使徒の働き16章16~40節
先週は、パウロたちが※11節 「私たち【著者でもあるルカが合流】はトロアスから船出して」と、遂にマケドニア主要都市ピリピを訪ねた時に結ばれた最初の働きに注目した。
その初めの実は、14、15節《 神を敬う人【ユダヤ教回心者】リディアと家族の者たち 》で、直ちに主の弟子となることを願い出、自らの分をもって主に仕えた。10年後ローマ獄中からの手紙、ピリピ1章3~6節 「最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきた」と言われる教会となった。
ピリピに一行を導かれた聖霊は、どのように干渉された?
ⅰ 13~14b節 「安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして」に。
その土地ならではの事情が何であれ、聖霊に導かれるままに従う彼らを、聖霊は《 圧倒的な配剤をもって 》信仰を求める人々との懇談的集いの場を設けられた。
ⅱ 14節b 「主は彼女の心を開いて・・・」とある、ここに。
第二コリント4章4節《 人々を盲目にし、神の似姿であるキリストの栄光の福音の光を見えなくしているサタンの仕業を退けて見えるようにされる 》聖霊の働きがここに。
パウロは、エペソ1章17、18節で、「神を知るための知恵と啓示の御霊を・・・与えてくださいますように」と、唯、集って来る人々の救いの為に《 この祈りを捧げるだけ 》。互いに個人的には、詩篇119篇18節〈私の目を開いて・・・あなたのみおしえのうちにある奇しいことを・・・〉と祈ること。
※ 使徒たちは《 行くべき所において、為すべき全てにおいて、徹頭徹尾 聖霊が働かれるのを 》見ただけと覚えたいと。
今朝は、ピリピで始められた宣教に良い兆しを見て間もなく、16節 「占いの霊につかれた若い女奴隷」に出会ったことから、宣教の妨げともなり兼ねない事態を懸念したパウロが、18節 「・・・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と、悪霊を追放したことで迫害を受けることになるが、先に救われたリディアとその家族に次いで看守とその家族の救いを見た聖霊の働きに注目したい。
迫害の直接的原因は、19節 「彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った」と《 極めて個人的な経済的大損失 》にあったのだが、この事実には少しも触れず【それは、何としても長官の厚意を取り付け、ローマ帝国の権威をもって宣教者たちを抹殺させることを目的としていたから】激怒して、三つの口実をもって告訴した。
20節b 「この者たちはユダヤ人で」とあえて言うことで、ピリピはローマ帝国の市民であるとの誇りを強調し、ローマへの忠誠を誇示して、ユダヤ人に対する敵意を露わにローマ政府に媚びた。更に※20節b’ 「私たちの町をかき乱し」とし、21節 「ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております」と、パウロによる悪魔祓いの出来事を反ローマ的慣習の宣伝と見做し、22節a 「群衆 ⇒ 反ユダヤ人感情を抱いていた」をも巻き込んで、遂にローマの長官を味方につけることに成功した。
何故なら、長官たちは即決で二人を罪ありとし、22節b 「彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた」からだ。
実際、37節でパウロが「有罪判決を受けていないのに公衆の前でむち打ち、牢に入れました」と言っているのを見る限り、ローマ帝国内の公的裁判で有罪判決なしに扱うには、余りにも過酷な仕打ちだったことになる。
22b~24節 「彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた」と。
第二コリント11章24、25節に言及されているが、ユダヤ人が行っていたむち打ちには回数が「四十に一つ足りない」との制限が加えられていたが、ローマ人のむち打ちには制限がなかったとされている。拷問に続く投獄も、厳重に見張るようにとの命を受けた看守は「奥の牢」、即ち、極悪人同様、じめじめした地下牢が想像されるが、血みどろのままで。
ここで、二人への仕打ちが過酷なものであればある程、その闇はいつも、主の偉大さを最高度に証しする栄光の場にこそなれ、決して敗北とはなり得ないと学んで Message を。その鍵は、パウロの《 死の闇を打ち破って復活をもたらす三位一体の神を知って信頼し期待する 》積極的信仰にある!!
① 25、26節 「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開あいて、すべての囚人の鎖が外れてしまった」ここに。
パウロは、偽証による不当で過酷な扱いを受けながらも抵抗した様子もなく全面的に受け止め、むしろ、25節 「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」とは!!
ヨセフの※創世記50章20節 「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」《 神への積極的な信仰 》。実に、二人の賛美を聞いていた囚人への影響、看守とその家族の救い、リディア同様、33、34節で弟子としての始まりを見ることに。
② 35~37節 詳訳 「・・・しかし、パウロは警吏けいりたちに答えて、『長官たちは、ローマ市民である私たちを裁判なしに〈有罪判決もないのに、公然と公衆の前〉でむち打って、牢に入れました〉。そして今、私たちをこっそり追い出そうとするのですか。それはいけません・・・』」ここに。
パウロは、拷問を受ける際には自己の権利を主張せず主に自らを明け渡して苦難を甘受した。ところがここでは、 法に則って職務を全うすべき長官の罪を指摘することによって彼の魂に対する責任を果たした。そして、今後のピリピ教会の存続の為にも。38、39節 詳訳 「・・・すると長官たちは、この囚人たちがローマ市民であると聞いて驚き恐れた。それで彼らは自分たちでやって来て、彼らに謝った」。
黙示録3章9節c'は、何という主の権威の発動が!!
