使徒の働き20章17~38節
先週は、第三次伝道も終着点エルサレムに向かう途中、ミレトスで、北48キロの町※17節 「エペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せ」、告別説教をした記事から、22節 「私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます」に学んだ。
この表現には、聖霊の強制力の物凄さを読み取ることが出来るが、パウロに《 御霊に縛られている人とは? 》を。
ⅰ 対神的:19節 「・・・主に仕えてきました」。
主のしもべとして生きているとの自覚である。教会には「謙遜の限り」とあって自分自身の権利を要求せず、逆境には、エペソ3章1節 「〈皇帝の囚人としての拘束だが〉キリスト・イエスの囚人」との自覚をもって喜び受け入れている。
ⅱ 対自的:22~24節 「・・・分かりません。・・・けれども・・・自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」。
第二コリント5章14節 「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」と、キリストの犠牲の愛に圧倒されての《 生と死 》の理解。
ⅲ 対人的:《 独善的ではなく、教会の証しがある 》18節 「・・・よくご存じです」、34節 「あなたがた自身が知っているとおり」、35節 「・・・私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです」。《 後顧の憂いがない 》20節 「益になることは・・・余すところなく・・・」、21節 「・・・悔い改めと・・・信仰を証ししてきた」、26、27節 「だれの血に対しても責任がありません・・・」。
※ パウロの信仰に《 聖霊への全き従順が主の十字架への感動から溢れる愛を動機としているので 》生活全般には自由と確信が漲っていると見た。お互いの信仰生活を吟味したい、と。
今朝は、告別説教の聞き手である《 エペソ教会の長老たち 》に向けて、パウロが、28節 「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」と伝えた忠告に学びたい。
この忠告は、主が、マタイ22章40節 詳訳 「この二つの戒めが律法と預言の全体を要約している〈律法と預言の全部がこの二つの上にかかっている〉」と言われた戒めに則ったものである点に注目しておきたい。即ち、マタイ22章37~39節 詳訳 「『あなたはあなたの全心情と全精神と全理性〈知性〉をもって主であるあなたの神を愛さなければならない』。これが大きな〈いちばん大事な、主要な〉そして第一の戒めである。第二もまたそれと同様であって、『あなたは自分自身を自分が愛するのと同様に あなたの隣人を愛さなければならない』」である。パウロが〈群れの全体に気を配るべき〉長老たちに、先ず求めたことであり、〈隣人に仕える働きは、自分自身に気を配って初めて出来ること〉だと言った。換言するなら、自分自身を蔑ろにしていて隣人に仕えることは出来るものではないと。
パウロは、愛弟子テモテにも同様の忠告を与えている。
第一テモテ4章16節 「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです」と。
そして、このパウロによる忠告を学ぶに際して、実は、訴えている彼自身の生き様をもっての忠告であるとして受け止め《 ここに学びの示唆がある 》としたい。
① 「自分自身に気を配る」ことについて:
先ず、第一に「主を愛する」関係の吟味に生きること。23章1節 「私は今日まで、あくまでも 健全な良心【へブル9章14節 「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」】にしたがって、神の前に生きてきました」と告白している。この告白は、清めの恵みに与り続けての聖霊経験によるものであり、20章22節 「御霊に縛られて」の生活に他ならない。
この経験は、パウロがテモテに宛てた※第一テモテ5章23節 「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」に導き、ヨハネも又、第三の手紙2節 詳訳 「あなたの魂が健やかである〈栄えている〉ことを私は知っていますが、そのように、あなたがあらゆる道に栄え、またあなたの肉体が健康であるようにと、私は祈って」いると。
33、34節では、「人の金銀や衣服を貪ったことはありません。・・・私の両手は、自分の必要のためにも・・・働いてきました」とは、衣食の問題について《 いい加減さ、怠慢はなく、清楚な几帳面な生活振り 》が窺える。第一テサロニケ5章23節 「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」とあり、霊的であることは《 全人格的な健康 》が求められることと、いつでも《 先ず、霊的健康があって 》であることに留意を。
② 「群れの全体に気を配りなさい」について:
a. 彼らが気を配るべき「群れ」についての理解が必要。
「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」との認識で、※29、30節 「・・・容赦なく群れを荒らし回」る事態が生じた場合《 主の命と引き替えに与えられた教会の命を何としても守らなければならないとの動機 》を与える。
31、32節 「ですから・・・」に見るパウロの情熱と信仰は、この認識に立つところから出ている。
実際、パウロがテモテをエペソ教会に留まらせた理由を伝える手紙、第一テモテ1章3~7、18~20節には言及されている。
b. 34、35節 「私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです」の実践。
この聖句から、働いて得る財においても自分の必要を考えてのことだが、自分の必要だけを思うのではなく、隣人の必要を思って注ぐことが祝福された生き方だとの意。何故ならば《 主イエスご自身の全ご生涯を貫く在り方 》であり、パウロ自身も又主に倣い、全生涯を通して明らかにして来たことだったからだと。
※ 監督への忠告ではあるが、キリスト者としての生活に光を頂き、主と教会に仕え合うお互いの在り方としたい。
