使徒の働き16章6~10節
先週は、エルサレム教会会議後※16章5節 「こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった」に注目。
ⅰ 「こうして」とは、何を受けてのこと?
a. 先ずは教会会議によって、教会内に生じた非聖書的動きに即刻で的確な手が打たれたこと。
教会が肉を放置する時、本来の霊的生命を損なうが、注意深く取り除かれることによって、宣教に備えられていく。
b. 第二次伝道旅行への導きを受けた時、派遣されるべき器が吟味されたこと。
マルコは退けられ、シラスとテモテが起用された。
シラスはエルサレム教会から教会会議の使節団として選ばれ、ペテロから「忠実な兄弟として私が信頼している」とも推奨された器。テモテにおいても同様、16章1~3節 「そこに【リステラ ⇒ 14章19、20節の目撃者】テモテという弟子がいた。・・・兄弟たちの間で評判の良い人【試験済み】」だと。
人選が《 人間的動機によらない試験済みの器起用である 》ところに鍵を見る。第二テモテ2章20、21節。
ⅱ 「こうして」何が生まれることになったのか?
ヨハネ7章37、38節の証しがここにみられる。
a. 「諸教会は信仰を強められ」たこと。信仰者が弟子として作り変えられ、「心の底」に霊的経験がなされている。
b. 「人数も日ごとに増えていった」こと。彼らに内住される聖霊ご自身が、「詳訳:その人の人格の奥底から絶え間なく流れ出るように」との現象が顕著である。
※ 「こうして諸教会は」の事実がそこここにと願いたいと!!
今朝は、パウロが第二次伝道旅行の同伴者としてシラスを選び、更に、※15章41節 「シリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけ」ながら訪ねたリステラで、16章3節 「テモテ」を抜擢しての旅がトロアスまで導かれ、ヨーロッパ宣教への召しを受けることになる《 ここ迄の導きの経緯 》に学びたい。
その経緯に学ぶべきことは、パウロが旅立ったアンティオキア教会からトロアスまで導かれるのに、6節 「聖霊によって禁じられ・・・」、7節 「イエスの御霊がそれを許されなかった」と《 二度に及ぶ禁止令があったこと 》と、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信した」である。ここで明確にされていることは・・・
① 宣教の主は、厳密には、主《 マタイ28章19、20節 「(宣教命令後)わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われた 》であり、ご自身の栄光を現される聖霊によって【ヨハネ16章13~15節】であること。
旅の初めに主は、パウロにアジアでの宣教に導きを与えておられただろう。何故なら、パウロが聖霊に導きを得ずに計画を持つことは考えられないからだ。使徒たちはいつでも「聖霊と私たちは」と告白する者たちだった。何故、禁止されたのか? 定かではないが、アジアでの宣教は《 19章10節 「これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた」、26節 「アジアのほぼ全域」 》と、後日派遣されている。少なくとも、三年程後の第三次伝道旅行で果たされていることから、優先すべき地域の如何によったのでは?
主の変更の指示をもって、一行をトロアスまで導かれた。そこでパウロに幻を通して、9節 「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」との声を聞かせ、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信」させた。取りも直さず、助けてくださいとのマケドニアの叫びは、渡って間もなく《 14節、リディアとその家族/18節、女奴隷の救い/33節、看守とその家族の救い 》と、後、パウロにとって福音の為に共に労したピリピ教会の誕生を見たことで、その地が福音を受け入れるのに十分熟していたかが証しされているのでは?
主は初めからご存じなのに、何故こうした方法を取られるのかと考えるだろうか? その答えはそう簡単に推し測れるものではないだろうが、少なくともその一つに、私たちの教育・霊的必要を挙げることが出来るのでは?
② パウロは、宣教の旅を果たすのに、聖霊の導きに与って従う誠実な器だったということ【試験済み】。
即ち、旅行の初め、行程についての導きに従いつつ、絶えず、日々刻々の御心を求めてそこに聞いて従うという姿勢を常としていたということである。いつでも《 今という瞬時、確認に生きる霊的営みの真面目さ 》交わりの豊かさがあると学べないだろうか? 私はどうだろうか?
アブラハムの信仰に重なる。創世記22章2節 「神は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。』」と命じられた主は後、12節 「その子に手を下してはならない」と言われた。この時、アブラハムは初めの指示にもし固執していたならば、イサクを屠ほふっただろう。しかし下さずに手を離したと学んでいるが、何故アブラハムにそれが出来たのか?