※ 襲い掛かる如何なる闇にも、淡々と勝利されるお方の臨在をお認めし、唯聖霊への全き信頼を寄せるのみと覚えたい。
先週は、パウロたちが※11節 「私たち【著者でもあるルカが合流】はトロアスから船出して」と、遂にマケドニア主要都市ピリピを訪ねた時に結ばれた最初の働きに注目した。
その初めの実は、14、15節《 神を敬う人【ユダヤ教回心者】リディアと家族の者たち 》で、直ちに主の弟子となることを願い出、自らの分をもって主に仕えた。10年後ローマ獄中からの手紙、ピリピ1章3~6節 「最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきた」と言われる教会となった。
ピリピに一行を導かれた聖霊は、どのように干渉された?
ⅰ 13~14b節 「安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして」に。
その土地ならではの事情が何であれ、聖霊に導かれるままに従う彼らを、聖霊は《 圧倒的な配剤をもって 》信仰を求める人々との懇談的集いの場を設けられた。
ⅱ 14節b 「主は彼女の心を開いて・・・」とある、ここに。
第二コリント4章4節《 人々を盲目にし、神の似姿であるキリストの栄光の福音の光を見えなくしているサタンの仕業を退けて見えるようにされる 》聖霊の働きがここに。
パウロは、エペソ1章17、18節で、「神を知るための知恵と啓示の御霊を・・・与えてくださいますように」と、唯、集って来る人々の救いの為に《 この祈りを捧げるだけ 》。互いに個人的には、詩篇119篇18節〈私の目を開いて・・・あなたのみおしえのうちにある奇しいことを・・・〉と祈ること。
※ 使徒たちは《 行くべき所において、為すべき全てにおいて、徹頭徹尾 聖霊が働かれるのを 》見ただけと覚えたいと。
今朝は、ピリピで始められた宣教に良い兆しを見て間もなく、16節 「占いの霊につかれた若い女奴隷」に出会ったことから、宣教の妨げともなり兼ねない事態を懸念したパウロが、18節 「・・・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と、悪霊を追放したことで迫害を受けることになるが、先に救われたリディアとその家族に次いで看守とその家族の救いを見た聖霊の働きに注目したい。
迫害の直接的原因は、19節 「彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った」と《 極めて個人的な経済的大損失 》にあったのだが、この事実には少しも触れず【それは、何としても長官の厚意を取り付け、ローマ帝国の権威をもって宣教者たちを抹殺させることを目的としていたから】激怒して、三つの口実をもって告訴した。
20節b 「この者たちはユダヤ人で」とあえて言うことで、ピリピはローマ帝国の市民であるとの誇りを強調し、ローマへの忠誠を誇示して、ユダヤ人に対する敵意を露わにローマ政府に媚びた。更に※20節b’ 「私たちの町をかき乱し」とし、21節 「ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております」と、パウロによる悪魔祓いの出来事を反ローマ的慣習の宣伝と見做し、22節a 「群衆 ⇒ 反ユダヤ人感情を抱いていた」をも巻き込んで、遂にローマの長官を味方につけることに成功した。
何故なら、長官たちは即決で二人を罪ありとし、22節b 「彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた」からだ。
実際、37節でパウロが「有罪判決を受けていないのに公衆の前でむち打ち、牢に入れました」と言っているのを見る限り、ローマ帝国内の公的裁判で有罪判決なしに扱うには、余りにも過酷な仕打ちだったことになる。
22b~24節 「彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた」と。
第二コリント11章24、25節に言及されているが、ユダヤ人が行っていたむち打ちには回数が「四十に一つ足りない」との制限が加えられていたが、ローマ人のむち打ちには制限がなかったとされている。拷問に続く投獄も、厳重に見張るようにとの命を受けた看守は「奥の牢」、即ち、極悪人同様、じめじめした地下牢が想像されるが、血みどろのままで。
ここで、二人への仕打ちが過酷なものであればある程、その闇はいつも、主の偉大さを最高度に証しする栄光の場にこそなれ、決して敗北とはなり得ないと学んで Message を。その鍵は、パウロの《 死の闇を打ち破って復活をもたらす三位一体の神を知って信頼し期待する 》積極的信仰にある!!
① 25、26節 「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開あいて、すべての囚人の鎖が外れてしまった」ここに。
パウロは、偽証による不当で過酷な扱いを受けながらも抵抗した様子もなく全面的に受け止め、むしろ、25節 「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」とは!!
ヨセフの※創世記50章20節 「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」《 神への積極的な信仰 》。実に、二人の賛美を聞いていた囚人への影響、看守とその家族の救い、リディア同様、33、34節で弟子としての始まりを見ることに。
② 35~37節 詳訳 「・・・しかし、パウロは警吏けいりたちに答えて、『長官たちは、ローマ市民である私たちを裁判なしに〈有罪判決もないのに、公然と公衆の前〉でむち打って、牢に入れました〉。そして今、私たちをこっそり追い出そうとするのですか。それはいけません・・・』」ここに。
パウロは、拷問を受ける際には自己の権利を主張せず主に自らを明け渡して苦難を甘受した。ところがここでは、 法に則って職務を全うすべき長官の罪を指摘することによって彼の魂に対する責任を果たした。そして、今後のピリピ教会の存続の為にも。38、39節 詳訳 「・・・すると長官たちは、この囚人たちがローマ市民であると聞いて驚き恐れた。それで彼らは自分たちでやって来て、彼らに謝った」。
黙示録3章9節c'は、何という主の権威の発動が!!
※ 襲い掛かる如何なる闇にも、淡々と勝利されるお方の臨在をお認めし、唯聖霊への全き信頼を寄せるのみと覚えたい。
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