聖日礼拝『使徒の働き』より 44


使徒の働き15章1~5節

 先回は、使徒たちがガラテヤ地方での第一次伝道旅行を終えて、出発点アンティオキアに戻った記事から、14章26節 「二人が今回成し終えた働き」とある《 伝道の働きの基調となる姿勢がどこにあったのか 》21~23節に見て学んだ。
 それは《 主のビジョン ⇒ マタイ28章19節 「あなたがたは・・・あらゆる国の人々を弟子としなさい」への忠実さ 》にある。
 伝道によって人が救われたならば、その生まれた神の子どもたちを、十字架の主に学び、人生の全てを明け渡して十字架の主に悉く従う者とするまで見届ける姿勢である。その実現の為に・・・

ⅰ 21、22節 「【デルべ】で・・・多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、(ピシディアの)アンティオキアへと引き返し」たこと。
 戻って行った町々は、パウロを妬むユダヤ人によって迫害され、つい先のリステラではパウロが「石打ちに」されたばかり。しかし迫害下で生まれた※22節 「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧め〈警告し・勇気付け〉て、『私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない』」と激励すべく引き返した。

ⅱ 23節で、いつまでも留まれない現実を前に、教会に仕える長老を立てて牧させ、最終的には「主にゆだねた」こと。
 こうした生まれた教会への思いは、15章36節からの《 第二次伝道旅行 》、18章23節からの《 第三次伝道旅行 》、更に、ガラテヤ4章19、20節 「再び・・・産みの苦しみ」と続く。

※ 神に立ち返った人々を弟子とするとの目的を明確にした使徒たち同様、互いに教会建設の姿勢と心得て実践したいと。


今朝は、第一次伝道旅行を終えた使徒たちが、出発点アンティオキア教会に戻り、14章28節 「しばらくの間、弟子たちとともに過ごし」ていた間、15章1節 「ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに『モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた」ことに《 危機感をもってパウロが立ち上がった記事 》に注目を。
 その危機感というのは、アンティオキア教会が生まれたばかりの教会とは言え、11章26節 「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」質の教会、聖霊のご指示をしっかり聞いて従い、パウロとバルナバを宣教へと送り出した教会、最初の異邦人教会として目覚ましい成長を遂げている教会であることで《 サタンから容赦なく受けることになった動き 》のこと。
 この教会にやって来た「ある人々」とは、エルサレム教会の※5節 「パリサイ派の者で信者になった人たち」、主のご在世中、マタイ23章で主から直接叱責された人々で後、使徒たちの伝道によってキリストを告白した人々 ⇒ 同4節 「重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません」、23、24節 「・・・律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている・・・。目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」等、モーセの律法を守っていると豪語しつつ、実はその律法に表された神のご意図を全く汲み取らずに、悉く外的行為の如何にのみ終始し、心は、25節 「強欲と放縦」、28節 「偽善と不法でいっぱい」なのだ。

 その人々は、エルサレム教会の指導者ヤコブが、24節 「私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、いろいろなことを言ってあなたがたを混乱させ、あなたがたの心を動揺させたと聞きました」と言っているように、エルサレム教会からの派遣ではなく、教会内に少数存在するユダヤ主義のキリスト者からの回し者である。
 しかし少数であるとは言え、パウロは警戒した。
 2、3節 「それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かかが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。こうして彼らは教会の人々に送り出され」ることに。このことについて、ガラテヤ2章1~10節 「それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。私は 【行け、という特別な神からの】啓示によって上ったのです。」とある。使徒たちがエルサレムに上った時、初代教会にとっては最初の重要教会会議として、その名を歴史に残すことになった。何故なら、「地の果てまで、わたしの証人となります」との主のご目的遂行の妨げともなる深刻な分裂をすら招きかねない過渡的な問題だったからだ。
 第二次伝道旅行は、この歴史的会議での決議後、新たな力を得て継続されることになった。
 エルサレム会議を促されたのは、パウロに啓示をもって臨まれた神ご自身であるが、神のその啓示に従ったパウロの信仰の姿勢に学んで、Message としたい。

① 3節 「教会の人々に送り出され」たことに見る信仰。

 ガラテヤ2章2節には「私は啓示によったのです」と伝えられており《 パウロの主との関係の確かさは即 》教会に認められ 信頼され 受け入れられ、実現に導かれている。
 何故なら、パウロの神経験はパウロの信仰生活をもって裏付けされているからだ。申命記18章20~22節 「・・・預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである」とあることから、パウロが《 このように、神の啓示があった 》と一言教会に伝えるならば直ちに信じ受け入れられ、教会はパウロに伝えられた通りに従って彼らを派遣したのだから。

② 4節 「エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した」冷静な対応に見る信仰。

 ガラテヤ2章2節d 「おもだった人たちには個人的にそうしました」、9節a 「そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました」と、先ずエルサレム教会全体が陥っている問題であるとはせずに教会を信頼し、然るべき人々に現状を伝え、混乱を最小限に治めて会議に持ち込んだ。

※ 絶えず「神の啓示」に基づいての行動に心掛けたい。

この記事へのコメント