使徒の働き15章6~12節
先週は、第一次伝道旅行を終えた使徒たちが、出発点アンティオキア教会に戻って暫らく滞在していた時、15章1節 「ある人々 ⇒ 5節のエルサレム教会内の少数派・ユダヤ主義キリスト者」の介入によって、2節 「激しい対立と論争が生じたので」、彼らがエルサレムに上る啓示を受けて、3節 「教会の人々に送り出され」ることになった記事に注目した。この出来事は初代教会最初の教会会議として、その名を歴史に残すことになった。1章8節・主のご目的遂行を妨げ、教会に深刻な分裂をすら招きかねない重要問題だったから。
エルサレムに上ったパウロの信仰の姿勢に注目!!
ⅰ 3節 「教会の人々に送り出され」たことに見る信仰。
ガラテヤ2章2節に「私は啓示によったのです」と伝えられており《 パウロの主との関係の確かさは即 》教会に認められ 受け入れられ、実現に導かれている。ここに、パウロの神経験がパウロの信仰生活をもってその確かさを裏付けするものとなり、教会から信頼されていたことを証しする ⇒ 申命記18章20~22節。
ⅱ 4節《 冷静な対応に見る信仰 》。
ガラテヤ2章2節d 「おもだった人たちには個人的にそうしました」、9節b 「・・・ヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました」と、先ずエルサレム教会全体が陥っている問題であるとはせずに教会を信頼し、然るべき人々に現状を伝え、混乱を最小限に治めて会議に持ち込んだ。
※ 絶えず「神の啓示」に基づく行動の祝福に学んだ。
今朝は、6節 「そこで使徒たちと長老たちは、この問題【パウロとバルナバによって持ち込まれた、1節『モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と、異邦人キリスト者たちを混乱に陥れる教義を持ち込んだユダヤ主義キリスト者たちから彼らを守らなければならないとする】について協議するために集まった」時、7~11節 「ペテロが立って」弁論した記事に学びたい。
その弁論は、12節 詳訳 「すると、全会衆は沈黙した」と、反論する者の口をすら封じ込み、更には「そして彼ら【全会衆】は、バルナバとパウロが 神が彼らを通して異邦人の間でどんなしるしと不思議を行われたかを述べるのに【注意深く】耳を傾けた」と、パウロとバルナバの弁明によって、更にペテロの語る福音を確かなものとするに至った。
ここで、福音について、11節 「私たちは、主イエスの恵みによって救われる」ことであると再認識したい。
この「救われる」とは? 過去犯してきた罪の赦し、罪を犯させた罪性の清め、聖霊を満たされ、罪の報いとしての死にかえて永遠の命に与ること。本来《 罪とは? 》的外れの意で、神から離れ、ローマ1章28節 「神を知ることに価値を認め【認めることを好まず】」ず、神の存在を認めはしても無視し、イザヤ53章6節 「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」為に死が報いだったが、「主は私たちすべての者の咎とがを彼に負わせ」て《 主の身代わりの死によって与えられることに 》なった。
従って、この「救われる」のは? 「主イエスの恵み」のみによる ⇒ 神からの一方的なご好意による賜物であること。エペソ2章1~5節 「・・・生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と。
更にこの「救われる」のは? 15章8、9節 「人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて・・・。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」と、全人類に等しく及ぶこと。
ペテロがこの事実を、7節 「・・・異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました」と、彼がヤッファに滞在していた時に見た幻に従って、カイサリアに派遣された時、10章44~48節 「・・・『・・・私たちと同じように聖霊を受けたのですから。』・・・」と、異邦人百人隊長コルネリウスと親族、友人たちに救いが及んだ働きに言及した。
更には、ペテロの証言を聞いていた、12節 「バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話」し、ペテロの証言をより確かなものとした ⇒ 13章、異邦人教会の初穂アンティオキア教会から派遣されてなされた《 第一次伝道旅行での、キプロス島を皮切りに 迫害を余儀なくされ、リステラでは「死んだものと」思われた経験 》など、ガラテヤ地方においての働きをである。
ここまでの内容を理解した上で、《 ユダヤ主義キリスト者の主張が如何に常軌を逸し、戒められるべき問題だったか 》に注意して、互いの信仰生活の在り方に光を頂きたい。
それは、10節 「【神のこの事実が】そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たち【アンティオキア教会に潜り込んで惑わした】の首に掛けて、神を試みるのですか」である。
ガラテヤ5章1~6節をこの過ちへの解説として見る。
① 「負いきれなかったくびき」、即ち、1節 「再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」に従うこと。
「リビングバイブル訳:ユダヤ教のおきてや儀式にがんじがらめにされた奴隷とならないよう」に、であるが、律法は命じるだけで、一向に守れるようにはしてくれない。何故なら、3章24節 「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」とあるから。従って、守ろうと頑張ることを止めること。
② もし、この生き方を止めずに継続するならば、即、「神を試みる【リビングバイブル訳:神様がなさったことを訂正するようなものです】」という大罪を犯す者であること。
何故なら、3章13節 「律法ののろいから贖あがない出してくださ」った十字架の主を否定することになるから ⇒ 2章19、20節。ユダヤ主義キリスト者は、十字架の主を信じたにも拘らず、未だに「割礼を受けなければ・・・」と強要することで、十字架の主を侮り、主を遣わされた聖父を否定したのだ。
※ 5章4節 「律法によって義と認められようとしているなら、・・・キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」に警戒を!!
