ペンテコステ礼拝『使徒の働き』より


使徒の働き1章3~8節

 礼拝毎の『使徒』連講も、パウロによる第一次伝道旅行を終えた※14章にまで導かれているが、今朝は《 ペンテコステ記念礼拝 》に寄せて、ここ迄の働きは、『使徒』の鍵となる聖句 1章8節 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言われた主の約束の確かさにあると見て Message を。

① 弟子たちは確かに《 聖霊が臨まれた時に力を受けて、その時以来、主の証人 》とされた。

 その弟子たちは、2章4節 「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」時から、証人として出て行ったのだ。
 それを象徴する聖句が※4章13、14節である。
 「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また、二人が無学な普通の人【優越したところのない凡人】であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいた【過去主と共にいたこと&弟子たちの内に主の内住を認めざるを得なくされた】のだということも分かってきた。そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばも【事実に反論することも出来】なかった」。
 主を十字架に処刑したエルサレム最高法院にとって、かつての弟子たちに決して見ることのなかった、その片鱗すら見ることのなかった姿《 弟子たちに主を見ることになったという変貌 》は、実に驚異となっていくことに。

 実に主が、ゲツセマネの園に入られる前に、聖父に祈られた祈りの応えである。ヨハネ17章26節 「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです」。
 振り返ってみたい。
 ペンテコステの日、弟子たちが※2章14節 「ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた」光景は、主の求められた互いの間に愛が生まれたことによる一つになった証であり、その愛からほとばしり出た説教は人々の心を刺し、三千人の回心者を起こした。
 直ちに※2章44~47節 「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日 心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」とある《 愛の共同体 》が出来た。
 又弟子たちは、毎日 「美しの門」に置かれていた足萎えた人を見過さずに見つめる愛をもって、3章4節 「私たちを見なさい」と近づき、6節 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、弱さの中にいる人々と積極的に関わられた主の愛を彷彿とさせる奇跡が起こった。この出来事は、初めての迫害を引き起こすことになった。

 しかし弟子たちは、迫害をものともせず、4章18~20節 「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」と毅然とした態度で禁止命令に立ち向かい、更に積極的な姿勢を貫く。
 外には迫害という戦いがある中、教会内に生じた闇を直ちに聖霊の洞察力を得て、5章4節c 「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と暴き、教会を純化させながら、神への畏敬に打たれた教会は成長していくことに。
 教会の成長に伴う必要から組織的に確立し、迫害に拍車が掛かる最中、迫害者サウロに衝撃的な影響を与えることとなり、遂には後の使徒パウロとして教会に迎え、異邦人に対するユダヤ教的偏狭・偏見などにもメスが入れられる。遂に、エルサレムから始まった福音は、1章8節 「ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と、異邦人教会の誕生に伴い、海外伝道へと働きは脅威的である。
 変貌した弟子たちによる働きは、僅か十数年のこと。

② 弟子たちのこの目覚ましい聖霊による変貌は何処から?

 弟子たちが、主の命じられた※1章4b、5節 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」に従ったことにある。
a. 消極的 「父の約束を待」つこと。
 聖霊を受けずして、主の宣教命令に従えないからだ。
 彼らの霊性は? 主から※1章8節 「しかし」と正されなければならなかったからだ。主の復活の事実を目の当たりにしつつも、6節 「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは・・・」と、3節で「神の国のことを語られた」主を、未だ地上的 神の国を樹立されるお方として求め、ローマからの解放を求める一般的ユダヤ人同様なのだから。
 弟子たちは、7節で主から窘たしなめられたことによって、自らが、成功志向・立身出世を求める世に属する者でしかないことを認めて、聖霊を待つように導かれた。
b. 積極的 「聖霊によるバプテスマを授」かること。
 ルカ3章16節d 「その方は聖霊と火で【聖霊の働きを火の持っている強烈な威力にたとえて】、あなたがたにバプテスマを授けられます【キリストの死と復活に与り、聖霊を受けること】」。17節 「・・・焼き尽くされます」とあるように、自らを肉の者であると認めた弟子たちは、その肉を聖霊の火によって悉く焼き尽くして頂くべく、聖前に出続けた。
 ガラテヤ5章19~21節 「肉のわざは明らかです」とは、極めて現実的な性質で、17節 「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らう」為、神に従おうと願う者ならば、その肉を直ちに、火の持つ強烈な 焼き尽くす聖霊により血潮の清めに与ること ⇒ イザヤ6章5~7節。

※ 弟子たちに認められた主の内住は、聖霊の実【ガラテヤ5章22、23節】の満たしによると覚え、私たちも 肉を悉く清める十字架の死と復活に与りつつ、その都度の聖霊の満たしを!!

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