使徒の働き21章1~16節
先週は、告別説教でエペソ教会の長老たちへの忠告※28節 「・・・自分自身と群れの全体に気を配りなさい」に学んだ。この忠告は、マタイ22章37~39節 詳訳 「・・・主であるあなたの神を愛さなければ・・・」、「あなたは自分自身を自分が愛するのと同様にあなたの隣人を愛さなければ・・・」に則っている。
パウロは〈群れの全体に気を配るべき〉長老たちに、先ず〈隣人に仕えるこの働きは、自分自身に気を配って初めて出来〉自分自身を蔑ろにして隣人に仕えることは出来ないと。実は、パウロ自身の生き様をもっての忠告である。
ⅰ 「自分自身に気を配る」ことについて:
先ず、第一に「主を愛する」関係の吟味に生きること。23章1節 「健全な良心にしたがって、神の前に生きて」と。その上で、第一テサロニケ5章23節 「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」と《 人を構成する全領域の健康 》に留意すべきこと。
ⅱ 「群れの全体に気を配りなさい」について:
a. 彼らが気を配るべき「群れ」とは、「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」との認識が重要。29、30節の事態が生じた場合の、命懸けで対応すべきとの動機を与える。
b. 【34、35節】の実践。得た財を自分の必要だけではなく、隣人の必要を思って注ぐ生き方こそが祝福との認識が重要。それは《 主ご自身と、パウロの全生涯を通しての在り方 》だから。
※ 監督への忠告ではあるが、キリスト者としての生活に光を頂き、主と教会に仕え合うお互いの在り方としたい、と。
今朝は、17節では「私たちがエルサレムに着くと」とあるが、実はこのエルサレム行きには、14節 「彼が聞き入れようとしないので、私たちは『主のみこころがなりますように』と言って、口をつぐんだ」という場面があってのことだった点に注目して Message としたい。
このことは、ルカ9章51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ・・・イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」と《 エルサレム入りを半年後に控えられた主にパウロを重ねて 》考えてみたい。
① 「彼が聞き入れようしないので、私たち・・・」とは、同伴者ルカを含む《 パウロを愛する人々の涙 》があったこと。
20章での告別説教を終えてからの※同36~38節の《 パウロとの別れに「心を痛めた」人々との交流が如何に深いものであったかを見るが、ここにミレトスの人々の涙 》が、その後も、21章1節、ミレトスからコス、ロドス、パタラ、更に2~6節、ツロに入港し、エルサレムまで約200キロの旅路を残すのみとなった時の《 パウロを愛する人々の涙 》、更には、7、8節、ツロからプトレマイス、そこを出発して《 カイサリアでのこと、10~12節 「エルサレムには上って行かないようにと懇願した」人々の涙 》が、である。
ここに「私たちと・・・」とあるが、ルカと共にあのピリポ、【6章5節で御霊に満たされた七人に選出、7章の仲間ステパノの殉教・・・迫害者サウロの目に焼き付けられた後、8章5~13節のサマリア伝道、続く26~39節でエチオピアの宦官にバプテスマを授け・・・同時期にサウロの回心】も含むだろう。パウロが、13節a 「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして【勢いをそいで弱くする】・・・」と言うのを見る時、彼らのその涙によって自らの確信を変更することはないが、彼らの涙をよく知って心を熱くする器であった。
ミレトスでの告別説教には、残していく群れへの《 心の内に涙を流している 》愛を、20章31、32節 「・・・今私は・・・ゆだねます」に読む ⇒ 第二テモテ1章4節に顕著。
主が最後の晩餐の折、弟子たちにご自身の死を断言された時、弟子たちには悲しみがあったことを知っておられた。ヨハネ16章5、6節 「・・・わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と。
その主も又、ルカ22章15節 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」とお心の内を吐露され、その後ゲツセマネに向かわれる途中での※ヨハネ17章6~19節の《 弟子たちへの長い執り成しの祈り 》には、世に残す弟子たちへの立ち去り難いとされる熱い思いが込められている。
② 「聞き入れようとしない」に見る《 パウロの信仰 》。
先ず、ツロでのこと※4節b 「彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った」が、5節 「また旅を続けた」信仰。彼らの「御霊に示され」とは、20章23節のパウロには「鎖と苦しみ」が付き纏うとの示しで、パウロのエルサレム行き阻止についてではない。彼らはそれと知って彼らの心情で行って欲しくなかったのだ。
更に、8節 「カイサリアに着くと、・・・伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在」中、11、12節 「聖霊がこう言われます。『・・・ユダヤ人たちはエルサレムで・・・縛り・・・渡すことに・・・』」、「これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに・・・行かないようにと懇願した」が、13節c 「私は・・・覚悟して」いるとパウロ自身、既に、20章22~24節に献身を表明しているように、 その信仰は「御霊に縛られて」のエルサレム行きなのだ。
③ 「彼が聞き入れようとしないので、私たちは『主のみこころがなりますように』と言って、口をつぐんだ」とある《 見送る人々に見る信仰 》。
パウロの身を案じる人々の熱心な説得はパウロに受入れられず、止むなく見送る形になったが、その時彼らが「主のみこころがなりますように」と言って、パウロの献身を尊重して自分たちの願いを退け、主の御心に全幅的信頼を持って委ねられた信仰は何と尊いことか!!
