聖日礼拝『使徒の働き』より 57


使徒の働き19章8~20節

 先週は、第三次伝道旅行に入った パウロ念願のエペソ宣教は、その皮切りに出会った人々への指導に始まったと学んだ。その指導とは、、彼らが《 キリスト者としての主への熱い心を持ってはいても、聖霊経験がなかった 》人々だったからだ。

ⅰ 彼らは、3節b 「ヨハネのバプテスマ」を受けただけの人々。
 バプテスマのヨハネが神から与えられた使命は、ルカ3章4節《 人々が主を迎えるに相応しく整えられること ⇒ 悔い改めに導くこと 》にあり、主が来られ時には、同16、17節 「聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます」という究極の贖いの恵みに与るためにである。
 十二人の※19章2節b 「いいえ・・・」とは、B・ヨハネから《 キリストによる聖霊と火によるバプテスマが来ると聞かされてはいたが、実は既に到来した※2章のペンテコステの歴史的出来事 》を知らなかったことを意味している。

ⅱ しかしその彼らが、6節で《 聖霊経験に与った 》こと。
 二十年余り前のペンテコステの日の再現であり、“ エペソというはなはだしい人種のるつぼのような国際都市 ” に福音を届けるのに有効とする為だったに違いない。
 パウロの目に《 主に献身していると映った十二人ほどの 》弟子たちに掛けた初めての言葉が、2節 「・・・聖霊を受けましたか」だったことは注目に値する。この問い掛けこそ、神の為に生きると願う者には必須の霊的経験だからだ。

※ パウロのエペソ宣教は、皮切りに出会った弟子たちを《 聖霊の満たされた働き人と 》導くことに始まったと覚える時、16章6節の禁止命令に、神の時があったと覚えて謙りたい、と。


 今朝は、使徒に出て来る節目の句、五つ目の※20節 「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」に学びたい。この宣教が勢いを増したのには、二つの出来事がある。
 一つは、8、9節 「パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心を頑かたくなにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、・・・彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた」とある《 迫害による転向 》である。こうした出来事は、パウロがいつも行く所 行く所で用いる宣教の手掛かりとして先ず、ユダヤ人の集まる会堂での説教から始めるのを常としていたことによる。その聴衆は、一年前《 18章19~21節 「もっと長くとどまるように」と長期滞在を求めていた 》人々だったことで、三か月継続出来た。
 ところが、いよいよ福音の核となる部分に入るや、ユダヤ人特有の反抗心を露わに、自ら救いを拒否するのみならず、会衆を巻き込もうと「悪く言ったので」退かざるを得なくされ、会場をティラノの講堂に移すことになった。その建物の性質上、会衆はユダヤ人中心から異邦人が自由に出入りできることになり、10節 「これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた」という拡がりを見ることになった。
 このティラノの講堂とは、哲学者ティラノが講義する建物で、彼が使用しない時間帯【詳訳:午前10時頃から午後3時頃】を使用した。その前後には、天幕作りに従事【20章34節】。

 今一つは、11~19節 「神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた・・・ところが・・・」とある奇怪な出来事。
 13節 「ユダヤ人の巡回祈禱師」とあるのは、悪霊を追い出す名目で金銭を求めていた魔術師シモン【8章】、エリマ【13章】なども同部類で、ここでは「ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子」であるが、彼らは逆に、16節 「悪霊につかれている人が彼らに飛びかかり、皆を押さえつけ、打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家から逃げ出した」という不名誉にも退散させられたというもの。
 ここでも、17節 「このことが、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡ったので、みな恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった」と。
 さて、20節 「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」という驚くべき豊かな結実の鍵について・・・

① 9節 詳訳 「しかし、ある人たちが益々頑固になって、会衆の面前で主の道を傷付け、罵り悪く言った時、彼は弟子たちを引き連れて彼らから離れ、ティラノの講堂で討論していた」に見る《 パウロの一貫した積極的信仰の姿勢 》

 パウロのこの毅然とした態度は、ここエペソでの苦難を回想して書いた【エペソに別れを告げて赴いたマケドニアで執筆】※第二コリント1章6~10節 「私たちが苦しみにあうとすれば・・・。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。・・・望みは揺るぎません。なぜなら・・・」にある信仰の故である。
 この信仰のある所にだけ、J・ウェスレーによる “ 19章17節 「主イエスの名をあがめるようになった」 それ故、悪魔の悪意までが福音の進展の為に協力した ” という現象が伴う。

② 18、19節に見る《 教会の徹底した霊的覚醒 》

 18節で信者になっていた者たちが聖霊のお扱いに与った時、実際的・徹底的悔い改めを実践したこと。
 エペソでの「ティラノの講堂」での働きは、明らかな所、10節 「二年続いた」とあるが、神のことばを聞いたとは言え、13節の動きに見られるような【パウロがそれを推奨した訳ではなく】、予かねてから持っていた魔術的習性によるものだった。
 その彼らが聖霊に《 古い肉的性質に光を当てられた時 》即刻、悔い改めを徹底した。18、19節 詳訳 「 今信者になっていた者たちが多くやって来て、彼らの以前の偽りに満ちた、邪悪な行為をすっかり告白して全部曝け出した。そして、奇妙な魔術を行っていた多くの者たちが自分の書物を集めて、それを次々と投げて積み上げ、皆の人の見ている前で焼いた。彼らがその価格を総計したところ、銀貨五万枚にも上った」と。
 信仰者として礼拝をお捧げする者ならば、聖霊が強い光で私たちの心の深奥部を暴かれたその都度、その実際的な行為と肉とを放置せずに、即刻光に従うべきである。その時にだけ、天的祝福が及ぶからだ。

※ 公的にでも私的にでも、「こうして・・・」に見る氾濫的祝福は、このような現実的従順にあると覚えたい。

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