聖日礼拝『使徒の働き』より 46


使徒の働き15章13~29節

 先週は、1節の論争解決の為に開かれた教会会議が、ペテロの弁論によって全会衆を沈黙させた記事に学んだ。
 彼の弁明が、福音とは何かを明確にしたからだ。その福音とは※11節 「主イエスの恵みによって救」うことにあるが、この「救われる」とは《 罪からの救い 》であり、「救われる」のは《 唯「恵みによって」 》であり、全人類に等しく及ぶと。
 ペテロはこの事実を7節で《 ヤッファに滞在していた時に見た幻に従って 》カイサリアに派遣された時の異邦人たちに救いが及んだ働きに言及した。更には、ペテロの証言は、それを聞いていた、バルナバとパウロの※12節《 第一次伝道旅行の働きの実証 》によって、より確かなものとされた。
 これら福音の事実をもっての※10節 「そうであるなら、なぜ今・・・神を試みる」のかとの警告を、ガラテヤ5章1~6節に。

ⅰ 「負い切れなかったくびき【リビングバイブル訳:おきてや儀式にがんじがらめにされた奴隷とならないよう】」にと。何故なら、3章24節 「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」とあるから。

ⅱ もし、この生き方を止めずに継続する生活は、即「神を試みる【リビングバイブル訳:神がなさったことを訂正するようなもの】」という大罪を犯す者となると。何故なら、3章13節 「律法ののろいから贖あがない出してくださ」った十字架の主を否定することになるから。ユダヤ主義キリスト者は、十字架の主を信じたが、未だに「割礼を受けなければ・・・」と強要することで、十字架を侮り、主を遣わされた聖父を否定した。

※ 5章4節 「律法によって義と認められようとしているなら、・・・キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」に警戒をと。


 今朝は、会議におけるペテロの弁明が、12節《 バルナバとパウロの証し 》でその真実性を明らかにされ、議長ヤコブによって問題解決に至った記事に学ぶ。
 教会は分断し兼ねない問題に解決を得て前進することに!!
 先ず、教会会議の議長を務めたヤコブについて学んでから、その解決の詳細に学びたい。《 ヤコブ・・・『ヤコブの手紙』の著者 》
 使徒12章17節 「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」とは、投獄中のペテロが、主の御使いの介入による脱出の際、祈り場・マルコの家に立ち寄った時、ペテロはヤコブを名指しでの伝言である。
 パウロが回心してから、ガラテヤ1章18、19節 「・・・三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした」、2章9節 「・・・柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが」を見ると、既に、エルサレム教会において重要な務めを担う器だったことが分かる。
 何故、十二使徒ではなかった彼が、初代教会の重要な立場に身を置かれたのかについて定かではないが、復活の、※第一コリント15章7節 「キリストはヤコブに現れ」たことにあると考えられないだろうか?
 主はご自身の顕現をもって彼を選び、彼を「復活の証人」とされたのだから。ご在世中の主に敬意を払わなかったヤコブには(ヨハ7・5)、衝撃的な経験となった筈であり、パウロの回心にも似た劇的回心を得たに違いないのでは?
 従って当然、1章12~14節 「・・・彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」と、ペンテコステを待ち望む祈りの群れに加わっている彼が、教会の誕生と共に立ち上がった器として直ちに信頼され、認められたのであろう。主をご在世中、理解し難かった兄弟たちの名を見るのは何という激励!!

問題解決に《 ヤコブの信仰の賢明さの反映 》と見たい。

① 19節 「ですから、私の判断では」が、独善ではないこと。

 15~18節 「預言者たちのことば【エレミヤ、アモス書引用で、捕囚の民として憂き目を味わったイスラエルに、捕囚後に回復がもたらされ、残れる民に主を求める機会が与えられること。その後、主の名を呼ぶ異邦人が起こされるとの預言】もこれと一致していて、次のように書かれています」、28節 「聖霊と私たちは・・・決めました」に見る判断であって、個人的な感情、考えの介入を許さない、徹底した預言者的姿勢で一貫している。
 「私の判断」という時、お互いはあくまでも、単なる個人的願望、思い付き、計画であったりということはないだろうか? ヤコブのように、又主ご自身がそうであられたように「私の判断」するところは即、ヨハネ5章30節 「わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求める」もの?
 そして「聖霊と私たちは」とは、悉く、教会の主導権を聖霊に明け渡しているとの告白である。
 その時にだけ、22節 「そこで、使徒たちと長老たちは、全教会とともに・・・選んで、・・・決めた」、25節 「・・・全会一致で決めました」と、聖霊による一致が与えられ、複雑な議論もなく、決議されたことが流れ出るようになる。

② その判断の根底に流れている聖霊の愛を見ること。

a. 異邦人キリスト者への配慮 ⇒ 19節 「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません」、24~27節 「私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、・・・混乱させ・・・動揺させたと聞きました。そこで・・・」と、信仰の混乱を招き兼ねなかった事実に責任を負い、最善の人選によって、片手間ではなく本腰を入れて対応し、彼らへの尊敬の意を表そうとした誠実さである。
b. ユダヤ人キリスト者への配慮 ⇒ その上で、29節 「偶像に供えたものと、血と、絞め殺したもの【レビ記で禁じられていた「血を食べる」行為】と、淫らな行い【異教社会では問題視されない男女の性的乱れ、例えば 異教の町コリントに誕生した教会には、近親相姦の乱れの事実があった】を避けることです」と実際的な指導を与えたが、これらは皆、ユダヤ人の最も忌み嫌っていた行為の一つ一つであったからだ。ユダヤ主義的キリスト者たちによる割礼を強いる誤りを正した時、ユダヤ人キリスト者への配慮を欠かすことなく指導している姿勢を見逃してはならない。

※ 教会はいつでも、聖霊主導である限り課題を整然と処理しつつ前進し続けると学び、ここに生きるお互いでありたい。

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