先週は、第一次伝道旅行を終えた使徒たちが、出発点アンティオキア教会に戻って暫らく滞在していた時、15章1節 「ある人々 ⇒ 5節のエルサレム教会内の少数派・ユダヤ主義キリスト者」の介入によって、2節 「激しい対立と論争が生じたので」、彼らがエルサレムに上る啓示を受けて、3節 「教会の人々に送り出され」ることになった記事に注目した。この出来事は初代教会最初の教会会議として、その名を歴史に残すことになった。1章8節・主のご目的遂行を妨げ、教会に深刻な分裂をすら招きかねない重要問題だったから。
エルサレムに上ったパウロの信仰の姿勢に注目!!
ⅰ 3節 「教会の人々に送り出され」たことに見る信仰。
ガラテヤ2章2節に「私は啓示によったのです」と伝えられており《 パウロの主との関係の確かさは即 》教会に認められ 受け入れられ、実現に導かれている。ここに、パウロの神経験がパウロの信仰生活をもってその確かさを裏付けするものとなり、教会から信頼されていたことを証しする ⇒ 申命記18章20~22節。
ⅱ 4節《 冷静な対応に見る信仰 》。
ガラテヤ2章2節d 「おもだった人たちには個人的にそうしました」、9節b 「・・・ヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました」と、先ずエルサレム教会全体が陥っている問題であるとはせずに教会を信頼し、然るべき人々に現状を伝え、混乱を最小限に治めて会議に持ち込んだ。
※ 絶えず「神の啓示」に基づく行動の祝福に学んだ。
今朝は、6節 「そこで使徒たちと長老たちは、この問題【パウロとバルナバによって持ち込まれた、1節『モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と、異邦人キリスト者たちを混乱に陥れる教義を持ち込んだユダヤ主義キリスト者たちから彼らを守らなければならないとする】について協議するために集まった」時、7~11節 「ペテロが立って」弁論した記事に学びたい。
その弁論は、12節 詳訳 「すると、全会衆は沈黙した」と、反論する者の口をすら封じ込み、更には「そして彼ら【全会衆】は、バルナバとパウロが 神が彼らを通して異邦人の間でどんなしるしと不思議を行われたかを述べるのに【注意深く】耳を傾けた」と、パウロとバルナバの弁明によって、更にペテロの語る福音を確かなものとするに至った。
ここで、福音について、11節 「私たちは、主イエスの恵みによって救われる」ことであると再認識したい。
この「救われる」とは? 過去犯してきた罪の赦し、罪を犯させた罪性の清め、聖霊を満たされ、罪の報いとしての死にかえて永遠の命に与ること。本来《 罪とは? 》的外れの意で、神から離れ、ローマ1章28節 「神を知ることに価値を認め【認めることを好まず】」ず、神の存在を認めはしても無視し、イザヤ53章6節 「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」為に死が報いだったが、「主は私たちすべての者の咎とがを彼に負わせ」て《 主の身代わりの死によって与えられることに 》なった。
従って、この「救われる」のは? 「主イエスの恵み」のみによる ⇒ 神からの一方的なご好意による賜物であること。エペソ2章1~5節 「・・・生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と。
更にこの「救われる」のは? 15章8、9節 「人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて・・・。私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」と、全人類に等しく及ぶこと。
ペテロがこの事実を、7節 「・・・異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました」と、彼がヤッファに滞在していた時に見た幻に従って、カイサリアに派遣された時、10章44~48節 「・・・『・・・私たちと同じように聖霊を受けたのですから。』・・・」と、異邦人百人隊長コルネリウスと親族、友人たちに救いが及んだ働きに言及した。
更には、ペテロの証言を聞いていた、12節 「バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話」し、ペテロの証言をより確かなものとした ⇒ 13章、異邦人教会の初穂アンティオキア教会から派遣されてなされた《 第一次伝道旅行での、キプロス島を皮切りに 迫害を余儀なくされ、リステラでは「死んだものと」思われた経験 》など、ガラテヤ地方においての働きをである。
ここまでの内容を理解した上で、《 ユダヤ主義キリスト者の主張が如何に常軌を逸し、戒められるべき問題だったか 》に注意して、互いの信仰生活の在り方に光を頂きたい。
それは、10節 「【神のこの事実が】そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たち【アンティオキア教会に潜り込んで惑わした】の首に掛けて、神を試みるのですか」である。
ガラテヤ5章1~6節をこの過ちへの解説として見る。
① 「負いきれなかったくびき」、即ち、1節 「再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい」に従うこと。
「リビングバイブル訳:ユダヤ教のおきてや儀式にがんじがらめにされた奴隷とならないよう」に、であるが、律法は命じるだけで、一向に守れるようにはしてくれない。何故なら、3章24節 「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」とあるから。従って、守ろうと頑張ることを止めること。
② もし、この生き方を止めずに継続するならば、即、「神を試みる【リビングバイブル訳:神様がなさったことを訂正するようなものです】」という大罪を犯す者であること。
何故なら、3章13節 「律法ののろいから贖あがない出してくださ」った十字架の主を否定することになるから ⇒ 2章19、20節。ユダヤ主義キリスト者は、十字架の主を信じたにも拘らず、未だに「割礼を受けなければ・・・」と強要することで、十字架の主を侮り、主を遣わされた聖父を否定したのだ。
※ 5章4節 「律法によって義と認められようとしているなら、・・・キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」に警戒を!!
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