 詳訳 「ローマの市民である者を、裁判もしないで〈有罪の宣告もないのに〉、むち打つということは法にかなった事か」と、法に則って裁きを実行すべく促して《 千人隊長及び、命令を受けて拷問執行寸前にいた百人隊長 》を救った。

 二人はパウロのお陰で※29節 「・・・すぐにパウロから身を引いた。千人隊長も、パウロがローマ市民であり、その彼を縛っていたことを知って恐れた」とある相応の罰から救った。
 パウロがローマ市民権保持者と判明した時点で彼らが裁かれるよりも、事前に伝えて正せたことは賢明な姿勢ではないだろうか。
 ローマ13章1節 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられている・・・」、4節 「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです」とある。従ってパウロは、権威を委ねられている高位高官が、「神のしもべ、任務を法に則って忠実に果たすべく立てられる器」であるべきとして、パウロは責任を感じ、彼らを正して救った。

※ 何事も自分の利益ではなく、神の御心を求めてする行動は、隣人をして霊的祝福に与らせる機会とすると覚えたい。

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