主が十字架への道を弟子たちに吐露されるや、主の前に立ちはだかったのが、ペテロの「滅相もない」発言であったが、主は、マタイ16章23節 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と一喝された。
ペテロに見た肉による阻止とは違い、聖霊の満たしによる時にだけ見ることの出来る結論がここにある。
※ 「主のみこころがなりますように」こそ宣教の鍵と覚えたい。
先週は、告別説教でエペソ教会の長老たちへの忠告※28節 「・・・自分自身と群れの全体に気を配りなさい」に学んだ。この忠告は、マタイ22章37~39節 詳訳 「・・・主であるあなたの神を愛さなければ・・・」、「あなたは自分自身を自分が愛するのと同様にあなたの隣人を愛さなければ・・・」に則っている。
パウロは〈群れの全体に気を配るべき〉長老たちに、先ず〈隣人に仕えるこの働きは、自分自身に気を配って初めて出来〉自分自身を蔑ろにして隣人に仕えることは出来ないと。実は、パウロ自身の生き様をもっての忠告である。
ⅰ 「自分自身に気を配る」ことについて:
先ず、第一に「主を愛する」関係の吟味に生きること。23章1節 「健全な良心にしたがって、神の前に生きて」と。その上で、第一テサロニケ5章23節 「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」と《 人を構成する全領域の健康 》に留意すべきこと。
ⅱ 「群れの全体に気を配りなさい」について:
a. 彼らが気を配るべき「群れ」とは、「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」との認識が重要。29、30節の事態が生じた場合の、命懸けで対応すべきとの動機を与える。
b. 【34、35節】の実践。得た財を自分の必要だけではなく、隣人の必要を思って注ぐ生き方こそが祝福との認識が重要。それは《 主ご自身と、パウロの全生涯を通しての在り方 》だから。
※ 監督への忠告ではあるが、キリスト者としての生活に光を頂き、主と教会に仕え合うお互いの在り方としたい、と。
今朝は、17節では「私たちがエルサレムに着くと」とあるが、実はこのエルサレム行きには、14節 「彼が聞き入れようとしないので、私たちは『主のみこころがなりますように』と言って、口をつぐんだ」という場面があってのことだった点に注目して Message としたい。
このことは、ルカ9章51節 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ・・・イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」と《 エルサレム入りを半年後に控えられた主にパウロを重ねて 》考えてみたい。
① 「彼が聞き入れようしないので、私たち・・・」とは、同伴者ルカを含む《 パウロを愛する人々の涙 》があったこと。
20章での告別説教を終えてからの※同36~38節の《 パウロとの別れに「心を痛めた」人々との交流が如何に深いものであったかを見るが、ここにミレトスの人々の涙 》が、その後も、21章1節、ミレトスからコス、ロドス、パタラ、更に2~6節、ツロに入港し、エルサレムまで約200キロの旅路を残すのみとなった時の《 パウロを愛する人々の涙 》、更には、7、8節、ツロからプトレマイス、そこを出発して《 カイサリアでのこと、10~12節 「エルサレムには上って行かないようにと懇願した」人々の涙 》が、である。
ここに「私たちと・・・」とあるが、ルカと共にあのピリポ、【6章5節で御霊に満たされた七人に選出、7章の仲間ステパノの殉教・・・迫害者サウロの目に焼き付けられた後、8章5~13節のサマリア伝道、続く26~39節でエチオピアの宦官にバプテスマを授け・・・同時期にサウロの回心】も含むだろう。パウロが、13節a 「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして【勢いをそいで弱くする】・・・」と言うのを見る時、彼らのその涙によって自らの確信を変更することはないが、彼らの涙をよく知って心を熱くする器であった。
ミレトスでの告別説教には、残していく群れへの《 心の内に涙を流している 》愛を、20章31、32節 「・・・今私は・・・ゆだねます」に読む ⇒ 第二テモテ1章4節に顕著。
主が最後の晩餐の折、弟子たちにご自身の死を断言された時、弟子たちには悲しみがあったことを知っておられた。ヨハネ16章5、6節 「・・・わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と。
その主も又、ルカ22章15節 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました」とお心の内を吐露され、その後ゲツセマネに向かわれる途中での※ヨハネ17章6~19節の《 弟子たちへの長い執り成しの祈り 》には、世に残す弟子たちへの立ち去り難いとされる熱い思いが込められている。
② 「聞き入れようとしない」に見る《 パウロの信仰 》。
先ず、ツロでのこと※4節b 「彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った」が、5節 「また旅を続けた」信仰。彼らの「御霊に示され」とは、20章23節のパウロには「鎖と苦しみ」が付き纏うとの示しで、パウロのエルサレム行き阻止についてではない。彼らはそれと知って彼らの心情で行って欲しくなかったのだ。
更に、8節 「カイサリアに着くと、・・・伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在」中、11、12節 「聖霊がこう言われます。『・・・ユダヤ人たちはエルサレムで・・・縛り・・・渡すことに・・・』」、「これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに・・・行かないようにと懇願した」が、13節c 「私は・・・覚悟して」いるとパウロ自身、既に、20章22~24節に献身を表明しているように、 その信仰は「御霊に縛られて」のエルサレム行きなのだ。
③ 「彼が聞き入れようとしないので、私たちは『主のみこころがなりますように』と言って、口をつぐんだ」とある《 見送る人々に見る信仰 》。
パウロの身を案じる人々の熱心な説得はパウロに受入れられず、止むなく見送る形になったが、その時彼らが「主のみこころがなりますように」と言って、パウロの献身を尊重して自分たちの願いを退け、主の御心に全幅的信頼を持って委ねられた信仰は何と尊いことか!!
主が十字架への道を弟子たちに吐露されるや、主の前に立ちはだかったのが、ペテロの「滅相もない」発言であったが、主は、マタイ16章23節 「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と一喝された。
ペテロに見た肉による阻止とは違い、聖霊の満たしによる時にだけ見ることの出来る結論がここにある。
※ 「主のみこころがなりますように」こそ宣教の鍵と覚えたい。
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