聖日礼拝『使徒の働き』より 51


使徒の働き17章1~15節

 先週は、ピリピ宣教の始まりに良い兆しを見て間もなく、占いの霊につかれた女奴隷から悪霊を追放したことで迫害を受けるが《 かえって聖霊の働きを拡大させたこと 》に注目した。
 迫害の直接的原因は、19節《 極めて個人的な経済的大損失 》にあったが、ローマ政府に媚びてユダヤ人に対する敵意を露わに、悪魔祓いの出来事を反ローマ的慣習の宣伝と見做してローマの長官を味方につけた。そこで長官たちから違法で過酷な拷問を受けるが、37節の、かえって主の偉大さを最高度に証しする場とした《 パウロの信仰 》に学んだ。

ⅰ 25、26節:パウロは、偽証による不当で過酷な扱いを受けながらも自己の権利を主張せずに苦難を甘受し、むしろ、25節 「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」ここに。
 ヨセフの※創世記50章20節 「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」《 神への積極的な信仰 》に重なる。二人の賛美を聞いていた囚人への影響、看守とその家族の救い、リディア同様、33、34節に弟子としての始まりを見ることに。

ⅱ 35~37節:パウロは、拷問の際には自己の権利を主張しなかったが、ここでは、 法に則って職務を果たさなかった長官の罪を指摘して彼の魂に対する責任を果たした。
 今後のピリピ教会の存続の為にも賢明なことだった。38、39節 詳訳 「彼らに謝った」 ⇒ 黙示録3章9節 「彼らをあなたの足もとに来させてひれ伏させ」である。

※ 襲い掛かる如何なる闇にも、淡々と勝利されるお方の臨在をお認めし、唯聖霊への全き信頼を寄せるのみと。


 今朝は、ピリピを立ち去ってから、1節 「テサロニケ」に行ったパウロが「ユダヤ人の会堂」を捜し当て、2節 「いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った」結果、ピリピ教会に次いで恵まれたテサロニケ教会の誕生に注目したい。

 その結実は、4節 「彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った【加わった、属したの意。信じただけでなく、主の弟子として同労者となった。即ちピリピでは、リディア、看守がそれぞれ回心するや宣教に協力的行動に出たように。因みに詳訳では、7節 「彼らをヤソンは自分の家に迎え入れた〈秘かにかくまった〉」とある。このヤソンという名は、第三次伝道旅行時コリントから書き送られた手紙『ローマ』16章21節に出て来るが その人物が彼であるなら、後、ヤソンはパウロの働きに加わったとも考えられる】。神を敬う大勢のギリシア人たち【旧約に証しされている唯一神を恐れ敬う生活に導かれていた人々】や、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった」とある回心者である。
 やはり、このような働きが起こる時には、パウロたちが覚悟しなければならないのが迫害である。
 5、6節 「ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き・・・」と。

 こうした迫害は、10節ではべレア(マケドニア)へ、更には、15節でアテネへと《 パウロに福音の灯を運ばせて行く 》ことになるが、テサロニケにおける結実をもたらされた聖霊の働きは、パウロの※2、3節聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、『キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです』と説明し、また論証した」とある《 強い確信 》を通してであったということに注目したい。
 その様子について、アテネ 更には歩を進めたコリントから書き送った『テサロニケ人への手紙 第一』で知ることが出来るので、この手紙を参考にしたい。

① 1章1、2節 「・・・私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています」から始まるが、その感謝は、5節aでは「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです」と言っていること。

 即ち、パウロの宣教が「聖書に基づいて」語るというのは、その聖書のことばを知識的理解をもってではなく《 主の受難と復活という歴史的出来事が私の救いとなった 》との霊的経験の確かさによっている。
 先週夕拝 Message:キリストと共に十字架に釘づけにされて罪に死に、キリストと共によみがえらせられて〈新しくされ続け、遂にはキリストの似姿に形造られる〉救いの、パウロの個人的十字架経験に基づいての確信である。
 聖霊による確信には中途半端さがない。2章1~12節《 聖前における在り方の如何が顕著に告白されている 》「私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。・・・神がそのことの証人です。神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思って・・・。10 私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。12 ・・・神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました」と。

② 従ってパウロはテサロニケの人々をして、1章6節a 「・・・多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」させ、2章13節b 「・・・私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れ」させた。

 その結果は、1章6~10節 「6b ・・・私たちに、そして主に倣う者になりました。あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。主のことばがあなたがたのところから出て・・・あらゆる場所に伝わっています」、2章14節 「・・・ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者と」したことに見た。

※ 宣教の鍵は何と言っても、「聖書に基づいて」の《 十字架経験の確かさ 》にあると覚え、この経験の明確さに留意を。

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