聖日礼拝『使徒の働き』より 54


使徒の働き18章18~22節

 先週は、1節 「アテネを去って」、ギリシアの政治的首都であり、ローマ総督在住のコリントでの働きに注目した。パウロは後、同労者となる《 天幕作りを職業とするアキラとプリスキラとの出会い 》によって、自らも、3節 「同業者」であることから天幕作りをしつつ働きに着手。しかし、5節 「シラスとテモテがマケドニアから」の支援を携えて下って来て以降は宣教に専念。特に、6節のユダヤ人の迫害が起こったことで《 コリント人への本格的伝道 》に向くことに。
 ここで、9、10節の主のおことばから二つのことを!!

ⅰ パウロは恐れていたこと。第一コリント2章3節 「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました」。
 その恐れとは・・・。不品行の代名詞となったコリント【人口60万人のうち、三分の一が自由人、三分の二が奴隷だったと推定】。第一コリント6章9~11節にその様子が窺える。

ⅱ しかし、こうした極端な異色とも思われる宣教には、より多くの挑戦はつきものである為、主から、(宣教者に危害が加えられての)宣教の中断はなく、「この町には、わたしの民がたくさんいる」との預言的宣言を受けたこと。
 11節 「そこで」と従ったパウロは、主の宣言の真実を※12~16節 「そうして彼らを法廷から追い出した」に見ることが出来た。ユダヤ人たちは17節で、会堂司ソステネ【前任のクリスポは8節で、「家族全員とともに主を信じた」為】を捕らえ、「法廷の前で打ちたたいた」ことから、彼が信仰に入ったことにも。

※ 主の宣言は事実となった。怯ひるむ現実の中で、主ご自身こそ現実であると覚えて、主を信頼して主の実を見たい、と。


 今朝は、18節 「パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発し」、遂に、エルサレム経由で、出発点※22節 「アンティオキアに下って行っ」て、第二次伝道旅行を終えるまでの記事に学びたい。
 ここで、パウロが《 コリントの群れに別れを告げて、シリアのアンティオキア教会に帰り着くまでに行った三つのこと 》に注目したい。18節 「なおしばらく」とあることから、コリントでの滞在期間は、9、10節《 主の顕現による激励 》後の、11節 「一年六か月」にその前後の期間が加わることになるが、パウロは「腰を据えて」為すべき務めを果していたが、12節で起こったユダヤ人の反抗後、コリントを去ることになった。
 ユダヤ人による裁判沙汰は、地方総督ガリオが、16節 「彼らを法廷から追い出した」ことによって難なく処理されたが、残して行く教会の今後を案じ、激励に必要な時を幾ばくか過ごして別れを告げた。

パウロの行った三つのこととは!!

① 18節c 「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を剃った」こと。

 ケンクレアという町は、コリントの港町で、コリント市街の東約11キロの位置に在り、東方のアジア方面を担当し、因みに、ケンクレアに対して西方に在るレカイオン港は、イタリア方面を担当していたと。このケンクレアにも教会が出来ていたことが『ローマ』16章1節で分かる。
 ここで目が留まるのは、パウロが「誓願を立てていたので・・・髪を剃った」ということで、この意味は何?
 ユダヤ人は、今日までの過去の祝福に対する感謝を表す為に誓願を行う伝統があり、その誓願の期間の終わりには、髪を完全に剃り上げることで示されることになっていたと。
 パウロはこの伝統を良いこととして受け入れ、神への感謝を表したということになる。いつ誓願を立てていたのか? 分からないが、宣教旅行に対する〈彼の生涯をかけての、神を期待する信仰の証し〉である。彼には働きに伴う数々の迫害からの救いよりも、9、10節 「恐れないで」の激励のことばがその示唆となるが《 自らが知る弱さから、強くされて任務を果たす恵み 》を求めてのもの。彼は、第二次伝道旅行を間もなく終えようとする時、恵みの手応えを感じて、神のご真実に感謝すべく誓願を果たしたのだ。
 詩篇116篇12~14節 「主が私に良くしてくださったすべてに対し 私は主に何と応えたらよいのでしょう。私は救いの杯を掲げ 主の御名を呼び求めます。私は自分の誓いを主に果たします。御民すべての目の前で」に準じる。

② 20、21節 「人々は、もっと長くとどまるように頼んだが、パウロは聞き入れず、『神のみこころなら、またあなたがたのところに・・・』と言って別れを告げ、エペソから船出した」こと。

 ケンクレアから船出して立ち寄った、19節 「エペソ」は、かつて、この第二次伝道旅行の初め、16章6節 「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」地域。
 しかし、帰路エペソに寄港したということは、聖霊によって禁止命令が解かれてでしょう、19節 「・・・パウロは・・・自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じ合った」。その手応えは良く、留まるように求められるが、一旦引いている。
 何と言ってもローマ帝国の属州アジアにおいて主要な都市であり、内陸への重要な交通路に位置していたエペソであるだけに、はやる人間的思いを全て退け、絶えず聖霊に従う位置を保ちながら、冷静に対応している姿が印象的。
 19節 「パウロは二人を残し」とは、その時だけのことではない。24~28節を見ると、アキラとプリスキラはエペソに残っている。それは、パウロが、20節 「もっと長く・・・」に対して「神のみこころなら・・・」と伝えたのが、第三次伝道旅行による伝道を見据えてのことだが、彼らにその日に備えさせる為だった。

③ 22節 「エルサレムに上り、教会にあいさつして【それ】からアンティオキアに下って行った」こと。

 パウロの伝道旅行は、13章、異邦人教会として最初に誕生したアンティオキア教会から出発して又戻るが、そもそもこの教会は、バルナバがエルサレム教会から派遣されて成長しており、その後誕生する諸教会も又、1章8節 「エルサレム【ルカ24章47、48節】」を母体としてその拡がりを見ていること、ヨハネ12章24節 「一粒の死」に始まったエルサレム教会を再認識させていると覚えたい。

※ 聖霊による行動とは? を、パウロに見て学びを続けたい。

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