主からのその都度の御心を聞いて従える※ヤコブ2章23節 「彼は神の友と呼ばれた」器。《 主から※イザヤ41章8節「わたしの友アブラハム」と呼ばれる程 》主と親しく交わる人と変えられていたからだ。
パウロは実に、その都度の主からのご指示を受けた時、直ちに※6節 「・・・禁じられたので・・・通って行った」、7、8節 「・・・進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。それでミシアを通って、トロアスに下った」と、何故? を言わずに柔軟に対応した。従って、9、10節 「その夜、・・・パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信した」との《 内的確信に導かれた 》のも納得できる。
※ 何とスムーズな、「生ける水の川が流れ出るように」なるとの光景だろう!! 肉による妨げのない聖霊の自由を見たい。
先週は、エルサレム教会会議後※16章5節 「こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった」に注目。
ⅰ 「こうして」とは、何を受けてのこと?
a. 先ずは教会会議によって、教会内に生じた非聖書的動きに即刻で的確な手が打たれたこと。
教会が肉を放置する時、本来の霊的生命を損なうが、注意深く取り除かれることによって、宣教に備えられていく。
b. 第二次伝道旅行への導きを受けた時、派遣されるべき器が吟味されたこと。
マルコは退けられ、シラスとテモテが起用された。
シラスはエルサレム教会から教会会議の使節団として選ばれ、ペテロから「忠実な兄弟として私が信頼している」とも推奨された器。テモテにおいても同様、16章1~3節 「そこに【リステラ ⇒ 14章19、20節の目撃者】テモテという弟子がいた。・・・兄弟たちの間で評判の良い人【試験済み】」だと。
人選が《 人間的動機によらない試験済みの器起用である 》ところに鍵を見る。第二テモテ2章20、21節。
ⅱ 「こうして」何が生まれることになったのか?
ヨハネ7章37、38節の証しがここにみられる。
a. 「諸教会は信仰を強められ」たこと。信仰者が弟子として作り変えられ、「心の底」に霊的経験がなされている。
b. 「人数も日ごとに増えていった」こと。彼らに内住される聖霊ご自身が、「詳訳:その人の人格の奥底から絶え間なく流れ出るように」との現象が顕著である。
※ 「こうして諸教会は」の事実がそこここにと願いたいと!!
今朝は、パウロが第二次伝道旅行の同伴者としてシラスを選び、更に、※15章41節 「シリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけ」ながら訪ねたリステラで、16章3節 「テモテ」を抜擢しての旅がトロアスまで導かれ、ヨーロッパ宣教への召しを受けることになる《 ここ迄の導きの経緯 》に学びたい。
その経緯に学ぶべきことは、パウロが旅立ったアンティオキア教会からトロアスまで導かれるのに、6節 「聖霊によって禁じられ・・・」、7節 「イエスの御霊がそれを許されなかった」と《 二度に及ぶ禁止令があったこと 》と、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信した」である。ここで明確にされていることは・・・
① 宣教の主は、厳密には、主《 マタイ28章19、20節 「(宣教命令後)わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われた 》であり、ご自身の栄光を現される聖霊によって【ヨハネ16章13~15節】であること。
旅の初めに主は、パウロにアジアでの宣教に導きを与えておられただろう。何故なら、パウロが聖霊に導きを得ずに計画を持つことは考えられないからだ。使徒たちはいつでも「聖霊と私たちは」と告白する者たちだった。何故、禁止されたのか? 定かではないが、アジアでの宣教は《 19章10節 「これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた」、26節 「アジアのほぼ全域」 》と、後日派遣されている。少なくとも、三年程後の第三次伝道旅行で果たされていることから、優先すべき地域の如何によったのでは?
主の変更の指示をもって、一行をトロアスまで導かれた。そこでパウロに幻を通して、9節 「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」との声を聞かせ、10節 「神が私たちを召しておられるのだと確信」させた。取りも直さず、助けてくださいとのマケドニアの叫びは、渡って間もなく《 14節、リディアとその家族/18節、女奴隷の救い/33節、看守とその家族の救い 》と、後、パウロにとって福音の為に共に労したピリピ教会の誕生を見たことで、その地が福音を受け入れるのに十分熟していたかが証しされているのでは?
主は初めからご存じなのに、何故こうした方法を取られるのかと考えるだろうか? その答えはそう簡単に推し測れるものではないだろうが、少なくともその一つに、私たちの教育・霊的必要を挙げることが出来るのでは?
② パウロは、宣教の旅を果たすのに、聖霊の導きに与って従う誠実な器だったということ【試験済み】。
即ち、旅行の初め、行程についての導きに従いつつ、絶えず、日々刻々の御心を求めてそこに聞いて従うという姿勢を常としていたということである。いつでも《 今という瞬時、確認に生きる霊的営みの真面目さ 》交わりの豊かさがあると学べないだろうか? 私はどうだろうか?
アブラハムの信仰に重なる。創世記22章2節 「神は仰せられた。『あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。』」と命じられた主は後、12節 「その子に手を下してはならない」と言われた。この時、アブラハムは初めの指示にもし固執していたならば、イサクを屠ほふっただろう。しかし下さずに手を離したと学んでいるが、何故アブラハムにそれが出来たのか?
主からのその都度の御心を聞いて従える※ヤコブ2章23節 「彼は神の友と呼ばれた」器。《 主から※イザヤ41章8節「わたしの友アブラハム」と呼ばれる程 》主と親しく交わる人と変えられていたからだ。
パウロは実に、その都度の主からのご指示を受けた時、直ちに※6節 「・・・禁じられたので・・・通って行った」、7、8節 「・・・進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。それでミシアを通って、トロアスに下った」と、何故? を言わずに柔軟に対応した。従って、9、10節 「その夜、・・・パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信した」との《 内的確信に導かれた 》のも納得できる。
※ 何とスムーズな、「生ける水の川が流れ出るように」なるとの光景だろう!! 肉による妨げのない聖霊の自由を見たい。
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