先週は、第三次伝道も終着点エルサレムに向かう途中、ミレトスで、北48キロの町※17節 「エペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せ」、告別説教をした記事から、22節 「私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます」に学んだ。
この表現には、聖霊の強制力の物凄さを読み取ることが出来るが、パウロに《 御霊に縛られている人とは? 》を。
ⅰ 対神的:19節 「・・・主に仕えてきました」。
主のしもべとして生きているとの自覚である。教会には「謙遜の限り」とあって自分自身の権利を要求せず、逆境には、エペソ3章1節 「〈皇帝の囚人としての拘束だが〉キリスト・イエスの囚人」との自覚をもって喜び受け入れている。
ⅱ 対自的:22~24節 「・・・分かりません。・・・けれども・・・自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」。
第二コリント5章14節 「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」と、キリストの犠牲の愛に圧倒されての《 生と死 》の理解。
ⅲ 対人的:《 独善的ではなく、教会の証しがある 》18節 「・・・よくご存じです」、34節 「あなたがた自身が知っているとおり」、35節 「・・・私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです」。《 後顧の憂いがない 》20節 「益になることは・・・余すところなく・・・」、21節 「・・・悔い改めと・・・信仰を証ししてきた」、26、27節 「だれの血に対しても責任がありません・・・」。
※ パウロの信仰に《 聖霊への全き従順が主の十字架への感動から溢れる愛を動機としているので 》生活全般には自由と確信が漲っていると見た。お互いの信仰生活を吟味したい、と。
今朝は、告別説教の聞き手である《 エペソ教会の長老たち 》に向けて、パウロが、28節 「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい」と伝えた忠告に学びたい。
この忠告は、主が、マタイ22章40節 詳訳 「この二つの戒めが律法と預言の全体を要約している〈律法と預言の全部がこの二つの上にかかっている〉」と言われた戒めに則ったものである点に注目しておきたい。即ち、マタイ22章37~39節 詳訳 「『あなたはあなたの全心情と全精神と全理性〈知性〉をもって主であるあなたの神を愛さなければならない』。これが大きな〈いちばん大事な、主要な〉そして第一の戒めである。第二もまたそれと同様であって、『あなたは自分自身を自分が愛するのと同様に あなたの隣人を愛さなければならない』」である。パウロが〈群れの全体に気を配るべき〉長老たちに、先ず求めたことであり、〈隣人に仕える働きは、自分自身に気を配って初めて出来ること〉だと言った。換言するなら、自分自身を蔑ろにしていて隣人に仕えることは出来るものではないと。
パウロは、愛弟子テモテにも同様の忠告を与えている。
第一テモテ4章16節 「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです」と。
そして、このパウロによる忠告を学ぶに際して、実は、訴えている彼自身の生き様をもっての忠告であるとして受け止め《 ここに学びの示唆がある 》としたい。
① 「自分自身に気を配る」ことについて:
先ず、第一に「主を愛する」関係の吟味に生きること。23章1節 「私は今日まで、あくまでも 健全な良心【へブル9章14節 「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」】にしたがって、神の前に生きてきました」と告白している。この告白は、清めの恵みに与り続けての聖霊経験によるものであり、20章22節 「御霊に縛られて」の生活に他ならない。
この経験は、パウロがテモテに宛てた※第一テモテ5章23節 「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい」に導き、ヨハネも又、第三の手紙2節 詳訳 「あなたの魂が健やかである〈栄えている〉ことを私は知っていますが、そのように、あなたがあらゆる道に栄え、またあなたの肉体が健康であるようにと、私は祈って」いると。
33、34節では、「人の金銀や衣服を貪ったことはありません。・・・私の両手は、自分の必要のためにも・・・働いてきました」とは、衣食の問題について《 いい加減さ、怠慢はなく、清楚な几帳面な生活振り 》が窺える。第一テサロニケ5章23節 「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」とあり、霊的であることは《 全人格的な健康 》が求められることと、いつでも《 先ず、霊的健康があって 》であることに留意を。
② 「群れの全体に気を配りなさい」について:
a. 彼らが気を配るべき「群れ」についての理解が必要。
「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」との認識で、※29、30節 「・・・容赦なく群れを荒らし回」る事態が生じた場合《 主の命と引き替えに与えられた教会の命を何としても守らなければならないとの動機 》を与える。
31、32節 「ですから・・・」に見るパウロの情熱と信仰は、この認識に立つところから出ている。
実際、パウロがテモテをエペソ教会に留まらせた理由を伝える手紙、第一テモテ1章3~7、18~20節には言及されている。
b. 34、35節 「私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです」の実践。
この聖句から、働いて得る財においても自分の必要を考えてのことだが、自分の必要だけを思うのではなく、隣人の必要を思って注ぐことが祝福された生き方だとの意。何故ならば《 主イエスご自身の全ご生涯を貫く在り方 》であり、パウロ自身も又主に倣い、全生涯を通して明らかにして来たことだったからだと。
※ 監督への忠告ではあるが、キリスト者としての生活に光を頂き、主と教会に仕え合うお互いの在り方としたい。
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